第325話 第五章「王の誕生日会」前編
誕生日会は、誕生日から四日遅れて開かれた。
凱が四日間、開かなかったからだ。
「誕生日は七月一日」
タマキが言う。
「知っている」
凱。
「今日は五日」
「知っている」
「じゃあ、これは何」
「食事会だ」
「黒板に《王の誕生日会》って」
「乱馬が書いた」
凱は黒板の前に立った。
白墨で大きく書かれた《王》の二文字だけ、濡れ布で消す。
跡が残った。
《 の誕生日会》
「余計、変だ」
迅。
「獅堂凱の、と書け」
凱は言った。
「自分で?」
タマキ。
「誰の名だと思っている」
「凱の」
「なら、なぜ訊く」
「王は消せたのに、名前は人へ書かせるのかなって」
凱は白墨を持った。
右手が少し震える。
一画目が、予定より長くなる。
止めずに書く。
《獅堂凱の誕生日会》
字は整っていない。
真琴が修正したそうに見ている。
「句読点は要りません」
七瀬。
「何も言っていません」
真琴。
「顔で分かる」
「本日三回目です、その雑な判定」
会場は旧王環競技場の地下食堂だった。
選手用の長机。
医療区画へ続く廊下。
壁には過去の試合日程が剥がしきれず残っている。
地上の客席では、七月八日の公開判定へ向けた座席点検が続いていた。
地下では、十四人が座る。
凱。
迅。
七瀬。
轟。
タマキ。
真琴。
イオ。
小麦。
カナタ。
乱馬。
豪。
十夜。
審査主任。
それから、凱の妹。
妹は名前を公開しないことを選んだ。
七瀬は撮影機を持ってこなかった。
記録は真琴の食事費精算だけ。
「なぜ審査主任までいる」
凱が訊いた。
「勤務外です」
審査主任。
「答えになっていない」
「招待されたからです」
小麦が手を上げる。
「食事班の人数確認に、当日止める人が一人いると便利」
「俺の誕生日会を安全訓練にするな」
「競技場でやる人が言う?」
「ここしか全員の動線が合わなかった」
真琴が言う。
「あなたが日程を四度変更したからです」
「復旧が優先だ」
「誕生日会は優先しなくても、変更連絡は優先してください」
全員が凱を気遣っていた。
気遣いは、音を消す。
誰も能力の話をしない。
誰も再戦の話をしない。
誰も手の震えを見ない。
代わりに、料理の話をする。
「豆が柔らかい」
轟。
「歯が欠けてるから」
小麦。
「一本だ」
「豆は一本でも噛める」
「俺を老人食に入れるな」
「左肩で鍋を持とうとした人は老人食」
「持ってない」
「見た」
「片手を添えた」
「添える筋肉が大きすぎる」
小麦は人数と料理を早口で言う。
「十四人。豆煮十四、薄粥十四、焼き葱二十八、卵は九。乳製品なし。十夜は塩分控えめ。凱は立って食べない。迅は中央だけ残さない。七瀬は食器が片づくまで撮影なし。今日はそもそも機材なし」
「俺だけ食べ方まで」
迅。
「外周から崩して中央を残すと、冷める」
「見てるのか」
「作った人は見る」
「怖いな」
「食べない人よりまし」
迅は皿の中央から一口取った。
小麦が満足そうに頷く。
誰も凱の皿を見ない。
凱はそれに気づいている。
見ない気遣いは、見る気遣いより分かりやすい。
「贈り物」
タマキは鉄箱から包みを出した。
長い。
重くない。
「誰から」
凱。
「全員から」
「全員とは」
「今ここにいる人。十夜は払ってない」
「実況席、招待されてから知りました」
十夜。
「乱馬も払ってない」
「宣伝費を出した」
「誕生日会の黒板に王って書いた費用?」
「筆耕料だ」
「消した」
「消されるまでが演出」
タマキは包みを凱へ渡した。
「開けて」
凱は紐を解く。
中に、黒い靴が一足。
左は膝装具に合わせ、踵が低く、足首を深く支える。
右は普通の革靴。
ただし、右が二十八・五。
左が二十七。
凱の足は、両方二十八だった。
「違う」
凱が言った。
タマキの顔が固まる。
「何が」
「左が小さい」
