第87話 第六章「条文迷路」前編

九月十八日 午前六時五十八分

 迷路には、出口がある。

 契約には、出口があると書いてあるだけのことがある。

 タマキは市場の階層図を床へ広げた。

 一枚では足りない。

 一階の店舗図。

 二階の工房図。

 三階から五階の住居図。

 東棟の診療所。

 西棟の倉庫。

 中央階段。

 北非常階段。

 南搬入路。

 七枚を端で重ね、薄い紙を上へ置く。

「何してる」

 迅が覗く。

「道を読む」

「地図だろ」

「契約」

 タマキは赤鉛筆で、一階中央へ《12》と書いた。

 複合契約第十二条。

 店舗を終了する者は、関連資格の再審査を受ける。

 青で、二階の通用口へ《27》

 二十七条。

 住居資格の確認中は、契約者専用通路の使用を留保できる。

 緑で、東棟の診療所へ《41》

 四十一条。

 診療負担資格は、住居または店舗の共同加入状態に連動する。

 黄色で、北階段へ《18》

 十八条。

 非常通路は災害、医療緊急、管理者許可の場合に限る。

「条文番号を地図へ書くのですか」

 真琴が眼鏡を替えながら訊いた。

「紙のどこが、道のどこ」

「契約書には別表があります」

「別表は線じゃない」

「線にすれば、相互参照の条件が落ちます」

「落ちたら書く」

「全部ですか」

「通る人の分」

 真琴はしゃがんだ。

 白い手袋の左指で、タマキが書いた赤線を追う。

「柏木秋枝さんが店を終了し、住居と診療を残す経路ですね」

「うん」

「ここは通れません。中央階段は住居資格再審査中、管理員同行が必要です」

 タマキは赤線へ×をつける。

「北」

「医療緊急なら」

「薬を取りに行くだけ」

「医療緊急の定義に入るかは診療所判断」

「診療所へ行く道」

「先に判断を得る必要があります」

「行かないと判断できない」

「そうです」

「南」

「搬入業者だけ」

「店をやめたら業者じゃない」

「そうです」

 赤線が三本とも×になった。

 秋枝の店から診療所まで、地図では八十メートル。

 契約では、道がない。

「迷子」

 タマキが言う。

「場所は知っています」

 真琴。

「行けない迷子」

「法律上は、管理台へ同行申請を――」

「何分」

「標準一時間以内」

「薬、何分」

「症状によります」

「道は、人より遅い」

 タマキは別の透明紙を重ねた。

《31》

 三一の経路。

 店は終える。

 住居は残す。

 診療は保留。

 中央階段は仮本人確認で通れる。

 共同冷蔵庫は店舗設備だから使えない。

 部屋にある青果を市場へ運ぶと、無許可営業になる。

「出せない、売れない、冷やせない」

 タマキ。

「個人消費なら運べます」

 真琴。

「多い」

「廃棄」

「食べられる」

「無償配布は営業に当たらない可能性があります」

「配る」

「食品衛生の確認が必要です」

「誰」

「市場衛生係」

「どこ」

「二階南」

「三一、通れる?」

 真琴は契約書を見る。

「仮住居者は、業務区画へ――」

「また迷子」

 タマキは青線へ×をつけた。

 紙の上に、通れない道が増える。

 通れる道を探しているのに、×の方が早く増えた。

 午前八時十七分。

 タマキは三人を市場の南口へ集めた。

 刃物研ぎの老人。

 三一。

 車椅子を使う帳場係の女。

「届け先を言って」

 タマキは配達箱を背負っている。

 今日は物ではなく、人の道を運ぶ。

 老人が答える。

「診療所」

「何のため」

「膝の薬」

「いつまで」

「昼まで」

 三一。

「部屋」

「何のため」

「寝る」

「いつまで」

「今」

 帳場係。

「共同倉庫」

「何のため」

「昨日の帳簿を返す」

「いつまで」

「九時半」

「同じ入口から行く」

