第483話 第十二章「再起動しない朝」前編
二月二十六日 午前六時一分
止まった時計は、朝を知らない。
水科イオは、朝を知っていた。
膝が固い。
右腕は、昨日より重い。
能力が戻ったわけではない。
眠れなかった身体が、自分の重さを思い出しただけだ。
明日班の相談机には、時計が四十八個になっていた。
四十八個目。
午前十一時十二分で止まった時計。
裏蓋に、《再起動を望む》と刻まれている。
イオが置いた。
再起動を拒否した自分の勝利記念ではない。
望む人がいることを、止めた設備と一緒に消さないためだった。
「時刻」
タマキが訊く。
「六時一分三十秒」
「相談は」
「八時から」
「今、仕事」
「保守」
「料金」
「作戦費」
「まだ未払い」
「価が請求」
「いつ」
「今日」
「今日って」
「二月二十六日」
「時刻」
「未定」
「期限じゃない」
「感染が強い」
タマキは左右違う靴紐を締めた。
左耳の後遺症で、床が傾く朝がある。
今日は、右へ少し傾く。
本人がそう言った。
「中央へ行く?」
「行く」
「道」
「普通」
「能力」
「使わない」
「理由」
「保守箱は私が送り主じゃない」
「受取人」
「轟」
「目的」
「再起動しない状態の確認」
「送り主」
「イオ」
「じゃあ使える」
「歩ける」
「能力を使わない理由になってない」
「使う必要がない」
「正しい」
タマキは保守箱を持った。
軽くならない。
七・二キロ。
「二人」
イオが言う。
「持てる」
「床が右」
「少し」
「少しの床は人を落とす」
「轟に感染」
二人で持つ。
明日班を出た。
街の朝は、中央の鐘で始まらなかった。
上水第三。
手動ポンプの低い拍子。
暖房第二。
弁を叩く木槌の二回音。
病院東。
薬剤冷蔵の確認鈴。
共同厨房。
鍋の蓋。
染色工房。
蒸し工程を止めたまま、乾燥棚を動かす車輪。
中央機械塔。
無音ではない。
冷却ポンプ。
排気弁。
軸受へ油を送る手回し機。
止めた設備にも、止めるための音がある。
轟は機械塔入口で待っていた。
左肩は、以前から頭上保持に制限。
右肩に新しい打撲。
両腕を上げず、保守板を腰の高さへ置いている。
「遅い」
「時刻」
「六時二十一分」
「予定」
「六時二十分」
「一分」
「機械なら警報」
「人なら」
「理由」
「タマキの床が右」
「記録」
轟が保守板へ書く。
《運搬一分遅延。平衡障害により二人運搬へ変更》
「書くの」
タマキが訊く。
「次に一人で持たせない」
「治ったら」
「本人が更新」
「いつ」
「診察後」
「期限」
「未定」
「だめ」
「じゃあ、三月五日に確認」
「受領」
轟は保守箱を開けた。
中身。
封印札。
手回し油差し。
軸位置計。
空白の再起動票。
「再起動票」
タマキが持ち上げる。
「書かない」
イオが言う。
「再起動しない、って書く?」
「書かない」
「何で」
「しないを永久命令にしない」
「じゃあ空白」
「空白の条件を書く」
「矛盾」
「再起動条件が決まっていない。決めるには、反証の受取先、利用者の同意、生活系統の独立、費用、停止後の戻し方が必要」
「長い」
「票には」
イオは短く書いた。
《再起動条件――未決定。現在、再起動不可》
その下へ、確認日。
《三月五日》
「一週間で決める?」
「決めたか確認する。決める期限じゃない」
「面倒」
「正しい」
轟が連結軸を確認する。
中立溝。
固定爪。
迅の掌底が当たった解除板には、浅い凹み。
「直す?」
タマキが訊く。
「直す」
「再起動するの?」
「壊れたままにしない。動かさないことと、壊しておくことは違う」
「動くように直して、動かさない」
「そうだ」
「危ない」
「だから封印」
「誰が開ける」
「一人では開かない」
「何人」
「機械、医療、利用者、反証受領者、地域。五つ」
「全部、同じ答え?」
「違う答えでも、何を違うままにするか決める」
