第487話 第二章「調停官」前編
三月二十日 午前八時四十七分
御厨朝は、命令書に自分の名前があるのを、広場へ着く三分前に知った。
知らなかった、と言えば少しは軽くなる種類の責任もある。
知らなかったこと自体が責任になる種類もある。
これは、後者だった。
中央行政回廊の南入口。
黒い車両から降りた朝は、象牙色の上衣の裾を一度だけ払った。
左袖には調停官の細い銀線。
右袖には何もない。
両手の指先が、青い。
朝は紙を扱うたび、署名欄へ指を置く癖がある。
今日の青は、午前六時十二分に押した確認印の色だった。
「調停官殿、中央管制へ」
迎えに来た係官が言う。
「現場へ行きます」
「管制では、発動署名の確認が」
「だから現場へ」
「現場は危険です」
「命令書が安全なら、こんな迎えはいりません」
朝は歩き出した。
頭上の音声。
床の振動。
遠くで続く、千を超える靴音。
その靴音へ、もう一つ別の音が混ざっている。
人が転ぶ音。
金属柵を外す音。
誰かが名前を呼ぶ声。
「全面停止の許可を」
係官が追う。
「出しません」
「では歩行継続を」
「それも出しません」
「どちらかを決めていただかないと」
「二つしか選べない命令書は、たいてい三つ目を踏んでいます」
「三つ目とは」
「人です」
係官が黙った。
朝は胸元から命令書の写しを出した。
《中央機能再配分に伴う一時移動同期命令》
発令主体は中央行政調整会。
実施主体は輸送、配給、医療連絡の合同班。
調停確認欄には、三人の署名がある。
一人は、御厨朝。
ただし、朝が午前六時十二分に確認した文書には、別紙が付いていた。
《区画別密度上限》
《身体条件による歩調変更》
《任意停止帯》
《介助拒否時の代替経路》
《区域ごとの独立停止権》
今、係官が持つ運用書には、その別紙がない。
「別紙四号は」
朝が訊く。
「中央分離後の権限整理で、添付先が」
「どこへ行った」
「確認中です」
「紙は歩かない。誰かが持っていったか、置いてきたかです」
「旧中央設備の停止後、保管系統が複数に」
「説明はあと。最後に別紙を見た人の名前を」
「照会します」
「今、口で」
「私ではありません」
「それは名前ではない」
朝は足を止めた。
係官も、つられて止まる。
その一秒後、頭上音声が言った。
《歩調を維持してください》
係官の右足が、白い光へ合わせかけた。
朝は見た。
自分も、同じだった。
音声が命令だからではない。
床が震えたからでもない。
隣の人間が動いたから、身体が同じ動作を選びかけた。
朝は右足を戻した。
「私たちまで従ってる」
「誘導範囲ですから」
「範囲の説明じゃない」
広場の角を曲がる。
青い布柵が、三枚外されていた。
伏見轟が、二本の固定爪を両手で抱えている。
左腕は肩より上へ上げない。
右手で爪を支え、腰と太腿で重量を受けていた。
犬飼豪が外した柵を横倒しにし、植栽帯の縁へ仮の壁を作っている。
「壁を外して、壁にするのか」
豪が言った。
「元の壁は、人を閉じ込める位置だった」
轟。
「壁にも転職がある」
「お前は転職するな。今の役で足りる」
「褒め方が工事現場だな」
「工事現場だからな」
二人の間を、救護員が通る。
植栽帯へ、負傷者を一人ずつ移すための横道ができていた。
朝は人数を数えた。
立位十八。
膝立ち十一。
倒れている者、見える範囲で二十三。
救護員六。
作業員九。
数えながら、人の顔を見ていないことに気づいた。
「調停官」
火群七瀬が呼んだ。
撮影機は石床から四十センチ。
七瀬自身は、赤い上着の少女の足元にいる。
「署名者?」
「一人です」
「一人だけ?」
「私の署名だけ答えます。ほかの二人は、本人へ確認する」
「今、止められる?」
「全面は止めない」
七瀬の目が細くなる。
「理由」
「A、Bは駅前へ入っている。全面停止すると、駅側の列だけが動き続ける可能性がある。FからHは狭い連絡橋にいる。振動だけ切れば、前の人間へ合わせて圧が残る」
「じゃあ、何をする」
「八区画を別々に止める」
「権限は」
「命令書にない」
「あるの」
「別紙には」
「今は」
「ない」
「役に立たない紙ね」
「はい」
朝は答えた。
