第16話 第六章「撮らない一分」後編
説明は、それだけにした。
言い訳を入れれば、空白が小さく見える。
小さく見せた空白は、あとで穴になる。
公開後、批判はすぐに届いた。
《都合の悪い一分》
《全部撮るんじゃなかったのか》
《英雄の隠蔽》
《負傷者を見捨てた時間》
七瀬は一つずつ保存した。反論はしない。
反論しないことは、無視することではない。
七瀬は批判を四つの箱へ分けた。
《空白そのものへの異議》
《患者情報を求めるもの》
《負傷者救助を疑うもの》
《罵倒》
罵倒も捨てない。罵倒の中に事実がないとは限らないし、事実がない罵倒でも、誰が危険を感じたかは残る。
ただし、患者名を推測した投稿は公開一覧から外した。原本は封じ、診療所の立会いなしには閲覧できないよう別箱へ入れる。
「消したって言われる」
タマキが言う。
「一般公開から外す。存在と件数は出す」
「名前を隠して、名前を求めた人の数だけ出す?」
「そうです」
「気味悪い数字」
「だから必要です」
七瀬は公開注記へ書いた。
《患者を特定し得る投稿二十七件を非表示。原本保全。判断者・火群七瀬。》
自分の名前を最後へ置く。
空白には、誰かの責任が要る。
名前を入れない空白は、見る者が好きな悪人を住まわせる。
四時四十六分、旧染色工場東棟へ向かった若者から連絡が来た。
負傷者はいた。
偽搬送班の一人。十六歳。右足首の脱臼と頭部裂傷。仲間は映像公開後、箱と白布を残して逃げた。本人は「薬を運んでいるふりをすれば金をもらえる」と説明した。依頼者の名は知らない。
救難員二人が処置し、診療所へ運んだ。
薬の経路は露見しなかった。
両方とも事実だった。
七瀬たちは診療所へ向かった。
負傷した少年は処置室の簡易寝台にいた。右足首は整復され、額には六針。白布は外され、椅子の背へ掛けられている。
撮影機を見た瞬間、少年は顔を壁へ向けた。
「撮るな」
「回していません」
七瀬は両手を見せる。撮影機はタマキが入口で持っている。
「確認したいことがあります。記録方法を選べます。映像、音声、筆記、記録なし」
「記録なしなら話さなくていい?」
「話さなくていいこととは別です。治療に必要な経緯は医療者へ。私への説明は拒否できます」
少年はしばらく白い壁を見た。
「筆記。名前なし」
「了承」
七瀬は帳面だけを出した。
仕事は、駅裏の掲示板で見つけたという。
《映像出演。危険なし。衣装支給。二時間二千円。》
指定された倉庫へ行くと、白布と箱と服が用意されていた。指示役は顔を隠していない。ただ、初対面で、名前を名乗らなかった。
「どうして受けたんです」
「金」
「何に使う予定でしたか」
「それ、必要?」
七瀬はペンを止めた。
「依頼の動機を理解するために聞きました。ただし、公開しなくてもよい」
「家賃。俺じゃなく、姉の」
「公開範囲は」
「金ってところまで。姉は書くな」
「了承」
撮影は、屋根で箱を持って走り、倒れ、薬を奪われたと叫ぶだけの予定だった。
「足はどうした」
迅が入口から訊いた。
「迅、筆記の同席許可を取っていません」
「聞こえた」
「聞こえることと、入ってよいことは違います」
少年が壁を向いたまま言った。
「別にいい」
「では同席者として記録します」
「面倒だな」
「俺より面倒だぞ」
迅が言う。
「自慢?」
「警告」
少年は、走っている途中に滑った。箱の中には古い布しか入っていなかったが、足を捻った瞬間、仲間は撮影を続けた。
「血が出たから、本物っぽいって」
「誰が言った」
「一緒にいた奴。あいつも仕事で来ただけ」
「依頼者は」
「先に消えた。金は半分だけ」
「残りを取りに行く?」
「足がこれ」
「治ったら」
