第20話 第八章「地下水路」後編
「半閉だ」
「細かい」
「全部閉めると下流が逆流する」
「正しい細かさ」
追手の先頭が、落ちた鉤を拾おうとする。
澪が低笛を一度鳴らした。
右耳へ負担の少ない音域。水路の煉瓦を通り、腹へ響く。
全員が一瞬止まる。
「水位下降。退路は開く。追うなら、帰りも同じ弁を通る。箱を止めれば、あなたたちも八時半の放流へ残る」
「脅してる」
男が言う。
「条件を言った。選ぶのはあなた」
男は水位と弁を見た。
仲間の一人は点検蓋の上で動けない。別の一人は手首を押さえている。誰も失神していない。負けたというより、目的が割に合わなくなった顔だった。
「七段坂で止める」
男は言った。
「代替路になってない」
迅が返す。
追手は引いた。
轟たちは進む。
水位は下がったが、時間は戻らない。
進む前に、轟は弁室へ残る物を数えた。
白糸ピン一本。
折れた木べらの柄。
赤い工具筒。
追手が落とした鉤棒。
「鉤は置く」
迅が言う。
「帰りに踏む」
轟は足で壁際へ寄せ、赤布を結んだ。
「拾わないの」
タマキが訊く。
「持ち主が戻る。道具は戦利品じゃない」
「敵の?」
「水路の障害物」
両掌へ、小麦が薄い油紙と清潔布を巻く。握れないほど厚くしない。代わりに指一本ずつの動きを確認する。
「箱は持たない」
小麦が言う。
「俺の役割」
「今は弁の構造を言う役」
「一人で持たせない」
「だから、箱は迅、凱、澪、私。タマキは工具。七瀬は温度。轟は先頭だけど、手は使わない」
「先頭は壁を叩く」
タマキが木槌を自分の腰へ移した。
「僕が叩く。轟が聞く」
轟は不満そうに壁を見る。
「二回。間を同じに」
「分かってる」
「一回目が強すぎる」
「まだ叩いてない」
「おまえは強い」
「褒めた?」
「安全情報」
タマキが壁を二度叩く。
轟は耳を寄せた。
「進める」
手を使えなくても、建物の声を聞くことはできた。
役目を渡すと、自分の仕事が消えるわけではない。
形が変わるだけだった。
第一弁室を出た時刻、八時二十六分。
予定より十九分遅れ。
温度三・九度。
旧配管路の南口まで、通常三分。そこから診療所へ最短十五分。箱を持って坂を上れば、もっとかかる。
南口までの最後の曲がりで、天井から煉瓦が一つ落ちた。
箱の一メートル前。
砕けた破片が水へ沈む。
「停止」
轟は両手を使わず、肩で全員を止めた。
タマキが壁を二度叩く。
返りは軽い。
「空洞」
轟が言う。
「上の充填土が水を吸った。中央を歩くな。左壁へ寄せる」
左の点検歩廊は、幅三十センチしかない。箱を水平に持つには、人が水路側へ身体を出す必要がある。
「外枠を外す」
迅が言う。
「白ピンがない」
タマキが答える。
「三本でも外せる。戻すのが難しい」
「走れなくなる」
轟は天井を見る。
「枠は外さない。右側を先に送り、壁へ二点当てる。人が水側」
「落ちたら」
七瀬が訊く。
「箱を壁へ残す。人は白索で戻す」
「誰が水側」
迅が言う。
「俺」
轟が一歩出る。
「手が使えない」
「肩と背で押す」
「帰りは?」
迅が問い返す。
轟は止まった。
自分を柱にする案は、帰りを持たない。
「二人ずつ交代」
澪が言う。
「最初、迅と凱。次、小麦と私。轟は声。タマキと七瀬は索。箱が中央を越えたら交代」
「負傷者ばかり」
七瀬が言う。
「無傷を待つ時間はない。負傷の向きが違う」
迅は右腕が使えない。凱は左膝を曲げられない。
だから迅を水側の左肩、凱を壁側の右肩へ置く。互いの壊れた側を外へ向けない。
「相性がいいな」
迅が言う。
「最悪だ」
凱が返す。
箱を十五センチずつ送る。
天井から砂が落ちる。
タマキの白索が迅の腰へつながる。七瀬は撮影機をしまい、凱の背へ補助索を回す。
「撮らないのか」
「両手が要ります」
「また空白」
「今は原本より箱」
「成長したな」
「あなたに評価されたくありません」
中央で箱が傾いた。
温度窓の側が水へ近づく。
「右、二センチ上」
轟の声。
凱が肩を上げる。左膝へ痛みが走り、息が止まる。
「止める?」
澪が訊く。
「進める。膝は荷重なし、筋肉」
「聞いた」
箱が空洞部を越える。
後半は小麦と澪が受けた。迅と凱は一歩ずつ退き、帰路の足場を確かめる。
全員が抜けたあと、轟は落下地点へ赤い炭線を引かせた。
《中央荷重禁止》
「戻るとき、暗くても触れる印が要る」
澪が言う。
タマキは壁へ三本の浅い刻みを入れた。許可なく構造を傷つけないよう、古い塗装面だけを削る。
目で線を見て、指で刻みを触る。
帰路は、急いだ往路のあとから付け足さない。
急いでいる最中に残す。
「八時五十四分まで二十八分」
七瀬が言う。
「間に合う」
迅が答える。
「走れば」
轟は箱の外枠を見る。白いピンがない。三点支持。走れば揺れる。
「走れん」
「枠を捨てる」
「帰りに箱が壊れる」
「薬を置いたら――」
「同じ話だ」
轟が言う。
迅が壁を殴りそうな顔をした。
右腕は使えない。左手は箱を持っている。
澪が赤札を取り出した。
「目的地を変更する」
全員が彼女を見る。
「診療所ではなく、七段坂北詰めの旧ポンプ台。患者側へ迎えを出してもらう」
「患者を動かすのか」
凱が訊く。
「患者は動かさない。診療所から看護師と住民が出る。薬と器具を受け取り、区間交代で運ぶ」
「計画にない」
「今、作る」
「連絡は」
右耳が聞こえにくい澪は、笛では遠距離の返答を確認できない。
彼女は水路の壁へ左掌を当てた。
「配管を使う。北詰めと診療所の旧呼出管はつながっている。轟、叩き方を決めて」
「一回、二回、三回。間を四秒。言葉は送れん」
「送るのは《迎えを出せ》と《中間点》と《時刻》」
「どうやって」
「今まで使っていないなら、決める」
澪は最初の命令を変えた。
到着先を変えることは、失敗を認めることではない。
変えた理由を残さないことが、失敗を隠す。
「八人。箱一。目的地、七段坂北詰め旧ポンプ台。患者側迎え要請。変更時刻八時二十九分。理由、水路遅延十九分。復唱」
「八人、箱一、北詰め、迎え、八二九、水路十九」
タマキが答えた。
轟は太い送水管を二度叩いた。
材質を聞くためではない。
今度は、向こうにいる人間へ知らせるためだった。