第439話 第二章「逃げない脱獄者」前編
十二月二十八日 午前六時十六分
久我檻は、鍵穴の音で人を聞き分ける。
右へ一度、左へ半分。
そこから押し込む看守は、急いでいる。
左へ一度、戻してから右へ回す看守は、規則を守っている。
鍵を入れたまま呼吸を止める看守は、扉の向こうを怖がっている。
賀茂冬実は、必ず最初に逆方向へ回した。
開かないことを確かめてから、開ける。
檻には、その癖が嫌いではなかった。
嫌いではないことと、正しいことは別だった。
午前六時十六分、中央抑制拘置所のB棟に、四種類の鍵音が鳴った。
灰色は配膳口。
青は医療。
黄は面会。
黒は独房扉。
四つを同じ輪へ通さない。
檻が招聘された条件だった。
「非効率です」
主任看守が言った。
四十代の男。
襟の右だけ高い。
左耳の後ろへ鉛筆を一本挟んでいる。
「急病なら、青を探す。暴動なら黒を探す。面会なら黄を探す。鍵の所在を探している間に、誰かが死にます」
「全部、私が持つ?」
「環水三号塔では、そうしていたと聞いています」
「聞いた範囲、狭い」
「塔を守った」
「閉じ込めた」
「結果として死者は出なかった」
「結果で鍵の用途、混ぜる?」
主任は答えなかった。
檻は方眼手袋の指で、鍵管理板の四隅を押した。
板は旧配膳室の壁へ固定されている。
誰が、何時何分、どの用途の鍵を持ち出したか。
表側は看守廊下から見える。
裏側は、独房側の細い確認窓から見える。
見えるだけで、自由にはならない。
しかし、見えない鍵は、開いた理由も閉じた理由も持ち主の口へ戻る。
「久我さん」
賀茂冬実が、旧配膳室の入口に立った。
白い所長服。
左手に番号札。
右手に折り畳み定規。
「午前巡回をお願いします。昨日の新規収容者四名を含め、B棟二十四人。食事、薬、設備異常の確認」
「四名?」
「竜胆、環、水科、笠井」
「笠井、C棟」
「昨夜、移動しました」
「ログない」
檻が管理板を見る。
C-04からB-14へ。
移動記録欄は空白。
冬実の視線が、主任へ向いた。
「命令者」
「夜勤副長です。護送隊との接触を避けるため」
「理由、本人へ」
「説明済みです」
「記録」
「後で」
「今、書いてください」
冬実は怒鳴らない。
主任の背筋が伸びる。
命令がよく効く人間は、声を節約できる。
檻は黒鍵を主任へ渡さなかった。
「私が開ける」
「所長命令ですか」
「監査契約」
檻はB棟へ入った。
B-14の配膳口を開ける。
笠井透は寝台へ座っていた。
制服は没収され、灰色の収容服。
それでも両手は見える位置へ置いている。
左肘が少し曲がり、右頬の紙切り傷が白い壁で濃く見える。
「朝食」
檻が四角い盆を入れる。
「配膳口の鍵を持つ人」
「私」
「記録」
「六時二十四分、灰鍵、久我檻」
「昨日の移動は」
「記録なし」
「記録なしと記録してください」
「する」
「私は、夜勤副長の口頭命令でB-14へ移されました。理由は護送隊との接触防止。本人同意なし。医療上の理由なし。移動時刻、二十三時十一分」
「覚えてる」
「袖へ書けなかったから」
「壁へ」
「器物損壊になるそうです」
「消せるなら?」
「規則を確認します」
「規則、閉じ込める人が持ってる」
「だから要求する」
笠井は蓋付きの粥を見た。
「食器の返却時刻」
「七時」
「外出時刻より明確ですね」
「食器は逃げないと思われてる」
「人も逃げないと決めれば」
「それ、所長に言う?」
「言います。私の名で」
檻は配膳口を閉じた。
鍵を右へ回す。
笠井は、その音を聞いていた。
B-16。
水科イオは、床へ座り、左右の違う靴を脱いでいた。
右膝を伸ばす。
