第85話 第五章「名札のない債務」前編

九月十七日 午前七時四十九分

 王は国から名前を借りる。

 子どもは、親から借金を借りる。

「三一番」

 市場の管理員が呼んだ。

 細い少年が、青果台の下から出てきた。

 十二歳か、十三歳。

 髪を自分で切ったらしく、右の耳だけ半分隠れている。大きすぎる灰色の上着。胸には真鍮の名札。

《青果 三一》

 氏名はない。

「更新料が二日遅れている」

 管理員が帳面を見せる。

「昨日払った」

「住居分だ。店舗分が残っている」

「店は閉めてる」

「閉店申請がない」

「母ちゃんが死んだ日に閉めた」

「契約者死亡後、継承者は三十日以内に閉店または承継を選ぶ。おまえは承継札を受け取った」

「もらっただけ」

「受領印がある」

 少年の名札の裏には、小さな朱印が押されていた。

 凱は市場の柱へ背を預けて、二人の会話を聞いていた。

 左膝の装具は、朝の冷えで硬い。長く立つと関節の奥が熱を持つ。王だった頃、痛みは儀礼の裏へ隠せた。今は椅子を借りるにも持ち主へ訊く。

「座りますか」

 巴が折り畳み椅子を示す。

「まだいい」

 口元が見える位置で答える。

 巴は凱の膝を見た。

 次に椅子を見る。

《まだ、は何分?》

「十分」

《九時まで聞き取り》

「分かっている」

 上階の扉が、遠くで一度鳴った。

 凱は言い直す。

「承知した、ではない。九時までという予定を覚えている」

 巴の目が少し笑った。

《ここは定義域外》

「癖になる」

《言葉を選ぶ癖は悪くない》

「選びすぎると、何も言えなくなる」

《その時は手を使う》

 凱は手話を三つしか知らない。

 ありがとう。

 待つ。

 違う。

 王だった時に必要だと思わなかった言葉ばかり、今になって要る。

 管理員が少年へ請求票を渡した。

「今日の正午まで。払わなければ店舗札を停止する」

「止めろよ」

「店舗札の停止中は、関連住居と診療資格を再確認する」

「またそれか」

「規則だ」

「俺、店いらない」

「住居は要るだろう」

「だから店はいらない」

「分離できない」

 少年が請求票を丸めた。

 管理員は叱らない。

「紙を破損しても債務は消えない」

「知ってる」

「なら払え」

「金がない」

「働け」

「店をやめたいって言ってる」

 会話が一周する。

 少年は名札を引きちぎろうとした。

 細い紐が首へ食い込む。

 凱が手を伸ばす。

「貸せ」

「触るな」

「首が締まる」

「俺の首だ」

 凱は手を止めた。

 命令なら、止まらなくてよかった。

 助けるという名目は、相手の拒否を聞かなくする。

「では、自分で紐を切れ」

「刃物ない」

 迅が横から小刀を出した。

 少年へ柄を向ける。

「返せる?」

「返す」

「切った後、何が止まるか知ってるか」

「名前で呼ばれなくなる」

「今も名前じゃない」

 少年は迅を睨んだ。

「三一は名前だ」

 凱は言った。

「店の番号だろう」

「俺を呼べば、俺が振り向く」

 少年の返答は速い。

「なら名前だ」

 凱は、自分の言葉を口の中で止めた。

 本名を訊こうとしていた。

 王だった頃、名を与えることは保護だった。

 戸籍のない子へ登録名を与える。

 兵へ階級名を与える。

 土地へ新しい区画名を与える。

 呼べるようにする。

 同時に、呼ばれたら振り向かなければならない形へする。

「本当の名は」

 それでも訊いた。

「ない」

「生まれた時の名はあるだろう」

「使ってない」

「使えば、店の番号と分けられる」

 少年の目が細くなる。

「おまえも王って呼ばれてたんだろ」

「今は違う」

「凱って呼べば、借金なくなるのか」

「なくならない」

「じゃあ、名前変えても同じだ」

 巴が二人の間へ入った。

《凱。名を与える提案は、誰の問題を解く?》

「店舗番号と本人を分ける」

《本人が望んだ?》