少年は答えない。
迅は右腕の固定材を見せた。
「治ると、馬鹿な仕事ができると思うだろ」
「慰めが下手」
「慰めてない」
「じゃあ何」
「俺も金で殴る仕事をしたことがある」
七瀬のペンが一瞬止まる。
あの地下格闘場へ来る以前にも、迅がどこで何をしていたか、七瀬は全部を知らない。今ここで聞けば、少年の証言より迅の過去が前へ出る。
聞かなかった。
「だから?」
少年が言う。
「金で選んだ仕事でも、怪我まで他人の責任にはならない。けど、怪我した瞬間に置いていく奴の正しさまで背負う必要はない」
「名言みたい」
「失敗した」
「事実は、たまに格好をつけるんだろ」
少年は偽映像を見ていたらしい。
迅は嫌そうな顔をした。
「七瀬、そこは広めるな」
「既に広まっています」
七瀬は少年へ訊いた。
「あなたが倒れた映像を、負傷が本物だった証拠として使用してよいですか。顔、声、衣装、傷のどこまで出すか選べます」
「傷だけ」
「血の付いた屋根と、足首の影まで?」
「顔なし。声なし。金の話は筆記」
「名前は」
「なし」
「了承」
白布については、少年が自分で処分すると言った。
小麦が入口から鍋蓋を差し出す。
「布は洗って返す。血が付いてる」
「誰に」
「貸した人がいるなら。その人が分からないなら、布として使える状態へ戻して共同箱」
「証拠じゃないの」
「七瀬が必要な部分を切り分けてから」
七瀬は頷いた。
証拠も、ずっと証拠の役だけを続けるわけではない。
血の付いた白布は、必要な幅だけ保全され、残りは洗濯場へ送られた。
少年は、椅子の背に残った小さな白布片を見た。
「残りの金、取れると思う?」
七瀬はすぐに答えなかった。
「契約書は」
「掲示板の紙だけ。剥がされてる」
「撮った人は」
「いない」
「依頼場所は覚えていますか」
「倉庫。番地はない。青い戸」
「青い戸は多い」
「犬がいなかった」
タマキが言う。
「犬で探すの?」
「犬がいる場所を消すと減る」
「増える探し方だな」
迅が言った。
七瀬は少年の筆記記録へ、《未払い報酬・千円》と追加した。
「私が取り立てる権利はありません。ただ、仕事の掲示、衣装の布、倉庫の特徴、同行者の証言を別に保全できます。公開するかは、あなたが決める」
「警察みたい」
「違います。逮捕できない。返金も命じられない」
「じゃあ弱い」
「弱いです」
七瀬は認めた。
「でも、何もなかったことにされるより、一枚多く残せます」
少年は包帯の下で目を細めた。
「姉には言わない?」
「医療費の支払いで必要なら、あなたと医療者が決めます。私からは言いません」
「じゃあ残す。公開はしない。金を取りに行く時だけ使う」
「保管期限は」
「足が治るまで」
「治療予定は四週間。余裕を見て六週間」
「細かい」
「期限のない証拠は、持つ人の権限になります」
少年は六週間へ丸を付けた。
偽物の役をした少年にも、映像の外で払われるはずだった家賃がある。
物語へ使われた人間の生活は、物語が終わったふりをしても請求書を送り続ける。
少年の物語は、偽物として使われた一日で終わらない。
ただし、その続きまで七瀬が撮る権利はなかった。
「勝った?」
タマキが訊く。
七瀬は撮影機の時刻窓を見る。
空白の一分は、針が飛んだように残っている。
「負傷者は助かる可能性が高い。経路は守られた。私の記録には一分ない」
「三つ答えた」
「勝敗を一つにすると、残りが消える」
迅が壁にもたれた。
「名言みたいに言うな」
「事実です」
「事実は、たまに格好をつける」
「あなたより似合います」
七瀬は笑いかけ、クランクを半回転だけ逆へ戻した。
画面には白い壁が続いている。
その中央で、時刻だけが一分、前へ跳んでいた。