第486話 第一章「同じ歩調」後編

「E前からD後ろ。Cへ波及中」

「止められる奴は」

「権限確認中」

「名前」

「まだない」

 迅の黄褐色の目が、頭上の白い行政棟を見た。

 殴る相手を探した目ではない。

 出口を探す目だった。

 E区画の後方では、馬瀬鈴の声が上がった。

「押すな! 押してる奴は、前の背中じゃなく自分の踵を見ろ!」

 市場の競りで荷車を二列へ割る声だった。

 しかし、今は声の大きさが別の命令になる。

 何人かが鈴の声へ一斉に顔を向けた。

 首だけが同じ方向へ動き、足は光帯へ従い続ける。

「鈴さん、名前じゃなく動作を一つ!」

 七瀬が叫ぶ。

「分かってる!」

「その声で分からなくなる!」

「小さい声じゃ届かないだろ!」

「届いた人が同じに動く!」

 鈴は怒った顔のまま口を閉じた。

 怒りを消さず、音量だけを下げる。

「……右の荷車、止める。私だけ」

 自分の作業だけを言った。

 鈴は魚箱のない小型荷車を横へ倒し、車輪を固定する。

 倒れた人を積むためではない。

 後ろの列へ、これ以上進めない物理的な目印を作るためだった。

 音声誘導は止まらない。

 白。

 青。

 荷車へぶつかる直前、前列の三人が足を止めた。

 後ろから押される。

 鈴が荷車の反対側へ肩を当てる。

「重い!」

「人より軽い」

 迅が答えた。

 彼はチカの周囲にできた一秒の空間を、二秒へ延ばそうとしている。

 片手で人を持ち上げない。

 倒れた身体の向きを、呼吸できる角度へ一人ずつ変える。

「七瀬、右の靴」

 七瀬は画面を見る。

 黄色い右靴が見つからない。

「脱げてる」

「足は」

 赤い上着の裾から、靴下の右足が見えた。

 踵に擦過傷。

 変形はない。

「見える。色、戻ってる」

「チカ、右足、痛いか」

「鍵」

「足」

「鍵も足」

「どっちが先」

「私が決めるの?」

「今は」

 チカは床へ押しつけられたまま、顔をしかめた。

「足」

「受領」

 タマキの口癖を、迅が使った。

 七瀬は一瞬だけ彼を見る。

「似合わない」

「うるさい」

 迅は倒れた成人の膝裏へ前腕を入れた。

「引くぞ、じゃない。自分で曲げられるか」

 成人が頷く。

「声」

「曲げる」

「誰が」

「俺が」

「今」

「今」

 迅は成人の動きに合わせて支える。

 身体を引き抜くのではなく、本人の動作へ力を足す。

 隙間が広がった。

 七瀬がチカの右足首へ手を添える。

「触る」

「いい」

「引かない。靴下だけ見る」

「靴は」

「あと」

「いつ」

「止まった後」

「同じ答え」

「変わってないから」

 チカの足首は動く。

 七瀬は皮膚色と腫れを確認し、時刻を書いた。

 その間にも、回廊の奥で別の圧が生まれる。

 AとBは事故をまだ知らない。

 FからHは、前の遅れを「歩調の乱れ」として埋めようとする。

 床振動板は、全区画へ同じ速度を送る。

 人間の遅れを、人間の努力で取り戻させる。

 通信器から、機械音声ではない人の声が入った。

《中央管制。全面停止は認められません。後方区画の密度上昇を確認》

「Eだけ止めて」

 七瀬。

《区画別停止は、発動署名者の追記が必要です》

「発動署名者は」

《照会中》

「何人」

《複数名》

「名前」

《権限確認中》

 七瀬は敬語になった。

「では、現在進行中の負傷者数と、署名者名を開示しない判断をした方のお名前をお願いします」

 通信が二秒止まる。

《現場責任者名は後ほど》

「後ほどは時刻ではありません」

《救助を優先してください》

