第86話 第五章「名札のない債務」後編
聞いた、と書くと簡単だ。
一人目は、呼ばれたい名が三つあった。店では《針ばあ》。診療所では戸籍名。亡い夫の家族には旧姓。
「どれが本当です」
真琴が訊き、すぐ眼鏡を押し上げた。
「質問を訂正します。どの場面で、どれを使いますか」
「全部、本当だよ」
針ばあは笑った。
二人目は、名を文字にされたくなかった。幼い頃、借金取りが壁へ本名を書いたからだ。凱は音だけを自分の耳で覚え、紙には本人が選んだ青い三角を描いた。
三人目は、亡い娘の名札を掛け続けていた。娘を忘れたくないのではない。娘名義の診療負担資格を失うと薬代が上がるからだった。
「娘の名前を使うのは嫌ですか」
凱が訊く。
「嫌だよ」
老女は即答した。
「でも、薬が要る。嫌なのと、やるのは別だ」
凱は《本人は継続使用へ同意している》と書きかけ、消した。
《本人は薬代を維持するため、望まず使用している》
「長いね」
「短くすると、望んだことになります」
「長いまま書きな」
四人目は、名札に父の名を残すことを誇りにしていた。分けないでくれと言った。
五人目は、店番号しか覚えていない。
六人目は、法定名を使うが、性別欄を空白にしたいと言った。
「契約者識別に必要です」
管理員が言う。
「何に」
「統計と、住居区画の一部規則に」
「この人の店の解約に必要ですか」
凱。
「直接は」
「なら今日は空ける」
「後で不足になる」
「後で、必要な理由と一緒に訊く」
七人目は、凱を見て言った。
「王様に名前を渡すのは嫌だ」
「元です」
「元でも覚えてるだろ」
「覚えます」
「忘れろ」
凱は筆を置いた。
「聞き取りを別の者へ替えます」
「そうじゃない。俺の名前を聞かずに、店をやめる話だけ聞け」
「本人確認は」
「毎朝ここで茶を飲む。店の三人が知ってる。左の親指が曲がらない」
男は手を見せる。古傷で、親指の第一関節が真っすぐだった。
凱は名前欄へ書く。
《本人が指定した三名の面前証言。左母指の古傷。氏名は聞き取らない》
「それで足りる?」
管理員は渋い顔をする。
「現行規則では足りない」
「仮運用なら」
「責任者が保証すれば」
全員が凱を見る。
白い外套は椅子の背にある。着ていなくても、過去は脱衣できない。
「俺の名で保証すれば、結局この人が俺へ名前を預けたことになる」
男が言う。
「じゃあ誰が責任取る」
「確認した三人が、自分が見たことだけ責任を持つ。管理員は照合手順。俺は聞き書きの正確さ。誰も、本人そのものを保証しない」
「面倒だな」
「はい」
「王様は一人で保証してくれるから便利だった」
「便利でした」
「戻りたいか」
凱は白い外套を見た。
「便利な時だけは」
「正直だな」
「戻れば、不便な時も王です」
「契約みたいだ」
「よく似ています」
男は笑い、名前を言わないまま茶を飲みに戻った。
凱の紙には、空欄が七種類できた。
知らない空欄。
言いたくない空欄。
必要のない空欄。
後で訊く空欄。
文字にしない空欄。
複数あるため一つにしない空欄。
本人が、自分で埋めるための空欄。
何も書いていない欄ほど、理由を書かなければならなかった。
午後一時十三分。
名札を外した住民が、管理台の前へ十三人集まった。
三一が始めたわけではない。
昨日から外したかった者が、外しても人間が消えないと見ただけだ。
魚屋の女は、夫の名札を持っている。
夫は四年前に家を出た。
契約上はまだ同じ店の共同経営者で、彼の署名がなければ解約できない。
刃物研ぎの老人は、父親の名札。
父親は二十年前に死んでいる。更新のたび、老人は父の番号を自分の胸へ掛けた。
