第19話 第八章「地下水路」前編

七月十五日 午前八時七分

 建物が壊れる前には、音がする。

 人間も同じだとよく言うが、伏見轟は信用していない。

 人間は黙って壊れる。

 建物の方が正直だった。

 旧配管路北口で、三つに分けた荷が一つへ戻った。

 小麦が買い物籠から二重保冷筒を取り出す。七瀬が番号を読む。凱が白布包みから管理印と照合札を出す。保冷庫から同行した職員が、青い冷却材の中央へ薬瓶を納め、温度票の紙帯を引き抜いた。

「午前八時七分三十一秒。内部三・一度。衝撃記録ゼロ」

 七瀬が言う。

「安全域、八時五十四分三十一秒まで。ただし八度超過なし」

「一本に戻した」

 タマキが箱を見た。

「盗む人に親切」

「ここからは一つでないと冷えん」

 轟は外枠の四隅を確認した。緑、黄色、白、黒の糸を巻いた留めピン。屋根道で外し、地上路で戻したものだ。

「全部ある」

「僕が数えた」

「俺も数えた」

「信用してない?」

「二人で数えれば、間違いが喧嘩になる」

「一人なら?」

「事故になる」

 轟は欠けた前歯へ舌を当てた。

 タマキが言う。

「今の、ちょっといい」

「工具の話だ」

「人にも使える」

「勝手に使うな」

 旧配管路は、黒雨洪水前の工業用水路だった。

 幅二メートル。高さ二・四メートル。半円形の煉瓦天井。左右の壁へ太い管が二本ずつ走り、中央に人一人分の点検歩廊がある。今は排水路として使われ、普段の水深は靴底ほどだ。

 轟は十二歳のとき、この水路の地図を初めて見た。

 地図には管径、弁位置、流量、耐圧が書かれていた。

 人間の住む場所は、白い余白だった。

 実際に潜ると、その余白へ台所の排水が落ち、洗濯場の糸屑が絡み、子どもが落とした木の舟が弁室へ流れていた。構造図が間違っていたのではない。構造図が責任を持つ範囲の外に、生活があった。