「装具の分、右を大きくって」
「装具は左だ」
「え」
「左へ装具を入れるなら、左を大きくする」
タマキは靴を見る。
右を見る。
左を見る。
「逆」
「そうだ」
「交換できる?」
小麦が伝票を出す。
「特注。返品不可」
「なんで」
「タマキが《左右別々で、本人専用》って書いた」
「本人専用なら本人に合うはず」
「合ってない」
迅。
「今それを話してる」
タマキは耳まで赤くなる。
「ごめん」
凱は靴を持ったまま、しばらく黙った。
全員が待つ。
また気遣いの沈黙。
凱の口元が動く。
笑いだった。
声を出して笑うことに慣れていないため、最初は咳に聞こえた。
「王の足は左右同じだと思ったか」
「王って書いてない」
「獅堂凱の足は」
「左が悪い」
「悪いと言うな」
「痛い」
「痛い」
「だから大きくする方、間違えた」
「そうだな」
凱は右の大きな靴を左へ置き、左の小さな靴を右へ置いた。
「展示する」
「履いて」
「無理だ」
「片方ずつ」
「なぜ」
「贈り物だから」
「怪我を贈るな」
豪が大声で笑った。
「いいじゃねえか。右足だけ未来へ行って、左が去年に残る」
「おまえの膝装具も左右で違う」
「俺は靴屋に説明した」
「文字、読めるのか」
十夜。
豪の縄ベルトが緩む。
「ゆっくりなら読める」
「実況席より謝罪。今のは最低でした」
「早いな」
「痛い場所が分かる」
「分かって言っただろ」
「だから最低」
十夜は椅子の背へ体重を預けた。
笑っているが、右手は胸の札へ触れている。
小麦がその皿へ薄い粥を置く。
「食べて」
「選手食?」
「心臓食」
「病人扱い」
「症状扱い」
「違いは」
「病人は名前じゃない」
十夜は粥を一口食べた。
「薄い」
「塩が欲しければ医療者へ訊く」
「誕生日会で管理されるの、主役より俺だね」
「主役は自分で管理するって顔して隠すから」
小麦は凱の手を見る。
凱は箸を右で持っている。
震えは少ない。
食事の動作には、命令ほどの圧がない。
妹は、凱の向かいへ座っていた。
病院の外で会うことは少ない。
薄い灰色の上着。
胸元に薬の時刻札。
髪を短く切り、兄と同じ青灰の目をしている。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日、王じゃないの」
凱の箸が止まる。
「今は、王位を行使していない」
「質問へ規則で答えないで」
真琴が視線を落とした。
自分の台詞のように聞こえたらしい。
「王ではない」
凱が言い直す。
「じゃあ、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
妹は卵を半分に切った。
「公開判定、見ない」
「構わない」
「許可じゃなくて、聞いて」
「なぜ見ない」
「私が見ると、お兄ちゃんは病人を守る王になるから」
食堂の音が止まった。
小麦が鍋蓋を置く音だけがした。
凱は言う。
「おまえを理由に王になったわけではない」
「半分は、そうだった」
「停電で治療が止まった。配給と医療線を守る必要があった」
「だから、私がずっと病気でいると都合がいい」
「何を言っている」
「お兄ちゃんの話の中で」
妹は薬時刻札を指で折らないよう、机へ平らに置いた。
「病院の停電で妹の治療が止まった。だから王になった。私が良くなったら、王の理由が一個減る」
「減っていい」
「言ったことない」
「今言った」
「今まで」
凱は答えられない。
白冠の集会で、病院線を守る理由を語った。
妹の病名は言わなかった。
顔も出さなかった。
だが、病人の妹という役は使った。
人は名前を隠しても、他人の人生を物語にできる。
「私、最近は自分で薬を取りに行ける」
妹は続ける。
「通院先も一つ減った。嬉しい?」
「当然だ」
「王の理由が減っても?」
「当然だ」
「じゃあ、公開判定で私の話をしないで」
