第17話 第七章「三つに分けた荷」前編
七月十五日 午前七時四十六分
盗まれたくない物を一つの箱へ入れるのは、盗む側への親切だ。
中央保冷庫の受渡室で、竜胆迅は銀色の保冷箱を三つに分けた。
正確には、箱の中身を三つへ分けた。
二十八分前、共同食堂では、全員が別々の朝食を食べていた。
別々なのは献立ではない。食べる位置だった。
迅は出入口が二つ見える席。凱は左膝を伸ばせる壁際。七瀬は撮影機を置く棚の前。澪は全員の口元が左側へ入る角。轟は柱へ背をつけ、タマキは窓辺、小麦は鍋の横。
同じ卓を囲まなかった。
襲撃を警戒したのではない。誰か一人が立てなくなったとき、その席へ誰が入るかを試すためだった。
「交代を言って」
小麦が粥をよそいながら命じた。
「何の」
迅が訊く。
「自分が途中で動けなくなったとき」
「動ける」
「答えになってない」
「轟」
「俺を人名で便利に使うな」
轟は塩パンを三口で食べ、少し考えた。
「箱なら俺。弁ならタマキ。担架なら澪」
「迅が倒れた場合を聞いてる」
「道の停止判断は、澪と凱が別々に出す。二人が違えば止まる」
迅の箸が止まった。
「俺の役目を二人に割るのか」
「一人へ移すと、そいつが迅になる」
タマキが言う。
「それは嫌」
「聞こえてる」
凱は自分の交代を答えるのに時間がかかった。
「器具は七瀬。交渉は……」
「交渉を役職にしないで」
七瀬が言う。
「相手ごとに違います」
「では、俺が倒れた場所で、その区間の責任者が話す」
「王様を区間へ分解」
迅が言った。
「おまえは交代を拒んだ」
「今、轟にされた」
「物理作業だけだ」
轟が訂正する。
七瀬の交代は、撮影機を止め、原本を封じ、時刻を二名で記録すること。澪の交代は、命令を引き継ぐのではなく、行程札の時刻で各組が判断すること。小麦の交代は、鍋蓋と勤務表を別の人へ渡すこと。タマキの交代は、工具袋を開ける暗号を全員へ教えることだった。
「暗号?」
迅が訊く。
「僕が倒れたら必要」
「最初から言え」
「盗まれたら困る」
「倒れたおまえから聞くのか」
タマキは不満そうに工具箱を開き、内蓋へ書かれた三つの問いを見せた。
《誰から》
《誰へ》
《何のため》
「これを順番に答えれば開ける」
「暗号じゃない」
「答えが違ったら開けない」
小麦は全員の交代を書き終え、自分の欄だけ空白にした。
タマキが鍋蓋を取る。
「小麦は僕」
「料理できないでしょ」
「配る。火は別の人。帳面は七瀬。休ませるのは全員」
「勝手」
「交代ってそういうもの」
小麦は少し考え、空欄へ書いた。
《配膳・タマキ。火・食堂当番。休憩判断・本人以外。》
それから全員へ、小さな包みを一つずつ渡した。
塩パン半分、干し梅、砂糖を絡めた豆。
「戦闘食?」
迅が訊く。
「朝食の続き。英雄は、食べたことをすぐ忘れるから」
「俺は覚えてる」
「昨日の昼、何食べた」
迅は黙った。
「空腹は、作戦の外から来る敵じゃない」
小麦は言った。
「最初から一緒に出る」
その包みは、三組すべてへ同じ重さで入れられた。
囮だけが空腹になる計画にはしなかった。
一つ目は、青い冷却材八枚と温度記録票。轟が外枠を戻した銀箱へ入れる。重い。冷たい。見た者が最も薬らしいと思う。
二つ目は、投与器具、医療管理印、患者側で照合する番号札。凱が白い布包みにして持つ。見た目は地味だが、これがなければ薬は患者へ使えない。
三つ目は、親指ほどの薬瓶。
小麦が、朝市の買い物籠へ入れた。
「偽物を一つ混ぜる案は?」
保冷庫の職員が訊いた。
「箱を三つにするなら、空の瓶をもう二本用意できます。追跡を分散しやすい」
「使わない」
澪が答えた。
「なぜ」
「奪った側が偽物を薬だと思えば、別の患者へ持ち込む可能性がある。空瓶でも、医療印が付けば使われる」
「印を付けなければ」
「それなら一目で偽物」
迅が言う。
「俺の箱だけ派手にして、俺を追わせる」
「同じ」
澪は首を振る。
「あなたを偽物にする。危険を一人へ置く」
「慣れてる」
「慣れは安全条件ではない」
七瀬が三枚の受領票を並べた。
