第485話 第一章「同じ歩調」前編

三月二十日 午前八時四十二分

 千二百四人が同じ足で歩くと、街は一匹の大きな動物に見える。

 火群七瀬は、その映像を嫌いになるまで、十七秒かかった。

 中央行政広場の北端。

 手回し撮影機は、補修用の昇降台に固定してある。

 七瀬は腰の高さにあるクランクを右手で回し、左肩へ荷重を乗せない。

 肩は、上げなければ痛まない。

 上げなければ撮れない映像もある。

 昔の七瀬なら、後者だけを数えた。

 今は、前者も記録票へ書く。

《撮影開始 08:42:11》

《固定台使用》

《左肩挙上なし》

《公開範囲――中央行政回廊の誘導状況。顔の識別は行わない》

「全景、きれいに入ってます」

 隣の補助記録員が言った。

「きれい、は記録語じゃない」

「整然」

「それも評価」

「じゃあ、千二百四人が、同じ方向へ、同じ速度で」

「それでいい」

 広場の石床へ、白と青の光帯が交互に走る。

 白で右足。

 青で左足。

 頭上の音声誘導は、男女どちらとも聞こえない平らな声だった。

《中央連絡駅へ移動する方は、床面表示に従ってください》

《歩調は毎分八十四歩》

《前方との間隔を保持してください》

《停止は指定区画で行ってください》

 床の振動板が、靴底へ小さな合図を送る。

 音を聞き取りにくい者にも分かるように。

 光を見にくい者にも分かるように。

 設計思想だけなら、悪くない。

 中央設備の停止後、上水、暖房、病院補助は地区ごとの手動運用へ切り替わった。

 生活は止まらなかった。

 代わりに、地区をまたぐ移動と配給調整が遅れた。

 今日、中央連絡駅から出る臨時列車は六本。

 登録済みの移動者は千二百四人。

 北医療区へ行く者。

 職場へ戻る者。

 再登録の説明を受ける者。

 家族へ会いに行く者。

 会わないと伝えに行く者。

 目的は違う。

 歩調だけが同じだった。

「視聴数、増えてます」

 補助員が小声で言う。

「何を見たいって?」

「混乱しない中央。だそうです」

「混乱してない映像は、人気がある」

「いいことでは」

「映像としては」

 七瀬は答え、ファインダーへ左目を寄せた。

 七瀬は、撮影開始前に広場を一周していた。

 中央行政棟へ入る列と、中央連絡駅へ向かう列が、青い布柵で分けられている。

 列の途中には、靴底の泥を落とす金網。

 荷物の幅を測る枠。

 移動札を確認する机。

 机の上には、選択肢が三つしかなかった。

《歩行可能》

《介助歩行》

《車椅子》

「止まる、がない」

 七瀬が言った。

 確認係は、まだ二十歳そこそこの青年だった。

 青い腕章が新しい。

「停止は休止区画で」

「休止区画まで歩けない人は」

「介助歩行です」

「介助されるのを拒む人は」

「……本人へ確認します」

「今、してない」

 青年は、用紙へ目を落とした。

「記録しますか」

「あなたの顔は撮らない。用紙は撮る」

「部署へ確認を」

「その確認中に列が進む」

「では、用紙だけ」

 青年は用紙を裏返さなかった。

 逃げなかったことも、正しい欄がなかったことも、同じ映像へ残した。

 列の中で、柏木秋枝が深紫の外套の裾を安全ピンで留めていた。

 胸の針箱。

 右親指の小さな装具。

 首を左右へ大きく回せないため、呼ばれると身体ごと向く。

「撮るなら、母の薬袋は入れないで」

 秋枝は先に言った。

「画角外へ置ける」

「画角外って、なくなる場所じゃないでしょう」

「映らない場所」

「あとで説明へ使わない?」

「使わない。目的は誘導状況」

「じゃあ、私の首が回らないことは」

「映していい?」

「映して。中央の矢印は、後ろを見ろって平気で言うから」

 秋枝の隣で、浅海スエが鼻で笑った。

 藍鼠の作業着。

 油の染みた膝当て。

