第463話 第二章「病院と同じ電線」前編

二月十五日 午前五時四十分

 大きな機械は、たいてい自分より小さな嘘を幾つも抱えている。

 伏見轟は、機械より嘘のほうが軽いとは思わなかった。

 中央能力回収炉の地下配電層には、五本の母線が走っていた。

 黒。

 白。

 青。

 赤。

 黄。

 図面上では、それぞれ別の役目を持つ。

 黒は回収炉。

 白は中央抑制網。

 青は外環共同病院の補助電源。

 赤は上水ポンプ。

 黄は五つの生活区画へ温水を送る暖房循環機。

 床下では、全部が一つの銅板へ噛んでいた。

「五本じゃないな」

 轟が言った。

「一本だ」

「耳が悪いのかと思った」

 鉞谷鉄志が、壁へ額を寄せたまま答えた。

 補聴器は右耳だけ。

 左耳は何も付けていない。

 右手の甲に古い熱傷。

 腰へ幅広の帯。

 咳をしないよう短く息を切る癖は、第三区炉の蒸気を吸ってから増えた。

「五本に見える一本だ」

「最初からそう言え」

「最初から見れば分かる」

「分かる奴ばっかなら、図面は要らん」

「図面を信じる奴ばっかでも、炉は止まらん」

 鉄志が配電盤の扉を拳で叩いた。

 殴ったのではない。

 音を聞いた。

 低い。

 轟も右の手のひらを当てた。

 中で微かな振動が三つ重なっている。

 回収炉の定速回転。

 病院補助の電圧補正。

 暖房循環機の水撃を逃がす脈動。

 違う仕事をする機械が、同じ肋骨の内側で呼吸していた。

「意図的だ」

 轟は言った。

「偶然こんな結び方にはならん」

「止めに来る奴へ、病院を人質にする」

「違う」

 鉄志がすぐ否定した。

「最初は効率だ。回収炉の廃熱で暖房。安定器を病院と共用。ポンプの慣性で電圧をならす。いい設計だ」

「今は」

「いい設計のまま、悪い使い方に育った」

「建物は勝手に育たん」

「人間が勝手に継ぎ足す」

「同じだ」

「違う。建物は言い訳しない」

 鉄志が笑いかけ、咳へ変えた。

 三度。

 四度目を飲み込む。

 轟は工具箱から白いチョークを出した。

 床へ五本の線を引く。

 黒。

 白。

 青。

 赤。

 黄。

 色のないチョークだから、横へ文字も書いた。

 炉。

 抑。

 病。

 水。

 暖。

「一撃で割るなら、ここだ」

 竜胆迅が、黒と白の線が合流する位置を靴先で示した。

 いつからそこにいたのか、轟には分かっていた。

 床が二度、余計に鳴ったからだ。

「割れば」

 轟が訊く。

「炉と抑制は止まる」

「病院は」

「七秒後に補助へ切り替わる」

「補助が同じ板だ」

「だから止まる」

「水」

「三十秒」

「暖房」

「循環は十五分残る。再始動しない」

「で、何人死ぬ」

「分からない」

「なら一撃じゃない」

 迅は反論しなかった。

 右手を開いて、閉じる。

 小指と薬指が少し遅い。

 寒い地下では、古い骨折より、その後の痺れのほうが正直だった。

「一撃は、壊れる場所が一つの時だけだ」

 轟は黒と白の交点を靴で消した。

「これは屋根が五枚ある。柱は一本だ。柱を倒して屋根を選べると思うな」

「柱を五本に分ける」

 迅が言う。

「そうだ」

「何日」

「分からん」

「聞き方が悪い」

 鉄志が腰を伸ばした。

「何人、何交代、どの工具、誰が飯を出す」

「最後だけお前の趣味だろ」

「止めた後に食えない奴が出るなら、安全停止は半分だ」

「半分でも、爆発より重い」

「半分の屋根は、雨の日に全員を濡らす」

 轟はチョークを鉄志へ投げた。

 鉄志は右手で取らない。

 熱傷の引きつれを避け、左手で受ける。

「描け」

「何を」

「止めた後に食う線」

「図面にない」

「だから描け」

 午前七時二十分。

 配電層の一つ上、旧熱交換室。

 鉄志は壁へ三枚の紙を貼った。

 一枚目。

《機械式隔離》

 二枚目。

《地域別手動切替》

 三枚目。

《停止後の勤務・賃金》

 轟が三枚目を見る。

「本気か」

「一枚目だけなら、機械屋が気持ちよくなる」

