第443話 第四章「条文を壁に書く」前編
十二月三十日 午前九時二分
一文字巴は、長い文章が嫌いではない。
長い文章の中に、短い責任が隠れているのが嫌いだった。
中央抑制拘置所の面会申請書は、表裏で四枚あった。
一枚目は申請者。
二枚目は収容者。
三枚目は会話内容。
四枚目は、会話の結果として起こり得る危険への同意。
危険の主語はない。
誰が危険と判断するか。
何を危険と呼ぶか。
判断をいつまで保存するか。
四枚使って、一度も書かれていない。
巴は申請書を外門前の机へ広げた。
風が紙をめくる。
右人差し指へ痛みが走り、押さえる力が抜ける。
左手で重しを置いた。
重しは、真琴の廃止規則集だった。
「私の資料を文鎮にしないでください」
朽葉真琴が言った。
丸眼鏡の向こうで、榛色の目が細い。
巴は手話をする。
《廃止されても役に立つ》
「皮肉としては認めます」
《褒めた》
「あなたの褒め言葉は、反証可能性が高い」
《能力を使わない》
「それはお互いさまです」
真琴は右手袋を外さない。
彼の《但書》は、相手の宣言へ確認質問を挟み、曖昧さを制限に変える。
使えば便利だ。
だが、拘置所側は、能力使用を危険評価へ加えると通知していた。
外門の外で使っても、収容者との共同計画として記録される。
巴の《読めた者だけ》も同じだった。
読めない規則を止められる。
止めた瞬間、施設は「能力による手続き妨害」と書く。
だから、二人は普通に読んだ。
普通に読むことは、能力より遅い。
遅い分だけ、誰が置いていかれるか見えた。
「第六欄」
真琴が指す。
《面会内容は危険評価へ使用される場合がある》
「場合」
巴が音声で言った。
自分の声量を確認するように、一語ずつ。
「誰が、決める」
「所長または指定審査官」
「指定、誰」
「所長」
「循環」
「ええ」
「面会、何のため」
「代理人選任、医療、家族連絡、生活確認」
「全部、危険?」
「条文上は除外がありません」
巴は黒板へ書いた。
《会ったことが危険になる面会》
風でチョーク粉が飛ぶ。
右手袋の句点が白くなる。
七瀬が三脚の脚を一段縮めた。
「映像、回していい?」
巴は首を振る。
「理由は」
七瀬。
《まだ、申請書の読解》
「代替記録」
《黒板と真琴の写し》
「撮影停止、九時五分。理由、申請者が公開前の読解を選択。再開条件、申請提出後」
七瀬はクランクから手を離した。
撮らないことを、無かったことにしない。
外門の向こうで、鍵が二度鳴った。
久我檻の灰鍵。
巴は地面へ膝をついた。
排水管の点検口は、門の右端、雪をかぶった格子の下にある。
昨日の打音が届いた管。
黒板の文字は管へ入らない。
手話も入らない。
声は歪む。
だから、短くする。
巴はチョークの柄で鉄管を叩いた。
一回。
《誰》
二回。
《何》
三回。
《いつ》
長く擦る。
《まで》
中から同じ形が返る。
聞こえた。
巴は次の文を考えた。
《収容理由の具体的行為、判断者、終了条件を本人作成の申立書へ記載してください》
長い。
管へ入れれば、途中で別の意味になる。
《自分の壁に書いて》
短いが、何を書くか分からない。
《誰が》
《何をした》
《いつまで》
昨日と同じ。
同じ質問を繰り返すことは、説明不足にもなる。
だが、言い換えるたび、質問する側だけが意味を増やす。
巴は最初の三つを叩いた。
次に、短く二回。
《壁へ》
管の向こうで、食器が鳴る。
タマキの声が鉄へ潰れて届く。
「何で、書く」
巴は真琴を見る。
「筆記具は没収」
「壁は石灰塗りです」
「削る?」
七瀬。
「器物損壊になります」
巴は雪を指で掬った。
黒板の端へ押す。
白い水が流れる。
「石灰」
声にする。
真琴が眼鏡の左つるを上げた。
「壁の表面を削るのでなく、配膳時の水と、既に剥離した石灰粉を混ぜる。消去可能なら恒久損壊ではない」
