第495話 第六章「歩幅札」前編
三月二十日 午後零時十八分
配達物には、宛先がある。
人間にも宛先がある、と言うと、たいてい誰かが怒る。
怒るのは正しい。
人は荷物ではない。
ただし、救助の現場で「どこへ行きたいか」を訊かない人ほど、人を荷物のように運ぶ。
タマキは鉄の配達箱を床へ置いた。
中央行政回廊のD区画。
転倒波は止まっている。
人はまだ動いている。
箱の蓋を開く。
中には、歩幅の大中小、停止、介助の札が入っていた。
色だけでは分けない。大中小は形、停止は中央の穴、介助は途中で切れる二枚の紐で区別する。札を持たない人は未選択で、移動継続への同意にはしない。
最初に試した二人は、同じ工場から来た夫婦だった。どちらも中札を選んだが、夫は妻へ合わせたのではなく、自分の膝で決めた。二枚は結ばない。偶然同じ歩幅でも、片方を片方の介助者へしなかった。
次の男は、腕を取られるのを拒み、手すりまでの位置だけを教えてほしいと言った。タマキは介助札を出さず、手すりへ着いた時点で終わる案内札を作った。
「人を大中小へ入れるのか」
馬瀬鈴が言う。
「札は足の目安。人の大きさじゃない」
「途中で変えたら」
「替える。持ちたくなければ持たない」
「介助の紐が切れたら」
「終わり。離れたい時に切れない方が乱暴」
紙が足りない分は布と木片で作った。視力、手、首、読み書きの違いを一つの札で全部解こうとせず、必要になった人の前で直す。
札を作る作業は、救助より遅く見えた。
紙を切る。
布を補強する。
紐を通す。
大中小の触覚印を付ける。
その間にも人は倒れるかもしれない。
だから、全部を作り終えてから配らない。
最初の停止札一枚を、浅海スエへ持っていく。
スエはD区画の荷車脇へ座っていた。
藍鼠の作業着。
膝当て。
木製の弁札。
「これは何だい」
「停止」
「字は読める」
「今、止まる?」
「止まってる」
「札を持つ?」
「持つと、誰が来る」
「救護員が来るかもしれない。来てほしくない?」
「膝は見てほしい。運ばれたくない」
「停止札だけ。介助札は持たない」
「見た人が勝手に担架を持ってきたら」
「札の裏へ書く」
タマキは書く。
《膝の確認を希望。搬送は希望しない。説明後に変更可》
「名前」
「浅海スエ。家名も名前も公開していい。年齢は書くな」
「理由」
「年寄りの希望は、年齢で勝手に短くされる」
タマキは年齢を書かない。
「再確認は」
「膝を見た後」
「誰が」
「医者でも看護でも、名前を言う人」
「受領」
スエは停止札の穴へ指を入れ、膝の上へ置いた。
周囲の人が、それを見る。
「私にも」
「俺は小」
「介助は」
声が重なる。
タマキは箱を閉じた。
「一人ずつ」
「時間がない!」
「だから、一人ずつ」
「札を投げて配れ!」
「受取人を確認できない」
「欲しい人が拾う!」
「拾えない人が最後になる」
言い合いの途中で、床が震えた。
中央管制が、D区画の振動を完全には切っていない。
低い一拍。
人々の足が、また同じ方向へ動く。
停止札を持ったスエの身体まで、わずかに前へ傾いた。
「板を止めろ!」
鈴が声を上げる。
タマキは叫ばない。
「スエさん。今、どこへ行きたい」
「行かない」
「ここへ残る?」
「ここは通路だ。膝を見てもらう場所」
「受ける側を決める」
「誰がいる」
「北救護所、植栽帯の休止点、中央保留台」
「中央保留台」
「何を受ける」
「名前を言う医療者。搬送を決めない。膝の確認だけ」
「受ける人へ訊く」
タマキは通信器を取る。
「中央保留台。送り主、浅海スエ。目的、膝の確認。搬送なし。受領しますか」
《保留台、名取枝里。受領できます。診察後の移動は本人へ再確認》
「受取人名」
《名取枝里》
「場所」
《D西、植栽帯二番》
「経路」
《荷車脇から布柵外。人流二列。現在、通行可能かは不明》
スエが鼻で笑う。
「宛先はあるが、道がないね」
「作る」
タマキは防水封緘札を出した。
送り主の呼称。
