第324話 第四章「公開判定」後編
「それが制度の楽さ」
イオは補助票を持っていた。
「能力欄。技能欄。停止欄。明日の仕事、住居、医療」
「王位は」
「ない」
「俺の代表資格へ影響する」
「だから、別に決めろ」
「現実は別ではない」
「別じゃないから、分ける」
凱は白い外套の肩へ付いた砂を払った。
手が震え、砂が一度では落ちない。
客席の一部から拍手が起きた。
砂袋を受けたことへの拍手。
少年を守ったことへの拍手。
失敗を認めたことへの拍手。
どの意味か、本人にも分からない。
乱馬が拍子木を鳴らした。
「いやあ、いい第一幕だ」
「判定は興行ではない」
七瀬。
「客が拍手した。幕はもう上がってる」
「あなたが座席へ拍手札を置いた」
最前列の椅子に、小さな金色の札がある。
《救助成立時 拍手》
「誘導だ」
「分かりやすい観覧案内」
「負傷が出た」
「拍手は救助へだ」
「負傷と救助を同じ場面へ置いて、都合のいい方へ意味を付けた」
乱馬は金箔化粧の下で目を細めた。
「記録屋は、意味を付けないのか」
「付けた時刻と人を残す」
「観客はそんな細かい字幕を読まない」
「読まないことを利用するな」
拍手が止む。
止めたのは観客ではない。
乱馬が手を下げたからだ。
真琴はその動きを見た。
観客の自発と演出は、完全には分けられない。
だからこそ、どちらか一語へ圧縮してはいけない。
凱が中央へ戻る。
「再判定を要求する」
審査主任。
「最短で七日後です」
「公開判定日に行う」
「同一内容は不可です」
「内容を変える」
凱は迅を見た。
迅は砂袋の結び目をほどいている。
右手ではなく左手で。
「竜胆迅」
「嫌だ」
「まだ何も言っていない」
「顔で分かる」
七瀬が小さく息を吐いた。
凱は構わず続ける。
「俺と再戦しろ」
「判定の代わりに?」
「能力が戦闘でどこまで機能するか、公開する」
「砂袋より人間の方が、結果が分かりやすい?」
「おまえは条件を知っている」
「だから嫌だ」
「怖いか」
迅の指が止まる。
挑発としては古い。
凱が言うと、古さが刃になる。
「怖い」
迅は答えた。
客席がざわめく。
「おまえが弱くなるのが?」
凱。
「俺が、それを殴って証明するのが」
「俺が望む」
「望んだら、自傷じゃなくなる?」
「決闘だ」
「決闘って名前を付けたら、友達を壊していい?」
「友人だから手加減するなら、受けるな」
「手加減しない」
「なら受けろ」
「その二つの間に、止めるがある」
「止めるのは俺だ」
「今、負傷者へ続行を訊いた奴が?」
凱の肩が固まる。
迅は立ち上がった。
「俺は勝ちたい」
声は低い。
「おまえに。前と同じじゃなく。今のおまえに」
「なら」
「でも、おまえが終わるための拳にはならない」
十夜が、客席最後列から拍手した。
一人だけ。
遅く、間隔の揃わない拍手。
「いい台詞だ。売れる」
豪が振り返る。
「十夜。おまえ、救護区画に入るな」
「俺は選手だよ」
「今日の名簿にねえ」
「未来の名簿にはある」
「何しに来た」
「セコンドを頼みに」
「断る」
「まだ頼んでない」
「顔で分かる」
「本日二回目の顔判定です」
十夜は階段を降りる。
「野犬の豪。俺の最後の試合、角に立ってくれ」
「断る」
「金は払う」
「断る」
「犬の餌三か月」
豪の眉が動いた。
「断る」
「今、迷った」
「金額を数えただけだ」
「なぜ」
「おまえは止まれって言っても止まらねえ」
「セコンドは止める人じゃない」
「だから嫌だ」
「勝たせる人だろ」
「帰す人だ」
豪は女の救護担架を押さえたまま言った。
「俺は救護へ回る。おまえの角には立たねえ。倒れたら拾う。立ってる間は、自分で止まれ」
十夜の左頬に、えくぼが出る。
「優しいねえ」
「優しくねえ。拾うのも金がかかる」
「領収書、俺へ?」
「生きてたらな」
「生きてなかったら」
「妹へ送る」
十夜の笑いが止まった。
「家族を使うな」
「おまえが使ってる。最後って言葉で」
豪は救護担架を押していった。
右膝を庇い、速度は速くない。
十夜は追わなかった。
胸の《終了》札を指で直す。
真琴はその札の裏に、小さな契約番号があるのを見た。