「冬城みたい」
轟の手が止まった。
「何が」
「五つの署名」
「そうだな」
「やめる?」
「一人で開けないのは残す。五つを一案にするのはやめる」
「どうする」
「真琴へ返す」
「今決めない?」
「機械屋が、署名の形まで決めない」
轟は、封印板へ五つの空欄だけを描いた。
同意欄ではない。
確認事項。
それぞれの答えが違っても書ける欄。
保守は、停止後も続く。
壊れないようにする仕事は、再起動の賛成ではない。
午前七時十二分。
上水第三の最初の交代が来た。
夜勤三人。
日勤四人。
一人増えている。
「予定は三人」
イオが言う。
「濁度の再測定がある」
地域保守の女性が答えた。
「増員賃金」
「停止費から」
「いつまで」
「今月末」
「来月」
「未定」
「未定で働く?」
増員された男が言う。
「今日は働く。来月の票には署名しない」
「仕事を拒否?」
「今日の受領と、来月の雇用は別」
「正しい」
男は手動輪を回さない。
まず、夜勤者の記録を読む。
圧力。
濁度。
止めた時刻。
戻した時刻。
苦情。
休憩。
「休憩、二十三分遅れ」
「配管音の確認」
「次の休憩を二十三分後ろへ?」
「しない。日勤が早く来たから、ここで交代」
「早出賃金」
「まだ書いてない」
イオが黒板へ書く。
《早出二十三分。支払者未確定》
「それ、恥ずかしい」
地域保守。
「払ってない方が」
「中央が止まって、地域で動けてるのに、未払いから始まる」
「止めた翌朝だから見える」
「前は」
「中央予算の中で、誰が早く来たか消えてた」
男は日勤札を受け取った。
夜勤者は、引継ぎ後も手動輪の近くへ残ろうとする。
「帰らない?」
「初日だ」
「だから帰る」
「事故が」
「事故のために日勤がいる」
「信用できない」
日勤の男が言う。
「信用しなくていい。記録を読んで、俺が失敗したら次に直して」
「偉そう」
「眠い人より、少しだけ」
夜勤者は手動輪から離れた。
帰路札。
食事券。
次回勤務。
三つを受け取る。
機械を止めた後、人が止まれないなら、中央から地域へ疲労を移しただけになる。
暖房第二では、染色工房の責任者が補償票を持っていた。
「三十九単位」
イオが読む。
「昨日の見積もり」
「乾燥棚の追加電力が五。四十四」
「中央停止で電力が減った?」
「地域手動の効率が悪い」
「必要費」
「誰が払う」
「停止費」
「いつ」
「価が今日請求」
「払われるまで」
「工房は乾燥だけ再開。蒸しは止める」
「賃金」
「半日分」
「人」
「七人」
「仕事が半分なら賃金半分?」
「そうはしたくない」
「何から出す」
「私の取り分」
「それを美談へする?」
「しないで」
「公開範囲」
「工房名、損失、七人。私の取り分は非公開」
「自分だけ払う仕組みを残す?」
「今月だけ。来月は補償がなければ蒸しを再開できないって書く」
「受領」
病院東では、限定継続を終えた三号の前に、黄色い札が残っていた。
《停止済み》へ書き換えない。
裏面へ、限定継続の開始と終了を残す。
「古い札、外さない?」
病院設備係が訊く。
「外すと、最初から止めたように見える」
「新しい札と二枚」
「重ねない」
横へ並べる。
止めなかった理由。
止めた時刻。
同じ機械の、違う判断。
イオは三つの現場を回り、中央塔へ戻らなかった。
停止した機械より、止めなかった仕事の方が、朝には多かった。
午前八時。
明日班の最初の相談者が来た。
右手に薄い手袋をした縫製工。
設備停止後、震えは戻っていた。
前日より強い。
右手で針を持てない。
「止めたね」
「止めた」
イオは謝らなかった。
謝れば、設備停止が間違いだったと認めることになるからではない。
謝罪で、失った仕事を自分の感情へ回収したくなかった。
「今の状態」
「右手の震え。夜は眠れた。朝、糸を三回落とした」
「治療」
