第493話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」前編
三月二十日 午前十時十一分
竜胆迅は、出口を見つけると数える。
距離。
障害物。
人の数。
相手の足。
自分の退路。
数えれば、恐怖は形になる。
形になれば、殴る場所が見える。
その日、数えることが人を倒した。
中央行政回廊のF区画。
連絡橋は、幅三・八メートル、長さ四十六メートル。
左右は腰高の金属壁。
途中に休止帯はない。
登録者百四十七人。
前方の床板が浮き、右側一・二メートルが通行禁止になった。
残る幅へ人が寄る。
誰かが右足を出す。
次が左。
床の振動は不規則になったのに、人は自分で規則を作り直していた。
迅は橋の入口に立った。
「入るな」
後ろで真琴が言う。
眼鏡のレンズに、回廊の白い光が二重に映る。
左手には運用書。
公式記録へ署名する右手には、まだ筆を持っていない。
「理由」
迅。
「あなたの誓痕、七退一還〈セブン・リターン〉の七歩が、ここでは標準動作に見える」
「使わない」
「使わなくても、退くでしょう」
「攻撃されたら」
「退く」
「普通だ」
「あなたの普通は、周囲には合図です」
橋の上で、前方から怒鳴り声。
「止まるな! 止まったら詰まる!」
直後、別の声。
「進むな! 床が抜ける!」
二つの正しい警告が、百四十七人を前後へ引っ張る。
「迅」
真琴が言う。
「今日は、殴るより歩かないほうが難しい」
「知ってる」
「知っている顔ではありません」
「俺の顔を読むな」
「文書より短いので、すぐ読めます」
「悪口?」
「要約です」
迅は橋へ入った。
真琴が溜息をつく。
「言った直後に無視するのは、会話として効率が悪い」
「入らないと、人が出ない」
「では、条件を」
「七歩を取らない」
「数えない」
迅の足が止まる。
「同じじゃない?」
「違います。七歩を取らないと決めても、あなたは一、二、三と数える。周囲はその拍を拾う」
「数えなければ、距離が分からない」
「目で見てください」
「見て数える」
「身体で」
「身体は数える」
「では、他人に訊いてください」
迅は真琴を見る。
「お前、俺に嫌なことを言う時だけ楽しそうだな」
「苦手な人へ必要な条文を説明するのは、法律家の娯楽です」
「性格が悪い」
「台帳に書いてあります」
橋の上で、一人が壁へ肩を打つ。
迅は進む。
一歩目。
数えた。
前方の三人が、同じ時に足を出す。
二歩目。
数えた。
左の女性が、迅の踵へ合わせる。
三歩目。
床板の浮きまで、あと四。
人の動きがそろう。
迅は気づいた。
自分の退き方は、見慣れられている。
黒雨記念日の決闘。
薬品護送。
工場。
列車。
舞台。
救助。
人々は迅の七歩を、勝つための動作として知っていた。
彼が一歩退くと、次を待つ。
見物人だけではない。
味方も、敵も、迅自身も。
「数えるな」
真琴の声。
迅は四歩目を踏みかけた。
前方で、保安員が短棒を上げる。
「通路を空けろ!」
その短棒が、暴力の源に見えた。
迅の身体が、勝手に距離を取る。
四。
背後の人々も、半歩退く。
橋の後端へ圧が戻る。
「迅!」
七瀬の声が、低い位置から来た。
橋入口に固定台を置き、足だけを撮っている。
「あなたの一歩で、二十四人が退いた!」
「数字を言うな!」
「あなたが数えるからでしょう!」
前方の保安員が短棒を振る。
迅は横へ避ける。
五。
違う。
数えた。
黄褐色の目が、短棒の肩を見る。
次は右から。
六歩目を取れば、攻撃の軸が揃う。
七歩目で返せる。
その一撃なら、保安員の短棒だけを折れる。
人は殴らない。
周囲へ道が開く。
身体は、答えを知っている。
だから危険だった。
迅の右手首の赤い七結びが揺れる。
橋の人々が、息を止める。
待っている。
七歩目を。
迅は右足を上げた。
出さなかった。
その場へ膝をついた。
後ろの人々が、何を真似すればいいか分からなくなる。
「何をしてる!」
保安員。
「分からない」