七瀬が一瞬、言葉を失う。
役人が自分の紙を役に立たないと言うと、人は次の怒り方を決めにくい。
朝は赤い上着の少女へ目を向けた。
「本人の呼称は」
「チカ。家名非公開」
「負傷」
「右踵擦過。左手指運動あり。胸部圧迫の可能性。意識清明」
「本人へ話していい?」
「訊いて」
朝は膝をついた。
象牙色の裾へ泥が付く。
「チカ。私は御厨朝。調停官です」
「何を調停する人」
「違う答えを、違うまま置く仕事」
「今、みんな同じ」
「だから失敗しています」
「誰が」
「私を含む、命令を作った人」
「いつまで」
「止めるまで」
「何を」
「同じ歩き方を」
チカは床の下から、朝の青い指を見た。
「鍵、なくした」
「何の鍵」
「誰のか聞きに行く鍵」
「今は探さない」
「いつ」
「人の足が止まった後」
「みんな同じこと言う」
「同じでも、責任は別です。私が言った時刻を残します」
朝は自分の手帳へ書いた。
《08:48:36 御厨朝。鍵捜索を人流停止後へ延期すると本人へ説明》
署名する。
チカが言った。
「字、青い」
「指も」
「洗わないの」
「仕事が終わったら」
「終わらなかったら」
「青いままです」
「変」
「よく言われます」
迅が、倒れた男性の肩を回しながら言う。
「言われてない顔だ」
「あなたは、竜胆迅」
「名前だけ知ってる?」
「報告書にたくさん出ます」
「いいことは」
「少ない」
「正しい報告書だな」
「今回も増えるでしょう」
「署名者の欄に?」
「無権限介入の欄に」
「あとで書け」
「今も書きます」
朝は通信器を取った。
「中央管制。御厨朝です。AからHまで、現在密度と流入量を個別に」
《調停官殿。全面停止の承認を》
「承認しません。歩行継続も承認しません。区画別に聞きます」
《運用書にありません》
「別紙四号にはあります」
《所在不明です》
「所在不明と不存在は違います」
《現行運用では参照できません》
「では、私の責任で暫定分離します」
《調停官単独では――》
「私の署名を使って歩かせているのに、止める時だけ単独では足りない?」
通信が止まる。
七瀬が撮影機を朝の靴へ向けた。
顔ではなく、泥の付いた裾と青い指。
「A」
朝。
《百五十四登録。駅構内へ九十二進入。広場残留六十二》
「Aの音声を切らず、駅構内と広場の境へ物理板。駅側は毎分八十四へ戻す。広場側はその場で歩幅を半分。停止とは言わない」
《なぜ》
「止まると後ろから押される。半歩で密度を落とす」
「半歩を全員へ言うな」
迅が言った。
朝は彼を見る。
「理由」
「今、同じ動作が問題だ」
「速度を落とさなければ」
「区画の先頭だけに言え。後ろは前が空くまで、自分で止まる」
「前が空くまで止まる、と全員へ伝わらない」
「伝えたら、全員が同じ時に止まる」
「では何を基準に」
「前の踵じゃなく、自分の足元」
「抽象的です」
「人間は運用書より具体的だ」
「名言みたいに言っても、手順にはなりません」
「じゃあ手順にしろ」
朝は、迅を嫌いになるには早いと思った。
報告書どおりだとも思った。
「A。先頭十二人へだけ、半歩移動の可否を一人ずつ確認。拒否と停止を別に。後方へ一斉放送しない」
《十二人の確認に時間が》
「一人を早く動かす時間と、百人を転ばせた後で起こす時間を比べてください」
《了解》
「B」
Bは駅前階段。
Cは北回廊。
Dは事故波の直前。
Eは転倒中心。
F、G、Hは連絡橋。
八区画を、一つずつ分ける。
区画を分けた瞬間、別の問題が生まれた。
Aの人は、Bより先に扱われたと思う。
Fは、Eの負傷者だけが特別に守られたと見る。
Cは自分たちの振動が切られていない理由を訊く。
違う対応は、違う事情のためだ。
説明しなければ、差別に見える。
「八区画へ、理由を出します」
朝が言った。
「一斉放送?」
七瀬。
「内容は別。順番もずらす」
「誰が読む」
「各区画の現場係」
「現場係がいない場所は」
「私が行く」
「脚」
「今は歩ける」
「今は、は期限じゃない」
「次の再確認、二十分後」
「誰が」
「久世」
「本人へ言った?」
朝は久世を見る。
久世は一瞬、驚いてから頷く。
「受けます。二十分後、歩容と痛みを確認」