巴が手話をする。
《断定しない》
「器物損壊に当たらない可能性が高い」
《長い》
「消せる石灰で書く」
《良い》
巴は管へ、指で擦る音を送った。
「水」
中からタマキ。
「食器、返す前」
「料金」
「施設へ」
「請求先、書く」
巴は笑った。
声は出さない。
手袋の句点を親指でなぞる。
午前十時二十一分。
B-18の壁へ、最初の文字が書かれた。
《誰》
環玉樹の字は、配達票で覚えた字だ。
線がまっすぐで、角が深い。
隣のB-17へ、食器底で管を叩く。
「書いた」
迅の返事。
「何」
「誰が」
「同じ」
「次」
「何をした」
「俺?」
「閉じた人が、何を理由にした」
「長い」
「じゃあ、俺は何した」
「それ」
迅は壁の石灰を指で削った。
水を一滴。
《俺は何をした》
文字の横へ、時刻。
《10:24》
B-16のイオは、四角を七十二描いた壁の上へ書く。
《終わった能力を、誰があると決めた》
長い。
配膳口から檻が見る。
「巴、短くって」
「短くすると、私じゃなくなる」
「誰があると決めた」
「能力、抜けた」
「本人は知ってる」
「読む人は」
「読む人のため?」
「審理のため」
「審理する人、能力失ってない」
イオは一度消した。
《誰が、まだあると決めた》
短くなった。
「意味、変わった」
檻。
「変えた」
「良い?」
「私が選んだ」
C棟では、声が届きにくい。
笠井透は、配膳盆の裏へ石灰を塗り、鏡文字で書いた。
点検窓へ盆を立てる。
《命令拒否は危険か》
廊下側の看守が読む。
「盆を下ろせ」
「質問です」
「収容規則違反」
「規則番号」
「第十一項。配膳具の目的外使用」
「目的は食事と返却です」
「書くことは含まれない」
「禁止とも書かれていない」
「下ろせ」
「私は反対する。私の名で」
看守が配膳口を閉じようとする。
檻が手を挟んだ。
右手ではない。
方眼手袋の左手。
「挟むと、記録」
「久我監査員、業務妨害です」
「質問、本人作成」
「壁書きも盆書きも認められていない」
「禁止、どこ」
「規則の想定外です」
「想定外、禁止?」
看守は黙った。
檻は配膳口を開けたままにした。
「三分。笠井、書き終わる?」
「終わっています」
「じゃあ返す」
「写真を」
「撮影機ない」
「開錠ログに文面を記載」
「長い」
「一行です」
檻は方眼紙へ書いた。
《10:39 C-04改めB-14 本人質問「命令拒否は危険か」》
「改め、要る?」
「無記録移動を消さないためです」
「正しい」
「褒めないでください」
笠井は盆を返した。
午前十一時五分。
外門前の人数は、朝より増えていた。
門を破れと書いた板。
全員釈放と書いた布。
危険者を出すなと書いた紙。
能力者の家族を守れと書いた紙。
互いに反対する言葉が、同じ風で鳴る。
獅堂凱は、外門から三十メートル離れた白線へ立った。
「前へ詰めるな」
声を張る。
「施設へ圧力をかけるなって?」
群衆から返る。
「面会窓口を塞ぐな。救急車の経路を空けろ」
「中に仲間がいるんだぞ!」
「だから空けろ」
「王なら命令しろ!」
「王は終わった」
「便利な時だけ終わるのか!」
凱の左膝が、装具の中で脈打つ。
怒鳴れば、痛みを忘れられる。
怒鳴った声は、聞いた人間の痛みまで忘れさせる。
凱は一度、後ろの椅子へ座った。
群衆がざわめく。
座ることを、弱さと読む人間がいる。
立ち続けることを、正しさと読む人間もいる。
火群七瀬が、腰高の固定台を調整した。
「撮る?」
凱が聞く。
「撮らない」
「俺が座ったから?」
「それを理由にしたら、あなたの膝を物語へ使う」
「もう使ってるだろ」
「記録には。演出には使わない」
「違いは」
「後で切れるか」
七瀬は、門ではなく、救急経路の白線だけを撮る。
「群衆の顔を撮れば、施設は威圧の証拠にする。撮らなければ、集まっていないことにする」