迅が答えた。
「道を空けろ!」
「どっちへ」
「後ろだ!」
「後ろは詰まってる」
「前へ来るな!」
「前へも行けない」
「なら、そこにいろ!」
「それは今できる」
迅は座った。
橋の中央で。
短棒が振り下ろされる。
迅は腕で受けない。
右へ転がらない。
短棒の下へ、左掌を差し出す。
叩かれる直前で、保安員の手首を掴む。
引かない。
捻らない。
ただ、そこで止める。
「殴る気か」
「今はない」
「今は?」
「あとで増えるかも」
「脅迫だ!」
「感想」
真琴が入口から言う。
「竜胆迅。その発言は脅迫と解釈され得ます」
「じゃあ訂正。増えないよう努力する」
「努力義務ですね」
「今それいる?」
「あなたが今と言う時は、だいたい後で揉めます」
保安員の肩から力が抜ける。
「手を離せ」
「短棒を下ろす?」
「下ろす」
「誰が」
「俺が」
「今?」
「今だ」
迅は離す。
保安員は短棒を下ろした。
その動作を、後ろの人は真似しない。
短棒を持っていないからだ。
迅は、自分にしかできない動作を選ぶ意味を初めて理解した。
「床板はどこが危ない」
保安員へ訊く。
「右三枚目から五枚目」
「見た?」
「警報が」
「自分で」
「三枚目が鳴った」
「五枚目は」
「管制表示」
「四枚目は」
「……分からない」
「じゃあ、三は危険。四と五は未確認」
「全部避けるべきだ」
「避ける幅がない」
迅は近くの女性へ言う。
「右の床、見える?」
「見えない」
「左は」
「人」
「前へ何センチ空いてる」
「分からない」
「俺の肩へ手を置く?」
「嫌」
「じゃあ、声だけ」
「何を」
「俺が前へ動く時、動くか、自分で決める」
「同じにしない?」
「しない」
「ぶつかる」
「ぶつかりそうなら、俺が止まる」
「あなたが?」
「俺が」
「信じていい?」
「信じなくていい。見て決めろ」
女性は一度、息を吐いた。
「先に行って」
「受領」
迅は立たない。
四つ這いに近い姿勢で、左膝と右掌を使う。
右掌には、閉じたばかりの傷が薄く残る。
もう閉じている。
環指と小指の痺れは、床振動で増していた。
掌を完全に信用しない。
左肘。
右膝。
肩。
順番を固定しない。
床を進む。
女性は、迅と同じ時には動かなかった。
三秒後、自分で一歩。
その後ろの老人は、動かない。
少年は、壁へ背を向ける。
動作が分かれる。
「なんだ、それ」
保安員が訊く。
「分からない歩き方」
「歩いてない」
「だから合ってる」
橋の中央へ、犬飼豪が反対側から入ってきた。
「迅! お前、地面と喧嘩して負けたのか!」
「声を下げろ」
「聞こえねえだろ!」
「聞こえた人が同じに見る」
豪は口を閉じた。
四つ這いの迅を見る。
「……何してる」
「数えない」
「お前が?」
「笑うな」
「笑ってない。世界が終わるかと思った」
「終わらない。橋が壊れる」
「そっちのほうが近いな」
豪は右膝を深く曲げないよう、壁へ背を預けた。
「俺は何をする」
「場所を作れ」
「持ち上げる?」
「持ち上げない」
「押す?」
「押さない」
「殴る?」
「したい?」
「少し」
「あと」
「今日は『あと』が多いな」
「あとがあるのは、生きてるからだ」
「それ、名言?」
「違う。今思った」
「じゃあ安いな」
豪は自分の上衣を脱ぎ、床へ丸めて置いた。
「ここから先、俺の上衣を踏まない。踏みたくない奴だけ避けろ」
「目印?」
「命令じゃない。俺の服を汚されたくないだけ」
「十分汚い」
「失礼だな」
人々は上衣を避ける者、踏む者、気づかない者に分かれた。
避ける動きが、同じ方向へそろわない。
豪はもう一枚、靴を脱いで置こうとした。
「それはやめろ」
迅。
「臭い?」
「救助後に探す物が増える」
「お前、子どもの鍵は探すくせに」
「誰から聞いた」
「広場は噂が速い」
「歩調より?」
「今は噂の勝ちだ」
橋の先で、床板が鳴った。
甲高い金属音。
三枚目。
梅野紺が反対側から叫ばず、手を振る。
右手一回。
左手二回。
合図は規則ではない。
迅だけへ向けている。