「二枚目は」

「住民が疲れる」

「三枚目は」

「誰も気持ちよくならん。だから要る」

 鉄志は旧兵団の親方だった。

 止めないことを強さだと思っていた。

 炉が燃えれば賃金が出る。

 賃金が出れば食える。

 食えるなら、多少の火傷も咳も、共同体の代金だと信じていた。

 今は、炉を止める仕事をしている。

 それでも、止めた翌日に誰が食うかを訊く。

 人間は反対側へ移っても、同じ靴を履いている。

 靴底の減り方まで変えるには、長い道が要る。

「回収炉の技師は百十二人」

 鉄志が言った。

「抑制網の監視員が六十三。保守、清掃、食堂、医務を足すと二百七十九」

「停止対象の人数じゃない」

「停止で仕事が変わる人数だ」

「給与は中央から」

「中央が止められたら、中央の給与も止まる」

「そこを人質にされる」

「人質じゃない。本当に食ってる」

 迅が紙の端を押さえた。

 熱交換室の風で、三枚目だけがよく揺れる。

「止めない理由にするな」

「止めた後を考えない理由にもするな」

 鉄志が言う。

 轟は二人の間へ、古い切替弁を置いた。

 直径二十センチ。

 両側に歯がある。

 片側の歯は新品、もう片側は丸く摩耗していた。

「喧嘩はこれを回してからだ」

「回るのか」

 迅が訊く。

「回らん」

「じゃあ何で」

「回らんと分かった」

「進んでない」

「壊す場所が一つ減った」

 轟は弁を横にした。

 古い図面では、この弁が病院補助を単独運転へ切り替える。

 現物は十七年間、一度も完全には回されていない。

 軸は固着。

 歯車は半分摩耗。

 手動輪は撤去され、回収炉の自動制御へ溶接されている。

「溶接を切る」

 迅が言う。

「切れば軸へ熱が入る」

「冷やす」

「急冷で割れる」

「削る」

「削粉が接点へ入る」

「殴る」

「お前は便利な工具箱だな」

「工具は使い方だろ」

「そうだ。だから今は使わん」

 轟は手動輪のあった穴へ、木の棒を差し込んだ。

 鉄志が反対側へ短い棒を入れる。

 二人で押す。

 動かない。

 迅も手を添えようとした。

「右はやめろ」

 轟が言う。

「左なら」

「今は三人要らん」

「二人で動かない」

「三人で壊すよりいい」

 迅が一歩下がった。

 鉄志が咳をする。

「押す方向、逆じゃないか」

「図面は右回りだ」

「現物の刻印、左」

 轟は棒を抜いた。

 軸の根元に、小さな矢印がある。

 油と煤で見えなかった。

 左。

「図面が嘘だ」

「古い改修だ」

「同じだ」

「建物は言い訳しないんじゃなかったか」

「図面を書いた人間がする」

 三人は向きを変えた。

 今度は、軸が一ミリ動いた。

 金属の奥で、長く寝ていたものが歯を食いしばる音がした。

 その瞬間、天井の警報灯が赤く点いた。

 高い音。

 鉄志が反応しない。

 轟は肩を叩いた。

「上だ」

「何」

「圧差」

 迅は既に階段へ走っていた。

 旧熱交換室の上階で、青い配管が震えていた。

 病院補助系。

 切替弁を一ミリ動かしただけで、回収炉側の圧力補正が誤作動した。

 圧力計の針が、赤線の手前で跳ねる。

「触るな!」

 轟が叫んだ。

 迅の手は、非常排気輪の三センチ手前で止まった。

「開ければ抜ける」

「一気に開ければ病院側へ逆流する」

「何秒」

「分からん」

「またか」

「分からん時に走れる奴が強いんじゃない。止まれる奴だ」

 鉄志が遅れて入る。

 警報音は聞こえない。

 床の振動で異常を知り、壁へ手を当てた。

「青管、二番。逃がし弁は四分の一」

「根拠」

「この振れなら半分で水撃。四分の一で七秒」

「七秒後は」

「閉める」

「閉まらなかったら」

「俺を殴れ」

「機械を直せ」

 轟は非常輪へ右手を掛けた。

 左肩は上げない。

 腰を落とし、右肘を体へ付ける。

「迅。針」

「赤まで九」

「数字」

「八・七」

「鉄志、床」

「まだ軽い」

「開ける」

 四分の一。

 蒸気が弁の奥で唸った。

