第494話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」後編
「速い壊し方もある。後で死ぬかもしれない」
「ここで死ぬかもしれない!」
「そうだ」
迅は、正しい恐怖を否定しない。
「名前か呼称」
「なんで今」
「今の提案を、誰がしたか残す」
「罰する?」
「分からない。壊さなかった責任も、壊す提案も残す」
「……牧田蓮」
車椅子の葉を介助していた男と同じ名。
迅は気づく。
「葉さんは」
「B。俺は離れた」
「なぜ」
「駅員が代わった。俺は橋の先に家族がいる」
「名前は」
「言わない」
「今、どうしたい」
「早く渡る」
「順番を前へ?」
「できるなら」
「後ろの人へ説明して、本人が譲れば」
「そんな時間」
「壊した壁を直す時間より短い」
牧田は後ろの人へ訊く。
「家族が先にいる。前へ行きたい。譲ってもらえる?」
最初の人は断る。
「俺も薬の時刻がある」
次は、保留。
「自分の前の人へ訊いて」
三人目が譲る。
「私はここで待つ。先にどうぞ」
「理由は」
「言わない」
「受領」
牧田は一人分だけ前へ移る。
劇的ではない。
七歩で壁を壊すより、進んだ距離は短い。
「一人だけ」
牧田。
「次も訊く?」
「今は、ここ」
「何も解決してない」
「家族へ一人分近づいた」
「名言みたいに」
「事実」
牧田は鼻を鳴らす。
「お前、もっと怖い奴だと思ってた」
「今も怖い?」
「面倒」
「今日、多いな」
迅は数えかけ、止める。
「何人目?」
「言わない」
「数えたんだろ」
「途中でやめた」
「それも進歩?」
「知らない」
牧田は七歩を求めなくなった。
迅も、使わないことを立派な決断にしない。
壁は残る。
橋も残る。
家族へ急ぐ人の焦りも残る。
残ったまま、一人分だけ道が変わった。
橋の中央で、赤い結び目が一つ解けた。
迅の手が反射的に伸びる。
一。
頭の内側で数えた。
結び目を取り直すなら二歩。
支柱まで三歩。
戻れば四。
「数えてる」
牧田が言った。
「黙れ」
「顔に出てる」
「どんな顔」
「七まで行きそうな顔」
迅は足を止める。
赤索を直すのは、橋の外へ身体を出す作業だ。
自分なら届く。
ただし、右手の環指と小指へ痺れが残る。
「梅野」
「何」
「結び目、直せる?」
「ここからなら。腰索が要る」
「俺が支点」
「それだと、あなたが七歩の始点になる」
「じゃあ、支点は柱」
「柱の確認」
「した?」
「まだ」
迅は急がない。
後ろから不満の声が上がる。
「紐一本だろ!」
「一本で、外へ落ちる」
梅野。
「じゃあ、切れ!」
「切った後、橋の端を知らせる物がない」
牧田が後ろへ言う。
「俺も急いでる。けど、急いでる奴が二人いるからって、橋は二倍強くならない」
「お前、さっき壊せって」
「提案は、撤回できる」
迅が牧田を見る。
「名言みたいに」
「事実だ」
梅野が柱を打診する。
三か所。
全部違う音。
「中央だけ」
腰索を柱へ回す。
梅野が外へ手を伸ばす。
迅は支えない。
索の余りを持つ人を、後ろから一人選ばない。
「持てる人」
三人が手を挙げる。
「一人ずつ、握力と痛み」
その確認に、さらに時間がかかった。
最後に、右手首へ古傷のない女性が索を持つ。
結び目が戻る。
迅は、一から先を数えなかった。
自分がやらないことで、作業が遅くなる。
自分がやらないことで、別の人の技術が残る。
どちらも事実だった。
橋の出口で、七瀬が訊く。
「今、何人目?」
迅は答えない。
真琴が代わりに言う。
「記録上は必要です」
「俺へ言うな」
「言いません。少年本人へも、順位としては伝えない」
「名前は」
「非公開を選びました」
迅は頷く。
「渡った?」
「渡りました」
「それでいい」
橋の入口に残った人々は、まだ多い。
迅は人数を見ない。
顔を見る。
靴を見る。
荷物を見る。
立てるか、座りたいか、戻りたいかを訊く。
七歩は、彼を強くしてきた。
強さは、いつも役に立つわけではない。
使える力を使わないことは、力がないことより難しい。
その難しさを、迅は勝利と呼ばなかった。
ただ、次の人へ訊いた。
「今、どうしたい」