「三枚目の下、横桁が割れてる!」
声は後から来た。
「何人渡れる」
「一度に一人。荷物なし。右端は踏むな」
「一人ずつ」
「そう」
「順番は」
「決めてない」
「決めろと言われたら」
「断る。近い人へ訊く」
迅は目の前の女性へ言う。
「先に渡る?」
「後ろの母を」
「本人に訊く」
後ろの老人女性。
「先に?」
「私は座る。娘を先に」
「座る場所がない」
「豪の服」
豪が目を丸くする。
「俺の服、椅子になった?」
「転職が多い日だ」
迅。
「柵に負けた」
女性は豪の上衣へ座った。
娘が一人、危険床を渡る。
梅野が手を差し出す。
「掴む?」
「手首だけ」
「了解」
通過。
一人。
迅の頭が、勝手に数える。
一。
彼は舌を噛んだ。
痛みで数を消そうとする。
二人目。
二。
消えない。
「七瀬!」
迅が叫ぶ。
「何人渡った」
「二」
「俺に言うな!」
「訊いたでしょう!」
「次から、数えるな」
「記録者に何を要求してるの」
「俺へ言うな」
「じゃあ記録する。口に出さない」
「そうして」
「お願いの形を覚えた?」
「今!」
「今は、脅迫に戻った」
七瀬は画面へ時刻だけを書く。
迅は通過人数を知らないまま、一人ずつ顔を見る。
顔を見ても、数に見える瞬間がある。
そこで名前を訊く。
「呼び名」
「柏木秋枝」
「渡る?」
「首が後ろを向かない。前だけ見て渡る」
「それでいい」
「母の薬袋は私が持つ」
「荷物なし」
「これは荷物じゃない」
「重さは」
「二百八十グラム」
「床は区別しない」
秋枝は唇を結ぶ。
「誰へ預ける」
「撮らない人」
七瀬が言う。
「私は固定台を離れない。袋は画角外の箱へ置く。誰も開けない」
「戻る?」
「あなたが受け取るまで」
「時間」
「未定。受領時刻を記録」
「じゃあ、預ける」
秋枝は薬袋を箱へ置いた。
橋を渡る。
首を回さない。
前だけを見る。
右の床を踏まない。
途中で、後ろから誰かの足音が近づく。
迅が手を出しかける。
「柏木、止まる?」
「止まらない」
「早める?」
「しない」
「後ろへ」
迅は後続の男性へ言う。
「間隔」
「前が遅い!」
「あなたはどうしたい」
「早く渡りたい」
「そのまま行くと、前へ当たる」
「止まれない」
「壁へ手を置く?」
「右手、痛い」
「左」
「荷物」
「下ろす?」
「盗られる」
迅は豪を見る。
「預かるな」
「まだ言ってない」
「お前は全部持とうとする」
「便利だからな」
「一つだけ」
「本人が選べ」
男性は荷物の中から、小さな金属箱を抜いた。
「これだけ自分で。袋は預ける」
「誰へ」
「そこの大きいの」
「犬飼豪。受領する」
豪は袋を受けた。
「中身は訊かない」
「訊け」
「いいのか」
「割れ物の瓶が三本。横にするな」
「先に言え!」
「訊かないって言っただろ」
「本人の秘密と、物理法則は別だ!」
豪は袋を縦に抱え直した。
男性が壁へ左手を置き、秋枝との間隔を作る。
迅は数えない。
名前と物だけを覚える。
秋枝。
薬袋。
瓶三本。
豪の上衣。
梅野の白い手袋。
数字以外で、道を作る。
三月二十日 午前十一時二分
橋の中央で、迅の右手が痺れ始めた。
振動板が不規則に動くたび、環指と小指の感覚が薄くなる。
握力は左より弱い。
右手で誰かを掴めば、離す時刻を間違えるかもしれない。
迅は右手を上衣の内側へ入れた。
「負傷?」
真琴が訊く。
「古い」
「程度」
「指二本。痺れ」
「撤退を」
「誰が代わる」
「代わる人を決めてから撤退してください」
「それは撤退じゃない」
「引継ぎです」
「同じだ」
「あなたが言うときは、だいたい違います」
真琴は橋へ入らない。
入口で、渡る人と残る人の意思を記録している。
「あと何人」
迅は訊きかけた。
止める。
「残ってる人の名前」
「公開可能な呼称だけでも、百近く」
「数字言った」
「あなたが質問を修正する前に答えました」
「悪い」
「記録しました」
「そこまで?」
「謝罪は珍しいので」
橋の後方で、十夜が話し始めた。