 以来、轟は図面を見たあと、必ず現物を二度叩く。

 一度目は、図面の通りか。

 二度目は、図面にないものがいるか。

 今日の一度目は鈍く、二度目はさらに鈍かった。

「上に何がある」

 轟がタマキへ訊く。

「旧荷揚げ場。今は廃材置き場。西側に三世帯」

「重い物」

「鋼材束二。水槽一。寝台三」

「寝台まで分かるのか」

「配達した」

「壁を抜けば、水槽も下がる」

 迅がまだ何も言っていないうちから、轟は釘を刺した。

「先に禁止するな」

「顔が壁を抜いてる」

「轟も澪みたいになったな」

「悪化した」

 澪が言う。

 水路へ入る前に、轟は出口側へ一本の木片を立てた。水位が上がれば倒れる簡単な目印だ。

「戻るとき、これがない場合は?」

 七瀬が訊く。

「流された。水位が上がった証拠」

「誰かが蹴った場合」

「二本立てる」

「両方なら」

「扉の高さへ炭線を引く」

「記録が増える」

「帰路が減るよりいい」

 轟は三つの目印を置いた。

 構造物は嘘をつかない。

 ただし、一つだけ見れば、人間が嘘にできる。

 入口の鉄扉へ耳を当てた瞬間、轟は違いを聞いた。

 低い連続音。

 水が多い。

 扉を二度叩く。

 返りが鈍い。

「待て」

 轟は完全な文で言った。

「内部の水位が上がっている。天井側の空気が押されている。扉を一気に開けるな」

 迅の左手が取っ手から離れる。

「予定では何センチ」

 澪が左側から訊く。

「三。今は二十五以上」

「通れる?」

「通れる。増えてなければ」

「増えているか」

「聞く」

 全員が黙った。

 水音は一定ではない。九秒ごとに少し強くなる。上流の調整弁が開いている。完全放流なら一気に来る。これは半端な開き方だ。

「誰かが手動弁を動かした」

 轟が言う。

「事故?」

 七瀬。

「分からん。電力切替で弁が戻った可能性。整備員が排水した可能性。人が入った可能性」

「三つ。鷺沼みたい」

 迅が言う。

「構造はだいたい三つ以上で壊れる」

「人間は?」

「知らん」

 澪が時計を見る。

「迂回は何分」

「地上へ戻れば十八。屋根は不採用。東階段は生活時間と衝突。ここを抜けるなら通常七分」

「水位が上がる条件を確認しながら進む。危険なら戻る」

「戻ったら時間切れ」

 迅が言う。

「戻る判断を消さない」

 澪の声は低い。

「薬が死んでも?」

「人を水路へ置かない」

「患者は」

「置かない。だから進む。戻れる速度を残して」

 轟は扉の下へ木片を差し込み、五ミリだけ開けた。

 冷たい水が細く噴く。

 圧力は強くない。

 一センチ。

 二センチ。

 空気が吐き出される。

「開ける。扉左右へ一人ずつ。滑ったら閉めない。押し潰す」

 轟と凱が扉を引いた。凱は左膝を曲げず、右脚と松葉杖で支える。迅が箱の左。小麦が右。七瀬は温度票。タマキは工具袋。澪が人数を数える。

「九人。箱一。工具一。水位二十八。七分で第一弁。復唱」

「九、箱、工具、水二十八、七分」

 タマキが答える。

 保冷庫の職員は入口で残る。

 八人が水路へ入った。

 水は膝下。

 最初の五十メートルは穏やかだった。

 轟が先頭で足場を確かめる。鋼製安全靴の爪先を置き、床が抜けないか荷重を移す。壁を二度叩く。煉瓦の浮き、管の振動、上の建物から落ちる細かな砂。

 背後では、箱を四人で持った。

 迅と小麦が前、凱と澪が後ろ。凱は杖を腰へ縛り、右手で持ち手を支える。澪は左側へ位置し、右耳を通路の中央へ向けない。

 七瀬とタマキが工具と記録。

「水温十五・四度」

 七瀬が言う。

「箱内部三・三。時刻八時十一分」

「水の方が薬より温かい」

 小麦が答える。

「当たり前です」

「数字だけ聞くと、冷やせそう」

「十五度で冷やすのは、人間くらいです」

「それは冷やしちゃだめ」

 五十七メートルで、水位が足首一つ分上がった。

 流れが強くなる。

 箱の外枠へ水が当たり、横へ押す。

 左壁の枝管から、藍色の布束が三つ流れへ垂れていた。

 洗濯場の糸屑ではない。麻紐で管へ結び、わざと水へ浸けている。染めた布の色止めだ。札には、持ち主の屋号と引上時刻が木炭で書かれている。

《北染・午前九時》

「切る?」

 タマキが工具へ手を掛ける。

「切らん」

 轟が答える。

「水を受けて、箱へ当たる」

「結びを外す。位置を記録。上へ上げる」