「勝手に決めた」
七瀬。
「今、本人が受けた」
「後から同意を取るのは、得意そうね」
「嫌味?」
「感想」
「記録語ではない」
「学習が早い」
朝はB区画へ向かった。
階段では、車椅子の前輪が振動溝へ落ちている。
その後ろで、二十一人が互いの背へ手を置いていた。
「手を離せ」と言えば、全員が同時に離す。
前列が倒れる。
「その手は、何のためですか」
朝は最前列の男一人へ訊いた。
「前の人を支える」
「前の人は、支えてほしいと言いましたか」
「倒れそうだから」
「本人へ」
前の女性は、首だけを少し振る。
「手を置かれると、呼吸しにくい」
男の手が止まる。
「離す?」
朝。
「離す」
「いつ」
「今」
男は自分の手だけを離した。
後ろの二十人は、そのまま。
女性の肩が下がる。
「次の人」
朝は一人ずつ訊く。
支える。
触らない。
壁へ手を置く。
肩ではなく、上衣の裾を持つ。
声だけをかける。
同じ列に、違う支え方が並ぶ。
階段上の保安員が言う。
「全員へ、手すりを使うよう指示すれば早い」
「手すりへ届かない人は」
「中央へ移す」
「中央へ移る時に、全員が同じ方向へ動く」
「では、どうする」
「今、やっています」
「遅い」
「あなたの名前」
「なぜ」
「遅いと言った判断を記録する」
「高瀬修」
「高瀬さん。早くするための案を、一人へ試す?」
「誰へ」
「あなたが選ばない。本人へ訊く」
車椅子の女性が手を上げた。
「手すり、使えない。前輪を先に」
「それが最優先です」
高瀬が言う。
「では、あなたが右側の人へ、車椅子を先にする理由を説明してください」
「私が?」
「早くしたいのでしょう」
高瀬は右側の六人へ向き直る。
「前輪が溝へ落ちている。先に車椅子の位置を戻す。その間、皆さんは今の場所を選ぶか、後ろへ一人ずつ戻るか――」
「長い」
誰かが言う。
高瀬の顔が赤くなる。
「短くすると、あなたの選択が消える」
朝が横から言う。
高瀬は説明を続けた。
言い直す。
質問へ答える。
声の大きさは、さっきより小さくなる。
説明した人間は、命令した時より動作が遅い。
その代わり、聞いた人間の動作は、同時ではない。
Bの対応理由が記録される。
《車椅子前輪の拘束。階段上下の混在。全面停止ではなく、本人ごとの支持方法を確認》
「これを、Bへ掲示」
朝。
「他区画にも?」
久世。
「Bの事情として。AへはAの理由」
「比較されます」
「比較していい。違いを隠さない」
「不公平だと」
「不公平かどうかを、理由なしで判断させない」
G区画では、音声を切った結果、人々が前の肩へ合わせていた。
レムと忍が到着する前、朝は入口へ立つ。
「音を戻す?」
現場係。
「戻さない」
「肩同期が」
「別の参照を増やす」
「何を」
朝は、周囲を見る。
窓の外の旗。
揺れ方が違う。
床の継ぎ目。
荷物の形。
人の呼吸。
「私が考えると、一つになる」
「では」
「来る人へ任せる」
「誰」
「八城レムと百舌忍」
「能力者?」
「今日は能力を使わない」
「使えるのに」
「使えることを、毎回の資格にしない」
現場係は納得していない。
「あなたは使ったのですか」
「まだ」
「必要なら」
「使うかもしれない」
「基準は」
「過半数の自発選択」
「過半数なら正しい?」
朝は答えに詰まる。
「実行条件です。正しさではない」
「少数は」
「動かさない」
「過半数が動けば、圧が」
「だから、一動作だけ」
「あなたの身体へ反証が返れば、安心ですか」
現場係の質問は、イオより先だった。
朝は、自分がすぐ答えられないことを記録する。
《09:02:18 過半歩の反証を、運用の安全保証と誤認する可能性を指摘される》
「安心ではありません」
「今、考えた?」
「はい」
「調停官でも、現場で考える?」
「考えない調停官は、録音機です」
「録音機は、勝手に署名しない」
「その点では、私より安全です」
現場係が少し笑う。
「名前、松任谷槙」
「先に言っていませんでしたね」
「今、言うことを選んだ」
「受領」
レムと忍が到着する。
朝はGの説明を二人へ渡す。
「あなたが指示しない?」
レム。