伸びきる前に、太腿が震える。
「薬」
檻が青鍵で小箱を開ける。
「午前七時」
「今、六時二十九分」
「正しい」
「正しい時刻に閉じられると、安心しますか」
「しない」
「私も」
「朝食」
「蓋を開けて」
「本人の前」
「毒を疑ってない。湯気」
檻が蓋を開ける。
温かい麦粥。
塩は別。
薄い牛乳。
「所長の趣味」
イオが牛乳を見る。
「知ってる?」
「毎朝、同じ温度。五十八度」
「測った?」
「昨日の夜、医療室で」
「薬は」
「七時」
「また来る」
「戻る予定、書く?」
「六時五十九分」
「一分余る」
「薬箱、開ける」
「終わりがある仕事、好き?」
檻は答えなかった。
B-17。
配膳口を開ける前から、竜胆迅は扉の前にいた。
寝台と壁の間、出口が二つ見える角度。
右手首の赤い紐。
右眉の斜め傷。
「近い」
檻が言う。
「食事、受け取る」
「一歩、下がる」
「ここで七歩は出ない」
「普通の拳、出る」
「おまえに?」
「配膳担当に」
「殴らない」
「昨日も言った?」
「昨日は聞かれてない」
「今、聞く。閉じていいか」
「配膳口だけ」
檻は灰鍵を回した。
迅が一歩下がる。
盆を受ける左手。
右手は赤紐へ触れている。
「中央蝶番、ねじ新しい」
「見た」
「抜けやすい」
「見た」
「壊せるようにしてある扉ほど、罠」
「おまえが作った?」
「私が来る前」
「報告」
「した」
「直さない」
「検査中、と言われた」
「何の検査」
「逃げるか」
迅の目が、配膳口の向こうで細くなる。
「逃げたら危険」
「逃げなければ、閉じて正解」
「どっちでも正解」
「箱、好きな理屈」
「四角いからな」
檻は言ってから、口の端が少し動いた。
狭い廊下では冗談が増える。
迅が粥の蓋を開ける。
「塔の時より、笑う」
「広場じゃない」
「ここ、好きか」
「好きな広さと、好きな仕事は別」
「仕事は」
「鍵が一人へ集まらないか見る」
「集めろって言われたら」
「まだ言われてない」
「予定では?」
檻は答えず、配膳口を閉じた。
B-18。
「誰から」
開ける前に、タマキの声がした。
「厨房」
「誰へ」
「環玉樹」
「目的」
「朝食」
「受取人、同意」
配膳口を開ける。
タマキはニット帽を被ったまま、床へ膝をついていた。
独房の壁へ耳を当てている。
「何してる」
「住所、覚える」
「同じ部屋」
「同じに見える部屋が七十二」
「番号ある」
「番号、本人の名前じゃない」
「住所には使える」
「戻る時だけ」
「どこへ戻る」
「それを聞いてる」
檻は盆を入れた。
タマキが受領札を求めるように手を出す。
「食事に札はない」
「返却、七時?」
「そう」
「食器は帰る」
「人は審査後」
「食器になりたい人、増える」
「欠ける」
「人も」
檻は配膳口を閉じた。
鍵音が廊下を渡る。
四角い部屋が、同じ朝を別々に受け取る。
午前八時三分。
檻は、B棟の朝食巡回を終えると、旧配膳室へ戻った。
鍵管理板の下に、扉の部品が並べられている。
戸当たり。
蝶番軸。
解除索。
新しいねじ。
どれも壊れていない。
壊れていない部品で、壊しやすい扉は作れる。
檻は方眼紙へ、B-17とB-22の蝶番寸法を書き写した。
上の蝶番は旧規格。
中央だけ新規格。
下は旧規格。
中央ねじの長さは、必要量より十三ミリ短い。
強く蹴れば、ねじ山が先に抜ける。
蹴らなくても、天井の解除索を引けば戸当たりが外れる。
二つの仕組みが、同じ扉へ入っている。
「修繕要求は受けています」
賀茂冬実が入口で言った。
「受けて、直してない」
「保全試験中です」
「何を保つ」
「収容者が開放機会へどう反応するか」