 針が下がる。

「七」

 迅が数える。

「六」

 配管の振動が、轟の掌から肩へ上がる。

 手術した左ではない。

 それでも体は、昔の痛みを先に思い出す。

「五」

 鉄志が床へ耳を近づけた。

「早い。六で閉めろ」

「今、四」

「お前の四と俺の六が同じだ!」

「便利だな、時間」

「三!」

 轟は輪を戻した。

 固い。

 戻らない。

 迅が左手を添える。

「押す」

「右を使うな」

「左だ」

「俺の右と、お前の左。下へ」

 二人で押す。

 鉄志が下から棒を噛ませた。

 輪が戻る。

 青管の震えが一度大きくなり、静まった。

 圧力計は赤線の二目盛り下。

 誰も能力を使わなかった。

 それでも迅の左肩へ、輪の反力が入った。

「痛むか」

 轟が訊く。

「今はない」

「今は、は痛む奴の言い方だ」

「轟もだろ」

「俺はいつもだ」

「便利だな」

「痛みは便利じゃない。嘘を見つけるだけだ」

 鉄志が圧力計へ白墨で線を引いた。

 今の最大値。

「一ミリでこれだ」

「だから、五本に分ける」

 轟は言った。

「一斉には無理だ」

「分けても、病院が先に揺れる」

「病院を先に切り替える」

 鉄志が首を振った。

「患者が先だ」

 声は入口からした。

 時雨ミソラが立っていた。

 灰色の白衣。

 片手に十一枚の診療要約。

 もう片手で右脇腹を押さえている。

 痛みを隠しているのではない。

 押さえれば立てるから押さえている。

「機械の順番は、患者の順番の後」

「電気を止めるのに、病名を全部聞くのか」

 鉄志が訊いた。

「全部は聞かない。止まった時に何が起きるか。代わりはあるか。本人はどれを選ぶか」

「時間がない」

「時間がない患者へ、時間がない作戦を重ねない」

「炉は今日も反証を送ってる」

「患者は今日も呼吸してる」

 迅が壁から離れた。

「何人」

「十一」

「四十八人は」

「比べない」

「比べなきゃ決められない」

「比べる。命を数にしない、とは言わない。でも、四十八が十一より大きいから十一を切る、とは決めない」

「どう決める」

「何を止めれば誰に何が起きるか、一人ずつ分ける」

 鉄志が診療要約を見る。

「十一人のために二百七十九人の仕事を残すのか」

「二百七十九人の仕事のために十一人の治療を続けるのか」

「俺はそうは言ってない」

「私も言ってない」

「じゃあ何を言ってる」

「勝手に同じ線へ結ばない」

 ミソラは床の五本の白線へ、六本目を引いた。

 患者。

「図面にない」

 鉄志が言う。

「だから、今まで切られた」

 轟は六本の線を見た。

 炉。

 抑。

 病。

 水。

 暖。

 患者。

 最初の五本は、機械の中で一本につながっている。

 六本目だけは、どこにもつながっていなかった。

「つなぐな」

 ミソラが言った。

「確認するだけ」

 轟は白いチョークを拾った。

 六本目の横へ、短い横線を十一本引く。

「一本ずつ、止まるか」

「一本ずつ、止めるか訊く」

「訊いて、嫌だと言われたら」

「止めない」

「四十八人へ反証が流れ続ける」

「だから、代わりを作る」

「間に合わなかったら」

「その時に、私が決めたと記録する」

 ミソラは十一枚の紙を床へ置かなかった。

 患者の情報を、機械の線と同じ足元へ並べないためだった。

 轟は立ち上がる。

「三枚じゃ足りんな」

「何枚要る」

「止める図面。止めない図面。切り替える図面。人の順番。仕事の順番。壊れた時の戻し方」

「六枚」

「七枚だ」

「あと一枚」

「誰が休むか」

 鉄志が鼻で笑った。

「そんな図面、誰も守らん」

「だから一番上に貼る」

 午前九時十五分。

 圧差が落ち着いた後、轟は弁を元の位置へ戻さなかった。

 戻せば、失敗の前と同じに見える。

 失敗の前と同じ機械は、次も同じ失敗をする。

 旧熱交換室へ、地域側の作業者が四人呼ばれた。

 病院の夜間設備係。

 共同洗濯場の釜番。

 上水第三の検針員。

