第269話 第一章「勝てない地図」前編
五月十九日 午前五時四十六分
勝てない地図は、負け方まで描いてくれない。
鷹取由良は、外環第六臨時拠点――青石台の指揮所で、三枚の地形図を一枚に重ねた。
一枚目は天環側の軍用図だった。敵の推定位置、火器の射程、補給車が通れる幅。赤い線は多く、生活の道は少ない。
二枚目は剛嶺の斥候図だった。斜面の風、石灰層の割れ目、雨の翌日に沈む地面。家が動いていた頃の印が残り、止まった今の道と少しずつずれている。
三枚目は青石台の住民が使う生活図だった。水汲み場、洗濯場、山羊の柵、墓地へ行く近道、子どもが石を投げるためにだけ使う崖のくぼみ。軍用図では空白の場所に、いちばん多くの線があった。
由良は三枚の角を揃えず、わざと三センチずつずらした。
「気持ち悪いな」
竜胆迅が言った。
色褪せた紺の学ラン。右手首の赤い七結び。机の端に腰を預け、図より先に窓と扉を見ている。右掌の擦過傷はもう閉じていたが、朝の冷えで環指と小指が少し遅れるらしく、地図を押さえるのは左手だった。
「揃えたら、一つの地図に見える」
「三つなんだろ」
「だからずらしてる」
「勝てる線は」
「ない」
由良は北の補給路へ赤鉛筆を置いた。
「北から来る物資は、昨夜で途切れた。西の採石路は二日もつ。南の稜線は人なら通れるけど、車両は無理。井戸はあと四日。燃料は、暖房を止めて六日。弾薬は数字だけなら八日」
「数字だけじゃないなら」
「撃つ人が三日で眠れなくなる」
「寝かせれば」
「交代要員が足りない」
「外から」
「来ない」
迅の踵が床を一度擦った。
戦う前の癖だ。
ただし今、彼の前にいるのは敵ではない。鉛筆と紙と、数字だった。
「俺が北へ出る」
「何をする」
「補給線を止めてる班をどける」
「何時間」
「半日」
「半日を何に使う」
迅は答えなかった。
由良は赤索を左の人差し指へ巻いた。一周。二周。
「戦えば時間は稼げる。分かってる。でも、稼いだ時間を置く場所がない」
「人を休ませる」
「休んだ後は」
「また戦う」
「その次は」
「また稼ぐ」
「最後は」
迅は窓の外を見た。
青石台は古い採石場の段丘へ作られている。青灰色の岩盤を削った三段の平地。最上段に通信丘と指揮所。中段に野戦厨房、物資倉庫、診療棟。下段に仮設住居と車両置場。名前は石の色から来た。青くはない。朝の光の中で、冷えた灰に見える。
最下段の門から、三本の道が伸びていた。
北へ下る舗装路。
西へ蛇行する採石路。
南へ細く上がる稜線道。
どの道にも人がいた。
朝の水を運ぶ者。
車輪を点検する者。
診療棟の窓を開ける者。
昨夜の見張りを終えて、靴を脱ぐ者。
地図の上では点だ。
地上では、眠そうな顔をしている。
「最後は、誰かが撤退を言う」
由良が言った。
「それを言わないから、今ここにいる」
「言えば動く?」
「紙と車と医療と行先が揃えば」
「揃わなければ」
「叫んだ人だけ責任者の顔になる」
「顔があった方が安心する」
「安心して置いていかれる」
由良は三枚の地図を畳まず、迅を連れて指揮所を出た。
地図の上で決める前に、地図へ書かれていない遅さを見るためだった。
中段の水場では、老人が二つの桶を洗っている。片方にはひびが入り、鉄輪で締めてあった。
「その桶、持っていく?」
「どこへ」
「まだ三つある。北、西、南」
「井戸がある方」
「全部、着いた先にはある」
「この桶が使える井戸」
老人はひびへ指を沿わせた。
「口の広さが違う。北の新井戸は、これが入らん」
軍用図には、井戸口の直径まで書かれていない。
由良は生活図へ《桶・口径四十二》と追記した。
「桶を持つなら、荷を一つ減らす」
「服を減らす」
「本人が決める」
「もう決めた」
老人はひびの桶を残し、無傷の桶を選んだ。
「壊れた方じゃない?」
迅。
「壊れた方は、この井戸に合う。残る人へ置く」
「残るって決めた人がいる?」
「井戸番は交代で残る。土地を空にしない」
迅は地図の赤線ではなく、桶の底を見た。
ひびの周りだけ、長く使われて白くなっている。
仮設住居の前では、女性が小さな焼き窯の灰を掻き出していた。