 木製の弁札を杖代わりにしている。

「後ろを見る前に、膝が前をやめるよ」

「スエさん、介助歩行へ」

 確認係が言う。

「誰が介助する」

「係員が」

「名前」

「交代制です」

「交代する人を、名前って言うのかい」

 青年が黙る。

 スエは用紙を見上げた。

「歩ける。止まる。もう一度歩く。その三つだ」

「欄は、歩行可能で」

「今の話を聞いて、それかい」

「制度上」

「夏の善意みたいな言葉だね」

「三月です」

「季節の話をしてない」

 七瀬の補助員が、笑っていいか迷った顔をした。

 スエはその顔へ言う。

「笑うなら、あとで弁を回しな。膝は貸さないよ」

 少し先で、チカが黄色い靴を金網へ擦っていた。

 右の踵だけ青い糸。

 左はすり減ったまま。

「泥、落とすの?」

 七瀬が訊く。

「靴の高さを同じにする」

「金網じゃ低い方は高くならない」

「高い方を低くする」

「糸が切れる」

「歩くの、同じにしろって」

「足を?」

「みんな」

 チカは胸の移動札を見せた。

 E。

「塔の学校へ戻る?」

「今日は中央の鍵屋を見に行く」

「鍵屋」

「役所の。誰の鍵か聞く」

「たぶん、役所は鍵屋って呼ばない」

「鍵を持ってるのに?」

「その質問、撮っていい?」

「今のは無料」

「次は」

「一問、銅貨一枚」

「高い」

「答えない大人より安い」

 チカは紙袋の口を閉じた。

 中には三つの鍵。

 自室。

 共同靴箱。

 今は使われていない給水扉。

 鍵の用途を分けることを覚えた子どもは、歩き方まで一つへまとめられようとしていた。

 七瀬は撮影票へ一行足した。

《移動能力の自己申告欄は三分類。停止、再開、介助拒否の欄なし》

 その一行は、事故の原因ではない。

 原因を一行へまとめると、次の一行が人を殺す。

 撮影開始の二十分前、七瀬は床振動の試験へ立ち会っていた。

 試験に使われたのは、人ではない。

 砂袋を積んだ十二台の台車だった。

 同じ重量。

 同じ車輪幅。

 同じ間隔。

 振動板が白、青、白、青と点灯すると、台車は係員に押されてきれいに進んだ。

「ばらつき、〇・三秒以内」

 技師が言った。

「人で試した?」

 七瀬。

「運用員四十名で」

「年齢」

「十九から四十六」

「装具」

「一名」

「車椅子」

「試験車両で代替」

「止まりたい人」

「試験参加者ですから、全員が完遂を」

「介助を断る人」

「介助を必要とする参加者はいませんでした」

「子ども」

「安全上、参加させていません」

「高齢者」

「同じく」

 技師は悪びれていない。

 隠してもいない。

 試験の数字は正しい。

 試験にいなかった人も、正しくいなかった。

「今日、千二百四人が通る」

「登録時に歩行能力を確認しています」

「三分類で?」

「はい」

「歩行可能、介助歩行、車椅子」

「十分な分類です」

「止まる人は」

「停止帯へ」

「停止帯の位置は」

 技師が運用図を開く。

 広場北端に二か所。

 駅入口に一か所。

 連絡橋の後ろに一か所。

 ただし、図の右上へ灰色の文字。

《別紙四号参照》

「別紙」

「行政側です」

「見せて」

「私は持っていません」

「誰が」

「調停確認者」

「名前」

「御厨朝ほか二名」

 七瀬は、その時刻を記録した。

《08:21:44 床振動試験。別紙四号の所在、現場技師は未確認》

 技師が言う。

「何か問題が?」

「まだ起きてない」

「なら、問題とは」

「起きる前に訊く質問」

「記者は、事故を待っていると聞きます」

「記者じゃない。記録者」

「違いは」

「事故の前も撮る」

 技師は少し笑った。

「事故がなければ、今日の映像は、中央が混乱を克服した記録になる」

「混乱を克服した、は誰の評価?」

「広報です」