「まだ訊いていない」

《先に答えた》

 凱は白い外套の留め具へ指を掛けた。

 胸元には、昔の王冠を外した跡だけがある。

 肩書きを脱いでも、言葉の癖は残る。

「三一」

 少年をそう呼ぶ。

 少年は振り向いた。

「何を残したい」

「部屋」

「何を終えたい」

「店と、母ちゃんの借金」

「診療は」

「要らない」

「病気になったら」

「今なってない」

「将来は」

「知らない」

「分からない、で記録していいか」

 三一は少し考えた。

「いい」

 巴が黒板へ四列を書く。

《住居 残す》

《店舗 終える》

《母の債務 引き継がない》

《診療 今は分からない》

 管理員が首を振った。

「債務は名札へ付随している」

「人ではなく?」

 凱。

「市場では、契約単位を名札で管理する。名札を継承した者が権利と債務を継ぐ」

「本人の署名は」

「承継札の受領印」

「受け取った時、何歳だ」

「十一」

「説明者は」

「当時の管理員」

「記録は」

「署名」

 また同じ場所へ戻る。

 三一が小刀で紐を切った。

 真鍮の名札が、掌へ落ちる。

 その瞬間、青果台の上の値札が全部裏返った。

 白い面。

 共同冷蔵庫の鍵が赤く変わる。

 二階への通用口で、錠が一つ下りた。

「触るな」

 管理員が言う。

「名札未装着中は、契約主体を確認できない」

「部屋へ戻る」

 三一が通用口へ行く。

 木札を受信板へ当てる。

 赤い光。

《契約名札を装着してください》

「外したら入れないじゃないか」

「契約主体を確認できないからだ」

「名前じゃなく札を見てる」

「市場では同じだ」

 三一が扉を蹴った。

 迅が後ろから足首を掴む。

 蹴りが届く前に止まる。

「離せ」

「壊すと家が遠くなる」

「もう入れない」

「今より遠くなる」

 迅は足を離す。

 三一はもう一度蹴らない。

 名札を床へ置いた。

 扉の受信板が、緑へ戻る。

「つけなくても反応した」

 タマキが言う。

 皆が見る。

 名札は、首に掛けなくても床にあるだけで契約主体として認識された。

 三一が扉を押す。

 開く。

 人がいなくても札があれば、家へ入れる。

 人がいても札がなければ、入れない。

「契約者は、あの金属か」

 轟が訊く。

 管理員は答えに困った。

「名札は、契約者を識別する媒体だ」

「媒体だけで開いた」

「本人が近くにいる」

「何メートル」

「通常の使用範囲だ」

「置いて帰ったら」

「盗難防止規則が――」

「試す」

 タマキが名札へ手を伸ばす。

 三一が先に拾う。

「触るな」

「試すだけ」

「俺の名前だ」

「さっき外した」

「外しても俺の」

 タマキは手を引いた。

「分かった」

 階段は閉じなかった。

 ここは槙司の定義域ではない。

 三一は名札を上着のポケットへ入れた。首には掛けない。

「これでいい」

 扉は開く。

 値札も表へ戻る。

 見た目は解決した。

 債務は何も変わらない。

 三一の名札を床へ置いたまま、共同冷蔵庫を開ける実験は三分で終わった。

 中には、母親が仕入れた最後の青果が残っていた。

 皮の裂けた梨。

 柔らかくなった茄子。

 葉先の黒い葱。

 まだ食べられる南瓜。

 札を首へ掛けない状態では、冷蔵庫の棚から物を出せる。しかし会計板は《青果三一の販売物》として数え、通路へ運べば営業と判定する。

「売らない」

 三一が言う。

「捨てる」

 管理員。

「食う」

「個人消費の量を超える」

「何個から個人じゃない」

「品目と日数による」

「俺、腹減ってる」

「全部は食べられない」

「皆で食う」

「無償配布は衛生確認と共同使用申請が必要だ」

「腐るまで何分」

 タマキが梨を見た。

 轟が指で押し、すぐ離す。

「今日中。切れば早い」

「衛生係、どこ」

「二階南」

「三一は行けない」