 暖房第二で灰を運ぶ臨時工。

 誰も中央の資格札を持っていない。

「触っていいのか」

 釜番が訊いた。

「今は模型だけ」

 轟は床へ木の円盤を五つ置いた。

 炉。

 抑。

 病。

 水。

 暖。

 円盤の間を縄で結ぶ。

 鉄志が見て、一本だけ結び直した。

「そこ、実物と違う」

「図面どおりだ」

「実物が違う」

「昨日まで誰が動かしてた」

「中央」

「地域は」

「警報が鳴ったら電話を待つ」

「電話が来なかったら」

 四人は答えない。

 答えがないのではない。

 今まで、その欄がなかった。

 轟は木の円盤を一つ、釜番へ渡した。

「暖房を止めろ」

「止めるのか」

「模型」

「模型でも、病院と同じ縄だ」

「だからやる」

 釜番が《暖》を裏返す。

 病院係の円盤まで、縄に引かれて傾いた。

「失敗」

 轟が言う。

「分かっててやらせた?」

「分からず本番でやるよりましだ」

「腹が立つ」

「正しい」

 鉄志が縄の途中へ木片を差し込む。

「ここに機械式の遊びを入れる。暖房側が半回転遅れても、病院の補助は引かれない」

「半回転より遅れたら」

「病院側が自分で切る」

 病院係が首を振った。

「夜勤は一人です。患者呼出しが重なれば、地下まで来られない」

「増員」

 中央の若い実務者が言った。

「予算が」

 轟が返す。

「今、増員と言ったのは誰だ」

「私です」

「名は出さない」

「勤務番号で記録します」

「賃金も」

「試算します」

「試算じゃなく、切替前に支給日を出す」

「権限が」

「権限がない人の増員は、善意の夜勤だ。善意は疲れると故障する」

 検針員が笑った。

「機械みたいに言う」

「機械より壊れ方が多い」

「修理は」

「休む。食う。交代する。金を払う」

「図面にない」

「今から描く」

 轟は五つの円盤の外側へ、六つ目の四角を書いた。

《交代》

 七つ目。

《食事》

 八つ目。

《賃金》

 九つ目。

《戻す人》

「多い」

 鉄志が言う。

「機械より?」

「人間のほうが配線が多い」

 二度目の試験。

 暖房を切る。

 木片が遊びを受ける。

 病院側は倒れない。

 しかし、上水の円盤が半周した。

「また失敗」

 検針員が言った。

「正しい」

 轟は縄を切らない。

 どの結び目が引いたか、全員で指を置く。

 中央の図面では一本の線だった場所に、地域では九つの仕事があった。

 三度目の試験は、昼食を先に入れることになった。

 空腹の手で成功しても、本番の手順にはならないからだ。

 午前十時四十八分。

 旧熱交換室へ、湯気の立つ鍋が運び込まれた。

 土門小麦本人ではない。

 共同厨房の若い調理係が二人。

 鍋の蓋へ、送り主、受取人数、アレルギー、返却時刻が書かれた紙を貼っている。

《送り主――南環共同厨房》

《受取――地下作業員十二名》

《豆なし、乳なし》

《鍋返却――本日十九時》

 鉄志が紙を見る。

「豆なし」

「食うな」

 轟が言った。

「豆がないことを言った」

「豆を待つ顔だった」

「俺は豆で働いてるんじゃない」

「何で働いてる」

「賃金」

 調理係が鍋を置く。

「今日の分は、調査費から出ています。明日以降は未確定です」

 鉄志が箸を止めた。

「誰が言わせた」

「小麦さんです」

「正しいな」

「飯がまずくなる」

「だから食う前に言うそうです」

 中身は、麦と根菜の粥だった。

 薄い。

 温かい。

 鉄志は一口食べ、塩を足さない。

「止める仕事が三日を超えたら、厨房も人を増やす」

 轟が紙の裏を読んだ。

「増員分の賃金。燃料。夜食。手袋。全部、仮見積もり」

「停止したら、回収炉食堂の連中が余る」

「余らん」

「仕事がなくなる」

「鍋を作る仕事はある」

「今日だけだ」

「だから、明日を決める」

 鉄志が粥をすすった。

「炉を止めた後、食堂を共同厨房へ移す。簡単に言うなよ」

「言ってない」

「顔が言った」

「俺の顔は柱だ」

