第497話 第七章「群衆の中の孤独」前編
三月二十日 午後二時二分
王をやめた男に、群衆は何を求めるか。
だいたい、王だった頃と同じことを求める。
少しだけ、責任を軽くして。
獅堂凱は、中央連絡駅の北階段へ立っていた。
左膝の装具。
黒い上衣。
王冠はない。
王冠がなくても、顔は同じだった。
人は顔へ役職を残す。
「凱様!」
階段下から声。
「止めてください!」
「列車を出してください!」
「先に子どもを!」
「歩ける者を先に!」
「全員へ命令を!」
最後の言葉が、一番大きかった。
凱は答えない。
駅入口の階段は、二十二段。
中央に手すり。
右側の昇降板は、車椅子の前輪が溝へ落ちて停止している。
B区画百四十八人のうち、駅構内へ入った者四十二。
階段上五十一。
広場側五十五。
数字は真琴が渡した。
凱は数字を覚えた。
しかし、声へ返す時は一人ずつにした。
「あなた」
最前列の女性を指す。
「何を止めたい」
「全部です!」
「全部とは」
「床の光、音、列車、後ろの人!」
「後ろの人は止められない」
「あなたなら」
「できない」
女性の顔が変わる。
「王でしょう」
「やめた」
「でも、あなたが言えば」
「従う人がいる」
「なら言って!」
「従わない人もいる。従えない人もいる。聞こえない人もいる。私が全員と言えば、その人たちが命令違反になる」
「今は理屈を」
「今だから、理屈を省かない」
「人が倒れてる!」
「分かっている」
「じゃあ早く!」
「あなたは今、どこへ行きたい」
「……上」
「駅構内?」
「娘が中にいる」
「名前を言える?」
「非公開にしてる」
「では、特徴」
「右手に緑の布」
「構内の受領台へ照会する。あなたは階段を上がる?」
「上がる」
「左膝は」
「悪い」
「手すりを使う?」
「使う」
「介助は」
「いらない」
「途中で変えられる」
「分かった」
「名前か呼称」
「相良ミイ」
「相良ミイ。駅構内、緑布の娘へ照会。本人は手すり使用、自力歩行を選択」
凱は記録係へ復唱する。
ミイが一段上がる。
後ろの人々が続こうとする。
「次は、まだ」
凱が言う。
声が通る。
人々の足が一瞬、止まる。
胸の奥で、古い感覚が反応しかけた。
証者の視線。
王路。
退かないという期待。
もう、以前の出力はない。
能力を失ったから安心なのではない。
声へ従う習慣は、能力より長く残る。
凱は言い直す。
「今の言葉は、全員への停止命令ではない。相良ミイの次に階段へ入る人を、まだ確認していない、という意味だ」
「長い!」
誰かが叫ぶ。
「短く言え!」
「短い命令が、今の事故を作った」
「お前が昔出した命令も短かっただろ!」
「そうだ」
凱は否定しない。
「だから、今日は長く言う」
階段の脇で、車椅子の女性が腕を上げた。
「私はいつ」
前輪が溝に落ち、斜めになっている。
本人の膝へ毛布。
後ろに介助者一人。
「先に前輪を外す」
凱。
「上へ行くかは、その後で訊く」
「今、上へ行きたい」
「前輪を外した後も同じか、再確認する」
「変わらない」
「変わるかもしれない」
「私を信用しない?」
「今のあなたを信用している。前輪を外した後のあなたの答えを、今の答えで縛らない」
女性は黙る。
「名前」
「野々村葉」
「介助者」
「牧田蓮」
凱は二人へ近づく。
左膝を深く曲げない。
右膝をつく。
車椅子の前輪は、振動板と階段縁の隙間へ落ちている。
力で上げれば、乗っている葉の身体が前へ投げ出される。
「身体を支える場所」
凱が訊く。
牧田。
「肩と腰」
「本人は」
「腰は触らないで」
葉。
「では、胸ベルトを使う?」
「使う。締める前に言って」
「前輪を上げる人」
「二人必要」
「私は右を持つ」
凱。
「左膝」
牧田が見る。
「右足で支える」
「無理を」
「範囲は自分で決める。痛みが増えれば止める」
「王様が介助?」
葉が言う。
「王ではない」
「じゃあ、何」
「獅堂凱」
「職業」
「今は、階段の右側を持つ人」
葉が笑う。
「長い肩書き」
「期限は一分」
凱は胸ベルトを締める前に告げる。
「触る」
「いい」
牧田が肩を支える。
凱と駅員が前輪を持つ。