「あなたは」

「設備が仕様どおりなら、成功」

「人が仕様どおりでなければ」

「人は仕様ではありません」

「いい答え」

「評価語では?」

「今のは感想」

 七瀬は技師の顔を撮らなかった。

 手と図面だけを撮る。

 別紙四号の灰色の文字。

 その横に、技師自身の鉛筆で書かれた一行。

《現場で停止帯を確認すること》

「確認した?」

「これから」

「誰と」

「行政誘導班」

「名前」

「久世直人」

 久世は、その時点ではまだ来ていなかった。

 七瀬は撮影票へ、もう一行加えた。

《停止帯の現物確認――未完了》

 その記録は、事故を予言する映像ではない。

 予言にすると、止められなかった人が、未来を知っていたのに黙った悪人になる。

 七瀬も、事故が起きるとは確信していなかった。

 ただ、違う身体を同じ試験車両へ置き換えたことを、違うまま残したかった。

 試験台車が片づけられたあと、清掃担当の野々村葉が、手押し車で同じ床を横切った。

 右前輪だけが小さい。

 荷台には、水桶、雑巾、交換用の振動板、私物の紙袋。

 白い光で右輪。

 青い光で左輪。

 車輪は足ではない。

 葉の手押し車は、二つ目の青帯で左へ寄った。

「止めて」

 七瀬。

 葉は手押し車を止める。

「何」

「今、引かれた?」

「いつも」

「いつも?」

「右の車輪が小さいから。青の溝へ入ると、左が先へ出る」

 技師が図面を見る。

「清掃車は移動者用設備の対象外です」

「床は対象外を見分ける?」

「手で補正できます」

 葉は両手を見せた。

 右手の人差し指が曲がりきらない。

「今日は、これ」

「負傷?」

「昨日、洗浄桶で挟んだ。医療へ行くほどじゃない」

「今日は通らないでください」

「清掃しない?」

「別の車両を」

「どこに」

 技師は答えられない。

 同じ重量の試験台車は十二台あった。

 違う車輪の実用車は、この一台しかない。

「押してみます」

 補助員が言う。

 葉は首を振った。

「私の仕事を、私より握れる手で試したら、今日は安全になるの?」

 七瀬は、その言葉を撮影票へそのまま書かない。

「記録していい?」

「顔なし。手と車輪。名前は仕事記録の範囲」

「受領」

 葉は、光帯を外れた石床へ手押し車を移した。

「ここなら」

「振動誘導はない」

「前から、音で歩いてない」

「安全確認が」

「私がゆっくり行く。ぶつかる人が来たら止まる」

「停止帯ではありません」

「床が止めるんじゃない。私が止まる」

 葉は光の外を、一定ではない速度で進んだ。

 技師は違反として止めなかった。

 安全例としても採用しなかった。

 七瀬は二つを書く。

《規格外車輪、誘導帯で左偏位》

《本人判断により誘導帯外を低速移動》

 試験の成功率へは入らない。

 事故の原因率へも、まだ入らない。

 ただ、同じ床へ、試験台車とは違う一台がいた。

 撮影開始五分前。

 中央広報の女が、白い帯を指さした。

「最初の十秒は、塔を入れてください」

「なぜ」

「中央が戻ったと分かる」

「中央設備は戻ってない」

「調整機能が」

「戻った、は評価」

「では、再編された」

「人の歩幅をそろえることが再編?」

「映像の説明は、こちらで」

「私の映像へ、こちらの説明を付けるなら、説明者名を」

「広報班」

「名前」

「個人広報ではありません」

「個人が書く」

「合議です」

「合議した人」

 女は一度、唇を結ぶ。

「牧野絢。広報編成」

「撮影の優先は、足元。塔は、余裕があれば」

「契約上、全景を」

「契約には、被写体の安全を損なわない範囲、とある」

「撮影が安全を損なう?」

「全景を優先すると、足元の異常を見落とす」

「それは撮影者の技量では」

「技量に全部入れるなら、指示はいらない」