受取先。
目的。
受領者。
スエ本人が、封の端へ木製の弁札を押し当てる。
丸い凹み。
「封を切れば、やめられる」
「途中で?」
「途中でも」
「道は消える?」
「私には見えなくなる」
「私には」
「最初から見えない。普通に歩く」
「能力って、使う人だけ楽だね」
「方向だけ。身体は楽にならない」
「じゃあ、使いな」
タマキは封を閉じた。
鉄の配達箱の中で、小さな金属音。
誓痕――封緘便〈シールド・ルート〉。
世界に一本の線が現れる。
明るくはない。
色もない。
タマキの身体だけが、今通れる方向を知る。
右へ二歩。
荷車の軸の下。
布柵の外。
植栽帯の土を斜め。
ただし、線は床へ描かれない。
「見える?」
スエ。
「私にだけ」
「ずるい」
「案内する」
「歩くのは」
「スエさん」
「膝は」
「今のまま」
「能力で軽く」
「ならない」
「若いくせに役に立たない能力だね」
「配達の料金は、距離と重さで」
「取るのかい」
「今回は救助会計。本人負担なし」
「無料は嫌いだ」
「後で、払いたければ休止札の材料費だけ」
「いくら」
「未計算」
「役所より商売が下手だ」
タマキはスエの腕を取らない。
「介助を」
「頼む」
「誰へ」
「鈴。あんた、声だけじゃなく腕もあるだろ」
馬瀬鈴が前へ出る。
「受ける。どこを持つ」
「左肘。引くな。私が立つ」
「了解」
介助札二枚を、切れる糸でつなぐ。
スエが一枚。
鈴が一枚。
立つ。
膝が伸び切らない。
弁札を右へ。
鈴の腕を左へ。
タマキは線の方向を告げる。
「次、右へ二歩。大きさは自分で」
「大中小の札は」
「今は持たない」
「なぜ」
「膝で決めるから」
「少し賢い」
「料金上げる」
スエが笑う。
一歩。
後ろの人が、同じに動こうとする。
タマキは言う。
「この経路は、浅海スエ一人の受領です」
「俺も行きたい!」
「受取先があなたを受けていない」
「同じ場所だろ!」
「目的が違う」
「道は空いてる!」
「空いていることと、受領されることは別」
「能力を独占するのか!」
男性がタマキの肩へ手を伸ばす。
タマキは避ける。
左耳の奥が揺れる。
水底で負った前庭障害は、急な方向転換の後に床を傾ける。
身体が右へ流れる。
男性の手が、鉄箱へ当たる。
「触るな」
低い声。
迅ではない。
中尾弦だった。
鉛筆を耳に挟んだまま、切り残しの紙束を盾のように持っている。
「紙で止める?」
男性。
「これは百二十枚。濡れたら作り直しだ」
「人より紙か」
「人を止める札になる紙だ。今のお前より役に立つ」
「喧嘩を売ってるのか」
「値札はない」
男性が一歩出る。
スエが弁札で床を叩いた。
「私の道だ」
全員がスエを見る。
「今だけね。次はあんたが自分で頼みな」
男性は足を止めた。
「どう頼む」
タマキが言う。
「呼称。受取先。目的。受ける人」
「分からない」
「決まってから」
「待てない」
「待つ札も作る」
「停止と違うのか」
「違う」
タマキはその場で、紙へ《保留》と書きかける。
手が止まる。
五種類に固定すると決めた。
ここで六つ目を増やせば、使い方が混ざる。
「停止札の裏へ、再確認時刻を書く」
中尾が言う。
「保留は停止の一部にする?」
「停止した結果が、保留。札は増やさない」
「分かりにくい」
「裏へ書く」
「字を読めない人」
秋枝が布へ短い結び目を一つ付ける。
「保留は、端に一つ結び」
「未選択は札なし」
タマキ。
「保留は、停止札と一つ結び」
「決定停止は」
「結びなし」
「決定って永遠?」
「この移動についてだけ」
「期限は」
「列車運行終了まで。その後は札を返す」
その会話を、周囲の人々が聞いている。
札は、救助者が一方的に配る道具ではなくなっていく。
スエが線を進む。
能力は身体を持ち上げない。
鈴の左腕。
弁札。
自分の脚。
三つを使う。
布柵の外へ出たところで、管制係が立ちはだかった。
「そこは関係者通路です」
「関係者だよ」
スエ。