「しています。あなたもしてください」

 通信が切れた。

 七瀬は切断時刻を記録した。

 迅が言う。

「喧嘩は後」

「今のは記録」

「声が喧嘩」

「あなたの顔が通常」

「便利だな」

「記録語じゃない」

 救護員が二人、E区画の外縁へ到着した。

「重傷者を先に出します!」

 担架を縦に入れようとする。

 迅が止めた。

「入らない」

「幅はあります」

「担架の幅は。人が避ける幅がない」

「では、どう運ぶ」

「今は運ばない。呼吸を作る」

「重傷者が」

「誰が重傷」

「頭部出血、二名」

「位置」

「中央」

「担架を入れたら中央まで十人を踏む」

「では救助できません」

「横から空ける」

「横は柵です」

 迅は青い布柵を見た。

 柵の向こうは、行政棟の植栽帯。

 土と低い灌木。

「外せる」

「許可が」

「留め具は四つ。壊さない」

 七瀬は柵の根元へレンズを向ける。

 蝶番ではない。

 差込み式の固定爪。

「轟なら外せる」

「呼んだ」

 迅が言う。

「いつ」

「転ぶ前」

「どうして」

「床の音が変だった」

「先に言って」

「確定してなかった」

「確定してから人が転んだ」

「だから呼んだ」

「自慢?」

「遅かった報告」

 七瀬は返事を飲んだ。

 遅かったと自分で言えるなら、今は責める時間ではない。

 遠くから、金属を二度叩く音がした。

 低く、太い。

 伏見轟の合図だった。

 頭上音声が、三度目の指示を告げる。

《歩調を維持してください》

 その言葉に従おうとした人から、また一人転んだ。

 七瀬は撮影機を上へ向けなかった。

 配信画面の外では、視聴者の文字が流れていた。

《なぜ全景を映さない》

《混乱を隠している》

《足元だけでは状況が分からない》

《中央は安全なのか》

《王はどこだ》

《迅に殴らせろ》

 補助員が言う。

「一度だけ、上へ戻しますか」

「戻さない」

「隠蔽と」

「隠している範囲を書く」

 七瀬は撮影票へ追記する。

《全景撮影を停止》

《理由――足元の転倒、圧迫、救助動作を優先。顔、医療情報、倒れた人数の未確認推計を公開しない》

《全体位置は、固定監視映像の保全を別途要請》

「監視映像を使う?」

「一般公開には使わない。検証へ」

「監視を嫌っていたのに」

「嫌いな道具でも、誰が見て何に使うかを分ける」

「都合がいい」

「そう」

 七瀬は否定しない。

 自分の撮影だけを正しい記録にすると、監視者が一人増えるだけだ。

「王はどこだ、へは」

「答えない」

「迅に殴らせろ」

「本人が決める」

「広報から、迅の救助映像を切り出したいと」

「まだ救助中」

「英雄的です」

「評価語」

「便利ですね」

「記録者は、便利な言葉を嫌う」

 画面で、迅がチカを引き抜かず、本人へ身体を転がせるか訊いている。

 その遅さは、英雄映像には向かない。

 一撃もない。

 叫びもない。

 七瀬は、その遅さを切らなかった。

「視聴者が減ります」

「減らして」

「配信を限定?」

「救護、家族照会、記録監査へ優先。一般公開は遅延」

「誰の権限」

「撮影者の公開停止」

「責任者名」

「火群七瀬」

 補助員が設定を切り替える。

 視聴数が落ちる。

 現場の人は、一人も減らない。

 見られなくなることと、いなくなることは違う。

 七瀬は、足元の映像を残した。

 広場全体を映せば、千二百四人は一つの波に見える。

 足元には、千二百四通りの失敗があった。

 黄色い靴の隣で、一つの鍵が、同じ歩調の靴に蹴られ続けていた。