第84話 第四章「声で閉じる扉」後編
「機械が噛んでる。十センチで止まる」
「蝶番」
迅は扉の側面へ回る。
壊せば保証が切れる。
壊さず、負荷だけ逃がす。
案内溝の下に、曲がった留め板がある。先ほどの降下でずれ、戸の重量が片側へ偏っている。
「工具」
タマキが箱を開ける。
「薄い梃子。短い」
「これ」
迅は左手で梃子を受け取る。
右手は支えに使えない。
左膝を床へつき、右足で扉の枠を押す。梃子を留め板の下へ入れ、体重を後ろへ移す。
左足の甲が痛む。
力が逃げる。
轟が言う。
「押すな。引け。肘を腰へ」
「分かっ――」
迅は口を閉じる。
その言葉は扉を閉じる。
「聞いた」
「意味が違う」
「扉は聞かん」
迅は肘を腰へつける。
背筋で引く。
留め板が二ミリ戻る。
扉の重量が左右へ分かれる。
上昇機が再び動き、隙間が三十センチ、五十センチ、一メートルへ広がった。
四階の女と子どもが通る。
凱が老人の部屋へ向かう。
七瀬が診療所から担架を連れて戻る。
身体層の勝利は、扉一枚。
契約は残る。
槙司も立っている。
担架が四階から下りる間、巴は階段の各踊り場へ紙を貼った。
《この場所で、次の三語は扉の操作へ使われる》
《確認した/分かった/承知した》
《別の用件では、目的語を言う》
その下へ、住民が使える言葉を集める。
《読んだ》
《聞いた》
《今の話は覚えた》
《撮影は断る》
《道を空ける》
《返事は保留》
手話を使う母親は、三つの禁止語に対応する手の形へ赤い紐を巻いた。子どもは絵札を描いた。耳を指す絵、目を指す絵、扉の絵。
「言葉を増やすと、混乱する」
槙司が言う。
《混乱を見えるようにした》
巴は返す。
「三語を避けるための一覧が、十二語になった」
《十二の用件を、三語で潰していた》
槙司は紙を読む。
反論しない。賛成もしない。
彼の沈黙は、巴の沈黙と違う。巴は相手の返事を待つ。槙司は定義できる形を待つ。どちらも外からは同じ無表情に見える。
階段の下で、執行員が負傷確認を始めた。
閉鎖時に指を挟んだ女。
上階へ戻れず、吸入器を取れなかった男。
途中で落とした帳簿。
休業した製本工の納品物。
「補償申請へまとめます」
執行員が言う。
製本工は扉越しに訊いた。
「今日の仕事を失った理由は、何と書く」
「契約上の閉鎖」
「設備故障じゃないのか」
「閉鎖自体は有効です」
「説明不良は」
「別件」
「通報器は」
「別件」
「扉の噛み込みは」
「別件」
男は笑った。
「別々にすると、誰も一日を返してくれないな」
凱が聞き取り票へ三件を一緒に書く。
「補償の責任は分けても、起きた一日は分けない」
「元王が一日を返す?」
「返せない。だから、返せないと書く」
「役に立つのか」
「役に立たない損害を、役に立たなかったことにしない」
製本工はしばらく黙り、納品先の名を伝えた。七瀬は電話を借り、遅延の説明をする。免責申請とは別に、客へ今日届かないことを本人の声で伝えるためだ。
制度は損害を金額へ変える。
生活は、待っている相手の顔へ変える。
両方を書かなければ、扉の重さは鋼板の百八十キロだけになる。
診療所の看護師が迅の足を見た。
「靴を脱いで」
「あとで」
「今、色を見ます」
「扉が」
「今は上がってる」
「まだ五階が」
「あなたの足を壊すと、運ぶ人が一人増える」
迅は黙って靴を脱いだ。
甲は紫へ変わり始めていた。骨折を疑うほどではないが、走れば悪化する。看護師は圧迫帯を巻き、今日の階段昇降を禁じた。
「守る?」
タマキが訊く。
「努力する」
「時刻」
「今日中」
「曖昧」
「階段が全部開くまで」
「条件を増やした」
「じゃあ、十四時まで」
タマキは記録した。
迅は、自分の自由を一行へ狭められた紙を見た。
「契約って、こういう感じか」
槙司が答える。
「自分で条件を選び、相手が確認し、守る。それが本来だ」
「今のは看護師が選んだ」
「おまえは断れた」
「断ったら」
「悪化する」
「自由って、脅しに似てるな」
「結果があることと、脅しは違う」
「違うかどうか、誰が決める」
槙司は答えない。
巴が黒板へ書いた。
《選ばなかった時の結果を、先に言えるか》
看護師は言えた。槙司の扉は、発話した後で言った。
違いは、それだけではない。
だが、少なくとも一つは見えた。
迅は梃子をタマキへ返した。
「返却、曲がりなし」
タマキが確認する。
「靴」
「破れた」
「誰の」
「俺の」
「修理代」
「あとで」
「何時」
迅は痛む左足で立ち、階段の掲示を見た。
《確認した》《分かった》《承知した》。
三つの言葉が、一つの鍵にされている。
「この扉が開いた後」
タマキは書いた。
迅は頷く。
上階から担架が下りてくる。
誰も「分かった」とは言わない。
代わりに、一人ずつ別の言葉で道を譲る。
「右へ寄る」
「二段空ける」
「ここにいる」
「通っていい」
扉は、それらの声では閉じなかった。