「三組すべてへ、真に必要な物を持たせます。公開記録には、どの組が何を持つか書かない。ただし原本には、引渡時刻と担当者を残す」
「原本を奪われたら」
タマキが訊く。
「三枚を別々に持つ。私の一枚だけでは全体が分からない」
「記録も分けるの」
「一つの記録へ全部を入れるのは、盗む側への親切です」
迅は自分の言葉を返され、嫌そうな顔をした。
「俺の方が先に言った」
「言葉にも受領票が必要ですか」
「料金次第」
タマキが割り込む。
各組の封筒には、道具の名ではなく、失った場合に何が起きるかだけを書いた。
《青組欠落――温度維持不能》
《白組欠落――投与不能》
《黄組欠落――薬剤不在》
どれも囮ではない。
どれも一つでは役に立たない。
それは弱点を三倍にする方法でもあり、英雄を三分の一にする方法でもあった。
薬瓶は二重の相変化保冷筒に収まり、その外側を塩漬け大根、豆腐、青菜、干し海老が囲んでいる。籠からは医療の匂いではなく、今日の昼食の匂いがした。
「豆腐の上に薬を置かないで」
七瀬が言う。
「上じゃない。横。温度が一番安定する」
小麦は大根の袋を押し込んだ。
「患者へ使う物と食品を同じ籠に入れる衛生上の根拠は」
「薬は密封二重。食品は密封。籠は熱湯消毒。置き場所は布で分離。根拠四つ」
「記録します」
「顔は撮らない。籠も撮らない。記録票だけ」
「了承」
受渡室の時計が七時四十七分へ進む。
中央保冷庫の職員は、温度計を見たまま説明を繰り返した。
「封を切った時点から安全域四十七分。八度を越えた時間が累計二分で廃棄。落下衝撃は一回まで。投与前に番号を二名で照合。分けて運ぶのは規程外です」
「一つで運ぶと奪われる」
迅が答える。
「規程は奪取を想定していない」
「街は規程を読んでから殴らない」
「私は許可できません」
「許可を求めてない」
「迅」
七瀬の声が敬語になる前に、凱が割って入った。
「分離搬送の責任は俺たちが負う。保冷庫には、規程外であることと、職員が反対したことを記録してほしい。職員名の公開範囲は本人へ確認する」
職員が凱を見る。
以前なら、その顔を見ただけで「白王の命令」と受け取っただろう。
凱は続けた。
「命令ではない。あなたは引き渡しを拒否できる。拒否した場合、診療所へ理由と時刻を送る。俺たちは別の手段を探す」
「別の手段があるんですか」
「ない」
凱は即答した。
「だから拒否できない、と言っているのと同じでは」
「同じ圧力はある。消せない。せめて、俺が許可を上書きした形にはしない」
職員はしばらく温度計を見た。
「引き渡します。ただし、三組すべての受領署名をください。途中で一組でも失われたら、ここへ報告を」
「戻れたら報告する」
迅が言う。
澪が左側から迅を見る。
「戻る。条件として言い直して」
「戻って報告する」
「復唱済み」
澪の右耳は、薄い補助綿の下でまだ水の中にいるようだった。高い機械音が消え、低い冷却機の振動だけが床から伝わる。重要な器具はすべて左側へ寄せている。三本の笛の位置も、昨日までとは逆だった。
迅はその変化を見たが、何も言わなかった。
言わないことが気遣いになる場合と、見なかったことになる場合がある。
「聞こえるか」
迅は澪の左へ回って訊いた。
「今は」
「右は」
「聞こえない音がある。聞こえるふりはしない」
「そうか」
「それだけ?」
「何を足せばいい」
「足さなくていい」
「面倒だな」
「あなたより少し」
澪は三枚の行程札を机へ置いた。
青札――冷却材。迅、轟。
白札――器具と書類。凱、七瀬。
黄札――薬瓶。小麦、タマキ。
澪自身は固定班に入らない。三路の交点を移動し、遅れた組へ合流する。
「出発七時五十四分。合流、旧配管路北口八時七分。許容差二分。追跡を受けても、単独で予定を早めない。復唱」
「七五四、八〇七、差二」
タマキ。
「追跡時も単独先行なし」
七瀬。
「三組そろわなければ薬は使えん」
轟。
「遅れた組を待つ上限は」
凱が訊く。
「二分。以後、合流点を一つ下へ変更。赤札を掲示」
「変更を誰が決める」
「私。私が応答不能なら、各組が時計で決める。八時九分で移動」
「おまえの命令が届かなくても変えるのか」
