第484話 第十二章「再起動しない朝」後編
「文字は見える」
「あなたが置いた」
「私が」
「なぜ」
「止めた側が、再起動希望を消さないため」
「再起動を認める?」
「条件ができれば、本人が選ぶ」
「条件を作るには、中央設備が要る」
「同じ設備は使わない」
「技術的に、完全な分離は困難です」
「困難と不可能を一つにしない」
「あなた方は、設備を止めた。研究も止まる」
「本人同意のない抽出と、四十八人への転嫁を止めた。研究するなら、誰が受けるか先に決める」
「自己負担を選ぶ成人なら」
「本当に自分だけへ返る証明。途中撤回。仕事と治療を条件にしない。失敗時の医療。名前を番号へ変えて責任を消さない」
「条件を積めば、誰も使えません」
「使えない設備を、使えることにしてた」
冬城は時計を見る。
午前十一時十二分。
「止まった時刻に意味は」
「本人が能力を失った時刻」
「正確ですか」
「本人時計。中央記録と三分違う」
「どちらを採用」
「両方」
「決裁には一つが必要です」
「相談には二つ残せる」
「国家は相談机ではない」
「街も決裁室だけじゃない」
冬城の左手が、銀具のない机面へ触れる。
「あなたは、能力を戻したい」
「戻したい」
「それでも拒否した」
「今の設備を」
「自分を犠牲にしたと、評価されるでしょう」
「嫌」
「英雄化を拒む?」
「自分の希望を、他人へ我慢を命じる道具にされたくない」
「同じことです」
「違う」
「あなたが拒否したことで、再起動希望者は機会を失った」
「そう」
「責任は」
「私の作業判断は記録した。機械停止はイオだけじゃない。患者、地域、機械、四十八人。全部を私の自己犠牲へまとめない」
「責任を分散する」
「範囲を戻す」
「言葉を変えただけです」
「あなたは、分散して四十八人へ送った」
冬城の呼吸が一度止まった。
不整脈ではない。
「銀具は、単独の致死反証を避けました」
「四十八人の名前」
「保護情報です」
「本人へ返した?」
「施設を通じて」
「本人へ」
「全員の現在所在を、私は把握していません」
「決裁者なのに」
「全体を管理する者が、全個人を知ることはできません」
「知らない人へ痛みを送った」
「知っていれば、送らなかったと思いますか」
イオは答えない。
知っていても、別の理由で送る人はいる。
名前を知れば善人になるわけではない。
「知ることは免責じゃない」
「では、なぜ名を求める」
「返す先が要る」
「記録を?」
「痛みの理由。治療費。撤回。あなたの謝罪を受け取らない選択」
「私は謝罪していません」
「知ってる」
「求めていますか」
「私が決めない」
イオは時計を机へ置かなかった。
「見せただけ」
「受領を拒否できますか」
「できる」
「拒否します」
「受領」
イオは時計を持ち上げた。
冬城は再起動希望者の時計を受け取らなかった。
希望を否定したのではない。
自分が保管者になることを拒んだ。
その拒否も、時刻と理由を記録した。
「冬城」
「何です」
「再確認日は」
「何の」
「この時計を見るか」
「必要ありません」
「期限じゃない」
「三月五日」
「受領」
冬城は、次回も拒否できる。
イオも、次回までに見せる目的を変えられる。
決裁ではない約束は、結論を出さないまま日付だけを持った。
午後三時。
明日班の壁へ、停止結果一覧が貼られた。
《止めた》
中央能力回収炉――本人同意のない抽出と反証転嫁を継続できないため。
中央抑制網――遠隔抑制の対象、期間、撤回窓口が個別化されていないため。
《止めなかった》
病院補助――患者の治療継続と、地域手動への移行が必要だったため。中央抽出・反証線は切断。
上水ポンプ――生活用水を止めないため。地域五区画で手動運用。
暖房――冬季の住居、保育、医療を止めないため。地域四区画で手動運用。
《一時的に残した》
病院東補助三号――代替刺激器試験完了まで。二月二十六日午前九時二十二分に限定継続終了。
《再起動しない》
回収炉、中央抑制網――再起動条件未決定。現在、再起動不可。
《治っていない》
反証受領者四十八人。
設備利用者。
仕事を失った者。
患者十一人。
冬城。
迅の左肩。
ミソラの慢性疼痛。
イオの膝。
「最後、要る?」
タマキが訊く。
「要る」
イオが答える。
「勝った人の傷みたい」
「勝者一覧じゃない」
「じゃあ、もっといる」