「名札を着ければ行ける」

 三一は名札を見た。

「首へ掛けたら、借金も俺になる?」

 管理員は答えを選ぶ。

「借金は装着に関係なく契約単位へ残る」

「じゃあ掛けなくても同じ」

「本人確認には必要だ」

「食べ物を助ける時だけ、借金の首輪を掛けろって?」

 凱は白い外套のまま、南瓜を持ち上げた。

「俺が衛生係へ運ぶ」

「店舗の商品を契約外の者が搬送すると、所有権移転の記録が必要です」

 真琴。

「買う」

「いくらで」

 三一が訊く。

 凱は財布を出した。

 三百四十円。

「全部」

「安い」

「値段を言え」

「分からない」

「では買えない」

「王のくせに値切るのか」

「元だ。値切っていない。おまえの物の値段を俺が決めないと言ってる」

 三一は南瓜を見た。母親が最後に付けた値札は剥がれている。

「百円」

「全部で?」

「南瓜だけ」

「他は」

「ただ」

「ただにはしない」

「金ないんだろ」

「払える分だけ買う。残りは、食べる人へおまえが渡す」

「配ったら申請」

「販売ではなく、所有者からの贈与として記録する」

 真琴が訂正する。

「ただし、共同調理するなら設備使用の許可が要ります」

 市場の端から、共同食堂の土門小麦が顔だけ出した。

「鍋は貸す。私は作らない」

 三一が眉を寄せる。

「何で」

「誰かが困るたびに私が作ると、困っていない日に私が倒れるから」

「じゃあ誰が」

「持ち主」

 三一は料理ができない。

 そう言いかけ、口を閉じた。

「切るくらいなら」

「受ける人」

 小麦は周囲を指す。

 香辛料店の女主人が胡椒を出す。魚屋が包丁を貸す。乾物屋は出汁を持ってくる。轟は左肩を上げず、右手で大鍋を運ぶ。

「これは店?」

 三一が訊く。

「今日は食事」

 小麦。

「明日は?」

「続けるなら、仕事にするか決める」

「決めなかったら」

「今日で終わり」

 三一は傷んだ梨を切った。柔らかい部分を大きく落としすぎ、小麦が何も言わず別の梨で手本を見せる。二個目は食べられる場所が増えた。

 凱は南瓜へ百円を払った。領収書の名義欄で、三一の手が止まる。

「青果三一、でいい」

「借金の番号と同じだ」

「今日は売った人の名前」

 凱は《受領者が本日使用した呼称》と脇へ書く。

 同じ文字が、請求書では鎖になり、領収書では手渡した証拠になる。

 名前が悪いのではない。

 名前へ一つの意味しか許さない使い方が、人を狭くする。

 昼前、大鍋の底へ南瓜と梨の甘みが残った。三一は一杯を母親の写真の前へ置くと言い、部屋へ運んだ。

 管理員は、その一杯を営業とは数えなかった。

 午前十時二十分。

 凱は白い外套を脱いだ。

 市場の聞き取り机で、袖が墨壺へ触れたからだ。

 白い布は汚れが目立つ。

 王の衣装は、遠くから見つけてもらうために作られている。聞き書きには向かない。

 外套を椅子の背へ掛ける。

 下は黒いシャツと膝装具。

 三一が言った。

「急に弱そう」

「服で強かったのか」

「白いと偉そう」

「それは認める」

「認めるのかよ」

「否定しても白かった事実は消えない」

 凱は低い椅子へ座った。

 左膝を伸ばす。

 机には、住民の聞き取り票が三十二枚ある。巴と真琴だけでは足りない。七瀬は撮影可否。迅と轟は階段と扉の安全確認。タマキは札と物の対応を調べている。

 凱の仕事は、三一の話を書くことになった。

「字、書ける?」

 三一が訊く。

「書ける」

「王様の字?」

「普通の字だ」

「偉そう?」

「少し大きい」

「紙、足りなくなる」

「小さくする」

 凱は筆を持った。

 手が止まる。

《氏名》

 聞き取り票の最初の欄。

「三一、と書くか」

「うん」

「漢数字か」

「数字」

「三十一」

「店の札と同じ」

 凱は《31》と書いた。

 次の欄。

《法定名・登録名》

「空欄でいい」

 三一。

「後で本人確認ができない」