「登録は」
「浅海スエ。膝確認。名取枝里が受領」
タマキが封緘札を見せる。
「一名だけ?」
「一名」
「後ろも続いています」
振り向く。
さっきの男性が、少し離れてついてきていた。
「あなたの経路ではない」
タマキ。
「同じ道が空いてる」
「行先は」
「分からない」
「目的」
「ここから出たい」
「受ける人」
「誰でもいい」
「誰でもいい、は受取人じゃない」
「じゃあ、お前」
「私は案内。受取先ではない」
男性の顔が歪む。
「面倒だな」
「人は面倒」
「荷物なら」
「送り状一枚」
「人を荷物にしたくなる理由が分かった」
「分かっても、するな」
男性はその場へ座った。
「停止札」
「持つ?」
「持つ。保留」
「再確認」
「十分後」
「誰へ」
「お前」
「私はスエさんを受領へ届けた後」
「待つ」
「名前か呼称」
「紙屋セツ」
男ではなかった。
低い声の、紙問屋の女だった。
タマキは一瞬、決めつけた自分を記録した。
《話者性別を外見と声から誤認。本人申告まで未確定とすべき》
セツへ停止札を渡す。
端に一つ結び。
「十分後」
「遅れたら」
「時刻を訂正」
「謝る?」
「必要なら」
「必要だよ」
「受領」
スエが中央保留台へ着く。
名取枝里が名乗る。
「名取枝里。膝の確認だけ受領します。搬送は決めません」
「触る場所」
スエ。
「右膝と左膝。腫れと可動。靴は脱がさない」
「右から」
「右から」
「鈴、介助終わり」
スエが糸を自分で切る。
介助札が二枚へ戻る。
封緘札も、スエ自身が開いた。
タマキの中から、一本の方向が消える。
床が少し傾く。
能力の反証ではない。
左耳の障害が、急に戻っただけ。
タマキは植栽帯の縁へ手をつく。
「大丈夫?」
鈴。
「大丈夫じゃない。立てる」
「どっち」
「両方」
「手を」
「今は要らない」
「停止札」
鈴が差し出す。
タマキは受け取る。
自分のために作ったつもりはなかった。
中央の穴へ指を入れる。
「再確認」
「五分」
「誰が」
「鈴」
「受領」
鈴は声を張らない。
「土門小麦の豆粥が来たら、五分を三分へ短くしてもいい?」
「勝手に」
「食べる?」
「食べる」
「それは受領が早い」
タマキは目を閉じた。
能力を使ったあとも、千二百三人には道が残っている。
一本の経路を出したから、ほかの人も同じに運べるわけではない。
配達員が一件を届けた時、街の荷物が全部消えるわけではない。
だから仕事は続く。
三分後、豆粥が来た。
タマキは停止札を返し、紙屋セツのところへ向かった。
方向は、自分で訊いた。
三月二十日 午後一時七分
歩幅札は、回廊の八区画へ広がった。
歩幅札が広がると、すぐに偽物が出た。
悪意からではない。
大札を持てば、速く通してもらえると思った男が、自分で段ボールを六角形へ切った。
本物より一回り大きい。
「大」
男は札を掲げる。
「大歩幅。先へ」
駅係員が道を開けかける。
タマキが止めた。
「歩幅札は、優先札じゃない」
「大だぞ」
「大きく歩く目安」
「だから、前へ」
「前の人との間隔が必要。先へ行く権利ではない」
「じゃあ、何の役に立つ」
「近くの人が、あなたの足へ近づきすぎない」
「俺は急いでる」
「行先」
「南列車」
「運休」
「知ってる。再開した時、先に」
「搭乗順は札で変わらない」
「なら、こんな札いらない」
男は偽札を床へ投げる。
六角形が、人の足へ滑る。
チカが踏む前に、中尾弦が紙束で止めた。
「紙は投げるな」
「紙屋か」
「帳場」
「同じだ」
「違う。紙屋はセツ」
紙屋セツが停止札を指で回す。
「呼んだ?」
「偽札の紙、どこから」
男が答えない。
セツは段ボールを拾い、裏を見る。
「配給箱。番号がある」
「盗んだ?」
駅係員。
「空箱だ!」
男。
「誰が捨てた」
「知らない」
「空箱でも、回収予定があるかもしれない」
「札一枚で窃盗扱いか!」
タマキが言う。
「窃盗と決めない。箱番号を保留。今、あなたの札としては使わない」