「一斉に上げない」
凱が言う。
「右を先に一センチ。左は後」
「なぜ」
「溝が斜め」
「合図」
「私ではなく、葉さん」
葉が言う。
「右、今」
右輪が一センチ。
「止め」
左。
「今」
前輪が抜ける。
車椅子は水平へ戻る。
「上へ行く?」
凱が再び訊く。
葉は自分の身体を確かめる。
「……今は、下へ戻る」
群衆から、ざわめき。
「さっき上って言っただろ!」
男の声。
葉が振り向かない。
「前輪が斜めの時は、上しか考えられなかった。今は、下に休む場所が見える」
「変更を記録」
凱。
「野々村葉。駅構内希望から、広場休止点へ変更。介助者、牧田蓮。変更による搭乗順の不利益なし」
「本当に?」
葉。
「私が保証できるのは、今日の臨時運用だけだ」
「明日は」
「分からない」
「王様より頼りない」
「王様より正確だ」
葉は笑った。
「それは、少し信用できる」
二人が下へ戻る。
階段を上がる者と下がる者が混ざる。
整然ではない。
ぶつからないよう、中央手すりの左右を固定しない。
本人が近い側を選ぶ。
凱は一人ずつ、声をかける。
「上?」
「待つ」
「どこで」
「三段目」
「そこは通路。壁際の座板へ?」
「行く」
次。
「介助?」
「いらない」
「手すりは」
「使う」
次。
「名前は」
「言わない」
「呼ばれたい言葉」
「赤帽子」
「赤帽子。小歩幅。途中停止可」
次。
「どこへ」
「分からない」
「なら、決めない」
「決めないで、どこにいる」
「ここで止まるか、下の保留台」
「ここ」
「後ろが通れない」
「じゃあ下」
答えは、短くならない。
階段の上で、駅員が苛立つ。
「列車が遅れます!」
凱は顔を上げる。
「遅らせる」
「接続便が」
「誰の判断」
「管制です」
「名前」
「部署決定」
「名前を確認して」
「今は移動が」
「列車を遅らせる責任者が不明なら、移動を急がせる根拠も不明だ」
「あなたが決めてください!」
「決めない」
「元王として!」
「元王だから、決めない」
群衆の何人かが、凱を見る。
期待。
苛立ち。
失望。
王をやめた後も、決めてほしい人は残る。
決めてほしいという願いは、悪ではない。
疲れている時、人は誰かへ決めてほしい。
問題は、決める人が、その疲労を自分への委任と呼ぶことだ。
「凱」
迅が階段下へ来た。
右手を上衣へ入れたまま。
手首の赤い紐は、結び目が崩れている。
「橋は」
「一人ずつ。俺は数えない」
「事故か」
「努力」
「顔が事故だ」
「お前に言われたくない」
凱は階段を見上げる。
「全員へ言いたくなる」
「何を」
「止まれ。私が責任を取る、と」
「言えば止まる?」
「何人かは」
「止まれない奴は」
「命令違反になる」
「じゃあ言うな」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「お前は、言わなくて済む」
「殴らなくて済まない時もある」
「今日は殴っていない」
「だから、俺も機嫌が悪い」
凱は笑いかけ、膝の痛みで眉を寄せた。
「座れ」
迅。
「今は」
「お前が倒れると、みんな座る」
「それは困る」
「だから、端で」
「交代は」
「俺」
「お前は説明が短い」
「真琴を置く」
「長すぎる」
「足して二で割れ」
「人間は平均すると消える」
「じゃあ別々に」
迅は階段前へ立つ。
凱は右側の座板へ移る。
左膝装具を緩める。
座った瞬間、群衆の三人が座ろうとした。
凱は手を上げない。
「私は左膝のために座った。あなたたちは、自分で決めて」
一人は座る。
一人は立つ。
一人は壁へ寄る。
迅が最前列へ言う。
「次、どうしたい」
「上」
「手すり」
「使わない」
「名前」
「……凱様に言った」
「俺へも」
「なぜ」
「引継ぎ」
「同じことを二回?」
「二人が同じ人じゃない」
凱が座ったまま言う。
「面倒でしょう」
「面倒です」
本人が答える。
「人は面倒です」
タマキの声が背後から来た。
「それ、今日三人目」
迅。
「誰が最初」
「分からない」
「記録しない?」
「しない」
タマキは鉄箱を置き、凱の左膝を見る。
「痛み」
「三」
「歩行」
「できる」