「柱にも傾きはある」

 迅は粥を食べながら、古い配電図へ目を落としていた。

「ここ」

 箸の先で、黄線の脇を示す。

「暖房の戻り管が、病院の滅菌蒸気へつながってる」

「熱だけだ」

 鉄志が言う。

「止めたら」

「滅菌器は電熱へ切り替わる」

「電熱は青」

「病院補助」

「青を手動へ移す前に黄を落とせば、手術器具が足りない」

 ミソラが粥の椀を持ったまま顔を上げた。

「何時間」

「電熱が安定するまで四十五分。古い記録なら」

「今の器具量は」

「病院へ聞け」

「聞く」

 ミソラは食べかけの椀を机へ置いた。

 轟が止める。

「食ってからだ」

「四十五分で一件入る」

「三分で食え」

「急ぐと吐く」

「五分」

「命令?」

「荷重制限」

 ミソラは椀を見た。

「私の?」

「床の。倒れたら二人で運ぶ」

「二人の時間を使う」

「だから食え」

 ミソラは反論せず、椀を持ち直した。

 鉄志が小さく笑う。

「医者を食わせるのに、建築用語が要るのか」

「医者じゃない」

 ミソラが言った。

「まだ」

「その訂正は腹が減るか」

「減る」

「なら食え」

 五分後、ミソラは病院へ連絡を入れた。

 現時点の滅菌済み器具。

 次の手術予定。

 電熱切替の試験時刻。

 手動運転中に使えない区画。

 一つずつ訊く。

 電話の向こうは、最初に「中央の指示待ちです」と答えた。

「中央は、患者の腹を開けますか」

 ミソラが訊く。

 答えが止まる。

「現場の人へ代わって」

 別の声が出る。

 器械係。

 器具は足りない。

 午前中に二組を追加滅菌できれば、夜まで持つ。

 ただし、蒸気圧が今より下がれば、既存の滅菌も保証できない。

 轟は黄線へ、四十五分ではなく二時間と書いた。

「長い」

 迅が言う。

「安全側だ」

「二時間あれば、反証は何回送られる」

 イオが相談票を見ながら答えた。

「現在平均なら四回。上昇時は八回」

「四十八人へ」

「均等じゃない。昨日の記録では、一人へ最大三・七倍」

 部屋の空気が、粥より冷えた。

 鉄志が箸を置く。

「誰だ」

「番号だけ」

「年齢」

「十六」

「名前」

「出てない」

「病院の二時間で、十六歳へ八回」

「病院の器具を切れば、今夜の手術へ間に合わない」

「だから分ける」

 轟は言った。

「同じ言葉ばかりだな」

 迅が見る。

「同じ柱を何度も測ってる」

「測るたび、人が増える」

「最初からいた」

 轟は白墨を持つ。

 黄線の横へ《滅菌二時間》

 青線の横へ《代替電熱試験》

 黒線の横へ《一時間ごと反証量》

 六本目の患者線へ《手術予定》

 その下へ、新しい線を一本引いた。

 十六歳。

「名前がない」

 鉄志が言う。

「公開されてない」

「線だけじゃ、人じゃない」

「勝手に名前を作るよりいい」

 イオが答えた。

「番号は」

「使わない」

「どう呼ぶ」

「十六歳の一人。今はそれだけ」

「足りないな」

「足りないまま決めることを記録する」

 イオは止まった時計を一つ、工具箱から出した。

 明日班の机から持ってきたものではない。

 相談者が修理を断った時計。

 午前十一時十二分で止まっている。

「何だ」

「四十八人目の場所へ置くか迷ってる」

「今、十一時十二分じゃない」

「だから嘘をつかない」

「止まってる」

「止まってるものは、止まってると分かる」

 鉄志は時計を裏返した。

 裏蓋に、細い文字が刻まれている。

《再起動を望む》

「誰の」

「公開しない」

「何で持ってきた」

「止める図面へ、止めたくない人も載せるため」

 轟は七本目の線を消さなかった。

 その横へ、八本目を引く。

 再起動希望。

 白い床は、配電図より人の事情で埋まり始めた。

 機械を止めるには、機械だけを見れば足りない。

 足りないから、機械屋は機械を見てきた。

 そうしなければ、手を動かせなかった。

 けれど、手を動かすために切り落としたものが、今は全部、床へ戻ってきていた。