「どっちにする」
「人数と位置を、上からの線だけで残す。顔、標語、声は本人ごとに同意を取る」
「遅い」
「速い映像は、だいたい誰かを同じ顔にする」
凱は椅子から立つ。
三十メートル線の前へ、三つの箱を置かせた。
《強行救出を求める》
《強行救出に反対する》
《まだ決めない》
「署名?」
七瀬。
「非公開札。名前を書きたくない者は、色札だけ」
「数が圧力になる」
「なる」
「使う?」
「全員が求めたと言わせないためだけに使う」
「施設へ見せる?」
「総数だけ。個人名は出さない」
「途中で変えられる?」
「一時間ごとに箱を閉じて、新しい札を入れられる」
七瀬が少し笑う。
「投票所みたい」
「投票じゃない。俺に何を言ってほしいかの確認だ」
「もっと面倒」
「人間が多い」
凱は群衆へ説明する。
救急経路へ入らない。
門へ物を投げない。
誰かの家族関係や能力歴を叫ばない。
自分の要求は、自分の名または匿名札で示す。
他人の要求を代弁しない。
「そんなに条件を付けたら、怒れない!」
誰かが叫ぶ。
「怒れ」
凱は言う。
「ただし、誰の怒りかは残せ」
門の前へ、少しだけ道ができる。
午前十一時二十八分。
B棟の排水管へ、タマキが三度、爪を当てた。
「巴」
「いる」
「B-31。さっきの質問、外へ写さないで」
巴は手を止める。
「理由、聞く?」
タマキ。
管の向こうで、B-31が答える。
「理由を言うと、理由も外へ出る」
巴は黒板から、B-31の文を探した。
《夫が来ないなら出たい》
まだ外へは写していない。
写す前の整理欄にある。
巴は消した。
真琴が言う。
「消去したことは記録すべきです」
管の向こうで、B-31が聞いている。
巴は先に本人へ問う。
「消した時刻、残していい?」
「文は残さない?」
「残さない」
「誰が頼んだか」
「公開しない」
「じゃあ、残して」
巴は外の記録紙へ書く。
《十一時二十九分。本人の申出により一件を外部転記前に消去。内容・番号・理由は非公開》
真琴が読む。
「審理官へは内容が必要になる場合があります」
B-31が返す。
「必要になったら、私に聞いて」
「その時、答えないことも」
「選ぶ」
「受領します」
同じ頃、C棟から別の文が届く。
管は言葉を削る。
《妹の住所を、なぜ私の危険にした》
最初、タマキは《今の住所》と聞き取った。
「今の住所を、なぜ危険に?」
C棟から食器が激しく鳴る。
「違う。妹」
「妹?」
「妹の住所」
巴は、最初の誤りを消さずに訂正する。
《第一中継「今の住所」》
《本人訂正「妹の住所」》
《訂正時刻 十一時三十三分》
「間違い、外へ出す?」
タマキ。
「訂正と一緒」
「間違えた人の名前」
巴は自分の名を書く。
実際に最初の音を受けたのはタマキだ。
だが、外へ出す文を確定したのは巴だった。
「私も」
タマキが言う。
「中継者として」
巴は二人の名を分けて記す。
管は短いほど正確になるとは限らない。
長いほど責任が見えるとも限らない。
重要なのは、間違いが起きないことではない。
間違いを、本人より先に完成させないことだった。
午前十一時三十五分。
施設職員が、正式書式を三十枚だけ持ってきた。
七十二人分ではない。
「追加は」
巴が聞く。
「記入状況を確認してから印刷します」
「三十人、選ぶ?」
「希望者からです」
「希望、どう聞く」
「担当看守へ請求」
「請求書、どこ」
「この書式です」
紙は白かった。
黒い四角が三つある。
《収容継続に異議なし》
《指導・治療を受けたうえで再審査を希望》
《代理人による異議申立てを希望》
自分で異議を述べる欄がない。
収容理由を知らない、という欄もない。
残りたいが、期限は決めたいという欄もない。
答えたくない、もない。
「四つ目」
巴が言う。
「規定書式です」
「ない選択」
「自由記載欄があります」