「誰」
「暖房を止めた染色工房。休業した食堂。七分休憩が遅れた人。水が一分十二秒出なかった家」
「増やす」
「全部?」
「分かる範囲」
「終わらない」
「終わらない」
イオは一覧の下へ、空白を残した。
《この停止で失ったもの》
追加記入可。
期限はない。
ただし、月ごとに読み返す日を決めた。
札を貼り終える前に、三人が並んだ。
上水第三の夜勤者。
《休憩二十三分。早出賃金二十三分。支払者未確定》
「失ったのは休憩?」
イオが訊く。
「休憩と、次も善意で来ると思われない権利」
「長い」
「短くする?」
「しない」
二人目。
染色工房の責任者。
《灰色布十三反。追加電力五単位。七人の半日賃金。取引先への説明一件》
「取引先は、損失?」
「謝った時間」
「相手の時間も」
「まだ聞いてない」
「別欄」
責任者は空欄を一つ残した。
三人目。
右手に薄い手袋をした縫製工。
《針を持てない日、四日以上。賃金二割未確定。再起動希望を、反対派と呼ばれたこと》
「最後は設備の損失じゃない」
壁際の書記が言う。
「停止後の損失」
「誰が呼んだ」
「名前は出さない」
「事実確認が」
「私が言われたことは、私が受け取った事実」
書記がイオを見る。
「載せますか」
「本人の欄へ」
「反証停止で四十八人への加害が止まった利益と、同じ表です」
「同じ紙。別の行」
「差し引きは」
「しない」
「行政には総額が必要です」
「費用は足す。痛みは引かない」
縫製工が、震える右手で札の端を押さえた。
「それ、標語?」
「計算方法」
「少し格好つけた」
「感染した」
タマキが横から言う。
「誰に」
「みんな」
四人目の札は、病院から封筒で届いた。
氏名なし。
病室番号なし。
《私は停止に反対した。限定継続が終わった後も、戻してほしい。けれど、他人へ痛みを送る装置は望んでいない。この二つを一つにしないでほしい》
イオは札を、再起動希望の欄へ貼らなかった。
反証停止賛成の欄にも貼らない。
二つの欄を作った。
《望む機能》
《拒む代償》
同じ札の写しを一枚ずつ置き、原本は封筒へ戻した。
「二重計上」
書記が言う。
「同じ人の違う答え」
「集計では一人」
「判断では二つ」
一覧は、きれいな一列にならなかった。
その曲がり方まで残して、壁へ貼った。
共同浴場の番台が、最後に小さな紙を足した。
《入浴料返金十八。毛布貸出十一。湯温低下一・六度。転倒事故ゼロ》
「ゼロは、失ったものじゃない」
書記。
「成功でもない」
番台。
「何」
「条件を変えて営業した結果」
イオは新しい見出しを書いた。
《変えた条件と、その結果》
失ったものの下。
得たものの上ではない。
数字を並べても、差し引きの線は引かなかった。
夕方。
迅、七瀬、凱、轟、タマキ、真琴、イオ、ミソラが、明日班の前に座った。
祝賀会ではない。
共同厨房から、根菜の煮物。
同じ釜は使わない。
疲労を均等化しない。
自分の疲れを、自分で残す。
「乾杯」
凱が言う。
「何に」
七瀬が訊く。
「しない」
「じゃあ言うな」
「言ってからやめた」
「記録」
「するな」
「公開しない」
「それなら」
迅は器の外側から煮物を崩している。
「味、薄い」
「小麦へ言え」
轟が答える。
「言ったら塩を持ってくる」
「正しい」
「感染」
ミソラは四時間勤務を終え、帰る準備をしている。
「帰れる?」
タマキが訊く。
「送らないで」
「道」
「分かる」
「本当」
「病院まで。途中で休む」
「誰と」
「当直担当」
「受領」
イオの膝は、立とうとすると固まる。
椅子のまま。
迅が手を出さない。
「助ける?」
訊く。
「三十秒待つ」
「受領」
三十七秒後、膝が伸びた。
「七秒遅い」
タマキが言う。
「冬城の時計」
「悪口?」
「時刻」
外では、街区ごとに違う音がしていた。
手動ポンプ。
暖房弁を叩く木槌。
病院の呼吸器。
厨房の鍋。
元監視員が記録台へ印を押す音。
時計も違う。
秒も揃わない。
誰か一人の合図で始まる朝ではない。
止めた機械は、再起動しない。
再起動しないと永久に決めたわけでもない。
決めていない空欄を、誰かが勝手に埋めないよう、五つの場所へ写しが置かれている。
明日班の四十八個の時計は、全部、違う時刻で止まっていた。
壁の振り子だけが動いている。
一拍、遅れる。
イオは直さなかった。