「変える。記録する」
澪は小さな笛を握らなかった。
代わりに、赤札を三組へ一枚ずつ渡した。
迅は青札を左手で受け取る。
「囮は俺と箱でいい」
「冷却材は囮じゃない」
小麦が言った。
「薬が冷えなければ捨てる。箱を取られたら、私の籠にあるのは高い汁」
「器具も同じだ」
凱が白布包みを肩へ掛ける。
「俺たちを囮と言えば、危険を一組へ押しつけられる。三つとも本物だ」
「三つとも襲われる」
迅が言う。
「危険も三つにする」
澪の答えは短かった。
迅は反論しかけた。
自分が一番目立つ箱を持つ。追手を引く。残りは安全に行かせる。その方が慣れている。痛みの支払い先が自分一人なら、計算は速い。
けれど、それでは道が迅の身体にしか残らない。
「分かった」
迅は言った。
タマキが眉を上げる。
「今日は早い」
「時間がない」
「理由が残念」
七時五十四分。
三組は別々の扉から出た。
迅と轟は正面。
銀箱は目立つ。外枠が朝日を反射し、冷気が蓋の縁へ白く付く。保冷庫前には、すでに鷺沼側の見張りがいた。三本の警告帯ではなく、腕へ細い苔色の紐を巻いている。
「来たぞ!」
声が上がる。
迅は箱の左持ち手。轟が右。
「走るな」
轟が言う。
「追われてる」
「箱を揺らす」
「中は板だ」
「冷却材は割れる」
「おまえ、冷たい石にも優しいな」
「戻して使う」
二人は歩幅を合わせ、早足で市場へ入った。
追手は五人。
先頭が横路から回り、箱の前へ棒を差し出す。迅は止まらない。
「右、四十センチ」
轟が箱を右へ寄せる。
棒が左持ち手の空間を突く。
迅は左手を離し、箱の前面へ掌を当てた。轟一人が重さを受ける。箱が一瞬だけ縦に回り、棒を外枠の隙間へ咬ませる。
追手が引く。
轟が前へ押す。
棒を持った男は、自分の武器に引かれて横へよろめく。迅はその肩を左肘で押し、露店の果物台から離した。
「倒せるぞ」
轟が言う。
「倒すと列が止まる」
朝市は開店直後だ。魚箱、野菜籠、通学する子ども、夜勤帰り。戦う場所を選べないなら、戦い方を狭くするしかない。
二人は人の隙間を進む。
迅は追手の拳を受けず、歩幅だけを狂わせる。足首の前へ空箱の影を置く。肩を壁へ向けさせる。轟は箱を盾にしない。冷却材へ衝撃を入れないため、自分の背で受ける。
魚市場の中央で、氷水を流す溝が道を横切った。
幅は十五センチ。普段なら跨ぐ。三十三キロの箱を二人で持ち、後ろから追われている今は、片方が先に跨げば箱が傾く。
「同時」
轟が言う。
「合図」
「一、二――」
「長い」
「では今」
二人の足が同時に上がる。
追手の一人が、その瞬間だけ箱の重さが浮くと読んで横から肩を入れた。
迅は箱を離さない。
相手へぶつかるのではなく、左の持ち手を自分の腰へ引きつける。箱がわずかに回転し、外枠の角が追手の胸ではなく、腕の内側へ当たる。
轟は反対側を下げた。
追手の力が箱を倒す方向から、持ち上げる方向へ変わる。
「手伝い、助かる」
迅が言う。
「ふざけるな!」
男は箱を放す。重さが戻る。
二人は溝を越えた。
次に魚箱を積んだ手押し車が前を塞ぐ。店主が動かそうとするが、車輪が排水溝へ噛んでいる。
「右から抜ける」
迅が言う。
「右は日向。温度が上がる」
「二秒だ」
「二秒を七回で十四」
「今日は七に厳しいな」
轟は箱を地面へ置かず、片膝を曲げて高さを下げた。
「店主。車輪を上げる。引くな」
「重いぞ」
「知ってる」
迅が左足を車輪の前へ入れ、靴底で溝の縁を塞ぐ。轟は右肩で荷台を持ち上げる。店主が押す。
車輪が一度跳ね、果物箱へ当たりそうになる。
追手が背後から迫る。
迅は車輪を直したまま、振り返らない。
「箱を守るなら、これをどけろ!」
追手へ叫ぶ。
「なぜ俺が!」
「道がない!」
最前の男は一瞬迷った。
自分たちも通れない。
二人目が荷台へ手を掛ける。敵味方の区別より、狭い市場の物理が先に人を並べる。
手押し車が溝を越えた。
迅と轟は銀箱を持ち直し、先へ進む。
追手も続く。
協力したからといって争いが終わるわけではない。
同じ道を使う人間は、ときどき一秒だけ味方になる。
