第467話 第四章「患者の拒否」前編
二月十七日 午前六時三十分
医療者は、患者へ希望を渡す仕事だと言う人がいる。
時雨ミソラは、希望より先に副作用を渡した。
希望は、聞いた人が好きな形へ直せる。
副作用は、直せない。
外環共同病院、第二保護病棟。
十一枚の説明票。
同じ紙ではない。
文字が大きいもの。
触って区別できる穴の位置を変えたもの。
病名を書かないもの。
家族へ見せないもの。
今日の説明を拒む欄だけがあるもの。
設備を止める、止めない、まだ決めないを、三つの独立した札にしたもの。
ミソラは、一番目の病室へ入る前に、右手を開いた。
震えはない。
痛みはある。
左肩から肋骨の内側へ、細い金属線を通されたような痛み。
前日から二段階上がっている。
数えない。
痛みを数字へすると、耐えられる上限まで働こうとするからだ。
「顔、白い」
竜胆迅が言った。
「照明」
「昨日も同じ照明」
「昨日より白い」
「それは顔だ」
「休む?」
「十一人の説明後」
「いつ」
「終わった時」
「時刻」
ミソラは迅を見た。
「イオに似てきた」
「悪口?」
「診断」
「休む時刻」
「決めない」
「患者へは期限を訊く」
「私は説明する側」
「体は患者側」
「邪魔」
「だめ、が増えたら止める」
「まだ一回」
「数えてる」
「記録しないで」
「七瀬じゃない」
「だから頼んでる」
迅は廊下の壁へ背を付けた。
「ここにいる」
「入らないで」
「分かってる」
「説明が終わっても、勝手に結論を聞かないで」
「分かってる」
「顔が分かってない」
「顔は辞められないらしい」
「凱の悪口?」
「昨日、言われてた」
ミソラは少しだけ息を吐いた。
笑ったのではない。
呼吸が戻った。
最初の病室へ入る。
八番室の少年は、新聞紙で橋を作っていた。
橋の両側に、行きと帰りがある。
同じ紙なのに、帰りの文字だけ筆圧が強い。
「朝」
少年が言った。
「朝。体温三十七・二。咳は昨日より二回多い」
「二回、数えた?」
「廊下で聞こえた」
「正しい」
「嬉しくない」
「記録は、嬉しいためじゃない」
「知ってる」
ミソラは椅子へ座った。
立ったまま説明しない。
上から言葉を落とすと、患者は拾うしかなくなる。
「中央の設備を止める計画がある」
「僕の薬も止まる?」
「直接は止まらない。今の補助電源と濾過装置が、一度、別の電源へ移る」
「一度って」
「最短で四十五秒。試験では最長三分二十秒。今の病院では未試験」
「三分二十秒で、何が起きる」
「濾過が止まる。すぐ命に関わる可能性は低い。でも、再始動に失敗すれば薬の濃度を変える必要がある。感染対策も弱くなる」
「代わり」
「小型濾過器。今は二台。必要は四台」
「いつ来る」
「早くて三日」
「止めるのは」
「まだ決まってない」
「止めたい人は、今日?」
「今日に近い」
少年は紙橋の真ん中を押した。
たわむ。
「僕は、止めない」
ミソラは頷いた。
「代わりが来るまで」
「条件として書く?」
「書く。名前は」
「出さない」
「病名」
「出さない」
「年齢」
「十二歳の患者一人、まで」
「僕って分かる」
「病院内では分かる。外へ出す時は、他の年齢とまとめる」
「まとめると、僕が消える?」
「消さない。公開しない。違う」
「どう違う」
「公開しない記録にも、本人へ戻す場所がある」
「帰り」
「そう」
少年は止めない札を取った。
紙橋の帰り側へ置く。
「止めたい人、怒る?」
「怒る人はいる」
「四十八人」
「知ってる?」
「看護師さんが廊下で言った」
「聞かせる予定じゃなかった」
「聞こえた」
「君が決めるために、その数を使わなくていい」
「使いたい」
「どう使う」
「四十八人がいるから止める、じゃなくて、四十八人がいるから代わりを急いで、って書く」
ミソラは、説明票の余白を少年へ渡した。
少年は短く書いた。
《止めない。四台そろったら、もう一度きく。四十八人のためにも、急ぐ》
「字、外へ出す?」
「出さない。内容だけ、本人表現として」
「僕の言葉?」
「君の言葉」
「名前なしでも」
「名前なしでも」
少年は空の薬箱の底を、指で二回叩いた。
ミソラは、その音が終わるまで次の質問をしなかった。
二人目は、病院内で藍と呼ばれていた。
髪の右側だけを耳へ掛けている。
