第496話 第六章「歩幅札」後編

「私が暫定署名し、朝本人へ十五分以内に確認します。拒否された場合は、その時点から新規記録を止め、既存記録を本人へ返す」

「権限は」

「ない範囲があります」

「ある範囲は」

「法務連絡と記録保全」

「十分ではない」

「十分でないことを書きます」

 真琴は右手で署名した。

 左利きなのに、公式文書だけは右。

 筆圧が強い。

「あなたたちは、足りない権限で何でもしますね」

 係員。

 真琴は眼鏡を押し上げた。

「足りない権限で人を歩かせた文書へ、私も過去に似た署名をしました。だから、足りないまま止める責任も引き受けます」

「反省すれば権限が増える?」

「増えません。監査対象が増えます」

「それで現場が動く?」

「今、あなたが話している間にも札は作られています」

 係員は、回廊を見る。

 柏木秋枝が布の停止札を縫う。

 中尾が紙を切る。

 馬瀬鈴が、声を張らずに一人へ一枚ずつ訊く。

 紙屋セツが、保留の結び目を教える。

 資格のない手が、制度より先に働いている。

「記録用の机を出します」

 係員が言った。

「固定しないで」

 タマキ。

「なぜ」

「机がある場所を、正しい選択場所だと思うから」

「では」

「移動机。車輪止めは、本人が記録する時だけ」

「細かい」

「車輪は勝手に動く」

「人も」

「だから細かい」

 机が三台、回廊へ入る。

 歩幅札は命令票にならないよう、表へ名前を書かない。

 名前や呼称は、本人が望めば別紙へ。

 七瀬の撮影機は、札を持つ手と足だけを映す。

「大札が多い人を撮る?」

 補助員が訊く。

「多い、を見せない」

「全体傾向は」

「文章で。映像は、一人が替えるところ」

「小から停止へ?」

「停止から大へ戻るところも」

「失敗に見えませんか」

「変更を失敗と呼ばないために撮る」

 七瀬は、チカの足元を見つけた。

 右足は靴下のまま。

 左は黄色い靴。

 右の靴は、まだ見つからない。

 チカは停止札を持っていない。

「札、いる?」

 タマキが訊く。

「いらない」

「理由、訊いていい?」

「止まるって書くと、止まらなきゃいけない」

「途中で替えられる」

「でも見た人は、止まる子って思う」

「札なしは、進む同意じゃない」

「知ってる」

「歩く?」

「右の靴を探す」

「今?」

「人が止まったらって言われた。止まった人が増えた」

「全部ではない」

「全部じゃなくても、見えるところ」

 タマキは朝が言った約束を知らない。

 それでも、チカの言い方から範囲を理解する。

「誰と探す」

「七瀬」

 七瀬が言う。

「私は撮影機を離れられない」

「迅」

「橋」

「朝」

「事故」

「大人、忙しいね」

「子どもも」

「私、一人で探す」

「それは止める」

「命令?」

 タマキは言葉を選ぶ。

「右足が靴下。床に金属片。目線が下がると、後ろの圧に気づきにくい。私は勧めない」

「じゃあ、誰」

「私」

「仕事は」

「配達」

「私の靴、配達物?」

「落とし物。受取人はチカ。目的、履くか返すか本人が決める」

「料金」

「一問、銅貨一枚と相殺」

「私が得する」

「質問はまだ二つある」

「高い」

「答えない大人より安い」

 チカは笑った。

 二人は事故中心へ戻る。

 足元だけを見ると危険だから、交互に見る。

 タマキが床。

 チカが前。

「前、二人」

「床、鍵一つ。違う」

「左、荷車」

「右、靴。黒」

「違う」

「黄色、見えない」

「止まる?」

「止まらない。ゆっくり」

「大中小なら」

「札にしない」

「受領」

 事故の溝に、青い糸が見えた。

 黄色い踵。

 靴は振動板と石床の隙間へ挟まっている。

 タマキは手を伸ばさない。

「見つけた」

「取って」

「板が動いてる」

「止められない?」

「私には」

「能力」

「宛先がない」

「靴の宛先は私」

「受取先が、今のチカの足。目的は履く?」

「履く」

「でも、封緘便は今日もう使った」

「一回だけ?」

「使えるかもしれない。でも使わない」

「なんで」

「一件で身体が傾いた。次に使って、あなたの前で倒れたら、靴より邪魔」

「能力あるのに」

「あるから使わない」

「迅みたい」

「似てない」

「どっちも頑固」

「それは似てるかも」

 タマキは轟へ連絡する。

 振動板の隙間。

 黄色い靴。

 板を止めずに取れるか。

《止める。三秒》

「区画全部?」

《その板だけ。隣へ警告》

「チカ本人が受取人。取るのは」

《俺ではなく、近い作業員》

「名前」

《梅野紺》

 梅野が来る。

「板、三秒止める。私が工具を入れる。チカ、靴を取る?」

「自分で?」

「手を入れるのは危険。私が取って、あなたへ渡す」

「開けない?」

「靴は開けない」

「中に何かあるかも」

「見ない」

「受領」

 板が止まる。

 梅野が薄い鉤を入れる。

 黄色い靴を引き出す。

 三秒。

 板がまた震える。

 靴は、チカへ返る。

 青い糸の一部が切れていた。

「履けない」

「直せる」

 柏木秋枝が言う。

 いつの間にか、後ろにいる。

「糸は」

「紫しかない」

「青がいい」

「青は切れた。紫なら、今ある」

 チカは考える。

「右だけ、また違う」

「左右を同じにする?」

「しない」

「じゃあ紫」

 秋枝は踵を縫う。

 右の黄色い靴。

 青い古い糸。

 紫の新しい糸。

 修理の跡が、二色になる。

「きれいじゃない」

 チカ。

「記録語じゃない」

 七瀬が遠くから言う。

「聞いてたの?」

「撮ってない。音だけ聞こえた」

「じゃあ、何て言う」

「直った。ただし、前と同じではない」

 秋枝が靴を返す。

 チカは右足へ履く。

 左右の高さは、やはり違う。

「歩幅札、いる?」

 タマキがもう一度訊く。

「いらない」

「今、どうする」

「少し歩く。止まりたくなったら止まる」

「札なしのまま?」

「札なしのまま」

「受領」

 チカは一歩出す。

 右の踵が、紫の糸で床を踏む。

 左は、その半分。

 歩幅札がなくても、歩幅はある。

 札は人を選ぶためではない。

 人が自分の選択を、他人へ一時的に伝えるためにある。

 伝えたくない人には、持たない権利がある。

 タマキは鉄箱の内蓋へ、もう一行足した。

《札は歩幅を決めない。札なしも有効》

 紙屋セツが、停止札を返しに来た。

「十分、過ぎた」

「十二分。遅れた。ごめん」

「謝ったね」

「必要だった」

「行先、決めた」

「どこ」

「列車へは行かない。西市場へ戻る」

「受ける人」

「自分の店。鍵は自分」

「同行は」

「いらない」

「道」

「普通に訊く」

「能力は」

「今日は使わない」

「それでいい」

 セツは停止札を返す。

 その札は、次の人へ渡される。

 選択は移る。

 人は移らないこともある。

 午後一時三十一分。

 タマキの鉄箱には、返ってきた札が十三枚。

 破れた札が四枚。

 切られた介助糸が二十一組。

 終わった介助を、失敗とは数えない。

 切れた糸は、次の紐へ再利用しない。

 終わった関係を、別の人へそのまま結び直さないためだった。