第323話 第四章「公開判定」前編
規則の欠陥は、たいてい余白に出る。
書いた人間が忘れた場所ではない。
書いた人間が、書けば責任になると知っていて空けた場所だ。
朽葉真琴は、成人能力判定規則の結果票を窓へ透かした。
紙は上等だった。
透かしには中央審査局の紋章。
改竄防止の銀糸。
本人署名欄は、右手でも左手でも書ける幅がある。
問題は中央だった。
《成功》
《失敗》
《判定不能》
三つの四角。
その下に、小さな備考欄。
発動したが遅れた。
発動したが対象を誤った。
発動したが本人が停止した。
発動しなかったが、能力以外の技能で作業を終えた。
人間が生きる部分は、全部そこへ押し込まれる。
「欄を増やします」
真琴が言うと、審査主任は眼鏡を外した。
五十代の女性だった。
白髪を短く切り、左の耳だけに補聴器を着けている。
「当日の公式票は変えられません」
「紙を刷り直す時間は四日あります」
「市内標準です」
「市内標準で人間が三種類になるのですか」
「結果が三種類です」
「結果を作る分類が先にある」
「朽葉さん。あなたは申請者側の法務補助です。審査票の設計者ではありません」
「だから質問しています」
「質問が、決定の遅延になっています」
「遅延の責任者は誰です」
審査主任は眼鏡を戻した。
「私です」
主語が出た。
真琴は一瞬だけ言葉を失った。
相手が逃げないと、追う側は自分の速さを見せられる。
「では、あなたの名で、部分発動と反証増大を備考欄へ記録する運用指示を出してください」
「出せます」
「口頭ではなく」
「書きます」
「申請者側にも同時交付」
「認めます」
真琴は用意していた三つ目の反論を使えなかった。
使えない反論は、舌の裏で酸っぱくなる。
「ありがとうございます」
怒っていない敬語を言うのは難しい。
審査主任は書類へ署名した。
真琴は署名を確認し、写しを取る。
その横で、水科イオが別の紙を眺めていた。
「能力欄が大きい」
「能力判定ですから」
「職歴欄、二行」
「目的が違う」
「住居欄、ない」
「判定に住居は関係ありません」
「判定の翌日にはある」
イオは結果票の裏へ、鉛筆で三つの四角を書いた。
《明日の仕事》
《明日の住居》
《明日の医療》
「公式票へ落書きしないでください」
「見本」
「見本でも公文書です」
「裏は白い」
「白いのは、使ってよいという意味ではない」
「使ってはいけないと書いてない」
真琴は眼鏡の左つるを上げた。
イオも真鍮装具の刻みを一つ触った。
二人の間で、紙が急に狭くなる。
「その論法は嫌いです」
「私も」
「誰があなたをここへ入れたのです」
「獅堂凱」
「凱が?」
「能力を失った側の立会いが要るって」
「あなたは失った側を代表しません」
「本人へも言った」
「それでも来た?」
「代表じゃない立会い」
真琴は答えを探した。
規則にはない。
ないから排除できる。
ないから残せる。
どちらも可能なとき、法務は自分の好みを規則に見せかけやすい。
「席を一つ用意します」
「能力者席?」
「立会補助」
「能力欄、消せる?」
「消しません」
「なぜ」
「何を判定したかが分からなくなる」
「じゃあ、隣に技能欄」
「結果票の変更は――」
言いかけて、真琴は止まった。
自分がさっき要求した。
部分発動の備考を増やせ。
自分に都合のよい変更は必要で、相手の変更は目的外。
規則は人を裏切らない。
人は、規則を盾にする順番で自分を裏切る。
「補助票を作ります」
「今?」
「本番前です」
「終業は」
「終わるまで」
イオの目が細くなる。
「その働き方、元能力者相談へ来る?」
「私は能力を失っていません」
「時間を失ってる」
「比喩を雑に使わないでください」
「十二時四十六分。怒った」
「時刻を付けるな」
真琴は紙を一枚出した。
技能。
補助具。
停止希望。
判定後に必要な仕事、住居、医療。
欄を作り始める。
審査主任が、それを見ていた。
「公式票へ添付するなら、本人同意と審査側署名が要ります」
「署名しますか」
「内容を見てから」
「当然です」
「あなたは、当然を言う時だけ少し嬉しそうですね」
