第18話 第七章「三つに分けた荷」後編

「轟。右路」

「行程は左」

「右が速い」

「澪の札は左」

「二分稼げる」

「先行禁止」

「追われてる。経路変更だ」

 迅は右へ踏み出した。

 屋根の上で赤い布が振られた。

 一回。

 二回。

 三回。

 澪だ。

 右耳が聞こえなくても、こちらの足は見える。

 赤札三回は《予定へ戻れ》。白冠救難笛隊の正式信号ではない。今日のために決めたものだ。

 迅は足を止めた。

 追手が背へ迫る。

「止まるな!」

 轟が箱を引く。

 迅は止まったのではない。左路へ方向を変えるため、踵を軸に回っていた。

 最前の追手が直進し、迅の右側を抜ける。迅は左肩でその背を押し、さらに前へ送る。

「近道はそっちだ」

 男は三歩走ってから振り返る。

「馬鹿にしてるのか!」

「急いでる」

「待て!」

「それは、おまえの都合だ」

 迅と轟は左路へ戻った。

 上の石段から、凱も予定線へ戻る。遠目に目が合った。

 凱が口を動かす。

 負けたな。

 そう見えた。

 迅は中指を立てようとして、左手が箱を持っていることに気づいた。

「何をしてる」

 轟が訊く。

「持ち手の確認」

「嘘が雑だ」

 八時三分。

 青組は第一検問へ着いた。

 先日の青年が、自分の名で門を開けている。同行者一人が合流する予定だ。

 ところが門前には、鷺沼の札を持つ三人が立っていた。

「医療搬送なら受取人を示せ」

「検問責任者へは受領責任者を登録済み」

 迅が答える。

「患者名だ」

「出さない」

「なら一回目だ。受取人不明の荷は、この境界を通れない」

 男が三本の指を立てる。

 鷺沼本人ではない。定型文だけを借りている。

「代替路は」

 迅が訊く。

「七段坂」

「そこもおまえらが塞いでる」

「住民なら通れる」

「患者は住民だ」

「運ぶ側は違う」

「話が長い」

「一回目を聞いたな」

 男が地面へ白線を引こうとする。

 検問の青年が、その手首を掴んだ。

「ここは俺の担当だ」

「白冠の経路だ」

「今朝から、この門は搬送記録へ署名した者が開ける。おまえの札は受け取っていない」

「王に寝返ったか」

「俺が決めた」

 青年の声は震えていた。

 震えていても、名は消えない。

 男が青年を突き飛ばす。

 凱なら命令で止めただろう。

 迅は箱から手を離した。

 轟が一人で支える。

 迅は二人の間へ入る。殴らず、青年の胸へ左掌を当てて一歩下げる。次に男の肘を外から押し、白線を引く手を地面から上へ向けさせる。

「門の中で決めろ。通行人を挟むな」

「おまえが決めるな」

「決めてない。場所を変えてる」

「同じだ!」

「違う。負けても道が残る」

 男の拳が上がる。

 門の向こうから、鍋の蓋が鳴った。

 かん。

 全員が振り向く。

 小麦が、買い物籠を提げて立っていた。

「朝市から戻っただけ」

 黄組が通ったのは、医療搬送路ではなく、いつもの仕入れ道だった。

 いつもの仕入れ道には、いつもの客がいる。

 豆腐屋の前で、腹を空かせた子どもが一人、小麦の籠を覗き込んだ。

「端っこ、余る?」

 店主はいつも、崩れた豆腐を朝の終わりに分ける。今日の二丁は崩れていない。薬の保冷筒に接している包みを、不用意に開けるわけにもいかない。

「今日は、この二丁は出せない」

 小麦が言う。

「食堂のなのに?」

「食堂の。でも途中で開けない約束」

「けち」

「そう見える」

 小麦は店主へ向き直った。

「崩れ豆腐、別で一つ。代金は今日の帳面」

「急いでるんだろ」

「急いでるから、薬を隠した食べ物を誰かへ渡す事故を作らない」

 タマキが籠の中を見た。

「薬って言った」

「ここは店主と僕たちだけ。子どもには聞こえた」

「聞こえたよ」

 子どもが言う。

 小麦はしゃがまず、同じ高さになるよう一歩離れて目を合わせた。

「籠のどこにあるか、誰へも言わないで。言わない代わりに豆腐をあげる、ではない。豆腐は朝の分。黙るのは、人を守る仕事。断っても豆腐は渡す」

「言ったら?」

「経路を変える。あなたを責めるより先に」

「僕、仕事したことになる?」

「名前は出さない。仕事を頼んだ時刻だけ書く」

 子どもは崩れ豆腐の包みを受け取り、口の前へ指を立てた。