 牧野は言い返さなかった。

「塔を一度。足元を継続。事故がなければ、編集時に相談」

「事故があれば」

「相談の前に保全」

「分かりました」

 分かった、という言葉が、今日最初の同意だった。

 何をどこまで分かったのか。

 七瀬は、訊き返さなかった。

 後で、その省略を悔やむ。

 人は重大な失敗だけで事故を作らない。

 訊けば答えが返ったかもしれない、小さな一問を省いた場所にも、事故は入る。

 千二百四人は八つの区画へ分けられている。

 胸の札に、AからH。

 A区画百五十四人。

 B百四十八。

 C百五十一。

 D百四十二。

 E百六十。

 F百四十七。

 G百五十六。

 H百四十六。

 合計は、千二百四。

 数字は整っている。

 画面の下端で、黄色い靴が一度だけ遅れた。

 七瀬はクランクを止めない。

 倍率だけを落とす。

 赤い上着。

 黒髪は左右で長さが違う。

 右の黄色い靴だけ、踵を青い糸で直してある。

 チカだった。

 環水三号塔で、自分の部屋の鍵を自分で回した子ども。

 家名は公開しない。

 今は十歳。

 彼女はE区画の前寄りを歩いていた。

 紙袋を胸へ抱え、袋の中で鍵が鳴らないよう両腕を締めている。

 右足。

 左足。

 白。

 青。

 右足の踵は、左より少し高い。

 歩幅も同じではない。

 チカは白い光に右足を合わせるため、左足を少しだけ大きく出した。

 次の青へ、右を早く戻す。

 足元だけを見れば、毎回、身体が小さく跳ねている。

「Eの前、寄れる?」

 七瀬が訊く。

「全景が切れます」

「切って」

「中央広報から、全体状況を優先と」

「誰の指示」

「配信票には部署印だけです」

「名前がないなら、画角はこっちで決める」

 七瀬は固定台の横レバーを引いた。

 レンズが下がる。

 広場の旗。

 行政棟の白い壁。

 整然と動く千二百四人の上半身。

 それらが画面から消えた。

 残ったのは、靴だった。

 長靴。

 装具。

 踵のすり減った革靴。

 左右で高さの違う作業靴。

 車輪の付いた歩行器。

 杖先。

 子どもの黄色い靴。

 毎分八十四歩は、数字としては一つだった。

 身体に入れば、八十四種類より多い。

 光帯が一度、速く走った。

 白。

 青。

 白。

 七瀬の指がクランクから離れかける。

 頭上音声。

《前方区画の収容時刻調整により、歩調を毎分八十八歩へ変更します》

《変更開始まで、五、四、三――》

「聞いてない」

 補助員が言った。

「記録」

《速度変更通知 08:44:03》

《――二、一》

 床が震えた。

 一拍が、わずかに詰まる。

 千二百四人のうち、何人が四歩の差を身体で理解したか。

 何人が音だけを聞いたか。

 何人が前の背中へ合わせたか。

 七瀬の画面で、チカの黄色い靴が迷った。

 右を出す。

 引く。

 左を出す。

 紙袋の中で、鍵が一つ鳴った。

 チカは顔を上げた。

 前の大人の背中しか見えない。

 その大人も、前の人の背中を見ている。

 止まる場所は、表示されていない。

 チカは、合わせた。

 右の踵を無理に浮かせる。

 左足を一歩分より広く出す。

 青い糸で直した踵が、石床と振動板の継ぎ目へ引っかかった。

 黄色い靴が横を向く。

 チカの膝が落ちた。

 紙袋が開く。

 三つの鍵が床へ散った。

 一人目が転ぶ音は、小さい。

 後ろの靴が止まらなかった。

 男性の脛がチカの肩へ当たる。

 男性は避けようとして右へ傾く。

 隣の女性が腕を上げる。

 その腕へ、後ろの荷物が当たる。

 四人。

 九人。

 十七人。

 転倒は人数ではなく、波になった。

「E前、転倒!」

 七瀬は叫んだ。

 声は、頭上誘導に飲まれる。

《歩調を維持してください》