「しない」
「逃げる?」
「範囲を渡す」
「格好よく言った」
「今のは、少し」
忍が板へ打つ。
《自覚があるなら、記録》
朝は書いた。
《09:04:51 「範囲を渡す」という表現に、自己正当化の可能性》
「そこまで?」
レム。
「あとで、自分が立派だったことにするから」
朝はGを離れる。
八区画を分けることは、自分の仕事を減らすことではない。
分けた先で、誰が何を決めたかを戻してもらい、自分の判断と混ぜずに置く。
その作業のほうが、一つの命令より遅く、重かった。
朝が言葉を変えるたび、管制側は確認を求めた。
確認すること自体は正しい。
正しい確認は、間に合わなければ凶器の柄になる。
Dへは、荷車の物理停止を認める。
Eへは、植栽帯への横出し。
Fは前進をやめず、三歩ごとに任意の小停止。
Gは音声を切り、光だけ。
Hは光を切り、低音の打音だけ。
「ばらばらですね」
係官が言った。
「それが目的です」
「統制が取れません」
「統制が取れすぎて、人が倒れています」
轟が外した四枚目の柵を置いた。
「横道、幅一・四」
「担架は」
朝。
「入る。二人が横へ避ける幅はない」
「では担架を使わない」
「布担架なら折れる」
「誰が持つ」
「名前を決める」
「交代時刻も」
「書く」
「戻す期限」
「午後六時に一度判定。地盤が崩れたら延期理由を残す」
「あなたは話が早い」
「工事は、言い直すたびに人が下にいる」
豪が柵を押さえたまま笑った。
「役人同士の恋が始まりそうだ」
「誰と誰が役人だ」
轟。
「お前は鉄の役人だろ」
「鉄は署名しない」
「錆びたら赤い印が付く」
「黙って押せ」
「今、同じ命令は危ないぞ」
「お前だけ押せ」
「はいはい。犬飼豪だけ、押します」
豪は自分の名を言ってから、柵へ肩を当てた。
横道が開く。
救護員が一人目を布担架へ移した。
朝はチカの周囲を見る。
まだ身体を引き抜けない。
前後の圧は少し下がったが、床振動は続いている。
「振動板、Eだけ止める」
朝が言う。
《区画境界で位相差が発生します》
「何秒」
《最大〇・七》
「止めた後、隣接板を三秒で減衰」
《前例が》
「今日作ります」
《事故時の責任は》
「私の名前を使ってください」
言った瞬間、朝のふくらはぎが微かに痙攣した。
右だけではない。
左右同時。
床の振動へ身体が抵抗したせいか。
長く立っていたせいか。
朝は気にしなかった。
頭上音声が一度途切れる。
白と青の光が、E区画だけ消えた。
床の振動が止まる。
千二百四人全員ではない。
百六十人の足元だけ。
その百六十人も、一度には止まらなかった。
前へ二歩進む者。
その場で固まる者。
隣へ合わせようとする者。
倒れた人を見てしゃがむ者。
ばらばらだった。
ばらばらだから、隙間ができた。
「今」
迅が言う。
七瀬と救護員が、チカの左右へ入る。
「チカ。引くんじゃない。右へ転がれる?」
「右、靴ない」
「足はある」
「ある」
「自分で右を選べる?」
「選べる」
「いつ」
「今」
チカは肩を丸め、自分の身体を右へ転がした。
迅が上の成人を支える。
七瀬が頭を守る。
救護員が腰へ布を差し込む。
赤い上着が、人の脚の下から出た。
チカは息を吸った。
咳をした。
泣かなかった。
「鍵」
最初の言葉は、それだった。
「人が止まった」
朝が言う。
「探す」
チカは地面へ座ったまま、朝を見上げた。
「全員?」
朝は広場を見る。
Aはまだ動く。
Bは階段で半歩。
Cは波の手前。
Dは荷車で詰まっている。
FからHは橋の上。
「全員ではない」
「じゃあ、まだ」
「そうですね」
朝は自分で言った約束を言い直した。
「あなたの周りの人が止まった。ここから見える範囲で探します。見つからなければ、次の範囲へ移す。そのたび記録します」
「長い」
「仕事なので」
「答えない大人より高い」
七瀬が吹き出した。
左肩を押さえ、すぐ顔をしかめる。
「笑うと肩に響く」
「笑いも記録する?」
チカ。
「痛みが出たことだけ」
「笑ったのは」
「私のもの」
朝は石床へ落ちた鍵を一つ拾った。
共同靴箱の札が付いている。
「一つ」
チカへ見せる。
「触らないで」
朝の手が止まる。