「おまえが盾になってる」
「箱より丈夫だ」
「比較対象が悪い」
「俺の仕事だ」
七時五十八分。
西の階段では、凱と七瀬が白布包みを運んでいた。
迅からは見えない。
だが、二つ先の屋根に白い外套が一瞬現れ、すぐ消える。凱は松葉杖なのに、下りでは妙に速い。膝を曲げず、右脚と杖で身体を落とすように進む。
西の階段には、白冠時代の伝令が三人待っていた。
凱を見つけると、一人が白布包みへ手を伸ばす。
「お持ちします」
「何が入っているか知っているか」
「医療品です」
「それでは足りない」
凱は包みを渡さなかった。
「投与器具と管理印。落とせば薬があっても使えない。患者名は知らなくていい。持つなら、ここから旧配管路北口まで。戻りは別の荷を持つ可能性がある」
「承知しました。命令を」
「命令しない。持てるか」
伝令は凱の左膝を見た。
「あなたよりは」
「比較ではなく、自分の条件を言え」
「右肩に古傷。階段下りは問題なし。上りで痛む。八時半から給水所勤務」
「帰路へ入れない」
七瀬が言った。
「往路だけ交代するなら、引渡位置と時刻を記録します」
伝令は一度、仲間を見た。
命令を待つ目だった。
凱は待った。
伝令自身が言う。
「旧青果倉庫まで持ちます。そこから返します。給水所へ遅れません」
「助かる」
白布包みが渡る。
七瀬は顔ではなく、右肩へ巻かれた古い固定帯と、引渡札を撮った。
旧青果倉庫までの階段には、朝の水汲みを終えた住民が上ってきた。
水瓶を天秤棒で担ぐ女が二人。細い階段へ、白布包みと同時には入れない。
「搬送優先で空けろ」
伝令の一人が反射的に言った。
女たちの足が止まる。
凱の胸で、割れた鐘が揺れた。
「待ってくれ」
伝令へ言う。
「今のは誰の判断だ」
「医療品です。急ぐでしょう」
「水も急ぐ」
水瓶の女が答えた。
「給水所は九時に閉まる。戻らないと次の人が汲めない」
伝令は白布包みを見た。何が入っているか知ったせいで、それ以外が急がない物に見えている。
「どちらが先です」
彼は凱へ訊いた。
王なら、三秒で決める。
凱は階段を見た。途中に踊り場が一つ。水瓶側は上り。白布側は下り。包みは一人で持てる。水瓶は止めると肩へ食い込む。
「俺たちが踊り場まで戻る」
「予定より遅れます」
七瀬が言う。
「二十四秒」
「測ったのか」
「今」
凱は伝令へ向いた。
「戻ってもらえるか。包みは水平。水瓶が通るまで壁側で待つ」
「命令では」
「理由を聞いた上で、頼んでいる。拒むなら、俺が持つ」
「膝で?」
「だから頼んでいる」
伝令は一度、白布包みを持ち直した。
「戻ります」
四人が踊り場へ下がる。
水瓶の女たちが上る。すれ違う時、一人が凱の割れた鐘を見た。
「前は、あれ一回で道を空けさせたね」
「そうだ」
「今日は鳴らさないの」
「鳴らせば早い」
「じゃあ、どうして」
「早いことしか残らないからだ」
女は鼻で笑った。
「水は、早く運んでも瓶を割ったら飲めないよ」
名言にしては生活臭が強い。
その方が、凱には覚えやすかった。
次の階段で、見物人が七瀬を囲んだ。
「本物はどれだ」
「その包みが薬か」
「一分、何を隠した」
七瀬は歩みを止めない。
「現在、搬送中です。質問は記録します。回答は終了後」
「逃げるのか」
「歩いています」
「撮れよ!」
「現在は足元のみ撮影中です」
「俺たちを隠すのか」
「あなたの顔を、許可なく搬送争いの当事者へしません」
その答えに、群衆の速度が一瞬落ちた。
凱は包みを持っていない分、速く歩ける。
速く歩こうとした。
伝令の引渡位置を越えそうになる。
「凱」
七瀬が呼ぶ。
「時間は」
「予定より一分早い」
「なら問題ない」
「早着は、合流点を晒す時間が増えます」
凱は石段の近道を見た。
その先に、迅の銀箱が市場を抜ける姿が一瞬見える。
勝てる。
何に勝つのかは分からない。
赤い布が屋根で三度振られた。
凱は近道へ向けた松葉杖を、予定線へ戻した。
迅の中で、理由のない競争心が起きた。
あいつより先に交点へ着く。
同じ頃、凱も同じことを考えたに違いない。白い外套が、予定路ではなく短い石段へ向きを変えた。