「無許可で水路を使ってるかも」

 七瀬が言う。

「今は取り締まりじゃない」

 轟は麻紐の結びを見た。濡れて固い。手袋越しでは解けない。

「刃物」

「切らないんじゃ」

「紐は切る。布は残す。新しい紐を返す」

 タマキが小刀で結び目の一部だけを切り、布束を歩廊へ引き上げた。七瀬が位置、屋号、時刻を記録する。小麦は余っていた食品用の麻紐を三本、同じ長さへ切った。

「食材用を使うの?」

「未使用。あとで食堂へ補充を請求」

「誰へ」

「通った全員。切ったのはタマキ。必要判断は轟。記録は七瀬。払う人を一人へしない」

 迅は流れの弱くなった場所を見た。

「急いでるのに、布の心配か」

「布を仕事にしてる人は、これが飯だ」

 轟が言う。

「薬を急ぐ理由と、他人の飯を捨てる理由を同じにするな」

 布束を上へ避けると、水路は少し広くなった。

 通りやすくなったのは、障害物を壊したからではない。

 持ち主へ返す手順を付けたからだった。

 七十二メートルで、点検歩廊が一枚なくなっていた。

 鉄板二枚分、約一・八メートル。

 下には黒い水。深さは見えない。左右の壁へ管が走るが、足場にするには丸く、濡れている。

「昨日はあった」

 タマキが言う。

「昨日、見た?」

「配管路の入口から。全部は見てない」

「なら、あったとは言えない」

 七瀬が訂正する。

「地図にはある」

「地図は水を歩かない」

 澪が、前に自分で言った言葉を返した。

 轟は欠落部へ膝をつき、縁を二度叩いた。右側は生きている。左側は腐食している。

「箱を渡す。人は管を跨ぐ」

「右腕の人は」

 迅が訊く。

「先に行くな」

「質問だ」

「答えも同じ」

 轟は工具袋から短い鎖を出し、右壁の支持金具へ通した。反対側は外枠の黒糸ピンへ掛ける。

「外枠を橋にする?」

 タマキの目が光る。

「全部は外さない。右側だけ開いて、鎖で吊る。箱は左三点で持つ」

「安全率」

「低い。人は乗せん」

「箱を載せる?」

「持ち手を滑らせる」

 小麦が白布を枠へ巻く。金属と箱が直接擦れないようにする。凱と澪がこちら側、轟と小麦が向こう側。迅は箱の左前を支え、七瀬は温度を読む。タマキが鎖の張りを見た。

「取る」

 向こう側の轟。

「渡す」

 箱の前半分が空白へ出る。

 水が外枠を叩く。鎖が伸び、黒糸ピンが一ミリ浮いた。

「止め」

 タマキが言う。

 全員の手が止まる。

「何だ」

「左の布がずれた。箱の角が枠に当たる」

 小麦が木べらを布の下へ差し込み、位置を戻す。

「進行」

 箱が向こうへ渡る。

 次に人。

 轟が先に右管へ足を掛け、凱の松葉杖を受け取る。凱は右手で上の管を掴み、左膝を伸ばしたまま一歩を跨いだ。迅は左手だけで鎖を持つ。下を見た。

「見ない方がいい」

 タマキが言う。

「地下なら平気だ」

「水の底、見えない」

「落ちる途中が見えないからな」

「下所嫌悪、条件細かい」

 全員が渡るまで二分十二秒。

 戻るには同じ時間が要る。

 轟は欠落部へ赤札を結んだ。

《点検歩廊欠落/帰路も一人ずつ》

 行きで使った橋は、帰りにも同じ形で残した。

 ただし、同じ強さではない。

 黒糸ピンは一度荷重を受け、頭がわずかに楕円へ潰れている。帰りに同じ角度で使えば、今度は抜ける可能性がある。

「交換する」

 轟が言う。

「六ミリのピン、二本あるんだよね」

 タマキが工具袋を叩く。

「ある」

 轟は答え、すぐ自分の言葉を直した。

「入れたはずだ。弁室で二人で確認する」

「今、一本使う?」

「弁が先。黒ピンは帰路まで持つ。ただし箱の荷重を半分にする」

「帰りの箱は空」

 迅が言う。

「空でも外枠と冷却材がある。人が持つ。ピンへ全部を預けない」

 タマキは赤札へ追記した。

《黒ピン再使用不可/帰路は二人が外枠を持つ》

「帰りに忘れたら」

「ここで札を見る」

「札が流れたら」

 タマキは壁の古い塗装へ、黒糸と同じ形の小さな四角を描いた。

「目印二つ」

 七瀬が記録する。

 道具の疲労は、痛いと言わない。

 だから人間の方が、代わりに二度言う。

「壁側」

 轟が言う。

 全員が左へ寄る。

 その壁から、細い亀裂が天井へ伸びていた。

 迅が見上げる。

「この向こう、旧荷揚げ場だろ」

「そうだ」

「壁を抜けば、七段坂の下へ出る」

「抜かん」

「厚さは」

「煉瓦二枚と充填土。壊すのは三分」