「介助」
「今はいらない」
「停止札」
「持つ」
凱は停止札を受け取った。
中央に穴。
紫の布で補強されている。
「王が停止札?」
群衆の誰かが言う。
凱は札を膝へ置いた。
「獅堂凱が、左膝のために停止を選んだ」
「王なら立て!」
「王をやめた」
「逃げるのか!」
声の主は、階段中ほどの少年だった。
「逃げる時もある」
凱。
「今は、座っている」
「同じだ!」
「違う。逃げるなら、ここにはいない」
「俺たちを置いて」
「置かない。ただし、全員を連れていくとも言わない」
「役に立たない!」
「そうかもしれない」
凱は怒らない。
役に立つことを証明するために命令してきた時代がある。
「名前を言える?」
「言わない」
「何と呼ぶ」
「置いていかれる奴」
「それは、あなたの名前ではない」
「今の俺だ」
「では、今だけそう呼ぶ。置いていかれる奴。どこへ行きたい」
「分からない」
「何が怖い」
「違うと、置いていかれる」
階段が静かになる。
チカが、下から上がってきた。
左右で高さの違う黄色い靴。
右踵は青と紫の糸。
「私も」
チカが言う。
「同じにしないと、置いていかれると思った」
少年がチカを見る。
「置いていかれた?」
「転んだ」
「それだけ?」
「鍵なくした。見つけた。靴も」
「大したことない」
「胸、まだ痛い」
「じゃあ、なんで歩く」
「鍵屋へ行く」
「列車は」
「乗らない」
「みんな乗るのに」
「みんな、じゃない」
チカは階段脇へ座る。
「止まる?」
タマキが訊く。
「今は座る。札はいらない」
「受領」
少年は凱へ言う。
「王をやめたら、置いていかれた?」
「何から」
「みんなから」
凱は考える。
「王だった時も、群衆の中では一人だった」
「かっこつけてる」
「そう聞こえる?」
「聞こえる」
「では、言い直す。全員に同じ命令を出すと、全員が見えなくなる。だから、一人になった」
「王をやめたら」
「一人ずつ見えるようになった。時間がかかる」
「面倒」
「今日、四人目だ」
迅が言う。
「数えた」
チカ。
迅が顔をしかめる。
「今のは、いい」
「なんで」
「人数じゃなく、台詞」
「言い訳」
「そうかも」
少年が一段下りた。
「下へ行く」
凱。
「どこまで」
「分からない」
「誰と」
「一人」
「介助は」
「いらない」
「途中で変えられる」
「うん」
「呼称」
「今は、置いていかれる奴じゃない」
「では」
「言わない」
「受領」
少年は階段を下りる。
途中で止まり、壁へ寄る。
誰かに追いつくためではない。
誰かから逃げるためでもない。
自分で止まる。
凱は、その姿を見送った。
「お前も止まれ」
迅。
「停止札を持っている」
「口が動いてる」
「口は左膝ではない」
「休むのが下手」
「王だったから」
「言い訳」
「そうだ」
凱は初めて、少し笑った。
停止札を指で回す。
「迅。私も、数えていた」
「何を」
「従った人数」
「今は」
「答えた人の名前」
「俺は名前を覚えるの苦手」
「だから訊くたびに言ってもらえ」
「面倒」
「今日、五人目だ」
「お前も数えてる」
「台詞だからいい」
凱は、迅の言い訳を返した。
階段の靴音は、もう同じではない。
上がる音。
下りる音。
止まる音。
装具の金属。
車輪。
その中に、王の足音はなかった。
獅堂凱の、左膝をかばう不均等な二歩だけがあった。
午後二時四十六分。
王環から来た旧警護班が、駅北口へ到着した。
五人。
黒い外套。
左胸には、外した徽章の縫い跡。
先頭の男は、凱の前で片膝をつきかけた。
「やめろ」
凱が言う。
男の膝が途中で止まる。
後ろの四人も、同じ角度で止まる。
それだけで、人々の視線が集まった。
「全員、立て、ではない」
凱は言い直す。
「自分で姿勢を選べ。私は、礼を求めない」
先頭の男は立つ。
二人は立つ。
一人は膝をつく。
最後の一人は、壁へ寄った。
「名を」
「葛城周」
「葛城。何のために来た」
「混乱鎮圧」
「誰の命令」
「旧警護班の合議」
「名前」
葛城は四人の名を言う。
「鎮圧とは」
「列の整理。反抗者の排除。王路の確保」
「王路はない」
「あなたがいます」