「本物をくれ」
「何を伝えたい」
「急いでる」
「歩幅は」
「大きい」
「今、歩いて見せる?」
「見世物じゃない」
「見せなくていい。大札を持つ?」
「先へ行けないなら」
「持たない?」
男は迷う。
「大札を持つと、周りが避ける?」
「避けるとは限らない。大きい歩幅を選んだと知るだけ」
「ぶつかったら」
「あなたも、相手も、歩幅を変えられる」
「優先は」
「ない」
「……じゃあ、小」
「なぜ」
「急いで大きく歩くと、前の爺さんへ当たる」
「受領」
男は小札を選ぶ。
本物の円形。
「偽札を作った責任は」
真琴が来る。
「別」
タマキ。
「配給箱の取得経緯を確認。人流妨害として、投げた行為も記録。小札を選んだ事実とは別に残す」
「分かってる」
男が言う。
「名前」
「言いたくない」
「呼称」
「急ぐ男」
「後で変えられる」
「もっとましなのを思いついたら」
「受領」
偽札は没収しない。
証拠として、本人と記録係が封をする。
箱番号だけ、配給班へ照会。
急ぐ男は、小札を持って歩く。
歩幅が小さいから、急ぐ気持ちが消えるわけではない。
その焦りを、札が治すわけでもない。
ただ、前の老人との間隔が少し増える。
「札が正しい人を作るんじゃない」
秋枝が言う。
「何を作る」
中尾。
「言い直す場所」
「それ、札へ書く?」
「長い」
「端へ小さく」
タマキは内蓋へ書く。
《札の変更は、前の選択の否定ではない》
「前に大を選んだ人が、小へ変えても?」
鈴。
「変えた時刻を残す。理由は、本人が言いたければ」
「理由なしだと、さぼり扱い」
「扱った人の名前を記録」
「怖い箱だね」
「配達箱」
「役所より怖い」
「役所は、空欄を決定にする」
真琴が言う。
「箱は、空欄を未選択にする」
「箱のほうが賢い?」
「作った人が、今は注意しているだけです」
「いつか忘れる」
「だから期限」
札の裏へ、使用終了日を書く。
三月二十日、移動終了まで。
救助で役に立った道具を、翌日から正しい制度へしない。
偽札が出たことも、便利だったことも、同じ箱へ戻しておく。
大が七十六。
中が百四十一。
小が二百十三。
停止が百八十九。
介助が五十四組。
数字は、タマキの箱には書かない。
全体記録へは必要だが、札を持った本人へ順位のように見せないためだった。
札なしの人は、まだ多い。
選ばない。
選べない。
札を信用しない。
手が塞がっている。
文字を読めない。
選択を他人へ知られたくない。
札を配れば、選択が見える。
見えることは、便利で危険だ。
「停止札を持つ人だけ、別列へ」
中央管制の係員が言った。
タマキは首を振る。
「別列にしない」
「動かない人が混ざると危険です」
「停止札は、今立って動かない人だけじゃない。次の十歩後に止まりたい人、介助を待つ人、決めない人もいる」
「分類になりません」
「分類のためじゃない」
「運用できない」
真琴が来た。
「運用できないのではなく、単一列に割り当てられない、です」
「同じ意味では」
「違います。前者は人の選択を欠陥と呼び、後者は制度の不足を示します」
「言葉を変えても、現場は」
「言葉を変えないと、誰を変えるべきか分からなくなります」
係員は苛立ちを隠さない。
「では、どう管理する」
「管理しない」
タマキ。
「誘導する」
「違いは」
「本人が途中で変えられる」
「変えたら記録が増える」
「増やす」
「人手が」
「記録する人を増やす」
「どこから」
中尾弦が紙束を持ち上げる。
「帳場、三人。縫製、二人。配達、四人。市場の札読み、六人」
「資格は」
「人の言ったことを勝手に短くしない資格なら、役所よりある」
「非公式です」
「公式の歩調で転んだんだろ」
係員は答えられない。
真琴が言う。
「臨時記録補助として、範囲を限定します。本人の呼称、札の種類、選択時刻、変更時刻のみ。病歴、家族、目的地の詳細は記録しない」
「誰が認証を」
「御厨朝」
「彼女は事故対応中です」