「しない」
「守る理由にも、退く理由にも」
「分かった」
「記録しない?」
七瀬は手を見せた。
空だった。
「今日は撮っていません」
「後で聞かれても?」
「あなたの話です」
妹は頷いた。
凱は水を飲もうとした。
決断すると、結果が出るまで水へ手を伸ばさない。昔からの悪い癖が、手を途中で止めた。
手が途中で止まる。
今の決断に、結果はいつ出る。
妹が病気でない日か。
自分が王でない日か。
どちらも一日で確定しない。
「飲めば」
迅が言った。
「命令か」
「水がぬるくなる」
凱は飲んだ。
妹が少し笑った。
祝席で、初めて誰も拍手しなかった。
食事会の途中で、妹の薬時刻札が一度鳴った。
高い音ではない。
木片の内側で小さな玉が転がる、乾いた音だった。
妹は卵を食べ終え、灰色の上着のポケットから紙袋を出す。
中には、夕方の錠剤が一包。
「水」
凱が立ちかけた。
「ある」
妹は自分の鞄から小瓶を出した。
「冷えていない」
「薬は飲める」
「量が少ない」
「病院で決めた量」
「今日の気温なら――」
「お兄ちゃん」
妹は包みを開ける手を止めた。
「私の薬を、公開判定にしないで」
凱は立ったままになる。
心配している。
ただの心配だ。
ただの心配ほど、本人の生活へ入りやすい。
「確認しただけだ」
「確認を頼んでない」
「飲み忘れれば」
「忘れたら、私が病院へ連絡する」
「倒れたら」
「近くの人が救護を呼ぶ。お兄ちゃんが競技場のどこにいるかは関係ない」
「関係ある」
「お兄ちゃんには」
妹は錠剤を飲んだ。
水を一口。
時刻札へ、自分で鉛筆の線を引く。
「私には、関係ない時もある」
凱は椅子へ座った。
妹の胸元の札を見ないようにしようとして、余計に目が行く。
タマキが鉄箱を抱えて近づく。
「次の薬、届ける?」
「明日の朝、病院で受け取る」
妹。
「送り主は病院。受取人はあなた。目的は薬。運べる」
「自分で行く」
「道、まだ濡れてる」
「歩ける」
「凱が行く?」
「同行する」
凱が即答した。
妹は眉を上げる。
「頼んでない」
「復旧路の安全確認を兼ねる」
「私の通院を仕事へ変えないで」
「道の確認は必要だ」
「私がいない時にして」
凱は言葉を失う。
タマキは二人の顔を交互に見る。
「同行は、荷物じゃない」
「何が言いたい」
凱。
「一緒に歩く人は、送り主?」
「違う」
「受取人?」
「違う」
「目的は?」
「安全」
妹が言う。
「私の目的は、薬を受け取って帰ること。お兄ちゃんの目的は、私を守ったと確認すること」
「守ったと確認したいわけではない」
「じゃあ、何」
凱は答えを探す。
心配。
責任。
兄だから。
停電の夜を知っているから。
どれも本当だ。
どれも、同行の許可にはならない。
「何かあった時、俺が近くにいたい」
「それは、お兄ちゃんの安心」
「そうだ」
認めると、言葉が一つ軽くなった。
妹は少し考える。
「病院の門まで」
「中へは」
「来ない」
「医師へ聞くことが」
「私が聞く。聞き忘れたら、後で私が連絡する」
「帰りは」
「門で待つなら、一緒に帰ってもいい」
「待つ」
「白い上着は着ない」
「着ない」
「病院で私を《王の妹》と呼ばれても、訂正は私がする」
凱の返事が遅れる。
「分かった」
「今の、二・一秒」
タマキが言う。
「測るな」
「イオが時間は言葉の裏側って」
「勝手に引用するな」
「引用料いる?」
「本人へ訊け」
妹が笑った。
凱は水を飲む。
今度は、決断の結果を待たなかった。
病院の門までは、食事会の後に歩いた。
迅は来なかった。
七瀬も撮らなかった。
タマキは薬の受領票だけを病院へ先に届け、門で帰った。
凱と妹の間には、一人分の距離があった。
道の水たまりを避けるたび、凱は先に進路を示しかける。
妹が自分で選ぶのを待つ。
待つだけで、歩く速度は遅くなった。
「遅い?」
