第268話 第十二章「白衣路」後編
午後六時四十分。
搬入口の机に、返す物が並んだ。
借りた酸素瓶の固定帯。
病棟から持ち出した毛布。
四号車の所有記録。
破損した前照灯のガラス。
患者の移送を保留した車両板。
角を切った触覚札の未使用分。
返せない物もある。
使用中の酸素瓶、二本。
血で廃棄した毛布、一枚。
切断した放送線。
亡くなった人の時間。
返せない物を、返却表から消さない。
「酸素瓶二本、病院へ移管」
澪。
「借用ではなく?」
病院事務員。
「患者が使ってる。返却時刻を約束しない」
「費用」
「帰路班と病院、半分」
「どうして半分」
「搬送中止の判断は私。使用判断は病院」
ミソラが口を挟む。
「酸素を使ったのは患者」
「患者へ請求?」
事務員。
「しない」
「では誰が」
「今、決めない」
澪。
「会計は必要です」
「必要。でも、退院条件にしない」
小麦が厨房から帳面を持ってくる。
「食事代も」
「誰の」
「患者、家族、帰路班、空白の旗、病院職員、侵入者」
「分ける?」
事務員。
「食べた量は分ける。払う責任は、後で話す」
「侵入者へ無料?」
「治療食は、治療」
「捕まえた人へ」
「空腹は所属を聞かない」
「また中立」
「違う。腹」
小麦は帳面を開く。
米。
塩。
乾燥豆。
燃料。
働いた時間。
善意という一行にしない。
「小麦さんは、誰に請求する」
タマキ。
「払える所」
「雑」
「払えない人から取らない。払える人が払わないのは許さない」
「基準」
「帳面」
「強い」
「鍋もある」
事務員は、侵入者の食事欄を見て困った顔をする。
真琴が言う。
「行為審理の費用と治療中の食費を相殺しないでください」
「相殺すれば簡単です」
「簡単にすると、治療を受けたことが刑罰になったり、侵入したことが無料治療で消えたりします」
「欄が増える」
「生きている人は、欄が多い」
「またそれ」
砂が処置室の入口から言う。
真琴は振り返る。
「覚えましたね」
「嫌でも」
「教育効果」
「嫌」
砂の右脇腹には厚い包帯。
食事代の公開範囲を問われ、答える。
「医療会計まで。行為記録へはつなげない」
「受けました」
「払う」
「今?」
「金、ない」
「では支払方法は後」
「働く」
「治療中の労働を支払条件にしません」
「借り」
「借りにするかも、後で選べます」
「全部、後」
「今決めると、傷が返事をする」
砂は黙った。
自分の腹を押さえる。
痛みの中の同意は、同意でないとは限らない。
だが、痛みが決めた範囲を後で見直せるようにする。
それが、病院に残った遅さだった。
午後七時十一分。
七瀬は記録の写しを配った。
病院へ一部。
帰路班へ一部。
患者本人へ、本人範囲。
家族へ、本人または家族が選んだ範囲。
侵入行為記録は、治療記録と分離。
「原本は」
澪。
「三か所」
「原本が三つ?」
「同時に取った記録が三つ。どれか一つを正本にしない」
「食い違ったら」
「食い違いを残す」
「決めない?」
「判断が必要な時に、誰が何を根拠に決めたか残す」
「録音停止の部分」
「停止時刻と、本人希望で止めたことだけ」
「中身は」
「ない」
「本当に?」
「録っていないものを、持っている顔で答えない」
七瀬は左肩の固定帯を直す。
「見えない記録、続ける?」
澪。
「必要な場所では」
「暗くない」
「見えないことは、暗さだけじゃない」
「所属」
「気持ち。後悔。言わなかったこと」
「撮れない」
「撮れないと書く」
「仕事になる?」
「なるようにする」
澪は自分の写しを受け取る。
中止した便。
解除した空床。
盗まれた車。
負傷した乗員。
病院へ残した酸素。
成功報告ではない。
帰った人の数だけを書けば、帰れなかった判断が消える。
「この手順、誰の物」
病院事務員が白布を指す。
「誰のでもない」
澪。
「では、勝手に変えていい?」
「変えた人、時刻、理由を残す」
ミソラ。
「承認は」
「現場ごと」
「統一しないと混乱します」
「統一した声で、昨夜は全員が動きかけた」
凱。
「何も統一しないのも危険だ」
真琴。
「最低条件だけ」
澪。
「本人選択。医療。経路。受入」
ミソラ。
「四つ」
「順番は固定しない」
「足りない時は」
「保留」
白い三本目の布。
進まないための道。
事務員は納得しきらない顔で、四項目を書き写す。
看板は作らない。
誰かの所有物にしない。
それでも、次に使う人がゼロから迷わない程度には残す。
制度になる直前の、仕事の形だった。
午後七時四十七分。
最後の救難車が出た後、搬入口の白布を畳む。
三本を一緒にしない。
搬入。
搬出。
保留。
それぞれ別の袋へ入れる。
「また使う?」
隊員。
「洗ってから」
「血が付いてる」
「だから洗う」
「捨てない?」
「布は使える」
「道も?」
澪は答えない。
道は保管できない。
手順なら残せる。
病院へ戻る。
廊下の灯りは、ほとんど戻っていた。
薬庫。
手術室。
家族待合。
階段。
明るくなった場所には、修理の跡が見える。
壁の傷。
新しい配線。
色の違う車輪止め。
角を切った札を入れる箱。
東病棟の奥だけ、暗い。
休息区画。
眠っている患者。
薬が抜けるのを待つシキ。
夜通し働いた職員。
灯りを消すことを、敵に奪われたままにしない。
休むために消す。
目を守るために消す。
見られないために消す。
暗闇にも、本人が選べる用途がある。
澪は廊下の入口へ、低い鈴を一つ置いた。
高い音は鳴らない。
床へ触れる木の舌が、足元だけを震わせる。
ミソラが奥から来る。
「帰らない?」
「帰る」
「今」
「今」
「右耳」
「変わらない」
「診察」
「受けた」
「いつ」
「次に来た時」
「期限」
「決めない」
「逃げる」
「仕事」
「同じにする人、多い」
「あなたも」
「私は病院に残る」
「逃げる場所が病院」
ミソラは少し考えた。
「そうかも」
「認める?」
「認めることと、出ていくことは別」
「全部、別」
「違うものだから」
澪は三本の真鍮笛を胸へ戻した。
一番高い笛。
中間の笛。
床へ響く低い笛。
聞こえない音がある。
だから、聞こえるふりをしない手順を持つ。
ミソラは赤と青の手袋を外し、洗浄箱へ入れた。
「また」
澪。
「必要なら」
「必要になる」
「未来を決めない」
「連絡方法は決めた」
「それで十分」
「受けた」
澪は踵を返す。
暗い廊下の奥で、車輪が一度だけ鳴った。
誰かが寝返りを打ち、薄い布が床を擦る。
鈴は鳴らなかった。
鳴らす必要のない夜が、そこに残っていた。