「開放機会?」
「非常時に扉が開いた場合の行動確認です」
「非常、今?」
「平時にしか試せません」
「本人、知ってる?」
「知らせれば、試験になりません」
檻は、短いねじを手袋の掌へ置いた。
「試験される同意」
「収容規則の危険評価協力条項に含まれます」
「条項、見せて」
「監査契約の範囲外です」
「扉は範囲」
「構造は。運用目的は審査部門です」
「所長、審査部門?」
「施設安全については」
「答え、二つ」
冬実は折り畳み定規を開いた。
部品の長さを自分でも測る。
「十三ミリ不足。あなたの測定と一致します」
「直す?」
「試験終了後」
「いつ」
「全棟確認後」
「日付」
「未定です」
檻は定規の先を見た。
冬実は嘘をついていない。
嘘をつかずに期限を消すことはできる。
「私は、開錠試験の鍵を持たない」
「要求していません」
「解除索の管理者」
「保全部」
「名前」
「勤務表は非公開です」
「ログ」
「試験後に統合します」
「今、見えない」
「試験の性質上」
「じゃあ監査できない」
「終了後に」
「終わるまで、何人が危険になる」
冬実の定規が閉じた。
「外へ出た時に危険になる人間を、今見つける必要があります」
「開いた扉、作って?」
「現実には、扉が壊れることがあります」
「現実には、所長が開けることもある」
冬実は答えなかった。
旧配膳室の反対側から、若い看守が入ってくる。
両手に鍵箱を持ち、檻を見ると姿勢を正した。
「環水三号塔の久我さんですよね」
「そう呼ぶ人、多い」
「一人で塔を開けた」
「住民が四つ開けた」
「でも、最後に鍵を返した」
「返す前に持ってた」
「英雄だと思っています」
「思うの、勤務外にして」
若い看守は困った顔になる。
「昼食、食堂から無料で出ます。監査協力者なので」
「値段」
「無料です」
「値段ない食事、誰が払う」
「施設費です」
「項目」
「福利厚生かと」
「私は職員じゃない」
「では協力費へ」
「書いて」
看守は鍵箱を置き、食事伝票へ項目を足した。
《外部監査協力者一名/麦粥・野菜煮/実費三十四》
「安い」
「大量調理です」
「払う」
「施設が」
「私が」
「規則では」
「規則、見せて」
若い看守は冬実を見る。
冬実が言う。
「本人負担で受領してください。後日、監査契約費へ含めるかは別に審理します」
「食べる前に決めない?」
檻。
「食べない選択もあります」
「食べる。三十四、払う」
英雄扱いより、請求書の方が扱いやすい。
請求書は、誰が何を受け取ったかが残る。
若い看守が出ていく。
冬実は部品を見たまま言った。
「広場では、今も壁沿いに立ちますか」
檻の呼吸が、一つ短くなる。
「質問、仕事?」
「中央中庭を通る巡回があります。代替経路を用意できます」
「用意して」
「克服訓練は」
「契約にない」
「分かりました」
冬実はそれ以上、恐怖を人格の説明へ使わなかった。
檻は方眼紙へ書く。
《中庭巡回は壁沿い経路。本人申出。安全上の遅延二分》
「遅延、書く?」
「書かないと、次は急がされる」
檻は短いねじを透明袋へ入れた。
《B棟扉部品。保全試験中。本人通知なし。修繕期限未定》
袋の封へ、自分の名を書く。
「開ける試験、止める?」
冬実が聞いた。
「止める権限ない」
「意見は」
「危険」
「外へ出す危険と、閉じ込める危険の比較は」
「一人ずつ」
「試験では比較できません」
「だから試験、悪い」
冬実の目が、わずかに細くなった。
「あなたは、逃走機会があっても逃げないと」
「私?」
「収容者です」
「知らない」
「監査者として予測を」
「予測、扉に書かない」
「なぜ」
「人が読む」