「なら」

「帰りに天井が落ちる」

「支柱を入れる」

「材料がない」

「轟が立つ」

「俺は柱じゃない」

「似てる」

「帰りまで立てと言うのか」

「薬を置いたら戻る」

「水が増える。戻る頃、壁穴へ流れが集中する。充填土が抜ける。上の荷揚げ場が沈む。帰路だけじゃない。地上の道も落ちる」

「患者まで十数分短くなる」

「帰る道と、上で暮らす道が消える」

 迅の顎が固くなる。

 急ぐ人間に、壊すなと言うのは簡単だ。壊さない代わりを出さなければ、慎重さはただの門になる。

 轟は壁を叩いた。

「第一弁を閉める。水位を下げる。通常路で行く」

「何分」

「五分で直れば」

「直らなければ」

「その時、別を決める」

「今決めろ」

「壊れ方を見ずに、壊す場所は決めん」

 迅と轟は見合った。

 二人とも説明が苦手だ。

 説明が苦手な人間同士は、信頼があると黙れる。時間がないと、黙りが喧嘩になる。

 小麦が箱の持ち手を上げた。

「重い。二人とも口より手を使う。今は運ぶ方」

 迅が視線を外す。

「第一弁まで行く」

「それでいい」

「おまえが決めたみたいに言うな」

「俺が拒んだ。道は全員で決めた」

 第一弁室は、点検歩廊が円形に広がっていた。

 中央に直径一メートルの手動輪。赤錆で半分固着。輪の軸から水が噴いている。表示針は《閉》《半開》の間で止まっていた。

「割りピンが抜けてる」

 タマキが先に見つけた。

 軸と輪をつなぐ固定ピンがない。輪を回しても、軸へ力が伝わらない。

「交換部品」

 七瀬が訊く。

「工具袋に六ミリ二本」

 轟が答える。

 タマキが防水袋を開く。

「ない」

「赤い筒」

「空」

「昨日入れた」

「誰が確認した」

「俺」

「一人で数えた」

 タマキの言葉に、轟は口を閉じた。

 間違いが喧嘩ではなく、事故になった。

 後ろで水が跳ねた。

 追手が三人、水路へ入ってくる。苔色の紐。短い警棒。先頭は鉤付きの棒を持っている。

「その箱を止めろ!」

「水路内の医療搬送は未許可だ!」

「代替路は」

 迅が訊く。

「七段坂」

「そこまで行く途中だ」

「登録入口から入れ!」

「時間切れになる」

「それはおまえらの計画不足だ!」

 言い分は間違っていない部分がある。

 だから面倒だった。

 先頭の鉤が箱へ伸びる。

 轟は前へ出ようとした。

 タマキが工事ベストの裾を掴む。

「工具」

「迅が守る」

「迅、右腕ない。凱、膝。澪、耳。七瀬、肩。小麦、箱。轟が弁」

「おまえは」

「工具を守る」

「濡らすな」

「言われなくても」

 タマキは工具袋を胸へ抱え、弁輪の裏へ入った。

 迅が追手の鉤を左手で掴む。

 水の抵抗で足が遅い。普段なら半歩で外せる角度が、一歩必要になる。鉤を引かれる。固定材に包まれた右腕が身体へぶつかり、迅の息が止まる。

 凱が横から警棒を受けた。

 前腕で受けず、松葉杖の柄を差し込む。木が鳴る。左膝は伸ばしたまま、右肩で相手を壁へ押す。

「俺は通行を――」

 命令しかける。

「頼む。下がれ。ここで弁が壊れれば、そちらも戻れない」

「脅しか!」

「構造の説明だ」

 轟が言った。

 二人目が七瀬へ回る。

 七瀬は撮影機を左肩へ上げず、腰の三脚棒を抜いた。低い位置から相手の膝裏を払う。倒し切らない。水へ顔を入れさせず、壁へ手をつかせる。

「撮ってる場合か!」

 迅が言う。

「撮影機はタマキの袋です。今は棒です」

「物の役割が多いな」

「あなたより働きます」

 鉤が箱の外枠へ掛かった。

 小麦が鍋蓋を差し込む。金属同士が擦れ、鉤先が滑る。

「食べ物の前で棒を振るな!」

「薬だろ!」

「昼飯も入ってる!」

「何で!」

「終わったら食べる!」

 小麦は木べらで相手の手首を打った。神経の浅いところだけを狙う。握力が落ち、鉤が水へ沈む。

 澪は戦闘の中央へ入らない。

 右耳で方向を取りにくい今、自分が先頭へ出れば、見えない側から箱へ近づく者を数え落とす。

 左手を壁へ当て、足音の振動を読む。

「三人。前二、右管の陰一!」

 隠れていた四人目が管の上から飛び降りた。

 轟の背後。タマキの工具袋へ手を伸ばす。

 轟は振り向かない。

 振り向けば弁輪から離れる。

「タマキ、下」

 タマキは身を伏せた。

 轟の左足が後ろへ出る。

 鋼製安全靴の踵が、飛び降りた相手の足場を塞ぐ。男は轟の背へぶつかる。