爪の根元に、薄い藍色。
脈拍は、午前六時五十八分で九十二。
「九十じゃない」
藍が言った。
「数えた?」
「十五秒で二十三」
「正しい」
「正しいとは言ってない。今の数」
「設備停止の説明をする」
「何を止める」
「回収炉と中央抑制網。病院補助は手動へ移す」
「手動の記録者」
「病院設備係二人、地域保守一人。交代は八時間」
「八時間は長い」
「六時間案もある。人が足りない」
「薬剤冷蔵」
「別系統へ移す。移送中の温度記録は紙と色札」
「中央へ送る?」
「送らない」
「証拠が消える」
「地域三か所へ写し」
「誰が持つ」
「まだ決まってない」
「決まってから来て」
「説明を拒む?」
「今日は、結論を拒む。説明は聞く」
ミソラは札を分けた。
説明受領。
結論保留。
「一緒の紙じゃないんだ」
「一緒だと、説明を聞いたことが同意に見える」
「前は一緒だった」
「知ってる」
「知ってて使った?」
「病院停電の最初は、同じ欄だった」
「直した」
「遅れて」
「そこは違う」
「何が」
「遅れたんじゃない。間違えた」
藍は左親指で、右手の指節を一つずつ押した。
「言い直したから、今日は聞く」
「条件は」
「中央へ薬歴を送らない。姉を代理人にしない。私の証言を停止の根拠へ一括利用しない。処置中に不整脈が出た時、停止を遅らせる権限を誰が持つか書く」
「医療責任者」
「名前」
「勤務ごとに変わる」
「だから名簿」
「作る」
「作ってから、決める」
藍は結論保留札を選んだ。
「停止へ反対?」
「質問が大きい」
「今の設備継続は」
「反証転嫁があるなら反対。今すぐ切って冷蔵が止まるなら反対。二つを同じ反対へしないで」
「分かった」
「分かった、は使わないで」
「記録した」
「それならいい」
三人目。
肺の補助刺激を受ける六十代の女性。
「止める」
「代替刺激器は一台。あなたを含め必要は三人」
「若い方へ」
「年齢で譲らない」
「私が決める」
「自分の治療を断ることはできる。でも、他の人の順番は決められない」
「面倒ね」
「医療は面倒」
「あなたは、もう少し優しく言えないの」
「優しく言うと、危険が減る?」
「気分は良くなる」
「では、気分は悪いまま。補助器が来るまで止めない選択もある」
「止める。私の区画は」
「理由を公開する?」
「しない。偉い年寄りにされる」
停止札。
公開拒否。
別々に置く。
四人目から十人目は、同じ長さの面談にはならなかった。
十五歳の患者は、毛布の中で説明を拒んだ。父親は停止反対へ署名したが、ミソラは家族の署名を本人の長期同意へ変えない。今日は止めない。理由は《親が望んだから》ではなく、《本人が結論を渡していないから》とした。
温水循環を必要とする二十三歳は、局所加温と夜間巡回の費用免除が条件なら停止すると答えた。
透析患者は、地域ポンプの手動試験二回、夜間担当者名、凍結時の代替水がそろった後に、もう一度聞くよう求めた。
残る四人については、当直板へ本人の言葉だけが短く並んだ。
《警報音を変えるなら説明を続ける》
《絵で説明する。署名はまだ》
《家族へ病名を出さない。洗濯室で聞く》
《能力再起動を望む。反証転嫁は望まない》
最後の患者へ、ミソラは答えを持っていなかった。
「俺は、どうすれば力を戻せる」
「今は分からない」
「分からないから止める?」
「分からないまま、他人へ痛みを送るのを止める」
「俺の痛みは」
「残る。明日も来る」
「時刻」
「午前九時二十分」
十一人目。
八番室の少年と同じ病棟にいる、名前を公開しない四十代の患者。
設備処置で呼吸筋の失調が抑えられている。
代替機器は、まだない。
「止めない」
患者は言った。
「条件を聞く?」
「条件なし。止めないで」
「反証転嫁が続く」
「知ってる」
「四十八人へ」
「知ってる」
「代替ができるまで、にする?」
「しない」
「理由」
「死にたくない」
ミソラは、その言葉を直さなかった。
高潔な条件へ変えない。
期限を付けない。
四十八人の顔を想像させて、罪悪感で署名を変えさせない。
「記録する」
「名前は出さない」
「病名も」
「止めないって言ったことは」
「本人の反対として出す」
「悪者になる?」
「する人はいる」
「あなたは」
「しない」
「迅たちは」
