第445話 第五章「面会の拒絶」前編
十二月三十一日 午前八時二十分
火群七瀬は、空の椅子を撮るのが嫌いだった。
椅子は、座った人の代わりにならない。
それでも映像の中では、たいてい人より長く残る。
中央抑制拘置所の面会室には、椅子が四脚あった。
収容者側に一脚。
訪問者側に一脚。
記録担当者用に一脚。
残りの一脚は、誰のものか書いていない。
七瀬は、その四脚目から撮り始めた。
腰の高さまで伸ばした固定台へ小型撮影機を載せる。左肩は、朝から熱を持っていた。十二月の冷気の中でも、関節の奥だけが夏の金属みたいに熱い。
右手で水平器を合わせる。
左手は添えるだけ。
「一脚、多いな」
背後で凱が言った。
面会廊下への立入りを許されたのは、七瀬、凱、施設記録係、外部立会人の四人だけだった。巴と真琴は外門前の仮設机に残っている。
「少ないよりはいいでしょう」
「誰が座る」
「座った人が決めます」
「答えになっていない」
「椅子の答えを、先に人へ押しつけないという答えです」
凱は四脚目の背へ触れかけ、やめた。
「君は家具にも面倒な自由を与えるな」
「家具は反論しません。だから、こっちが慎重になるんです」
「人間は反論するから雑でいい?」
「反論できる人間だけを、人間だと思わないでください」
凱が口を閉じる。
以前なら、沈黙を敗北として嫌った。
今は、答えを作る前の作業時間として使う。
右手に持つのは、面会予定表だった。
午前九時から午後六時まで。
二十分単位。
予定枠、二十四。
申請者は三十一人。
家族十一。
雇用主四。
医療関係者六。
弁護・通訳・記録担当十。
施設側が認めたのは、十二枠だった。
十二枠のうち、収容者本人へ通知済みと記されたのは九。
通知時刻が書かれているのは三。
通知方法が書かれているものは一つもない。
「用意はした」
施設記録係の男が言った。
首から灰色の板を下げている。
氏名は公開しない。
内部識別は記録箱へ預けられている。
「十二枠、用意しています」
七瀬は撮影機を回したまま聞く。
「誰へ?」
「申請者と収容者です」
「同じ時刻を、両方に伝えましたか」
「通知手続きは担当部署です」
「あなたは確認した?」
「記録上は」
「記録のどこ」
「予定表です」
「予定は、到着の記録じゃない」
男は四脚目を見た。
「記録担当者が座る椅子です」
「さっき、私が立っていました」
「では、外部立会人」
凱が言う。
「俺も立っている」
「予備です」
七瀬は椅子の背面へ回った。
金属板に、小さく刻印がある。
《危険行動時・補助拘束員》
撮影機を近づける。
男の右手が上がった。
「その刻印は施設内部情報です」
「椅子の所属が、秘密なんですか」
「運用目的です」
「面会する人には、四人目が拘束員だと説明しましたか」
「危険がなければ使用しません」
「危険を誰が決める?」
「担当職員です」
「収容者が座らなかったら?」
「面会拒否として記録します」
「四脚目の説明を聞いてから拒否したのか、説明されず来なかったのか、分けますか」
男は答えない。
七瀬は撮影機の時刻を読み上げた。
「午前八時二十六分四秒。施設側記録担当者、回答保留」
「保留とは言っていません」
「では、何です」
「回答する権限がありません」
「訂正。午前八時二十六分十四秒。権限なし」
七瀬は四脚目を、画面の中央へ入れた。
空の椅子は、誰かが来なかった証拠にはならない。
けれど、誰かを待つために何が置かれていたかは映せる。
午前九時零分。
第一枠。
訪問者側の椅子へ、六十代の女性が座った。
名前は公開しない。
右手に、毛糸の手袋を二組持っている。
収容者側の椅子は空だった。
女性は時計を見る。