 轟は柱間隔へ足を開き、受けた重さを床と弁台へ逃がした。

 男を投げない。

 壁へ押さえたまま、低く言う。

「そこ、持つな。先に床が泣く」

「離せ!」

「動くな。おまえの右足の下、蓋だ」

 男が足元を見る。

 錆びた点検蓋。縁が一センチ沈んでいる。

「落ちたら下の取水槽。深さ四メートル」

 男の抵抗が止まる。

 轟は相手の腕を掴んだまま、タマキへ言った。

「代わりのピン」

「六ミリじゃないと駄目?」

「五・八から六・二。硬度は鉄以上」

 タマキが周囲を見る。

 工具袋。

 弁台。

 箱。

 箱の四隅に、色糸のピン。

「外枠の留め具」

 タマキが言う。

「駄目だ」

 轟は即答した。

「一本外す。箱は三点で持つ」

「水路で衝撃を受ける」

「弁を閉めないと、もっと受ける」

「帰りに枠が緩む」

「帰りに別のピンを入れる」

「ない」

「弁の古い釘を削る」

「時間」

「今は?」

 七瀬が温度票を見る。

「八時十六分。内部三・八度」

 水位は膝上へ来ている。

 轟は箱の白糸ピンを見る。

 自分が付けた安全を、自分で外す。

 屋根では、外すことをタマキへ譲った。今度は、外したあとまで自分で引き受ける必要がある。

「白を抜け。箱は俺が持つ」

「一人で持たない」

「では、三点を三人で。俺は弁」

「了承」

 タマキが白糸ピンを抜く。

 一本足りなくなった外枠が、かすかに軋む。

 ピンを弁軸へ差す。

 長さが五ミリ足りない。

「止め輪が掛からない」

「木べら」

 小麦が一本投げる。

「食器を工具にするな」

「洗えば戻る」

「木は水で膨らむ」

「今はそれがいい」

 タマキは木べらの柄を短く折り、ピンの端へ楔として打ち込んだ。鍋蓋の縁を槌代わりにする。

 轟が弁輪を握る。

「全員、右へ荷重。輪が戻る」

 弁輪の下、軸封から細い蒸気が漏れた。

 工業用水へ混じった洗浄槽の温排水だ。外気より高い。錆びた軸が動けば、圧力の逃げ道が変わる。

「熱い」

 タマキが顔を引く。

「下がれ」

 轟は輪から手を離さなかった。

「手袋」

 小麦が叫ぶ。

「濡れてる。蒸す」

 濡れた手袋は、熱を閉じ込める。

 轟は外した。

 掌を裸の鉄へ置く。

 温度は、皮膚がすぐ離せと言う高さだった。

「布を巻く」

「滑る」

「火傷する」

「輪を戻せば、タマキの指が入る」

 弁輪は水圧で逆回転しようとしている。白糸ピンと木べらの楔が完全に噛むまで、誰かが止めなければならない。

 轟の掌から、焦げた革に似た匂いが上がった。

「三秒」

 澪が数える。

「二」

 タマキが楔を打つ。

「一」

「まだ!」

 轟の指が鉄を締める。

 人間は黙って壊れる。

 だから轟は、自分の手の音を言葉にした。

「熱傷。両掌。握力、まだある。楔後に離す」

「まだある、は計測じゃない」

 七瀬が言う。

「指、五本ずつ動く」

 轟は親指から順にわずかに動かした。

「あと一回!」

 タマキが鍋蓋の縁を振り下ろす。

 木べらが食い込む。

「離せ!」

 轟は輪を放した。

 皮膚の一部が鉄へ貼りつき、遅れて剥がれた。

 痛みは、離したあとに来た。

 轟は声を出さず、両手を水へ入れようとする。

「流れ水は汚染」

 小麦が止め、飲料用の水筒を開ける。

「冷やす。二十秒ずつ交代。塗るのは外へ出てから」

「弁が先」

「手を残すのも弁の作業」

 轟は歯を食いしばり、水を掌へ受けた。

「二十秒」

 タマキが数えた。

 作業を続けるための治療は、休憩と同じく、作業の外ではなかった。

 迅、凱、七瀬が追手を押し返しながら位置を変える。小麦と澪が箱を三点で支える。

「タマキ、手を離せ」

「まだ楔が」

「輪が動く」

「あと一回」

「離せ」

 タマキの手が残る。

 轟は回せない。

 力を出せば、タマキの指を軸へ巻き込む。

「環玉樹」

 轟はフルネームで呼んだ。

 タマキが顔を上げる。

「俺は一人で持たん。おまえも一人で直すな。手を離せ」

 タマキは離した。

 轟が輪を回す。

 錆が割れる。

 一度目、動かない。

 二度目、軸が三度だけ震える。

 三度目。

 白糸ピンが噛み、弁軸が回った。

 水路全体で、低い唸りが変わる。

 上流の水が別管へ逃げる。足へ当たる流れが弱まり、水位が一センチ、二センチと下がる。

「閉じた!」

 タマキが言う。