「出発まで火を入れないで」
「もう消した」
「灰が熱い」
「パンが二十枚ある」
「持つ?」
「冷めるまで動かせない」
「出発を遅らせる?」
「パンを捨てる?」
迅が窯の縁へ手を近づけた。
触れない。
「あと何分」
「三十五」
「敵は」
「パンを待たない」
由良。
「人も腹を待たない」
女性。
三人が黙った。
由良は地図へ《窯・三十五分》とは書かなかった。
代わりに、厨房担当へ持ち出し用の金網を頼む。パンを窯ごと冷ますのではなく、網へ移して風を通す。窯は残る。パンは持つ。火種は消す。
「近道じゃない」
迅。
「何が」
「持てないなら捨てる、の間に道具が入った」
「道具を探す時間も入る」
「それでも」
「最短じゃない」
由良は、迅が自分の言葉を返したことへ返事をしなかった。
下段では、青い石を積んでいた子どもが、今度は三つ目を載せようとしていた。
一つ目は平ら。
二つ目は斜め。
三つ目は小さい。
迅がしゃがむ。
「それ、倒れる」
「知ってる」
「じゃあ何で載せる」
「どこで倒れるか見る」
「賢いな」
「迅より?」
「比べる相手が悪い」
子どもの母親が荷をまとめながら言った。
「この子は西へ。私は北へ行くことになるかもしれない」
「なぜ」
由良。
「私は吸入薬の管理が要る。子どもは叔母のいる採石宿へ」
「別々でいい?」
「よくはない」
「同じ道へする?」
「それもよくない」
母親は子どもの頭を撫でず、三つ目の石を支える指だけ外した。
石は二秒立ち、倒れた。
「二秒」
子ども。
「前より長い」
「倒れた」
「でも見た」
由良は生活図の同じ家印から、北と西へ二本の細線を引いた。
家族なら同じ道。
それが自然だと、軍用図は考える。
身体と受入先は、自然に従わない。
「三本へ分けると、家族も分かれる」
迅。
「一つへ集めても、途中で置くことになる」
「どっちがまし」
「本人に聞く」
「時間がない」
「時間がないって言う人ほど、後で『仕方なかった』を長く使う」
由良は子どもへ訊いた。
「西へ行く?」
「お母さんとがいい」
「北は車。叔母さんは西」
「途中で会える?」
「今は約束できない」
「帰れる?」
「帰る道は残す」
「帰っていい?」
由良の答えが止まった。
迅が代わりに言わない。
子どもは、倒れた石を拾った。
「分かんない?」
「分からない」
由良は言った。
「だから、勝手に帰れないことにしない」
子どもは三つの石を一つずつ袋へ入れた。
その重さは、軍用図には載らなかった。
最下段の車両置場では、伏見轟が荷車の車軸へ耳を当てていた。
左肩を上げず、右手で車輪を回す。
「北路へ何台」
由良。
「患者車六、医療車二、予備一。九台」
「予備を西へ回せない?」
「北で一台止まれば、狭い道が全部止まる」
「西は」
「荷車二十八。うち二台、車輪交換が要る」
「出発まで」
「一時間」
「敵まで」
「もっと短いかもしれん」
「直す?」
「直す。間に合わん時は荷を分ける。車を直すために人を待たせん」
「橋は」
「落とす案が来とる」
轟の声が低くなった。
「落とす?」
「俺は反対する」
「敵も使う」
「生活者も使う」
「どっちを選ぶ」
「壊す前に、止め方を考える」
「時間がない」
「同じ言葉を使うな」
由良は少し笑った。
「私が言われる側になった」
「よくある」
そこへ、北観測所の鐘が一度鳴った。
敵発見ではない。
伝令到着の一打。
由良は歩調を速めた。
「今の半日を何に使うか、少しできた」
迅。
「何」
「桶とパンと、別々に行く親子と、壊さない橋」
「それを半日で全部決める」
「戦うより難しい?」
「戦う人へ聞けば、戦う方が難しいって言う」
「由良は」
「今は、こっち」
迅は踵で地面を擦らなかった。
指揮所へ戻ると、真壁梓が二つの時計を見比べながら命令書を机へ置いた。
鉄紺の短髪。灰青の警備外套。左手首と右手首の時計は、きっかり二分三十七秒ずれている。
「五時五十九分。北観測所から受領。敵補給車、十二台。到着予測は本日十六時から十八時」
「幅が広い」
「観測手が三人。二人は霧で見失い、一人は車軸音だけを数えた」
「正直」