「来ないの?」
職員が答える。
「本人が面会区画への移動を拒否しました」
七瀬が聞く。
「拒否した時刻は」
「午前八時五十一分」
「本人へ誰が、何を説明しましたか」
「面会です」
「四脚目も?」
「必要な安全措置です」
女性が毛糸の手袋を膝へ置いた。
「息子は、手を押さえられるのが嫌いです」
職員が言う。
「危険がなければ押さえません」
「嫌いだと言ったら、危険ですか」
「そうは申し上げていません」
「じゃあ、何を言ったんです」
職員は同じ言葉を選び直した。
「面会へ来るよう伝えました」
「来なかった理由は」
「拒否です」
七瀬は、収容者の顔を撮れない。
そこにいないからではない。
本人が、顔と声を公開記録へ入れないと事前に示したからだ。
女性へも公開範囲を確認している。
「手だけ、映していい」
女性はそう答えた。
だから七瀬は、二組の手袋だけを撮る。
一組は大きい。
一組は小さい。
「小さい方は?」
七瀬が聞く。
「昔のです」
「息子さんの?」
「答えたくない」
「記録しません」
七瀬は音声を一度止めた。
停止時刻と理由だけを紙へ書く。
《午前九時六分二十秒から九時七分零三秒。本人希望による家族情報非記録》
撮影を再開する。
女性は大きい方の手袋を机へ置いた。
「渡せますか」
職員が透明袋を出す。
「危険物検査後に」
「毛糸です」
「編み針が混入していないか」
「編み針で編んだから、毛糸は犯罪の仲間ですか」
「検査は全物品へ同じです」
凱が椅子の横で言った。
「同じに調べるのは公平じゃない。調べた結果を同じに扱うのが、せいぜい公平だ」
職員が凱を見る。
「外部立会人は発言を控えてください」
「立会いとは、椅子になる仕事か」
「記録の中立性を」
「椅子は中立じゃないと、さっき分かった」
七瀬は、凱を画面へ入れない。
目立つ顔を入れると、手袋よりそちらが記録の意味になる。
九時二十分。
収容者側の椅子は、最後まで空だった。
職員が面会記録へ印を押す。
《本人拒否により不成立》
七瀬は横へ、自分の記録札を置いた。
《本人へ四脚目の用途説明を行ったか未確認。拒否内容の録音なし。訪問者は二十分待機。物品一件預かり》
「二つの記録があると、混乱します」
職員が言った。
「一つしかない方が、間違えやすいでしょう」
午前十一時四十分。
六枠が終わった。
成立、ゼロ。
訪問者が来た枠、四。
収容者が面会室へ来た枠、一。
両方が同時にいた枠、ゼロ。
収容者が来た一枠では、訪問者の入門許可が十一時三十六分まで下りなかった。
収容者は十一時二十分まで待ち、病棟の服薬時間のため戻った。
四分後に訪問者が入った。
椅子は、交代で人を待った。
会わせはしなかった。
七瀬は、十二の予定枠を一枚の長回しにはしない。
枠ごとに撮影を止める。
開始時刻。
入室者。
通知の有無。
退出時刻。
何が空だったか。
昼前、左肩が固まった。
撮影機の高さを三センチ下げるだけで、肘から肩へ針が走る。
凱が固定台へ手を出した。
七瀬は右手を上げる。
「触る前に聞いて」
「下げるだけだ」
「誰が下げたかが残ります」
「君が下げろと言ったら、俺が下げる」
「まだ言っていない」
「痛いのも、まだ言っていない」
「映像には関係ありません」
「映像を作る身体には関係する」
「それを言うと、撮影者の痛みで映像の価値が上がる」
「上げない。台だけ下げる」
「三センチ」
「三センチ」
「水平器を見て」
「君より見える」
「それ、近視の真琴に言ってください」
「彼は眼鏡を三つ隠している。私より準備がいい」
凱が台を下げる。
三センチ。
左膝を曲げる時、装具が小さく鳴った。
七瀬はその音を撮らない。