檻は、管理板へ黒鍵を戻した。
扉を開ける試験より先に、開けた人間の名を見える場所へ出す。
それができなければ、試験と罠の違いは、実施者の説明にしか残らない。
午前九時三十二分。
外門の面会窓口へ、一文字巴が来た。
白い手袋。
折り畳み黒板。
透明な喉当て。
右耳後ろの人工内耳は外している。
施設前の風は強い。
髪と布が口元を隠し、読唇には向かない。
巴は窓口職員を、風除け板の内側へ呼んだ。
職員は来なかった。
「面会申請は書面で」
小さな穴から、声だけが出る。
巴は黒板へ書く。
《申請書をください》
「代理人登録が先です」
《代理人登録のための面会です》
「面会許可が必要です」
巴は黒板を一度下ろした。
目を閉じる。
怒るほど手話が小さくなる。
隣で真琴が眼鏡を拭いていた。
「循環ですね」
巴が短く手を動かす。
「楽しそう?」
「まさか。循環は崩す箇所が少ない」
「人も少なくする?」
「質問を一つに」
巴は黒板へ書いた。
《収容者本人は、代理人を選べますか》
窓口へ向ける。
「選べます」
《選ぶために、会えますか》
「許可後に」
《誰が許可しますか》
「所長です」
《所長へ質問を渡してください》
「書面で」
真琴が笑わなかった。
「ようやく入口です」
巴は申請書を受け取った。
長い。
氏名。
所属。
関係。
目的。
面会対象。
公開範囲。
審理への影響。
危険時の同意。
最後に、こうある。
《面会内容が収容者の危険評価へ用いられる場合があることを了承する》
巴は右人差し指を曲げようとして、途中で止めた。
腱が硬い。
左手へ鉛筆を持ち替える。
「書かない?」
真琴。
巴は首を振る。
《本人が何を言っても、危険評価に使う?》
「条項上は」
《黙っても?》
「協力不足と評価される可能性があります」
《会うと危険。会わないと危険》
「箱の論理です」
巴は申請書を折らなかった。
代わりに、裏面へ一行だけ書く。
《誰が決めた》
そして窓口へ戻した。
「不備です」
職員。
巴は黒板へ大きく書いた。
《不備の責任者名》
穴の向こうが、黙った。
正午前、旧配膳室の床下で、排水管が三回鳴った。
檻は工具箱を持って潜った。
配膳室からB棟へ伸びる古い鉄管。
元は厨房の洗い水を流す管だった。
今は使われていない。
外壁の点検口へつながっている。
管の内側を、何か硬い物が叩く。
短く。
間を置いて。
また短く。
檻は指で管を叩き返した。
向こうから、別の間隔。
意味は分からない。
だが、音を出している人間は、同じ強さで繰り返している。
檻は配膳室へ戻り、方眼紙へ間隔を書いた。
短。
短。
長。
短。
B棟の配膳口を順番に開ける。
「外から音」
B-14の笠井が言った。
「符号?」
「紙燕の規定ではない」
「B-16」
イオが床へ指を当てる。
「秒間隔。三、三、七、三」
「意味」
「時刻じゃない」
「B-17」
迅は管の音を聞いた。
「巴」
「なぜ」
「同じこと、短くなるまで繰り返す」
「内容」
「知らない」
「B-18」
タマキが言う。
「誰が」
「何」
「いつ」
「それ」
「三つしかない」
「四つ鳴った」
「最後、まで」
檻は、配膳口を閉じずに待った。
タマキが四角い食器の底を管へ当てる。
叩く。
一回。
「誰」
二回。
「何」
三回。
「いつ」
長く擦る。
「まで」
外から、同じ形が返る。
巴は聞いた。
壁の中へ、質問が一つ入った。
午後七時十二分。
冬実は所長室で、七十二枚の番号札を裏返していた。
表は番号。
裏は名前。
裏の布へ、細い糸で一人ずつ縫ってある。
印刷ではない。
手縫い。
檻は扉の外から見ていた。