「正直な報告は、精密な報告とは限りません」
「嘘より使える」
「使い方を間違えなければ」
梓は軍用図へ小さな札を置いた。
《十六時以前の可能性あり》
「青石台の撤退対象、今朝の点呼で三百十二」
「昨日は三百十七」
「五人は作戦開始前に死亡確認済みです。三人の遺体は夜間に北医療受入点へ移送。二人は現地に残り、位置、氏名、後日の返還責任を記録しています。生存者三百十二人には含めません」
「撤退って言った」
迅が顔を上げた。
「医療移送です」
「言い換え」
「分類です」
「命令がなくても道を下った」
「今回の――」
梓は言葉を止めた。
「本件の撤退対象ではない、という意味です」
「今、別の言葉が出かけた」
「疲労です」
「記録する?」
火群七瀬が、低い三脚を押して入ってきた。
銅色の髪。黒い短丈雨合羽。撮影機は左肩へ載せず、腰の支持帯と三脚へ重さを逃がしている。クランクは回っていない。
「撮ってない」
迅。
「言われる前に答えないで」
「撮ってる時は音がする」
「無音記録もあります」
「今は」
「していません。撤退時刻が敵に伝わる可能性がある。公開前提の映像は撮らない」
「じゃあ、今の言い間違いは死んだ」
「出生届がありません」
「前にも聞いた」
「進歩がありません」
由良は生活図の裏を見せた。
住民ごとの印。
丸は移動に介助が要らない。
三角は荷物が多い。
四角は医療観察が必要。
空欄は、まだ本人へ聞けていない。
「三百十二を一列で出せない」
「敵前で列を三つに割る方が危険です」
梓。
「一つにしたら、遅い人が速い道へ乗せられる」
「速度を合わせる」
「誰に」
「最も遅い人へ」
「それだと、全員が北の舗装路。敵から見える」
「隠密を優先すれば車椅子が通れません」
「だから三本」
「三本なら指揮系統が分かれます」
「分ける」
「責任も」
「分ける」
梓の指が命令書の角を折った。
「分散は、責任逃れにもなります」
「集中も」
凱が入ってきた。
白い長外套は膝下で切られ、左膝の黒い装具が見える。胸の割れた青銅鐘へ触れず、入口の横へ立った。彼が中央へ行けば、部屋の全員が無意識に向きを揃える。それを避けるように、地図の斜め後ろへ位置を取る。
「一人へ集めれば、失敗した時にそいつだけを罰して終われる」
「一人なら、決断は速い」
梓。
「俺は速かった」
「知っています」
「速く捨てた人間もいる」
部屋の空気が、紙一枚ぶん重くなった。
「青石台を守り切る見込みは」
凱。
梓は二つの時計を見た。
「現戦力、現補給、現地形では、ありません」
「いつから分かっていた」
「昨日の二十三時十八分」
「報告は」
「零時四分」
「四十六分」
「車両数の再確認に使いました」
「判断を遅らせた?」
「精度を上げました」
「その二つは両立する」
梓は答えず、命令書を裏返した。
裏面には、古い様式が印刷されていた。
《外環第六臨時拠点 戦術的後退命令案》
戦術的。
後退。
撤退ではない。
言葉を一つ柔らかくするたび、誰かの責任も薄くなる。
「案はある」
由良。
「昨夜、運用局から送られました」
「署名は」
梓は紙を表へ戻した。
下段に六つの欄がある。
《発令責任者》
《現地指揮責任者》
《医療移送責任者》
《区間保全責任者》
《住民合意確認者》
《最終受領確認者》
全部、空白だった。
「誰も書いてない」
七瀬。
「案ですから」
「案を回覧した時刻は」
「二時十一分」
「四時間近く、空白のまま人に読ませた」
「署名権限の照会中です」
「誰へ」
「中央運用局、天環外環調整所、剛嶺区間評議、共同境界警備」
「多いな」
迅。
「返事は」
「中央は受領済み。回答なし。外環調整所は現地判断を尊重。剛嶺側は区間ごとに判断。共同警備は上位命令待ち」
「全員、別の人を指してる」
由良。
「指してはいません」
「書いてないだけ」
凱は空欄へ指を置かなかった。
「俺に書けと言われる」
「誰から」
七瀬。
「まだ誰からも」
「予測を事実みたいに言わないで」
「分かった」
「今の『分かった』は何を」
「俺が予測したと記録する」
「それなら」
由良は三枚の地図を、さらにずらした。