「昨日、俺は豆を七粒食べた」
迅が振り向く。
「数えるな!」
「数えたのは昨日だ」
「何の話だ」
「呼吸の長さをずらす話。豆の数を人ごとに変える」
十夜は近くの三人へ言う。
「あなたは、朝食を覚えてる?」
「粥」
「一口目は、熱かった?」
「熱かった」
「じゃあ、熱いと言って息を吐いて」
その人が、短く吐く。
隣へ。
「あなたは」
「食べてない」
「じゃあ、腹が減ったと言って」
「腹が減った」
長い呼気。
三人目。
「食べ物の話は嫌」
「何の話ならいい」
「猫」
「猫は好き?」
「嫌い」
「じゃあ、嫌いな理由を一つ」
「勝手に歩く」
「今日の英雄だ」
三人の呼吸が、違う長さになる。
肩の上下がそろわない。
十夜は全員へ同じ呼吸法を教えない。
話題を一人ずつ変える。
「お前、役者より聞き手のほうが向いてる」
迅。
「役者は、人の話を聞かないと自分の台詞を差し込めない」
「性格が悪い」
「台帳に書いてある?」
「真琴へ訊け」
「法律家に人格を預けるほど、人生は安くない」
十夜は胸元へ二本の指を当てた。
「動悸なし。装置作動なし。空腹は増加」
「あとで医療確認」
イオが後ろから言う。
「聞いてたの?」
「あなたは声が大きい」
「今日は小さく喋ってる」
「舞台人基準」
イオは迅の右手を見る。
「痺れ」
「真琴から?」
「あなたの右肩が上がってる」
「肩で指が分かる?」
「前の能力を使っていた時、私は右腕を隠すため左肩を上げた」
「同じにするな」
「同じにしてない。似た動作から訊いてる」
「痺れてる」
「今、支えに使わない」
「分かってる」
「分かっている人は、右手を服へ入れたままにする」
「命令?」
「提案」
「断ったら」
「事故報告へ書く」
「それ、命令より強い」
迅は右手を服へ入れたままにした。
橋の先で、柏木秋枝が渡り終える。
七瀬の補助員が薬袋を運ぶ。
「本人へ返す」
「私が」
秋枝が袋を受け取る。
「開けた?」
「開けていません」
「誰が見た」
「私と、撮影機。映像は袋の外形だけ」
「あとで削れる?」
「あなたが望めば、袋の外形を非公開へ」
「外形だけなら残して。誰かが持って渡ったことは必要」
「受領」
秋枝は袋を胸へ戻した。
迅は、そのやり取りを数えない。
預けた。
運んだ。
返した。
三つの段階ではなく、三人の選択として覚える。
橋の中央の浮いた床板へ、梅野が仮支えを入れた。
「残る人へ、二つの道」
梅野。
「一つ目、順番に渡る。二つ目、入口へ戻る。ただし戻る道も混んでる。三つ目は、ここで待つ」
「三つじゃないか」
豪。
「二つと言ってから増えた」
「役所向きだな」
「褒めてないだろ」
「役所も今、反省中だ」
朝が橋入口へ来た。
顔色は変わらない。
歩幅は、右が短い。
迅は彼女のふくらはぎを見る。
「能力使った?」
「一度」
「何人」
「その質問へ、今は答えません」
「なんで」
「あなたが数えるから」
「七瀬から聞いた?」
「回廊中が知っています」
「噂が速い」
「歩調より」
豪が横から言う。
「その台詞、二回目だぞ」
「記録した?」
七瀬。
「繰り返しとして」
「削れ」
「意図的なら残す」
「意図してない」
「では削る」
朝は橋を見渡した。
「ここは、中央同期から外します」
「もう外れてる」
迅。
「運用上の話です。列車接続時刻を理由に、再同期しない」
「署名は」
「私」
「いつまで」
「今日の移動終了まで」
「明日は」
「別に決める」
「今の言葉、広場へ」
「全員へ?」
「全員へ同じ動作じゃない。同じ権利」
朝は考える。
「再同期しない、だけでは足りない」
「何が」
「止まる、戻る、待つ、介助を求める。その選択で、列車搭乗順や配給順を下げない」
「それを言え」
「一斉放送で?」
「内容は同じでいい。動作まで揃えるな」
朝は通信器を上げた。
《中央回廊を移動中の方へ。今から、歩く速度と停止の選択は、列車搭乗順、配給順、再登録順へ影響させません。止まる、戻る、待つ、介助を求める、介助を断ることができます。今すぐ決めなくても構いません》