終了時刻。
前借り金。
映像権。
勝敗条件。
人間より先に、最後の使い道が決まっている。
「再戦を補充判定として認める条件は」
審査主任が言った。
「三ラウンド。各三分。医療停止優先。能力発動は二回まで。証者二百十名。一般観客は判定へ算入しない。本人が停止を宣言した場合、勝敗判定とは分離して能力所見を確定する」
真琴がすぐに聞く。
「本人停止で判定不能にはしない?」
「補助票を採用します」
「停止理由は必須?」
「推奨」
「必須にしない」
イオ。
「理由を言えない時も止まれるように」
審査主任は考えた。
「認めます」
真琴は紙へ書く。
《本人は理由を示さず停止できる。停止後に説明を強制しない。能力所見、試合勝敗、代表資格は別に扱う》
凱が読む。
「代表資格を外すな」
「外していません。別に扱う」
「能力がなければ、王位の根拠が」
言葉が止まる。
真琴はその空白を見た。
「根拠が、何です」
「弱くなる」
「明文化されていますか」
「白冠規約に、旗主は旗団を守る力を有するとある」
「力の定義は」
「能力だけではない」
「では、なぜ試合で確かめるのです」
凱は答えなかった。
真琴は王位規約を思い出す。
自分が書いた文だ。
《旗主は、領域、構成員、生活線を守るに足る力を有し、その責任を退かず負う》
能力とは書いていない。
書かなかった。
書かなくても、全員が《王路不退》を意味すると理解した。
曖昧さは、分からないから残るのではない。
全員が同じものを想像している時ほど、書かれずに権力になる。
「私が書いた」
真琴が言った。
凱が見る。
「能力保有とは書かなかった。書かなくてもあなたの誓痕を意味するようにした」
「当時は必要だった」
「必要だったことと、今も有効なことは別です」
「再戦後に決める」
「勝敗で?」
「事実を見て」
迅が砂袋の結び目をほどき終えた。
「事実は、殴った方が一個増えるだけだ」
「その一個を見ろ」
凱。
「見る。でも、それに王冠を載せるかは別だ」
「なら、受けるか」
迅は長く黙った。
競技場の時計が、十七時を打つ。
イオが左前腕の装具へ触れる。
十夜は三分進んだ懐中時計を見る。
七瀬は撮影を止め、停止時刻を言う。
乱馬は空席へ向け、次の宣伝文句を考えている。
豪は救護区画で、負傷した女の靴を脱がせている。
一つの返事を待っていても、全員の時間は別々に進む。
「受ける」
迅が言った。
凱の口元が、ごくわずかに動く。
「ただし」
真琴が反射的に紙を出す。
「おまえが止めたら止める。医療者が止めても止める。俺が源を見失ったら止める。勝者を決めるための延長はしない」
「俺は自分で止める」
「できたらな」
「挑発か」
「条件」
真琴は書いた。
十夜が覗き込む。
「延長なしは困るなあ」
「おまえの契約ではない」
「興行全体の契約だ」
「止める欄を表へ出せ」
イオ。
「またそれ?」
「出るまで言う」
十夜は胸の札を叩いた。
「零時で閉店。それより分かりやすい停止条件はない」
「零時に何が止まる」
「興行」
「身体は」
「実況席より、質問が暗い」
「答え」
十夜は懐中時計を開いた。
秒針は、三分進んだ時間を刻んでいる。
「零時までは、止まらない」
それは停止条件ではなかった。
止まれないという宣言だった。
審査主任が結果票へ印を付ける。
本日の事前試行。
本票は《判定不能》。
補助票には、部分発動、遅延、証者負傷、技能救助、安全停止、再判定予定。
どちらも同じ時刻に読み上げられた。
人間を一語へ入れられないなら、一語を捨てるのではなく、その横へ人間が出るまで欄を増やす。
紙は長くなる。
長い紙を読む時間も、誰かの労働になる。
真琴は自分の終業時刻を、補助票の一番下へ書いた。
《十九時三十分》
その時刻を過ぎたら、続きを明日へ回す。
イオが見ている。
「何です」
「守れる?」
「守ります」
「能力?」
「規則です」
「自分で破るやつ」
「今日は破りません」
十九時二十九分。
真琴は最後の句点を打った。
十九時三十分。
ペンを置く。
規則を守ると、仕事は一日では終わらない。
終わらない仕事を、今日だけで終わったふりにしないための時刻だった。