「僕、しゃべるの得意」

「今日は使わない特技」

「高くつくよ」

「豆腐一つ」

「安い」

「断っても食べられるから、賄賂じゃない」

 タマキが言った。

「無料の方が難しい」

 小麦は子どもが角を曲がるまで見送った。

 秘密を守る人を、秘密の一部へ閉じ込めない。

 それも、荷を分ける理由だった。

 小麦は朝市の入口で大根を二本買い、薬瓶を囲む位置へ一本ずつ入れた。タマキは豆腐屋へ寄り、前日に注文した二丁を受け取った。

 急がない。

 急いでいる人間は、検問で最初に見つかる。

 市場の出口で、苔色紐の女が籠を止めた。

「検査」

「食品。豆腐二、大根二、青菜、干し海老、塩漬け一」

「底を見せろ」

「開けると豆腐が崩れる。何を探してる」

「医療品」

「食品の検査札はある?」

 女は持っていなかった。

 鷺沼の許可札は道路と荷の種別を扱うが、朝市の衛生検査は市場組合の担当だ。

「怪しいから止める」

「怪しいは荷の種別じゃない」

 タマキが言う。

 苔色紐の女は、タマキではなく小麦を見る。

「子どもへ言わせて、自分は責任を逃れるのか」

「受領票はタマキの担当。籠の衛生と代金は私の担当」

「荷の中身は」

「開封条件は二人の担当」

「責任を細かく切れば、誰も悪くなくなる」

「逆。どこで間違えたか分かる」

 小麦は籠の側面へ付けた三枚の札を見せた。

《食品衛生・土門》

《受領票・環》

《封印確認・保冷庫職員と受領側》

「全部を私の名にすれば、私が倒れた時、籠がただの私物になる」

「それでも代表は要る」

「代表は、最後に怒られる人じゃない。途中で止める人が見える方がいい」

 女は札を一枚ずつ読んだ。

「その理屈で、爆薬も食品札を付ける」

「だから市場組合の検査を呼ぶ。あなた一人の疑いも、私一人の説明も、決定にしない」

 小麦は急がないふりをしている。

 実際には、脇の下へ汗が流れていた。

 平静は、時間があることではない。

 時間がない時に、相手の不安を敵へ変えないための調理法だった。

「誰から誰へ何のため。これは食堂の仕入れ。店主の受領票、食堂の注文票、代金。止めるなら、止めた人の名と、豆腐二丁の補償を書いて」

「子どもが口を出すな」

「受領票は僕の仕事」

 小麦は籠を地面へ置かなかった。

 置けば底の保冷筒へ衝撃が入る。

「検査は拒否しない。市場組合の人を呼んで。ここで待つ。待った時間は温度票へ書く。薬じゃなく、豆腐が傷んだら請求する」

「薬って言った?」

 女の目が細くなる。

「言ってない。あなたが言った」

 小麦は平らに返した。

 女は籠を睨み、結局、豆腐を一丁買った。

「なぜ買う」

 タマキが訊く。

「中身を確かめる」

「買った豆腐で、他の中身は分からない」

「少なくとも豆腐は本物だ」

「全部本物だよ」

 小麦は答えた。

 薬瓶も、昼飯も、検問員の不安も。

 本物が一種類しかないと思うから、囮に騙される。

 黄組は予定路を歩き、八時四分に門の向こうへ着いた。

 山吹色の前掛け。青菜、豆腐、大根、干し海老。どこから見ても食堂の仕入れだ。

 タマキが横で受領票を持っている。

「何で先にいる」

 迅が訊く。

「予定通り歩いた」

「検問は」

「買い物籠を検査された。豆腐を一丁買われた」

「薬は」

 迅は言いかけて止まる。

 周囲に耳がある。

 小麦は籠を少し持ち上げた。

「昼飯は冷えてる」

 タマキが時刻を読む。

「八時四分。黄組、到着。遅れなし」

「青組、今着いた」

「見れば分かる。英雄は大変だね」

 追手と検問と見物人が、銀箱へ集まっている。

 本当に必要な薬瓶は、誰にも拍手されず、青菜の下を通り抜けた。

 迅は笑った。

 右腕が揺れて痛んだので、笑いはすぐに歪んだ。

「何がおかしい」

 鷺沼側の男が言う。

「俺たちが一番目立って、一番大事じゃなかった」

「冷却材は大事」

 轟が訂正する。

「分かってる」

「器具も来てない」

 小麦が言う。

 石段の上から、白い外套が見えた。

 凱と七瀬。

 八時五分。

 三つに分けた荷が、まだ一つには戻らない。

 だから、三組とも急いだ。

 英雄らしい見せ場だけが、門前へ置き去りになった。