真琴は返事をしなかった。
七月四日、午後三時。
旧王環競技場の能力判定室に、二百十脚の椅子が並べられた。
証者候補が座る。
一般席はまだ開けていない。
公開判定の事前試行だが、結果は本審査資料へ入る。
中央床には、白線で三つの区域が描かれていた。
第一区域、指揮者。
第二区域、作業班。
第三区域、保護対象。
試験内容は単純だった。
上方の足場から、砂袋十二個が異なる時刻で落ちる。
作業班三十人を動かし、保護対象役十人を安全区画へ移す。
凱は身体で砂袋を受けてはいけない。
能力を使わず指示してもよい。
能力を使った場合、発動遅延、対象範囲、反証を測る。
「砂袋は何キロです」
轟が訊いた。
「一個二十五」
「結び目」
「二重」
「落下機の停止は」
「審査主任と医療者」
「現場で見た者は」
「非常紐を引けます」
「引いたら失敗?」
「判定不能の可能性」
轟は低く唸った。
「人を避けて失敗か」
「安全停止は評価します」
「どこに」
「備考欄です」
真琴の胃が痛んだ。
「補助票へ主欄を設けました」
自分の紙を示す。
《停止判断》
一番上に置いた。
審査主任が署名している。
「本票の結果と同時に読み上げます」
轟は頷いた。
「床は、少し持つ」
「人間について言ってください」
「人間は、床より先に避ける」
「それを聞きたかった」
真琴は結果票を抱えた。
凱が中央へ入る。
白い長外套を着ていた。
事前試行である。
王の衣装は不要だ。
それでも着た。
「なぜ外套を」
真琴が訊く。
「証者の認識条件を過去と揃える」
「実験としては理解します」
「反対か」
「あなたが、最も力の出た自分を再現しようとしている点に」
「比較には基準が要る」
「基準へ身体を合わせるのですか」
「身体を測る」
凱は胸の鐘へ触れた。
指が震えている。
黒手袋を外し、右手は素手だった。
命令を出す手。
「開始」
審査主任。
上方で歯車が回る。
第一の砂袋が落ちた。
凱は叫ばない。
「第一班、右へ三歩。保護対象二人を白線内へ」
作業班が動く。
能力は出ない。
指示を聞いた人間が、自分で右を確認し、三歩動く。
砂袋が床を打つ。
安全だった。
第二。
「第二班、支柱の内側。持ち上げるな。押してずらせ」
轟が頷く。
作業班は砂袋の進路へ長板を差し、落下位置を変える。
第三。
第四。
凱の指示は正確だった。
能力がなくても、現場を知っている。
真琴は補助票の技能欄へ書く。
《人数分割》
《荷重回避》
《固有名による復唱》
第五の砂袋が落ちる直前、保護対象役の一人が予定外に白線を越えた。
十六歳ほどの少年。
演技ではない。
足元の留め具へ靴紐が引っかかり、前へ転んだ。
砂袋は真上。
「止まれ!」
凱の声が競技場を打つ。
胸の鐘が光らない。
少年は転んだまま、顔を上げる。
「全員、止まれ!」
二度目。
今度も出ない。
轟が動く。
左肩は上げない。
右足で長板を蹴り、砂袋の下へ滑らせる。
迅が少年の腰帯をつかむ。
引く。
砂袋が長板へ当たり、進路が半身ずれる。
それでも少年の右脚へ落ちる角度だ。
凱が前へ出た。
試験条件では、身体で受けてはいけない。
左脚を引かない。
右肩を砂袋へ入れる。
「獅堂!」
医療者の停止声。
その瞬間、胸の鐘が遅れて鳴った。
《王路不退》が発動する。
白い道が凱の足元から広がる。
止まれという二度の命令が、遅れて作業班へ届いた。
三十人が同時に足を固定する。
長板を押していた二人の手が止まる。
轟の蹴った板も、途中で止まる。
少年を引いていた迅の右足が床へ縫い付けられる。
砂袋だけが落ちる。
凱は右肩で受けた。
二十五キロ。
落下距離四メートル。
衝撃が鎖骨から背へ抜ける。
凱の膝が折れる。
砂袋は肩を滑り、床へ落ちた。
少年には当たらない。
だが、最前列にいた登録証者の女が、白い圧で一歩前へ押し出された。
足元の記録台へ脛を打つ。
倒れる。
犬飼豪が客席の横から飛び出した。
右膝装具を着けたまま、二段を一度に下りない。
大きな身体を手すりへ預け、一段ずつ速く降りる。
女の前で掌を見せる。
「触る。いいか」
「はい」