「代替は」
「薬剤調整。左手訓練。足踏み機の固定具。仕事の配置転換」
「いつ」
「薬剤は今日診察。固定具は四日。左手訓練は今日から」
「仕事」
「縫製組合へ、検品、型紙、糸管理の三案」
「賃金」
「元の八割を停止補償から。残りは組合と交渉」
「元に戻る?」
「分からない」
「設備を戻せば」
「震えが減る可能性は高い」
「じゃあ戻して」
イオは止まった時計を見た。
午前十一時十二分。
「希望として記録する」
「拒否しない?」
「私は再起動を拒否した。あなたの希望は拒否しない」
「でも、止めた」
「反証転嫁を続ける設備は止めた」
「私の手より、四十八人を選んだ」
「選んだ」
イオは言った。
「同時に、あなたの代替を十分に用意できなかった」
「それは失敗?」
「失敗」
「謝らないの」
「謝ることはできる。でも、何を謝るか分ける。設備を止めたことは謝らない。代替固定具が四日かかること、補償が八割しか確定していないこと、あなたへ停止日を二日前にしか伝えられなかったことは謝る」
「長い」
「短くすると、全部ごめんになる」
「それでいい時もある」
「今は?」
縫製工は手袋を外した。
震える指を机へ置く。
「今は、どれが戻るか知りたい」
「固定具四日。補償交渉、三日以内。薬剤、今日。設備再起動は未決定」
「私が再起動を希望したって、公開する?」
「範囲」
「明日班の相談者集計だけ。名前と仕事は出さない」
「受領」
イオは相談票へ書いた。
《再起動希望。反証転嫁なしが条件。代替治療を受けながら、希望は撤回しない》
止めた設備の前で、再起動を望む人がいる。
その人を、古い制度の味方へ分類しない。
「時計、増えたね」
縫製工が机の端を見る。
「四十八」
「私の?」
「違う」
「誰の」
「公開しない」
「何で置いた」
「再起動を望む人を、忘れないため」
「止まった時計で?」
「悪趣味?」
「少し」
「変更する?」
「しない。私は嫌いって記録して」
「受領」
午前九時三十分。
二人目。
能力再起動を望んでいた元運搬者。
荷重を分ける力を失い、職場を失った。
「設備、止まった」
「止まった」
「俺の申請は」
「保留ではなく、希望継続」
「できない?」
「現在はできない」
「合法化されたら」
「条件を確認する」
「イオはやらない」
「私は、今は拒否」
「怖いから」
「受けたいから」
「分からない」
「私も、全部は分からない」
「力が戻ったら、仕事も戻る」
「保証は」
「組合が言った」
「書面」
「ない」
「先に取る」
「能力が戻る前に?」
「戻った後で、仕事がないと困る」
「能力が戻らないと、組合は書かない」
「なら、組合は能力を求めてる。あなたを雇う約束じゃない」
「冷たいな」
「仕事の条件を見てる」
「希望を削る」
「希望へ日付と署名を付ける」
「面倒」
「正しい」
元運搬者は机を叩いた。
「正しいばっかりだ!」
「私は、設備停止を正しいだけにしない」
「じゃあ戻せ」
「戻さない」
「結局、正しさを押しつける」
「今の再起動は、反証の行先が分からない。あなたが受けると言っても、他人へ流れない証明がない」
「証明が出るまで、俺は無職」
「今の仕事を探す」
「代わりじゃない」
「知ってる」
「知ってて言う?」
「言う。生活が止まるから」
「能力は止めたのに」
元運搬者の隣で、病院から来た若い患者が腕を抱えた。
「止めたのに痛い」
イオは、《停止成功》と書きかけた札を裏返した。
「痛みが残ってる。停止時刻と、痛み四。別に書く」
「正しかったって言わないの」
「止めたことと、あなたが痛いことは、同じ欄にしない」
「生活は止めない」
「別の仕事で、諦めろってことだ」
「諦めなくていい。再起動希望を持ったまま、今日の賃金を取る」
「そんな都合のいい」
「人は一つの欄に入らない」
「またそれ」
「感染」