天環の赤線。
剛嶺の風線。
住民の生活線。
重なる場所が少ない。
「拠点を捨てる」
由良が言った。
「でも、土地を捨てるって言い方もしない。ここに残る人がいる」
「残留を認める?」
梓。
「本人が残るのと、命令が置いていくのは別」
「医療上、残せない人もいる」
「ミソラに聞く」
「防衛上、残せない設備も」
「轟に聞く」
「敵へ渡せない情報」
「七瀬と真琴」
「命令は」
「書ける人が、自分の範囲だけ書く」
「六人の署名が揃うまで動けません」
「揃わなければ」
「命令として成立しない」
「人は、成立しない紙と一緒に死ぬ?」
「だから急いでいます」
「急いで空欄を回してる」
由良の赤索が三周目へ入りかけた。
そこで止める。
「撤退を言う人がいないんじゃない」
凱が静かに言った。
「撤退を言った後、自分の名が残ることを恐れている」
六つの空欄は、一つの机へ置かれている限り、六人とも同じ理由で黙っているように見えた。
由良は命令書を六部に分けた。
「勝手に持ち出すな」
梓。
「回覧済み」
「原本の写しです」
「だから、行く」
「どこへ」
「空欄の場所」
最初は診療棟だった。
医療移送責任の欄を、ミソラは読んだ。
《撤退対象者の安全な移送を完遂する》
「完遂できなかったら、私は署名違反?」
「そう読める」
真琴。
「患者が途中で行先を変えたら」
「変更が失敗扱いになる」
「残るを選んだ四人は」
「撤退対象外へ外したことにされる」
ミソラは署名しなかった。
代わりに赤鉛筆で三つ書く。
《移送する患者》
《残る患者》
《途中で決め直す患者》
「署名拒否?」
由良。
「この文章を拒否」
「撤退は」
「医療区間なら引き受ける」
空欄は、逃げではなくなった。
次は橋梁班。
交通責任の欄には、《退路を確保し、敵追撃を阻止する》とあった。
守屋は一行目へ丸を付け、二行目へ×を付けた。
「阻止は無期限だ」
「時間を書けば」
轟。
「何分」
「必要な分」
「必要を誰が決める」
守屋は由良を見る。
「受領札の通過時刻」
「最後の札が遅れたら」
「橋を守る時間も延びる?」
「延ばさない。経路を変える」
轟が門柱の寸法を書いた紙を出した。
「橋を落とせば、追撃は止まる」
「帰路も止まる」
「知っとる」
「なら署名できる?」
「壊さず止める手順が決まれば」
交通欄も空白のまま、条件だけが増えた。
三つ目は長屋の住民代表。
誰が代表かで、最初に二十分使った。
水汲み当番は、自分は水のことしか分からないと言う。
厨房係は、食事を作る人が行先まで決めるのは危険だと言う。
長屋の年長者は、若い人の荷と仕事を知らない。
「一人を選ぶ必要ある?」
迅。
「欄が一つ」
梓。
「欄を増やす」
真琴。
「原様式の変更権限が」
「命令の対象者が、様式より多い」
住民合意の欄は三つに分かれた。
《移動条件の確認》
《残置物の確認》
《行先変更の窓口》
三人が別々に引き受ける。
まだ誰も署名しない。
ただ、何へなら署名できるかが見えた。
四つ目の最終受領欄で、南野は椅子に座ったまま紙を読んだ。
「全員の到着を確認する、か」
「できる?」
由良。
「一人で?」
「欄は一つ」
「受領点は三つ」
「欄を増やす」
「最近の法務は増築が好きですね」
真琴が眼鏡を押した。
「空室へ人を詰めるより安全です」
「俺は運転できない」
「受領台は運転しない」
「到着した人を見に行けない」
「札が来る」
「札だけなら、人の代わりに紙を数える」
「受入側の復唱も付ける」
「声も偽れる」
「本人確認の手順を付ける」
「長くなる」
「だから、あなたが読む」
南野は紙を鼻へ近づけた。
「命令の匂い、薄くなった」
「責任の匂いは」
「汗臭い」
「署名する?」
「手順が届いたら」
由良は六枚を指揮所へ戻した。
署名は一つも増えていない。
それでも、空白の形は変わった。
何も決めていない白ではない。
書けない理由と、書ける条件の残った白だった。
「時間を使った」
梓が二つの時計を見る。
「三十八分」
「敵は近づいた」
「そう」
「得たもの」
由良は六枚を並べた。