裏面の下、二行。
巴は定規で測った。
横十四センチ。
一行七ミリ。
「七十二人の理由、十四センチ?」
「要旨です」
「要旨、誰が作る」
「本人が」
「書けない人」
「代筆」
「代筆者、選べる?」
「施設職員が行います」
「その職員へ異議」
「監督者が確認します」
「監督者へ異議」
職員は黙った。
真琴が紙を受け取る。
「未選択の場合の扱いは」
「申立てなしです」
「収容継続への同意ではなく」
「異議が提出されていない状態です」
「その状態を、継続判断に使いますか」
「申立てがなければ、現行命令が維持されます」
巴は黒板へ書いた。
《空白=継続》
職員が訂正する。
「同意ではありません」
巴は等号へ斜線を引く。
《空白は同意ではない。だが、現行命令は続く》
「これ、表へ」
「書式の説明ではありません」
「いちばん大事」
真琴は書式の欄外を指した。
「別紙添付を禁じる規定はありません」
「別紙、正式?」
「受領者、時刻、原本との対応番号を残せば、申立て資料になります」
「また番号」
「番号で本人を消さないよう、本人が選んだ呼称も併記できます」
巴は三十枚の書式を配らなかった。
先に、同じ大きさの別紙を三十枚作る。
《私は、次を選べます》
《理由を聞く》
《自分で異議を言う》
《代筆者を選ぶ》
《代理人を選ぶ》
《今は答えない》
《残留を選び、期限を聞く》
《退所を選び、受入先を一緒に探す》
《この紙にない言い方を使う》
最後の欄だけ、紙の半分を空けた。
「これ、誘導では」
職員が聞く。
「正式書式も、誘導」
「規則に基づいています」
「規則の誘導、見えにくい」
真琴が言う。
「別紙は、正式書式にない選択肢の例示です。どれも選ばない欄を加えましょう」
巴は最上段へ書き足した。
《この紙を使わない》
最初に紙を受け取ったB-07は、《退所を選び、受入先を一緒に探す》へ丸を付けた。
三十秒後、独房扉の内側レバーを下げる。
警報が鳴った。
「退所を選んだ」
B-07は扉の向こうで言う。
「この紙は、今すぐ扉が開く許可ではありません」
施設職員が返す。
「《退所を選ぶ》って書いてある」
「受入先と時刻を確認してからです」
「書いてない」
巴は、自分が作った短い文を見た。
正式書式より分かりやすい。だからこそ、足りない言葉が命令に見えた。
「私の誤り」
巴は全三十枚の回収を求めた。
《退所を希望する》
《扉が開く時刻と受入先は、この紙とは別に確認する》
二行へ直す。
「長くなった」
タマキが言う。
「短いだけでは、分かりやすくない」
「平文も間違う?」
「人が作るから」
B-07の扉は開かなかった。
本人の退所希望だけは、警報記録とは別に受領された。
タマキが管へ一枚ずつ送る。
「三十枚しかない」
「誰から」
巴。
「早い人」
「早い人が得する」
「じゃあ」
「番号で選ばない。各棟十枚。使った人が、次の人へ回す。書かない人も、回した時刻を残す」
「紙が戻らない」
「戻らない理由を記録」
「紙、増やせば」
「印刷、誰が止めた」
施設職員が答える。
「用紙管理担当です」
「名前」
「公開は」
「内部」
名前と受領時刻が、別紙の一枚目へ入る。
紙が足りないことも、申立ての内容になった。
制度は、欄の外にある人を無言にする。
だから巴は、欄の外にも線を引いた。
午前十一時四十三分。
冬実の放送前、B棟の一室から最後の質問が来た。
《質問を書きたくない》
巴は黒板へ、その文を書こうとして止まる。
書きたくない、を外へ書けば、書いたことになる。
「空白でいい?」
本人へ聞く。
食器が一度鳴る。
巴は黒板へ何も足さない。
代わりに、質問数の集計へ一つだけ欄を作る。
《外部転記を選ばなかった件 1》
内容はない。
空白は、何もなかった場所ではない。
誰かが、そこへ書かせないと決めた場所だった。