「訊いてみる?」
「会いたくない」
「伝える」
「伝えたって言った証拠」
「あなたへ戻す写し」
患者は止めない札を選んだ。
十一枚のうち、最も大きく書いた。
《止めない》
その下に、理由は書かなかった。
午前十一時五分。
病院搬入口。
迅、轟、真琴、イオ、中央の若い実務者が、停止準備の機材を運び込もうとしていた。
入口には、三本の黒い警告帯が張られている。
鷺沼廉が立っていた。
右靴だけ赤い紐。
折り畳み標識を胸へ下げている。
「通行止め」
迅が帯を見る。
「代替路」
「ない」
「なら、ただの封鎖だ」
「一回目だ」
廉は三本の指を立てた。
「この入口から停止機材を入れるな。病院補助の切替先が未試験。受領者名簿がない。患者搬送路と資材路が交差する」
「時間がない」
「二回目。時間がない時ほど、別路を示せ」
「別路は」
「北搬入口。幅が足りない。分解搬入なら通る。南は患者移動中。東は酸素搬送」
「北でやる」
「受領者がいない」
「お前がやれ」
「俺は病院設備の受領者じゃない」
「知ってるから頼んでる」
「知らない仕事を引き受けるな。三回目」
廉の声が、同じ高さ、同じ間隔で響いた。
「病院補助の代替標識、切替担当、資材受領者、患者路との分離が確認されるまで、この区間を閉鎖する。三告封鎖〈スリー・ウォーニングス〉」
三本の警告帯が、空間へ沈んだ。
見えない壁ではない。
帯を越えようとする動作が重くなる。
正面突破の意図だけを、足元へ戻す。
迅が一歩出た。
右足が床へ貼りつくように止まる。
「解除」
「条件を満たせ」
「四十八人へ流れてる」
「十一人もここにいる」
「比べるなってミソラに言われた」
「なら比べず、両方守れ」
「簡単に言う」
「簡単じゃないから閉めてる」
迅の目が細くなる。
廉も右靴紐を締め直す。
二人は、道を見る時だけ似ていた。
迅は戻れる路を探す。
廉は閉めても戻れる路が残るかを疑う。
同じ地図を、逆から読む。
「以前のお前なら、薬も止めた」
迅が言う。
「以前の俺は、三回言えば責任が相手へ移ると思ってた」
「今は」
「聞こえたか、選べたか、別路があったかを記録する」
「能力は同じ」
「使った責任は違う」
「解除しろ」
「条件を出せ」
「北搬入口を測る。機材を三分割。受領は轟。設備担当を病院から一人。患者路は時間で分ける」
「標識」
「お前が作れ」
「命令か」
「依頼。料金は」
「標識材と右足首の治療時間」
「払う」
「誰が」
「作戦費」
「作戦が失敗したら」
「未払い記録」
「価に感染したな」
「みんな感染してる」
廉は三本の帯を外さない。
北搬入口の計測が終わるまで。
病院設備係が名乗るまで。
資材箱へ送り主、受取人、目的が書かれるまで。
患者の通行時間と重ならないと確認するまで。
最初に測った北搬入口は、図面より十九センチ狭かった。
左側へ、後から増設された手洗い槽が張り出している。
誰が付けたか、病院の設備台帳にはない。
「外す」
轟が言った。
「使ってる」
病院の清掃員が答えた。
「何に」
「汚染区域を出た人の手洗い。夜は哺乳瓶の仮洗い」
「仮?」
「本洗いは上。ここで泥だけ落とす」
「外せない」
「機材が通らん」
廉は入口の幅をもう一度測った。
「箱を三つにする」
轟が機材箱の留め具を外す。
制御盤。
抵抗器。
接続具。
「順番」
廉が訊く。
「制御盤、接続具、抵抗器」
「抵抗器が最後なら、途中で切替できない」
「途中で切り替えない」
「中央が先に止めたら」
「制御盤だけじゃ役に立たん」
「だから?」
「だから、先に病院を止めない」
清掃員が二人を見る。
「話が、機材の幅から街へ行った」
「配管はどこでも街へ行く」
轟は制御盤の持ち手を右側へ付け替えた。
左肩を頭上へ上げない。
「持つ人」
「俺と、病院設備係」
「設備係は夜勤明け」
清掃員。
「何時から」
「昨日の午後九時」
「交代は」
「来る予定の人が、子どもの発熱」
轟は機材箱を床へ置いた。
「運ばない」
「四十八人へ――」
迅が言いかける。
「言うな」
轟が止めた。
「夜勤明けの一人を、四十八人で押すな」
迅は口を閉じた。
「代わり」
廉が訊く。
「中央の設備員」
「本人の業務範囲」
若い実務者が一歩出る。
「中央から二名出せます」