「今、目の前にいる」

「紙が後で読まれる」

「おまえが覚えろ」

「俺がいなくても使える紙にしたい」

「じゃあ、顔を描け」

「絵は得意ではない」

「耳、片方隠れてる。上着でかい。三一」

「同じ格好の者がいたら」

「いない」

「将来は」

「その時、書き直す」

 凱は登録名欄へ斜線を引き、余白へ書いた。

《本人は店番号31を呼称として使用。法定名の提示を希望しない。本人確認は面前、胸の真鍮札、右耳を覆う髪、本人が答える二つの質問で行う》

「質問って」

「おまえが決める」

「好きな食べ物とか?」

「他人が調べられないもの」

「秘密を紙に書いたら秘密じゃない」

「質問だけ書く。答えは別に保管する」

「誰が」

 凱は答えかける。

 自分が、と言えば早い。

「おまえが選ぶ」

「面倒」

「そうだ」

「名前って面倒だな」

「王よりは軽い」

「王は何キロ」

「測ったことがない」

「じゃあ比べられない」

「正しい」

 三一は少し笑った。

 最初の質問を決める。

《母親が最後に焦がした物》

「答えは」

「言わない」

「俺にも?」

「紙に書く人が答えを知ったら、勝手に書ける」

「正しい」

 二つ目。

《青果台の下へ隠している物》

「それも言わない」

「危険物なら困る」

「王冠」

 凱の筆が止まる。

 三一は笑う。

「嘘」

「本人確認の答えへ嘘を使うな」

「今は確認じゃない」

「口が達者だ」

「店で育った」

 凱は書き続ける。

 住居。

「残す。部屋は四〇二。母ちゃんの服は捨てない」

「服は住居契約に必要か」

「必要」

「理由」

「俺に」

 凱は《本人に必要》と書く。

 店舗。

「終える。青果台は返す。冷蔵庫の分は払えない」

「売れる物は」

「昨日、全部腐った」

「なぜ」

「名札止まりそうだったから、共同冷蔵庫へ入れられなかった」

「損害申立て」

「やらない」

「なぜ」

「また紙が増える」

「代わりに書く」

「いらない」

「金を取り戻せる」

「いらない」

 凱は筆を止めた。

 王だった頃なら、損害申立てを命じた。

 子どもが権利を知らないなら、使わせることが保護だと思った。

「理由を聞いていいか」

「母ちゃん、申立てしてた」

 三一はポケットの名札を握る。

「場所代が二重だったって。紙を出して、返事を待ってる間に死んだ。返ってきたのは、死んだ後」

「結果は」

「返すって」

「なら、その金は」

「葬式に使った」

「申立ては役に立った」

「母ちゃんには間に合わなかった」

 凱は、正しさを口にしなかった。

 制度は死者へ返金できない。

 だから申立てが無意味だ、とも言えない。

 どちらか一つへ決めれば、三一の時間をまた外から固定する。

「損害申立ては、今はしない。後で変えられる、と書いていいか」

 三一は考えた。

「いつまで」

「時効を真琴へ確認する」

「難しい言葉」

「請求できなくなる日」

「その前なら変えられる?」

「そうだ」

「じゃあ書け」

 凱は書いた。

 診療。

「分からない」

「そのまま」

 債務。

「母ちゃんの借金は払わない」

「借金の内訳を確認してから――」

「払わない」

「正当な債務があれば」

「母ちゃんが借りた」

「相続の規則が」

「俺は店を継ぐって言ってない」

 凱は口を閉じた。

 規則を説明するだけで、管理員と同じになる。

「分かった」

 扉は閉じない。

 三一が眉を上げる。

「今のは何が分かった」

「おまえが、払わないと決めていること」

「払わなくていいって分かった?」

「それはまだ分からない」

「じゃあ、別だな」

「別だ」

 凱は聞き取り票へ、線を引く。

《本人の意思》

《現在の規則》

 二つを同じ欄へ押し込まない。

 三一の言葉を左。

 契約条項を右。

 間には、まだ橋がない。

 正午までに、凱は七人の名前を聞いた。