頭上から、平らな機械音ではなく朝の声が流れる。
《この説明は、同じ動作を求めるものではありません。隣の人と同じにする必要はありません》
放送が終わる。
すぐには何も変わらない。
一人が止まる。
後ろの人は進む。
別の人は壁へ寄る。
橋入口へ戻ろうとする人もいる。
混乱は増えたように見える。
「整然じゃなくなった」
梅野。
「事故前より安全だ」
轟の声が通信から来る。
「見てないのに」
「床の音が違う」
迅は耳を澄ませた。
確かに、靴音はばらばらだった。
速い。
遅い。
止まる。
杖。
車輪。
豪の裸足に近い靴下。
「靴、履け」
迅。
「上衣は椅子。靴は目印にしなかっただろ」
「片方脱いでる」
「暑い」
「臭い」
「どっちだよ」
「両方」
豪は靴を履いた。
橋の最後尾近くで、小さな少年が立ったまま動けなくなっていた。
迅が近づく。
「止まってる?」
少年は頷かない。
首も動かさない。
「聞こえる?」
瞬き一回。
「触らない。ここにいる」
瞬き二回。
意味を勝手に決めない。
迅は隣へ座った。
少年と同じ方向を見ない。
向かい合わない。
斜めに座る。
「俺は迅」
返事なし。
「数えるのをやめてる」
瞬き一回。
「難しい」
少年の唇が動く。
「何が」
「止まるの」
「今、止まってる」
「足が。中は歩いてる」
迅は分からなかった。
「どうしたら止まる」
「知らない」
「大人なのに」
「大人じゃない」
「大きい」
「豪より小さい」
少年が、ほんの少し笑う。
「何か、一つだけ違うことをする?」
迅。
「違うとぶつかる」
「俺が先に違う」
「何する」
迅は考える。
いつもなら、七歩を数える。
今は、それができない。
右手首の赤い紐を解いた。
七つの結び目。
結び目は、彼の誓いを忘れないためにある。
解けば能力が消えるわけではない。
だが、数えやすい印ではある。
一つ目を解く。
少年が見る。
二つ目。
迅は数えた。
舌打ちする。
「やっぱり数えてる」
少年。
「うるさい」
「大人じゃないね」
「だから言った」
迅は結び目を順番に解くのをやめた。
真ん中を引く。
端を噛む。
一本を残す。
また結ぶ。
七つだった形が、何個か分からない形になる。
「失敗した?」
「わざと」
「下手」
「それは本当」
「僕も、靴紐を変える」
少年は左右の靴紐の結び方を変えた。
右は蝶結び。
左は一重。
「ほどける」
「あとで」
「歩く時は」
「一歩だけ。自分で」
少年は右足を出した。
次は出さない。
迅も動かない。
少年が左足を出す。
迅はその後で、立つ。
同じ時刻ではない。
少年が橋を渡り始める。
迅は後ろへつく。
歩幅を合わせない。
数えない。
一歩ずつ違う音を、覚える。
橋の残り半分で、迅はもう一度、七歩を求められた。
今度は、自分の身体ではない。
後方の青年が言った。
「七歩、やってくれ」
「何に」
「床を壊して、下へ降りる」
「下は保守通路」
「近いだろ」
「高さ」
「二メートルくらい」
梅野が答える。
「三・六。配管。熱水」
「じゃあ、手すりを」
青年。
「外へ飛び移る」
「外は壁」
「お前なら壊せる!」
その言葉へ、周囲の目が集まる。
迅なら壊せる。
過去の映像が、その期待を作っている。
七歩退いて、障害物へ一撃。
壁。
連結爪。
安全楔。
梁。
人を殴らず、物を壊して道を作る。
一見、今日にも合っている。
「壊した後、誰が受ける」
迅が訊く。
「何を」
「壁。落ちる破片。下の配管。降りた人」
「逃げればいい」
「どこへ」
「外」
「外の受取先」
「知らない」
「じゃあ、道じゃない」
「でも、ここより」
「ここより怖くないだけ?」
青年は口を閉じる。
「怖い」
「俺も」
「嘘だ」
「水よりは、橋のほうがまし。でも、人が同じに動くのは怖い」
「お前が?」
「俺の歩き方で人が倒れた」
「能力を使ってない」
「使う前から、真似された」
「じゃあ、何もできない」
「今は、一人ずつ渡してる」
「遅い!」
「遅い」
「認めるのか」