手話を使う老女は、娘と同じ名札番号。
娘が結婚で別棟へ移った後も、住居保証を切られないため一つを共有している。
「全員外せば、契約主体を確認できない」
管理員が言う。
「なら、処理を止めろ」
迅。
「債務も止まる?」
三一。
「止まらない」
管理員。
「権利だけ止まる?」
「本人確認ができないからだ」
「借金の本人確認はできる?」
「名札番号へ記録されている」
「人じゃない」
「番号が契約単位だ」
巴が黒板へ、二つの円を描く。
《呼ばれる人》
《請求される番号》
重なる部分が少ない。
真琴は契約書をめくる。
「元は、読み書きできない住民でも同じ権利を継げるよう、名札単位にした制度です」
「悪くするためじゃない?」
タマキ。
「少なくとも制定理由は、継承を簡単にするためです」
「簡単?」
三一が自分の請求票を振る。
真琴は眼鏡を直した。
「始めた時は」
「いつ」
「三十二年前」
「俺、生まれてない」
「そうです」
「母ちゃんも子ども」
「そうです」
「じゃあ誰に訊いた」
真琴は答えられない。
凱が外套を椅子へ掛けたまま、十三人の前へ座る。
「一人ずつ、呼ばれたい名と、請求されている番号を分けて書く」
「命令?」
三一が訊く。
「提案だ」
「嫌な人は」
「書かない」
「書かなかったら」
「不利益を受けないよう、今の扉と診療所へ別の本人確認を頼む」
「誰が頼む」
凱は白い外套を見た。
王の名を使えば、話は早い。
市場の管理員は、元王の要請を無視しにくい。
それは今も権力だ。
「聞き書き担当、獅堂凱が頼む」
「元王じゃなく?」
「今日は違う」
「明日は?」
「明日も、決めた仕事の間は」
「王だったことは消える?」
「消えない」
「便利だな」
三一の言葉に棘がある。
凱は否定しない。
「便利だ。だから、勝手に使わない」
管理台へ行き、外套を着ずに話す。
十三人分の仮本人確認。
顔。
本人が選んだ質問。
住居の鍵。
隣人一名の証言。
名札を着けなくても、四十八時間は住居と診療へアクセスできるよう求める。
管理員は難色を示した。
「元王の保証か」
「違う」
「では誰の保証だ」
「本人と隣人の確認だ」
「事故があれば」
「確認方法に問題があれば、聞き書き担当の俺が記録と説明の責任を負う。本人の債務は負わない」
「責任を分けすぎる」
「混ぜた結果が、この名札だ」
管理員は十三枚の聞き取り票を読む。
三一の票だけ、字が少し大きい。
「仮運用を認める。四十八時間。黒板会の承認を条件とする」
「承認まで」
「現状維持」
「名札を外しても?」
「住居と診療のみ。店舗と共同設備は停止」
三一が聞いている。
「冷蔵庫は?」
「店舗設備だ」
「また腐る」
「店を終えるなら、私物を出せ」
「今、出す」
タマキが配達箱を持ち上げる。
「中身、誰の。行き先、どこ。何のため」
「三一の。部屋。腐らせない」
「受ける」
轟が右腕で共同冷蔵庫を開ける。左肩は上げない。迅が中の木箱を左手で引く。凱は階段を上らず、管理台で十三人の確認を続ける。
華やかな外套は、椅子の背で白く目立っている。
本人は低い机へ屈み、他人の言葉を一行ずつ書く。
午後三時。
三一が戻ってきた。
青果の木箱は部屋へ移した。
真鍮の名札は、まだポケット。
「字、間違ってる」
聞き取り票を指す。
「どこだ」
「青果台の下。『隠している』じゃなくて『置いている』」
「意味が違うか」
「隠してない。みんな知らないだけ」
「同じでは」
「違う」
凱は線を引き、書き直した。
《置いている》
訂正時刻と、三一の確認印。
少年は名札ではなく、自分の親指を朱肉へつけた。
小さな指紋が、大きすぎる《氏名》欄の外へ押された。