「拾ってしまいました」
「今さら」
「返していい?」
「袋に」
七瀬が破れていない紙袋を広げる。
朝は鍵を入れた。
命令書へ署名した手で、鍵を一つ戻す。
それで命令書の責任が軽くなるわけではない。
軽くならないから、やる意味があることもある。
チカが救護帯へ移った後、朝は負傷者の一覧を求めた。
すぐに、一覧を求めた言い方を訂正した。
「総数ではなく、必要な処置ごと」
救護責任者が顔を上げる。
「軽傷、重傷で分けます」
「誰が重傷と決める」
「医療者が」
「まだ診ていない人は」
「未分類」
「未分類を軽傷へ入れない」
「通常も入れません」
「通常を確認したかった」
救護責任者は少し苛立つ。
「名取枝里。救護責任者。現在、頭部出血二、胸部圧迫疑い四、骨折疑い三、擦過・打撲多数、未確認あり」
「多数を数字へしない?」
「数えている間に処置が遅れる」
「受領。必要物資」
「布担架、冷却材、固定板。酸素は、今のところ一系統」
「今のところ、を時刻付きで」
「あなた、全部書くんですか」
「書けないことも書く」
「何て」
「未確認」
「それで責任を取った気になる人がいる」
枝里の言葉は鋭い。
朝は頷く。
「います。私も」
「否定しないんだ」
「記録が治療の代わりにならないよう、あなたの判断を優先します。ただし、後で『全員無事』にしないため、最低限を残す」
「死者は今、確認ゼロ。死亡ゼロではない」
「その表記で」
「チカは、胸部圧迫後。右踵擦過。左手指運動。観察」
「本人の公開範囲」
「今は医療内。家名、所在、詳しい所見は公開しない」
「受領」
七瀬が横から言う。
「映像は、足と救助動作。顔なし。チカ本人の呼称は、事故説明へ使うか後で確認」
「二人とも、話が長い」
枝里。
「短い説明で事故が」
朝と七瀬が同時に言いかける。
二人とも止まる。
「今、そろった」
枝里。
「言わない」
七瀬。
「同じ台詞を禁止しない」
朝。
「息は合わないね」
枝里は布担架を開く。
顔に疲労がある。
「枝里さん、交代は」
朝。
「十一時」
「今は九時前」
「事故で延びる」
「延ばす責任者」
「私」
「あなた自身が決める?」
「現場責任者だから」
「医療者の休止判断は、別の人へ」
「誰」
「当直医」
「ここへ来ていない」
「通信」
枝里は顔をしかめる。
「今、それをやる?」
「あなたが倒れた後より」
「十時に再確認。今は続ける」
「誰と確認」
「名取藍」
「家族?」
「娘。医療補助」
「家族だから、断りにくい可能性」
「あなた、本当に嫌な人だね」
「記録でよく言われます」
「じゃあ、藍と、別の看護担当。二人」
「受領」
枝里は救護へ戻る。
朝は、医療者の休息まで自分で管理しようとしたことを、手帳へ書く。
《事故対応権限を理由に、専門職の勤務判断へ介入しかけた》
七瀬が覗く。
「公開?」
「後で範囲を決める」
「善人の自己反省映像に使われる」
「だから、結果と一緒に。介入を止めたことではなく、止められたこと」
「誰に」
「名取枝里に」
「本人へ確認」
「します」
負傷一覧の末尾には、《未確認》が二十三人いた。
「軽傷へ入れれば、搬送計画が立ちます」
記録係。
「確認していないから未確認」
朝。
「重傷の可能性は低い」
「可能性を分類名にしない」
「では、二十三人分の救護員が」
「一対一ではなく、自己申告と観察を分ける。話せる人へ、まず三問」
「痛み、出血、歩行?」
「それだけだと、歩ける人が軽傷になる。息苦しさ、意識、胸部圧迫を先に」
「医療者では」
「だから、医療者の手順を読む」
朝は救護手順を自分で作らない。
名取枝里が送った簡易確認票を、読み上げる人と記録する人へ分ける。
二十三人のうち、十六人は軽傷確認。
四人は観察継続。
三人は緊急評価へ。
「最初から重傷三と書けば」
「書けなかった」
「結果は同じ」
「途中が違う」
「報告書では」
「途中を書く」
朝は《未確認》を消さず、横へ変更時刻を足した。
最初から分かっていたように、結果だけを上書きしない。
朝は、自分の正しさまで一つの歩調にしない。
通信器が鳴る。
《調停官。C区画、手すりへ三名挟圧。区画停止を要請》