《立ち止まらないでください》

「停止命令を!」

 補助員が通信器へ怒鳴る。

《区画停止権限を確認中》

「確認してる間に増える!」

《全面停止は後方圧を――》

 正しい説明だった。

 遅い説明でもあった。

 七瀬は固定台の制動を外した。

「何を」

「下へ行く」

「左肩」

「台ごと下げる」

「昇降台の操作員が」

「私」

「撮影は」

「続ける」

「救助は」

「誰か一つにして」

 自分で言って、七瀬は一瞬だけ止まった。

 撮るか。

 助けるか。

 何度も使われた問いだった。

 問い方が悪い。

「固定台を下げる。あなたは通信。下に着いたら、機材の脚を持って。私は人へ触る」

「撮影は誰が」

「回ってる」

「画角」

「足元だけ」

 昇降台が下がる。

 E区画の転倒波は、前へも後ろへも広がっている。

 立っている者は、倒れた者を跨げない。

 跨ごうと足を上げれば、後ろから押される。

 倒れた者を引き上げれば、その分だけ身体が縦へ伸び、さらに圧を受ける。

 頭上音声は、まだ同じ言葉を繰り返す。

《歩調を維持してください》

《前方との間隔を保持してください》

「間隔がない」

 七瀬は言った。

 昇降台が地面へ着く前に、迅が画面の左から入った。

 色褪せた紺の学ラン。

 右手首の赤い七結び。

 歩調は、周囲と合っていない。

 彼は光帯を無視し、人の肩と床だけを見て進む。

「迅!」

 七瀬が呼ぶ。

 迅は振り向かない。

 倒れた男性の襟を掴まない。

 まず、その背中へ乗りかけた靴の足首を外へ払う。

「持ち上げるな。膝をつけ」

 低い声。

 近くの二人へ届く。

「誰を?」

「自分の」

 迅が言う。

「しゃがめる奴から、しゃがめ。立ったまま助けると、上へ積む」

 一人が膝をつく。

 後ろの人が、その背へ手を置く。

「押すな。手すり」

「手すりまで行けない」

「隣の肩じゃなく、床へ手を」

 迅は一人ずつ言う。

 声は小さい。

 広場全体を止める力はない。

 しかし、三人が低くなる。

 その横に、手のひら一枚分の空間ができた。

 七瀬の昇降台が床へ着く。

 左肩を上げない。

 固定台の脚を補助員へ渡す。

「撮影、継続」

「画角は」

「ここ」

 レンズは、石床から四十センチ。

 倒れた人の顔は映さない。

 靴と手と、止まれない光だけを映す。

 七瀬はチカを探した。

 黄色い靴。

 一つは、倒れた成人の脚の下。

 もう一つは、見えない。

「チカ!」

 返事はない。

 鍵が一つ、靴底に蹴られて回廊の溝へ滑った。

 七瀬は手を伸ばしかける。

 鍵より先に、指が見えた。

 小さな左手。

 床へ押しつけられている。

「ここ!」

 七瀬が叫ぶ。

 迅が身体を低くする。

 前から来る圧。

 後ろから来る圧。

 彼はチカを引き抜かない。

 黄色い靴の横へ、自分の左足を差し込む。

 足裏で床を押し、空間を一秒だけ保つ。

「手、握れるか」

 床の下から、チカの声。

「鍵」

「手」

「鍵が」

「一個なくしても、扉は人を噛まない」

「噛む鍵もある」

「じゃあ後で探す」

「いつ」

「止まった後」

「いつ止まるの」

 迅は答えなかった。

 答えられないことを隠さない。

「今は、指を曲げろ」

 チカの指が動く。

 骨折ではない。

 七瀬は時刻を書く。

《08:45:17 チカ本人の左手指運動を確認》

 後方で、別の悲鳴。

 転倒波がD区画との境へ届いた。

 Dの人々は前へ進もうとしている。

 Eは倒れている。

 境の床振動板だけが、同じ拍を送る。

 白。

 青。

 白。

 青。

 救助員の靴まで、その拍へ引かれ始めた。

「七瀬」

 迅が言う。

「上、何人」

「登録千二百四。今、倒れてる人数は数えられない」

「区画」