「署名できない文が分かった」
「命令はまだない」
「間違った命令も、まだない」
「それを成果と呼ぶ?」
「今は、経過」
七瀬が撮影機を回さず、時刻だけを記録した。
決まらなかった三十八分も、誰かが怯えて黙っていた時間へはしない。
指揮所の扉が開く。
瀬尾直が、三本の水筒を胸へぶつけながら入ってきた。
「北、北の観測所から。伝令です。二回目」
息が上がっている。透明保護眼鏡が曇り、右肩が少し下がっていた。
「誰から」
タマキが廊下から顔を出した。
緑のニット帽。胸より大きな鉄箱。
「観測所の森口班」
「誰へ」
「青石台の現地指揮」
「何のため」
「敵の到着時刻、訂正」
瀬尾は紙札を梓へ渡した。
梓が受領時刻を書く。
六時十八分。
「内容」
「敵補給車じゃない。空荷の追撃車が混じってる。十二台のうち、荷を積んでるのは四。残り八は人員輸送」
「到着は」
「十四時台」
部屋にいる全員が、空白の署名欄を見た。
敵は二時間早く来る。
由良は地図の青石台へ、小さな×を付けた。
「ここは守れない」
凱が由良を見る。
「断言するか」
「する」
「誰の名で」
「鷹取由良」
「剛嶺の?」
「私の」
凱は一拍置いた。
「受けた」
瀬尾の札を受け取った後、由良は三枚の地図を床へ移した。
机では狭い。
「全員、自分が持ち帰らないと困る物を一つ置いて」
「撤退対象の選定ですか」
真琴。
「物の方。人は名簿で聞く」
「なぜ」
「守りたい物が分かれば、捨てる順番を隠せない」
最初に轟が、橋の回転軸へ使う太い割りピンを置いた。
「橋を壊さず止めるなら要る」
七瀬は、未使用の磁気テープを一本。
「撤退時刻と経路は撮らない。代替の音声記録へ使う」
真琴は、空の紙ばさみ。
「署名済み原本と、本人控えと、非公開控えを分けます」
凱は胸の鐘へ触れず、黒い膝装具の予備留め具を外した。
「予備が必要ですか」
七瀬。
「途中で切れれば、歩行速度が変わる」
「本人を物として置かないで」
「装具の部品だ」
「凱が使う部品」
「なら、使用者名を付ける」
梓は二つの時計の間から、小さな鍵を出した。
「通信丘の時刻盤。撤退後、敵へ渡せない記録は外す。盤そのものは残す」
「鍵だけ持つ?」
由良。
「再設置か返却まで保管」
「帰らないなら」
「返却先を探す」
「返却先が敵なら」
「所有者を確認する」
「時間がかかる」
「鍵は待てます」
迅は何も置かなかった。
「持ち帰る物がない?」
由良。
「赤紐」
「もう持ってる」
「じゃあ靴」
「履いてる」
「そういう問題じゃない」
「人は名簿で聞くんだろ」
「迅が持ち帰らないと困る物」
迅は右ポケットを探り、三通の封筒を出した。
角が擦れ、まだ開けられていない。
「手紙?」
七瀬。
「母親から」
「三通」
「数えなくていい」
「公開しない」
「中身も知らない」
「読まない理由は」
「今は地図の話」
「逃げた」
「撤退した」
迅は封筒を地図の外へ置こうとした。
由良が止める。
「どの道」
「俺が持つ」
「受領先は」
「ない」
「じゃあ、紛失したら確認できない」
「俺が困る」
「それを書け」
真琴が紙ばさみへ《竜胆迅私物・未開封書簡三・本人携行》と書いた。
「大げさ」
「あなたが死んだら、勝手に開ける人が出ます」
「死なない」
「保証できますか」
迅は黙った。
「本人死亡時も開封不可。返却先は本人指定まで保留」
真琴が追記する。
「そこまで」
「必要です」
迅は三通を内ポケットへ戻した。
受領札とは別の脇。
由良は、自分の赤索の予備フックを地図へ置いた。
「帰巣線〈ホームワイヤー〉が使えなくても、普通の索道に使う」
「能力を使う前提じゃない?」
迅。
「帰っていい場所が確認できた時だけ」
「確認できない時」
「走って聞く」
「由良が走ると、話を聞かない」
「今日は止まる」
「何分」
「相手が終わるまで」
「長いな」
「戻せる」
床の地図には、武器より生活道具が多くなった。
橋のピン。
記録テープ。
紙ばさみ。
装具の留め具。
時刻盤の鍵。
赤索のフック。
誰かが持ち帰る物は、誰かが置いていく物でもある。
「勝利条件を決める」
凱が言った。