撮らなかったことも、わざわざ記録しない。
すべての沈黙へ札を付けると、沈黙の方が窒息する。
午後二時。
九枠目。
訪問者は来なかった。
収容者も来なかった。
机の上に、二枚の通知だけが置かれた。
一枚は訪問者へ。
《安全確認未了につき入門延期》
もう一枚は収容者へ。
《訪問者都合により面会中止》
同じ時刻。
同じ面会。
違う理由。
七瀬は二枚を並べて撮る。
「片方は誤記です」
施設記録係が言った。
「どちら」
「確認します」
「確認するまで、両方が施設の答えです」
「誤記を公表すれば、職員の個人責任が」
「名前は映していません」
「部署が特定されます」
「部署が書いた通知です」
「現場の負担を考慮してください」
七瀬は二枚の間へ、時刻札を置いた。
「収容されている人の負担と、同じ記録に入れます」
「同じにされると、職員が加害者のように見える」
「同じ映像に入ることと、同じ責任になることは違います」
「見る側は区別しません」
「だから説明を添える。見る側が区別しないから、映さない、ではない」
男は唇を固くする。
「あなたの映像も、意味を固定する」
「します」
七瀬は即答した。
「固定しない記録はありません。だから、どこを固定したかを残します」
「それで中立だと?」
「中立ではありません。午前九時からここにいて、空の椅子を十二回撮る側です」
男は初めて、七瀬の左肩を見る。
「そこまでして」
「痛いから正しいわけじゃない」
凱が横で、低く笑った。
「君たちは会話の途中で、相手が言う予定の美談を先に殺すな」
「美談は殺しても、死亡届が要りません」
「便利だ」
「王位よりは」
凱の笑いが止まる。
七瀬は通知二枚から撮影機を外さない。
凱が言った。
「そこは刺す場所か」
「元王は、空席に敏感でしょう」
「今は椅子の方が多い」
「人より椅子が多い会議は、だいたい誰かが追い出されています」
午後三時十八分。
第十枠の訪問者は、南区の縫製工場主だった。
濃紺の外套。
雪を払わないまま椅子へ座り、革鞄から三枚の紙を出す。
一枚目は雇用継続証明。
二枚目は宿舎の受入確認。
三枚目は、休業中の賃金を請求しないという同意書だった。
「本人へ渡してください」
工場主が言う。
「面会は」
施設職員。
「署名が先です。署名があれば、雇用と住居を保証する」
七瀬は紙面を撮らない。
本人の雇用情報だからだ。
代わりに、三枚あることと、それぞれの表題だけを音声で記録する。
「賃金請求を放棄しないと、住居もない?」
凱が聞いた。
「同じ契約です」
「同じ紙?」
「三枚です」
「なら分けられる」
「経営は、紙の枚数で分かれません」
「人の生活は、契約の都合で一つにならない」
工場主は凱を見た。
「王だった方は、給与を払った経験がおありで?」
「王だった頃、払わせた経験ならある」
「それは経営ではありません」
「知っている。だから聞いている」
収容者側の椅子は空いたまま。
職員が通知記録を読む。
「本人は、同意書への署名を求められる面会なら拒否すると回答しています」
「雇用を続けたいか、聞いたのか」
七瀬。
「同意書を提示したところ、拒否しました」
「三枚を別々に説明した?」
「一組の復職書類です」
「本人は、何を拒否した」
「一組です」
工場主が鞄を閉じる。
「拒否なら、こちらも雇用を保証できません」
七瀬は撮影機を止めた。
「停止理由は」
凱。
「雇用主の顔と声が、本人の同意なく労務紛争の公開記録になるから」
「相手が先に話した」
「話すことと、全市へ見せることは別」
七瀬は紙へ書く。
《午後三時二十一分。雇用・住居・賃金放棄が一組として提示されたため本人が面会拒否。各項目を分けた意思確認は未実施。映像非公開。審理資料へ表題と時刻だけ保全》