「頭、打った?」
「打ってない」
「足、動かすな。痛い場所」
女が脛を指す。
豪は救護員へ声を投げる。
「右脛。出血なし。変形、見えない。冷やすの先」
言葉が具体的だ。
昔の豪なら、抱えて運んだかもしれない。
今は本人へ触れる許可を聞き、動かさない。
凱が立ち上がろうとする。
左膝が震える。
「判定停止」
審査主任。
「まだ十二袋のうち五だ」
「停止です」
「俺は続行できる」
「負傷者が出た」
「軽傷だ」
豪が顔を上げた。
「おまえが決めんな」
「医療所見を聞いた」
「本人に聞いてない」
凱が女を見る。
「続行へ同意するか」
真琴の背筋が冷えた。
質問の形をしている。
だが、王の衣装を着た男が、負傷した証者へ訊いている。
同意は、言葉だけでは自由にならない。
「質問を撤回してください」
真琴は言った。
凱が振り向く。
「なぜ」
「あなたの続行希望を知った後です。彼女が断る負担が大きい」
「本人の意思を聞くべきだ」
「聞く者を変える」
真琴は医療者へ向く。
「本人の治療、退席、観覧継続の希望だけを確認してください。判定続行は審査側が負います」
「俺の判定だ」
「彼女の脚です」
凱の顔が硬くなる。
真琴は怒るほど敬語になった。
「あなたは、責任を負うという言葉で、他人へ選ばせる責任まで奪わないでください」
「俺は奪っていない」
「今、奪いかけました」
客席が静かになる。
七瀬の撮影機が回っている。
全面許可ではない。
負傷者の顔は入っていない。
凱と真琴の全身、救護の動線、停止灯だけが画面にある。
凱は女から視線を外した。
「質問を撤回する」
言った。
医療者が女へ確認する。
女は治療を選んだ。
観覧席へ戻るかは、診察後に決める。
判定は停止。
女は救護区画へ運ばれた。
豪は抱えなかった。
椅子へ座らせ、左右から二人で支える。
「俺も行く」
凱が言う。
豪が止める。
「本人へ聞く」
「謝罪する」
「謝罪を受ける仕事を、怪我した直後に増やすな」
「逃げるつもりはない」
「今行く方が、楽なこともある」
豪は女へ訊く。
「獅堂が、今、話したい。会う?」
女は脚を冷却しながら、首を横に振った。
「今は嫌」
凱の顔が動かない。
「後でなら」
「分からない」
「連絡方法」
「審査局へ預ける。住所は渡さないで」
「受けた」
豪は凱へ向き直る。
「今は、行かない」
「分かった」
凱は救護区画の入口まで行かなかった。
代わりに、真琴へ紙を求めた。
「謝罪文ですか」
「まだ書けない」
「なぜ」
「俺が何を謝るか、本人が聞きたいとは限らない」
「では」
「事実と、連絡方法と、負担する範囲を書く」
真琴は三枚出す。
一枚目。
《七月四日、能力判定事前試行において、獅堂凱の誓痕圧が登録証者区画へ及び、一名が記録台へ右脛を打った》
「《及び》では、勝手に広がったように見える」
凱。
「実際に意図外へ広がりました」
「俺が発動した」
「発動は、救助行動中の遅延反応です」
「それも書く。だが、主語を消すな」
真琴は直す。
《獅堂凱が発動した誓痕圧が、意図した対象外の登録証者区画へ及んだ》
二枚目。
《診療費、移動費、当日失われた賃金、今後の通院費について、本人が請求を望む範囲を負担する》
「慰謝」
「請求を促すと、受け取る役を押しつける可能性があります」
「こちらから額を決めれば」
「口止めと受け取られる可能性」
「何も出さなければ」
「放置です」
「では、どうする」
イオが横から言う。
「選択肢を出す。請求する。後で決める。受け取らない。代理人へ相談する。金銭以外の修正を求める」
「金銭以外」
「座席配置。記録台の角。能力測定範囲。次の判定へ参加しない権利。映像公開」
凱は記録台を見る。
女が脛を打った角には、薄い金属縁が付いている。
「角を外す」
轟。
「今日中に。代わりに丸い木縁。全台」
「本人の要求前に変える?」
真琴。
「同じ怪我を防ぐ修正は先にする。本人が別の要求を出せば、別に扱う」
三枚目。
《本人への接触は、本人が希望した場合のみ。住所、家族、勤務先を獅堂凱および興行側へ渡さない》
「俺へも?」
凱。
「あなたへも」