妹が訊く。
「俺が?」
「私が」
「予定より三分遅い」
「怒ってる?」
「予定を直す」
「轟さんみたい」
「誰が」
「お兄ちゃん」
「似ていない」
「王様より、工事の人の方が長生きしそう」
「比較するな」
病院の門で、凱は止まった。
妹は止まらない。
受付へ行く。
職員が凱を見つけ、立ち上がる。
「獅堂王――」
妹が振り返った。
凱は口を開かない。
訂正を、自分で奪わない。
「兄です」
妹が言う。
「今日は門で待つ人」
職員は凱と妹を見比べた。
「付き添いの方は、こちらへ」
「付き添いじゃありません」
妹。
「門で待つ人です」
凱は門の外のベンチへ座った。
左膝を伸ばす。
黒い靴の大きさは左右同じだ。
贈り物の靴はまだ直っていない。
二十分後、妹が紙袋を持って戻る。
「何を聞いた」
凱は立たずに訊く。
「それ、聞いていいって頼まれた?」
「聞いていいか」
「薬の種類は言わない。次の受診は二週間後。今日の検査は変わりなし」
「受けた」
「一回で止まった」
「何が」
「質問」
妹は紙袋を自分の鞄へ入れた。
二人で帰る。
凱は門の中を振り返らなかった。
食後、タマキは誕生日の贈り物代を精算した。
右靴。
左靴。
左右別型の加工費。
返品不可。
「お金、返す」
「誰へ」
小麦。
「全員」
「贈り物を返す?」
「間違えたから」
「間違いの費用は、作った人も持つ」
「靴屋は注文どおり」
「注文した人」
「俺」
「じゃあ、次に直す仕事で払う」
「いくら」
「靴屋へ訊く」
「凱が履けない」
「展示するって」
「展示は使ってない」
タマキは伝票を見た。
迅が隣へ座る。
「右の大きい方、左へ履けるよう中敷きを作る」
「できる?」
「装具の形を見れば」
「小さい方は」
「革を伸ばす。無理なら、別の人へ」
「凱専用って書いた」
「名前を縫い直す」
「失敗を他の人へ配る?」
「使える物にする」
タマキは考えた。
「誰へ」
「決めてない」
「目的」
「靴」
「雑」
「おまえに言われたくない」
迅は笑わない。
タマキも笑わなかった。
「迅」
「何」
「再戦、受ける?」
「受けるって言った」
「やりたい?」
迅の目が、食堂の出口へ動く。
「勝ちたい」
「同じ?」
「何と」
「やりたい」
「違う」
「どう違う」
「勝ちたいのは俺。やりたいのは凱」
「じゃあ、誰の荷物」
「試合は荷物じゃない」
「誰から、誰へ、何のため」
迅は答えない。
タマキは同じ質問を繰り返す。
「誰から」
「凱から」
「誰へ」
「俺へ」
「何のため」
「能力が残ってるって証明」
「凱へ?」
「観客へ」
「凱と観客、違う宛先」
迅の右親指が赤紐を押さえる。
「だから、まだ受け取ってない」
言って、迅は席を立った。
「どこへ」
「外」
「何のため」
「靴屋」
「今?」
「閉まる前」
食堂を出る。
質問から逃げたようにも見える。
靴を直しに行ったようにも見える。
両方かもしれない。
迅が向かった靴屋は、もう閉まっていた。
戸板に、《本日十八時終了》と札が出ている。
迅は札を見上げた。
「遅かった」
背後で凱が言う。
「来るなって言った」
「言われていない」
「顔で」
「顔で命令を読むな」
凱は左右違う靴を紙袋に入れて持っていた。
「店は明日八時」
「公開判定の準備がある」
「九時に来ればいい」
「おまえが来るのか」
「タマキが来る」
「おまえは」
「試合のこと考える」
「今も考えている顔だ」
「顔で決めるな」
二人は閉じた靴屋の軒下へ座った。
凱は左膝を伸ばす。
迅は右脇腹へ手を置かない。
まだ打たれていない場所なのに、これから来る痛みを先に覚えたような気がした。
「タマキへ、まだ受け取っていないと言ったな」
凱。
「聞いてたのか」
「食堂は狭い」
「じゃあ、意味も聞いた」
「観客へ証明するための試合は受け取れない、と」
「そこまでは言ってない」