工場主が立つ。
「私が悪いように見える」
「賃金を払わないことは、審理されます」
「工場が潰れれば、全員の賃金がなくなる」
「それも、別の欄へ」
「欄を増やせば金が増えるのか」
「増えません」
七瀬は答える。
「だから、足りない金を一人の同意へ隠さない」
工場主は返事をせず、三枚の紙を持ち帰った。
午後三時五十二分。
第十一枠は、音声だけで成立した。
訪問者は外環の診療所医師。
収容者はB-47。
双方とも、顔、氏名、所属の公開を拒否。
声は内部照合版だけ。
公開版へ残すのは、質問の種類と時刻だけ。
四脚の椅子は使わない。
面会室の外と独房を、医療回線でつなぐ。
「本人確認」
医師が言う。
「診療番号で」
B-47の声。
「薬歴を三つ。本人だけが知る順序で」
「一つ目、火傷用銀軟膏。二つ目、鎮痛。三つ目、胃薬を断った」
「断った理由」
「眠気じゃない。胃が空だった」
「照合」
医師は施設へ処方内容を渡す。
ただし、患者の記録を返すかどうかは、この面会では決めない。
「退所後、診療所は受け入れますか」
施設職員が聞く。
「本人が希望すれば」
「危険評価上の監督は」
「医療ではしません」
「能力接触歴があります」
「火傷へ触れた人間を監督する診療科はありません」
「安全確認のため、所在報告を」
「本人へ聞いてください」
B-47が言う。
「所在は報告しない。診療時刻だけ、必要なら二鍵箱へ」
「受入れ条件として」
医師。
「条件ではありません。病院が開いている時刻です」
七瀬は、映像を回さない。
音声も、本人が選んだ範囲だけ内部箱へ入れる。
五分十二秒。
短い面会だった。
終了後、施設記録には《成立》と一語だけが付く。
七瀬は横へ書く。
《成立内容・薬歴照合、退所後医療受入れ。所在報告への同意なし。患者記録返却は未審理》
「成立したのに、未解決ばかりですね」
施設記録係が言う。
「会えたら全部解決する面会は、だいたい結婚式か詐欺です」
凱が言った。
「結婚式も解決しないでしょう」
七瀬。
「経験があるように言うな」
「ありません。映像は多い」
午後四時二十七分。
左肩の痛みが、腕ではなく顎へ上がった。
七瀬は撮影機から一歩離れる。
画面が揺れたのではない。
自分が揺れた。
「交代」
凱が言う。
「誰と」
「私」
「撮影できる?」
「王冠より簡単だろう」
「王冠は水平器がありません」
「傾いていたのか」
「かなり」
七瀬は、撮影機の操作を一つずつ説明する。
巻上げ。
焦点。
時刻札。
撮影停止理由。
再開条件。
凱は途中で手を出さない。
説明が終わってから、右手でクランクを受け取る。
「私が撮ると、凱の映像になる」
「だから、椅子だけ」
「君は映らない?」
「映さない」
「撮影者の変更は」
「画面の外へ札を置く」
七瀬は大きく書いた。
《午後四時三十一分から。左肩疼痛により撮影操作を獅堂凱へ委任。構図・公開範囲は火群七瀬が指示。凱本人は画面へ入れない》
「長い」
「巴に削らせません」
「なぜ」
「痛みを美談へしないため。誰が代わったかだけでいい」
七瀬は壁へ背を預ける。
十五分後、施設広報担当が面会室へ来た。
手に短い映写帯。
「公開案を作りました」
壁へ、三十秒の映像が映る。
整えられた四脚。
時計。
手袋。
空席。
職員が記録する手。
音声はない。
最後に文字。
《面会機会を確保しています》
通知の不一致も、遅延も、四脚目の刻印も映っていない。
七瀬は肩を動かさず聞く。
「元映像は」
「施設記録です。あなたの構図を参考にしました」
「参考にする同意は」
「撮影場所は施設内です」
凱がクランクを止める。