第444話 第四章「条文を壁に書く」後編
午前十一時四十六分。
拘置所内放送が鳴った。
「収容者各位へ告知します」
冬実の声。
低い。
同じ音量。
「壁面、配膳具、寝台への無許可記載は、施設保全規則第八条に基づき停止してください。記載済みの内容は職員が確認後、消去します。異議は正式書式で提出できます」
B-17で、迅が天井を見た。
「正式書式、どこ」
放送は答えない。
タマキが配膳口を叩く。
「誰から、誰へ」
放送は続く。
「書式は、担当看守へ請求してください。器物損壊が確認された場合、危険評価へ加算することがあります」
イオが壁の石灰を指で触る。
乾き始めている。
「能力じゃなくても、加算できる」
迅。
「便利」
「消す?」
タマキ。
「本人が決める」
B-22の方角から、壁を叩く音がする。
強い。
怒っている。
「消すな!」
声が届く。
「俺の壁だ!」
看守が走る。
迅は扉へ寄らない。
寄れば、集団反抗と書かれる。
代わりに、自分の壁へもう一行書く。
《消す人の名前》
タマキも書く。
《消す時刻》
イオ。
《消した後、質問はどこへ行く》
文字が増える。
冬実は、旧配膳室の確認窓からそれを見た。
「消去を停止してください」
主任看守が振り向く。
「所長、規則違反です」
「確認前の消去は、申立て妨害と評価される可能性があります」
「正式な申立てではない」
「正式かどうかを判断する前に、内容を失わせない」
「書き続けます」
「一室一面まで。配管、扉、設備へは書かない。石灰と水だけ。記載時刻を付ける」
「認めるのですか」
「管理します」
冬実は定規を開いた。
「文字の範囲を測ります」
檻が横で言う。
「優しさ?」
「施設保全」
「責任?」
「両方ではいけませんか」
「分けて書く」
冬実は返事をしなかった。
番号札の束が左手で揺れる。
午後一時十二分。
真琴は、外門脇の仮設閲覧室で、施設規則を読んでいた。
巴は向かいの椅子へ座る。
椅子は丸い。
久我が見たら嫌がる。
閲覧室は暖房が強い。
チョーク粉で荒れた巴の気管支には、乾燥した空気も良くない。
透明な喉当てを少し緩める。
真琴は頁をめくる。
「面会規則。審理規則。移送規則。施設用途」
巴が手話をする。
《順番》
「何を探しているかですか」
《何を先に守る》
「審理の場所」
《人ではなく》
「場所がなければ、審理は始まりません」
《場所があれば、理解しなくても始める?》
「理解確認はあなたの仕事です」
巴の手が止まる。
「違う」
音声が少し大きくなる。
「本人の、仕事」
「あなたは支援する」
「真琴、答えを作る。私、読ませる。本人、選ぶ。三つ」
「私は答えを作るのではなく、法的選択肢を」
巴が黒板へ大きく書く。
《長い》
真琴は口を閉じた。
「私は、道を探す」
言い直す。
「あなたは、道の説明を作る」
巴。
「本人、歩くか決める」
「そうです」
「最初から」
「最初からそう言ったつもりでした」
「つもり、記録しない」
真琴の耳が少し赤くなる。
彼は規則集を一冊、巴へ向けた。
《中央抑制拘置所施設運用規則》
第五章。
公開審理。
原則、外部庁舎で行う。
理由。
拘禁環境から判断を分離するため。
看守の視線から離すため。
審理官の独立を保つため。
正しい。
その下に、但し書きがある。
《交通途絶、施設事故、本人の医療上の理由その他移送不能の場合、独立審理官が同等の質問権、記録、公開範囲、退席経路を確保した場所を指定できる》
巴は一行ずつ読む。
「場所」
「はい」
「庁舎、だけじゃない」
「ええ」
「独房?」
真琴は眼鏡を外した。
一メートル先の巴の顔が、もう曖昧になる。
それでも条文は、鼻先まで近づければ読める。
「収容場所を、審理場所へ指定できる可能性があります」
「可能性」
「安全条件が必要です」
「誰の安全」
「収容者、審理官、証人、職員」
「順番」
「条文上、同列」
「運用」
「施設が先に来るでしょう」
「だから、質問」
巴は黒板へ書いた。
《ここで、聞けますか》
真琴が頁の端を押さえる。
「聞くだけでは足りません」
《長い》
「質問して、答えを記録し、反対し、途中で止められる場所にできますか」