「謝罪を」
「審査局の窓口へ預ける。本人が受領方法を選ぶ」
凱は右手で署名する。
震えで、名の最後が少し擦れる。
「連絡期限」
真琴。
「本人に期限を課すな」
「こちらの保全期限です。医療費と賃金資料を、いつまで保管するか」
「一年」
「短い可能性があります」
「三年」
「現行の負傷記録は五年」
「五年」
「本人が延長を希望した場合」
「延長」
「自動廃棄は」
「しない。本人へ確認できない時は、非公開保全」
真琴は書く。
謝罪は、一言で済む。
済むから、言った側が先に終われる。
凱は、謝罪の言葉より先に、終われない手続きを残した。
「俺が王でなくなっても、この負担は残る」
「個人責任として」
真琴。
「白冠会計へ移さない」
「興行設備の責任は、審査局にもあります」
「俺の分を分けろ」
「分けます」
凱は三枚を封筒へ入れる。
封をしない。
本人が受け取るか決めるまで、開いたまま窓口へ預ける。
豪が救護区画から戻った時、凱は封筒を渡さなかった。
「本人へ持っていくなと言われた」
「学習したな」
「審査窓口へ預ける」
「俺に見せる必要もねえ」
「医療費の範囲だけ確認しろ」
「本人の同意が出たらな」
凱は封筒を自分で持ち、窓口へ向かった。
救護区画とは反対の通路だった。
凱は一歩下がる。
王路不退の白い光が消えた床で、初めて自分から退く。
観客席の縁へ、細い白線が残っている。
凱の能力が通った跡。
中心から外へ、扇形。
保護対象だけへ向いた道ではない。
作業班も、迅も、証者も、同じ範囲へ入っていた。
「対象を絞れなかった」
審査主任が測定板を見る。
「以前より広い?」
七瀬。
「広さは一・二倍。圧は〇・六八。発動遅延、二・七秒」
「弱くなって、広がった」
イオ。
「散っている可能性があります」
「本人の意図は」
真琴。
「少年を止める。作業班を止める。砂袋を止める。三つが重なった」
凱が答える。
「砂袋は命令を聞きません」
「分かっている」
「分かっていて、身体が全部へ道を作った?」
「結果として」
真琴は白線を見る。
能力が弱くなるとは、何もできなくなることだけではない。
届かせたい相手へ届かず、届かせたくない相手へ薄く届く。
小さな力は、安全な力ではない。
豪が救護区画から戻る。
「脛の打撲。骨折所見なし。歩行は痛み次第。今日は観覧やめる」
「証者登録は」
審査主任。
「本人が辞退」
「本審査も?」
「今は決めない」
審査主任は人数表の二百十から、一人分を斜線で消す。
二百九。
「補充しますか」
職員。
凱が答える前に、真琴が言う。
「負傷者の穴を、別の人間で埋めたと記録しないでください」
「規定人数が」
「本審査までに新規登録を募ることはできます。ただし、誰かの代替ではなく、独立した参加として」
「言葉の違いでは」
「負傷者が、人数として交換可能かどうかの違いです」
凱は二百九の数字を見る。
自分の能力で、一人が抜けた。
人数を戻しても、その事実は戻らない。
「補充するなら、今日の映像と負傷記録を先に見せろ」
凱が言う。
「危険を知らずに登録させるな」
「希望者が減ります」
「減った数を使え」
七瀬はその言葉を記録した。
弱さを公開することは、強い姿を見せる勇気ではない。
見た人が離れる自由まで、残すことだった。
結果票の三つの四角が待っている。
成功。
失敗。
判定不能。
審査主任がペンを持つ。
「判定不能」
「失敗だ」
凱が言った。
「安全停止が入っています」
「俺の能力が遅れ、証者を巻き込んだ」
「技能による救助は成立した」
「迅と轟の技能だ」
「あなたの初動指示も」
「失敗と書け」
真琴は凱を見た。
「楽ですか」
「何が」
「一語で終えることが」
「事実だ」
「部分発動、遅延二回分、反証増大、身体介入、証者一名負傷、救助成立。全部が事実です」
「結論は」
「結論を一つにする必要がある?」
イオが床外から言った。
「審査だ」
凱。
「分類は要る。でも分類が生活を決める。失敗なら危険業務停止。判定不能なら再判定まで雇用保留。成功なら、今までどおり使われる」
「どれかを選ばなければならない」