「出せます、じゃない。誰が決めた」
「私が提案します。設備統括へ今、照会」
「返事を待つ」
「待っている間に、分解だけ」
轟は右手で留め具を外す。
迅は部品へ触れない。
「手伝う」
「送り主も受取人も分からん人間に持たせない」
「機械室作業補助」
「まだ役札がない」
「作る」
「勝手に自分へ仕事を送るな」
タマキがいれば言いそうなことを、轟が先に言った。
迅は少し笑った。
「感染」
「便利な言葉だな」
照会の返事は、十一分後に来た。
中央設備員二人。
うち一人は、病院系統へ触れた経験がない。
もう一人は、昨年まで同じ病院で保守をしていた。
「一人だけ受領者にする?」
若い実務者が訊く。
「しない」
轟。
「経験者一人へ全部を載せると、その人が倒れたら終わる。経験者は説明。未経験者は復唱。病院設備係は確認だけ。夜勤明けだから持たせない」
「責任者」
「作業ごとに三人」
「誰が最終確認」
「病院側は病院設備係。中央接続は中央経験者。機材の組立は俺」
「三人が違う答えを出したら」
「通さない」
廉が三本の警告帯を見た。
「今の封鎖と同じ」
「違う」
「何が」
「お前は路を閉めてる。俺は機械を組まない」
「結果は止まる」
「誰が何を止めたか違う」
「記録する」
廉は折り畳み標識の裏へ書いた。
《北搬入口、幅不足。手洗い槽は生活用途のため撤去しない。機材三分割。病院夜勤者へ運搬させない。受領三者。意見不一致時は搬入停止》
「長い」
迅が言う。
「標識は短くないと読めない」
廉は表へ、太い字で三つだけ書いた。
《患者優先》
《三箱》
《受領三人》
「裏は」
「責任」
「表は」
「動作」
次は、患者通行との分離だった。
北搬入口から病棟へ入る廊下は、午前十一時四十分に酸素瓶の交換がある。
正午には食事。
午後零時二十分には透析患者一名の移動。
「今から入れれば間に合う」
迅が言う。
「今から走れば、食事台車と角で合う」
清掃員が答える。
「食事を五分遅らせる」
「低血糖の人がいる」
「機材を止める」
「分解したまま入口へ置くと、避難幅を食う」
「外で待つ」
「雨」
空は曇っていた。
まだ降っていない。
「降ると決めるな」
「降らないとも決めない」
廉が、使っていない洗濯布の庇を借りられるか清掃員へ訊いた。
「誰の布」
「病院の」
「用途」
「退院者の衣類を乾かす」
「今日使う?」
「午後二時から」
「一時まで借りる。汚したら洗浄費。破ったら交換」
「標識屋が布の契約まで?」
「路にある物は路の一部」
清掃員は許可札を書いた。
機材三箱は庇の下へ移された。
午前十一時四十分。
酸素瓶が通る。
迅は壁へ寄る。
轟は箱を支える。
廉は患者搬送路へ背を向けず、しかし病床番号を見ない位置に立つ。
酸素瓶の車輪が、入口の敷居で一度跳ねた。
「段差、七ミリ」
轟が言う。
「図面は四」
「床が沈んだ」
「機材台車は越える?」
「制御盤だけ重い。板を一枚」
「板の持ち主」
「またか」
「まただ」
近くの薬箱用の廃材を使う許可を取り、返却できないため廃材の用途変更を記録した。
正午。
食事台車が通る。
湯気。
蓋の音。
患者名を呼ばない色札。
その後、廊下を消毒。
午後零時八分。
最初の箱を搬入。
病院設備係は持たない。
歩いて確認する。
「制御盤、北搬入口から受領」
「中央経験者、復唱。接続前」
「中央未経験者、目的を復唱。病院補助の地域手動切替。回収炉停止の代用ではない」
「轟、組立責任。受領」
三つの声。
次の箱。
最後の箱。
午後零時三十八分。
患者搬送予定より二分前に、廊下が空になった。
廉は三本の警告帯を一度に外さなかった。
一本目。
資材路確認。
二本目。
受領三者確認。
三本目。
患者路との分離確認。
それぞれの時刻を書き、能力の封鎖を解いた。
封鎖が解けても、迅たちは元の正面入口へ戻らなかった。
遠回りした経路を、次の搬入手順として残した。
四十分では足りなかった。
一時間三十三分掛かった。
遅れた時間は、四十八人へ流れた負荷と別欄に書いた。
近道を使わなかった理由も、同じ大きさで残した。
廉は封鎖を解除した。
迅は帯を越えない。
北へ回る。
遠回り。
四十八人へ反証は、その間にも流れる。
それでも、近道で十一人の路を潰さなかった。
午後一時二十二分。