「言葉が足りない」
「おまえに言われたくない」
凱は紙袋の上へ両手を置く。
右手の震えが、薄い紙へ伝わる。
「俺は、おまえと戦いたい」
「知ってる」
「能力が残っているか確かめたい」
「それも」
「王位の資格も」
「それは別」
「別だと決めるのは、試合後だ」
「試合前に分けろ」
「結果を見ずに、何を」
「勝ったら王。負けたら終わり。出なかったら失格。三つとも、試合へ多すぎる」
凱が眉を寄せる。
「勝敗には、意味がある」
「ある。俺は勝ちたい」
「なら、なぜ拒む」
「勝った後、何を取ったことにされるか分からないから」
「王冠は渡さない」
「王冠だけじゃない」
迅は閉じた店の窓へ映る二人を見る。
王の服ではない凱。
学生上着の迅。
並んで座ると、年齢差は三年しかない。
立って群衆を挟むと、国ほど離れる。
「おまえが止まれなかった証拠。能力が消えた証拠。王じゃなくなった責任。全部、俺の拳へ載せるな」
「責任を負うのが嫌か」
「負えない責任を、負える顔で受け取るのが嫌だ」
「顔で」
「そこだけ使うな」
凱は少し笑った。
すぐに消える。
「おまえは、俺が弱くなるのを見たくないのか」
「見たい」
「何だと」
「見ないと、今のおまえと戦えない」
「なら」
「弱くなった場所を見て、そこだけ壊すのは違う」
「膝を狙うなと言うのか」
「狙う」
「矛盾している」
「壊さない角度で」
「手加減だ」
「技術だ」
迅は右手を開く。
環指と小指が少し遅い。
「俺の右を狙っていい」
「古傷だ」
「狙うなとは言ってない」
「なら、なぜ俺の膝だけ」
「壊れ方が違う。俺の指は、握れなくなる前に分かる。おまえの膝は、支えられる顔のまま切れる」
「医師か」
「見た」
凱は左膝へ触れない。
「試合中、俺が止める」
「何で」
「必要なら」
「必要の中身」
「医療者が止めた時」
「おまえ自身は」
「続けられない時」
「続けたくない時は」
凱は黙る。
迅は靴屋の札を見る。
終了時刻は十八時。
店が閉まった理由は書かれていない。
疲れた。
材料がない。
客がいない。
家へ帰る。
理由がなくても、戸板は閉じる。
「止めたいって言っていい」
「決闘で?」
「決闘だから」
「観客は納得しない」
「観客の身体じゃない」
「王の身体は、俺だけのものではない」
「それが一番、嫌なんだろ」
凱の右手が、紙袋を強く掴む。
紙が鳴る。
「王でなくなることが?」
「自分の身体を自分だけのものだと言えば、守った者を裏切る気がする」
「守った人は、おまえの膝を買ったのか」
「そういう言い方をするな」
「じゃあ、売るな」
凱が迅を見る。
迅は視線を逸らさない。
「試合は受ける」
「条件は」
「おまえが止めると言ったら、止める」
「俺が、負ける直前に言っても?」
「言った時刻で」
「逃げに見える」
「見える」
「おまえは、それで勝ちを失う」
「失う」
「それでも」
「受ける」
凱は紙袋を膝から下ろした。
「俺は、止めないかもしれない」
「その時は、医療者か俺が止める」
「勝手だ」
「試合契約へ書く」
「書けば勝手でなくなるのか」
「勝手の範囲が見える」
閉店した店の中で、靴型が何列も並んでいる。
人の足は、同じ形に見えて違う。
左右でさえ違う。
「靴、明日直る?」
迅が訊く。
「分からない」
「じゃあ、試合までに間に合わない」
「普段の靴で出る」
「王の衣装は」
「着る」
「靴だけ普通」
「悪いか」
「今のおまえっぽい」
「どういう意味だ」
「上だけ昔」
凱は紙袋で迅の肩を殴った。
軽い。
「今のは先制」
「試合ではない」
「記録する」
「七瀬はいない」
「俺が覚える」
二人は閉じた靴屋の前から立つ。
試合の条件は、まだ紙になっていない。
それでも、勝敗以外の一行が先に決まった。
止めると言ったら、止める。
イオは祝席へ長居しなかった。