「私が道ではない」
「皆が、あなたの命令を待っています」
「待っている人がいる」
「同じことです」
「違う。待っていない人もいる」
「少数のために、全体を」
「全体という言葉で、少数を消すな」
葛城の目が揺れる。
「王をやめても、あなたは同じ話し方をする」
「声は急に変わらない」
「なら、使ってください」
「何を」
「列へ、止まれと」
「止まれない者が命令違反になる」
「違反者を我々が支える」
「排除ではなく?」
「必要なら」
「それを鎮圧と呼んだ」
葛城は答えない。
凱は、五人の外套を見る。
王だった頃、彼らは凱の一歩後ろを、同じ歩幅で歩いた。
護衛の訓練。
同時に身を投げる。
同時に盾を上げる。
今日、その技術は事故を大きくし得る。
「葛城。五人で別々の仕事を選べ」
「命令ですか」
「提案」
「我々は一隊です」
「一隊のまま、違う位置へ行ける」
「命令系統が」
「今の命令系統は、駅、救護、記録、通路で別」
「あなたの下へまとめる」
「しない」
「なぜ」
「王位を終えたからではない。今日、それが人を倒すから」
「今日だけ?」
「明日のことを、今日の事故で永久に決めない」
「では、明日また王へ」
「戻らない」
「今、永久に決めた」
葛城の反論は正しい。
凱は少し黙る。
「王位へ戻らないことは、自分の職を決める話。今日の移動制度を永久に決める話とは違う」
「都合がいい」
「そうかもしれない。審理へ出す」
「何でも審理」
「何でも命令よりは」
真琴が横へ来る。
「その比較は、法的には成立しません」
「また長い?」
凱。
「短くします。元王の個人選択と、公的制度の継続は、決定主体が違う」
「それなら分かる」
葛城。
「凱様の王位は、公的制度では」
「終了手続きが済んでいます。本人の意志だけで戻れません」
「では、我々は」
「自分の雇用と仕事を選ぶ」
五人は顔を見合わせる。
先頭の葛城が言う。
「一人ずつ、名前を聞くのですか」
「必要なら」
凱。
「我々は全員、旧警護班です」
「それは所属。今の仕事ではない」
五人へ訊く。
一人目。
「重い物を運べる」
「どの程度」
「三十キロ。ただし右手首に古傷」
「救護物資。二十キロまで。頭上なし」
二人目。
「人混みの端を作れる」
「触れる?」
「前腕。胸は避ける」
「D区画、鈴の荷車横」
三人目。
「声が通る」
「今日は大声が同期になる」
「では、近い人へ説明」
「B階段。二人ずつ」
四人目。
「地図」
「どの範囲」
「王環と中央」
「駅宿舎の受取先確認」
五人目。
壁へ寄ったまま。
「何ができる」
「……今は、何もしたくない」
葛城が振り向く。
「秋月」
「命令ですか」
秋月と呼ばれた人が訊く。
葛城の口が閉じる。
「違う」
「では、休む」
凱が言う。
「停止札を」
「札もいらない」
「受領」
秋月は壁際へ座る。
旧警護班は、四つの仕事と一つの休止へ分かれた。
葛城が凱へ言う。
「これで、一隊ではない」
「一隊へ戻りたければ、仕事後に本人たちへ訊け」
「あなたが認める?」
「私の認可はいらない」
「本当に、王をやめた」
「遅い確認だ」
「あなたは、寂しくないのですか」
凱は答えようとして、階段の群衆を見る。
一人ずつ話す。
誰かが去る。
誰かが留まる。
「寂しい」
正直に言う。
「全員が私を見ていた時より?」
「全員が私だけを見ていた時は、寂しいことに気づかなかった」
「それを、我々へ言う」
「あなたが訊いた」
「王なら言わなかった」
「だから、今言った」
葛城は一礼する。
今度は片膝をつかない。
「救護物資へ行きます」
「重量」
「二十キロまで。右手首、頭上なし」
「受領」
葛城は仲間と同じ歩幅で行こうとし、途中で止まる。
四人は別の方向だ。
一人で歩き出す。
その背中を、凱は呼び戻さない。
真琴が隣へ座る。
「寂しい、と公開記録へ入れますか」
「なぜ」
「王位終了の感情記録」
「入れない。葛城との会話の範囲」
「本人同意」
「葛城へ訊く」
「今?」
「仕事後」
「忘れる」
「書いて」
「あなたが」
「私は説明中」
「命令?」
「依頼」
「断ったら」
「私が忘れる」