巴は少し考えた。
消す。
《ここで、聞く。答えないも選ぶ。記録する。止められる?》
「平文としては」
《本人に聞く》
「その前に、施設へ申請します」
《また循環》
「今度は、条文番号があります」
真琴は右手袋の上から、署名する指を押さえた。
巴はその動きを見た。
「知ってた?」
「何を」
「この規則」
「存在は」
「使った?」
「ありません」
「なぜ」
「外部審理が原則だからです」
「移送できない人」
「……」
真琴の接続詞が増えない。
恐怖の時の短文になる。
「私は、外へ出すことを正しいと考えていました」
「出られない人」
「例外へ押し込みました」
「例外、読んだ?」
「読んでいました」
「使わなかった」
「はい」
巴は黒板を伏せた。
正確に読めることと、読む人を守ることは同じではない。
真琴はそれを知っている。
知っていて、原則を先にした。
「今、使う」
巴が言った。
「ええ」
「あなたの正解じゃない」
「分かっています」
「分かったか、本人に聞く」
「それも」
「長い」
「聞いてください」
午後三時五十分。
施設側への申請は、十二頁になった。
真琴が八頁。
巴が二頁。
七瀬が記録条件一頁。
凱が外部安全担当として一頁。
巴は十二頁を見た。
「長い」
「必要です」
「収容者、読める?」
「平文版を作ります」
「いつ」
「今夜」
「審理、いつ」
「未定です」
巴は十二頁目の下へ、手書きで追加した。
《この申請の返答期限 十二月三十一日 正午》
真琴が眉を上げる。
「法定期限ではありません」
「希望」
「希望を期限欄へ書くと、義務のように」
「拒否理由、書かせる」
「それは」
真琴が止まる。
「有効です」
申請書を外門窓口へ出す。
職員は受領印を押さない。
「所長確認後に」
巴は黒板を出す。
《受け取った時刻》
「まだ正式受理では」
《紙を持った時刻》
「十五時五十二分」
《あなたの名前》
職員がためらう。
七瀬の撮影機は、まだ停止中だ。
顔は撮っていない。
真琴が言う。
「氏名を公開する必要はありません。内部受領者として記録箱へ入れる」
職員は名を言った。
七瀬が音声だけを再開する。
「撮影再開、十五時五十三分十一秒。映像なし。受領時刻と受領者名は非公開箱へ」
紙が窓口の向こうへ消える。
今度は、消えた先が記録された。
午後六時十四分。
B棟の壁へ、七十二通りの質問が並んでいた。
《俺は何をした》
《誰が、まだあると決めた》
《命令拒否は危険か》
《妹の住所を、なぜ私の危険にした》
《薬を飲めば出られるのか》
《薬を拒否すれば残されるのか》
《夫が能力者だと、私も能力者か》
《私は医療者として触った。何に感染した》
《出たくない。いつまで残れる》
《出たい。でも家がない。どこへ出す》
《答えたくない。答えないと危険か》
短い文。
長い文。
絵。
記号。
日付だけ。
一室では、文字が書けない収容者が、扉の絵を描いた。
扉の外に、三つの矢印。
一つへ丸。
一つへ斜線。
一つへ空白。
巴は管越しに、その説明を聞く。
「丸は?」
タマキが中継する。
「医療へ行く」
「斜線」
「家。戻らない」
「空白」
「まだ」
巴は外の黒板へ同じ絵を描いた。
言葉を足さない。
真琴が横で見る。
「法的には、選択肢の名称が」
巴が片手を上げる。
止める。
絵を描いた本人は、名称を求めていない。
必要になった時、聞く。
今は、丸と斜線と空白を、そのまま運ぶ。
拘置所内放送が鳴った。
冬実の声。
「壁面への質問記載は、指定範囲に限り一時保全します。記載者本人の申立てとして扱うかは、審理官の判断を求めます。職員は無断消去しないでください」
巴は管へ耳を近づけない。
人工内耳も付けない。
管の振動を指で受ける。
中から、七十二の部屋が順番に食器を鳴らす。
一つ。
二つ。
三つ。
返事は同じではない。
速い人。
遅い人。
鳴らさない人。
巴は、鳴らさない部屋へ同意を書かなかった。
黒板の最後に、空白の枠を一つ描く。
《返事なし》ではない。
《まだ、聞いていない》
風がチョーク粉を運ぶ。
白い壁の内側と外側に、同じ質問が残った。
《いつまで》
答えだけが、まだどこにも書かれていなかった。