元運搬者は笑わなかった。
それでも、明日班の短期仕事票を一枚取った。
地域手動所の荷物記録。
能力なし。
賃金は、以前の六割。
「安い」
「安い」
「やると思う?」
「分からない」
「やらない」
「受領」
「でも、票は持って帰る」
「受領」
希望を変えない。
仕事も決めない。
持ち帰る。
それも、選択だった。
午前十時。
ミソラが明日班へ来た。
勤務離脱は、十八時間を超えていた。
二十時間二分。
「遅い」
イオが言う。
「十八時間で戻るとは言ってない」
「確認は」
「八時九分。延長二時間。今、外来だけ」
「痛み」
「残ってる」
「勤務」
「四時間。次、休む」
「本当?」
「書面」
ミソラが見せた。
勤務開始。
終了。
交代者。
痛み増悪時の停止。
「感染」
「医療」
ミソラは八番室の少年の再診結果を置いた。
代替濾過器、稼働。
設備限定継続は、午前九時二十二分に終了。
病院東補助三号も、地域手動へ移った。
十一人のうち、設備停止後に症状が明確に悪化した者、三人。
変化なし、五人。
一時改善、二人。
評価保留、一人。
「治った人」
「いない」
「設備を戻したい人」
「五人。うち二人は、反証転嫁なしが条件。二人は条件をまだ決めない。一人は、今のまま戻せと言ってる」
「止めないって言った患者」
「代替刺激器の試験後も、再起動希望を維持」
「悪者になってる?」
「病院内で、少し」
「止める」
「どうやって」
「止めた側の広報に、その人の拒否を入れる」
「公開範囲」
「本人へ聞く」
「本人は、もう聞かれたくないかもしれない」
「説明を拒否する欄」
「ある」
「使う」
ミソラは椅子へ座った。
立ったまま話さない。
「イオは」
「何」
「再起動」
「拒否」
「気持ち」
「受けたい」
「変わってない」
「変わる必要は」
「ない」
「ミソラは、設備を止めて良かった?」
「反証転嫁は止めて良かった。患者の代替は遅かった。中央移送を止めて良かった。強制移送班の若い人の足を扉で挟みかけた。全部、別」
「面倒」
「医療」
二人は笑わなかった。
疲れていた。
笑う体力は、正しさより先に減る。
正午。
中央決裁記録の公開確認が行われた。
冬城征士郎は、拘束されていない。
中央医務室で治療を受け、銀具の右側を応急固定している。
不整脈。
腎機能悪化。
右手の裂傷。
病状は、本人が治療に必要な範囲だけ公開した。
決裁室へ戻る。
黒い傘は持たない。
医務室へ置いてきた。
乾いた靴音だけ。
机の上に、二枚の中央文書。
三束の原票。
四十八人への反証転嫁ログ。
銀具の亀裂写真。
設備の利益記録。
救われた者の人数。
傷ついた者の症状。
全て、別の束。
冬城は座らない。
「法的認定は」
真琴が言う。
「本日行わない」
「理由」
「銀具の医療機能と、能力補助機能と、反証転嫁機能の範囲が未鑑定。登録承認の有効性も個別。冬城の指示、設備統括の運用、施設代表の署名を分ける」
「中央決裁権」
「停止を求める。法的な失職は審理待ち」
「拘束」
「逃走、証拠隠滅、医療の必要を個別に判断。現時点では、記録の前にいる」
冬城は、反証転嫁ログを見ている。
何も言わない。
凱も、迅も、殴らない。
七瀬は顔を撮らない。
公開確認の対象は文書。
「意見」
真琴が冬城へ訊く。
「今は述べません」
「黙秘?」
「記録精査前です」
「受領」
冬城は沈黙した。
改心の沈黙ではない。
敗北を認めた沈黙でもない。
話せば、自分の言葉が証拠になると知る政治家の沈黙。
それも記録された。
公開確認が終わっても、冬城は記録室を出なかった。
医療者から、立位は十五分までと言われている。
十一分で椅子へ座った。
銀具の右側は透明な固定具で覆われている。
亀裂は見える。
イオは、四十八個目の時計を持って入った。
「誰の物です」
冬城が訊く。
「公開しない」
「再起動希望者」