「入ってください」
冬実は振り返らない。
「見えた」
「何が」
「名前」
「公開しないでください」
「本人、知ってる?」
「自分の名前は知っています」
「札の裏」
「見せる必要はありません」
「縫った人」
「私です」
「番号だけで呼ぶのに」
「名前を失わないためです」
「誰の中で」
冬実の手が止まった。
左手の札束。
右手の針。
「管理者が覚えていなければ、記録から消えます」
「本人が見えなければ、管理者の優しさ」
「優しさとは言っていません」
「何」
「責任です」
「責任、裏へ隠す?」
冬実は針を布へ刺した。
「あなたは、塔で全員の鍵を持っていた」
「持ってた」
「所在も」
「持ってた」
「守った人がいる」
「閉じた人も」
「どちらも事実です」
「なら、私を褒める時、両方言って」
冬実は糸を切った。
「あなたを鍵管理へ招聘したのは、集中の危険を知っているからです」
「集中した人として?」
「分散へ変えた人として」
「変わりきってない」
「だから監査が要る」
「あなたも?」
「私もです」
冬実は番号札を裏返した。
名前が消える。
「ただし、外へ出すことで死なせる監査は認めません」
「外で死ぬか、中で名前なくすか」
「名前は残します」
「あなたの裏に」
冬実は定規で机の端を揃えた。
「外は安全ではありません」
「ここも、まだ答えてない」
午後十一時四十七分。
B棟の照明が一段暗くなった。
就寝時刻。
迅は寝台へ横にならず、床へ座っていた。
扉の新しいねじ。
中央蝶番。
上の留め具。
配膳口の外で、足音が止まる。
一人。
鍵が入る。
右へ回さない。
逆方向の確認もない。
金属が、内側で滑る。
かちり。
扉が二センチ開いた。
迅は動かなかった。
隣のB-18でも、同じ音。
B-16。
さらに遠く。
開く扉が、三つ。
偶然にしては、数が合う。
「タマキ」
迅は小さく呼んだ。
「起きてる」
「出るな」
「帰り道ない」
B-16から、イオの声。
「午後十一時四十八分。扉開放。命令なし」
廊下の向こうで、別の扉が勢いよく開いた。
足音。
裸足。
軽い。
速い。
B-22の収容者が、廊下へ飛び出した。
十代の小柄な人影。
灰色の服。
手には、寝台から外した金属片。
「出口!」
声がひっくり返る。
廊下の端に、黄色い線がある。
独房区画と看守区画の境界。
越えれば、施設規則上の逃走開始。
線の向こうには、看守が二人、盾を持って待っていた。
待っている。
追ってきたのではない。
最初から。
「止まれ!」
看守の声。
B-22は止まらない。
迅の扉も開いている。
一歩。
廊下へ出る。
誓痕は沈黙したまま。
七歩の重さはない。
普通の床。
普通の足。
普通の拳。
B-22まで、五メートル。
相手は右手に金属片。
肩が先に開く。
突くのではなく、振る。
迅は黄色い線へ背を向けた。
一歩目。
相手の手首へ触れない。
肘の外側へ前腕を当てる。
二歩目。
金属片の軌道を壁へ流す。
火花。
三歩目。
相手の腰へ自分の腰を入れる。
投げない。
黄色い線の手前で、向きを変える。
「離せ!」
「線、見るな」
「出る!」
「外、どこ」
「どこでも!」
「それ、住所じゃない」
タマキが自分の扉の内側から言った。
B-22が肘を振る。
迅の頬をかすめる。
迅は肩を落とし、相手の脇へ腕を通す。
胸ではなく、背中を自分へ向ける。
呼吸を潰さない。
床へ膝をつかせる。
看守が黄色い線を越えようとした。
「来るな」
迅が言う。
「逃走者を確保する!」
「まだ越えてない」
「独房を出た」
「扉、誰が開けた」
「命令に従え!」
「主語」
看守の盾が上がる。