 タマキは三色の紐を渡す。

 老人は赤。

 三一は青。

 帳場係は黄。

「道で止まったら、札を読む。言葉を勝手に言わない。戻りたい時は言う」

「子ども扱いするな」

 三一。

「全員同じ」

「じいさんも?」

「うん」

 老人が笑う。

「俺は八十年、子ども扱いを待ってた」

 南口から中央通路へ入る。

 最初の分岐までは同じ。

 老人は東。

 三一は中央。

 帳場係は西。

 タマキは三人を一度に運べない。

「先に誰」

 老人が訊く。

「期限が早い人」

「私、九時半」

 帳場係。

「俺、今」

 三一。

「昼まで」

 老人。

 タマキは迷う。

「今」は時刻ではない。

「三一、何分まで」

「眠い」

「何分」

「今すぐ」

「数字」

「知らない」

 タマキの眉が寄る。

 宛先、目的、期限。

 三つが揃わない荷物は受けない。

 それが配達の規則だ。

 規則があるから、勝手に中身を決めずに済む。

「数字がないと決められない」

「じゃあ、俺はここで寝る」

 三一が石床へ座った。

「邪魔」

「数字がないから運べないんだろ」

「部屋まで何分か計る」

「行けるならな」

 帳場係が言った。

「私は自分で西へ行けるよ。段差さえなければ」

 タマキは黄線の地図を見る。

 西通路は最短。

 途中に三段の階段。

 迂回路は北廊下。ただし北廊下の幅は八十センチ。車椅子の幅は六十八。曲がり角で、帳場係の長い車軸が当たる。

「車輪、外せる?」

「外せる。でも外したら車椅子じゃない」

「運ぶ」

「私ごと?」

「轟を呼ぶ」

「左肩を壊した大男に、私を荷物にしろって?」

「右で持つ」

「嫌だよ」

「最短」

「私の最短は、持ち上げられない道」

 タマキは地図を見た。

 自分の得意な言葉が、相手を止めている。

 迅が後ろから来た。

「何で止まってる」

「三人。道が違う」

「分けろ」

「一人で三人」

「案内するのは一人じゃなくていい」

「道を読むの、俺」

「読んだ道を渡せ」

「間違えたら」

「渡された奴が戻す」

「遅い」

「三人とも止めるより早い」

 タマキは不満そうに紐を見る。

 赤を迅へ渡す。

「老人。診療所。膝の薬。昼まで。中央は駄目。北は緊急じゃない。管理台で同行札」

「長い」

「必要」

「分かった」

 階段は閉じない場所だ。

 迅が老人を見る。

「歩ける距離」

「休めば百メートル」

「椅子」

「二十メートルごと」

「地図にない」

「店の前の箱へ座る」

 老人は自分の道を持っていた。

 迅はタマキの赤線へ、箱の位置を四つ書く。

 最短ではない。

 休める道。

 帳場係の黄線は轟へ渡す。

 轟は車椅子を持ち上げない。

 北廊下の曲がり角にある商品台を、店主へ頼んで十五センチ動かす。車軸が通る幅を作る。

「店の範囲が変わる」

 店主が言う。

「十分だけ」

「契約違反」

「通路確保の安全協力」

 真琴が根拠を付ける。

「商品が盗まれたら」

 七瀬が移動前後を撮る。

「台の数と位置を記録します。持つのは轟。戻す時刻、九時十分」

 店主は渋々頷く。

 帳場係は、自分の手で車輪を回して通る。

 誰も運ばない。

 青線だけが、タマキの手元へ残った。

 三一は床に座っている。

「行く」

「眠い」

「部屋へ」

「今はここでいい」

「目的、変わった?」

「うん」

「いつ変えた」

「座った時」

「先に言って」

「今言った」

 タマキは青線を消しかける。

「消すな」

 三一。

「行かない」

「あとで行く」

「いつ」

「寝た後」

「何分」

「分からない」

 タマキは鉛筆を止めた。

《今は行かない。後で変える》

 地図へ書く。

 道を決める仕事は、動かすだけではない。

 動かない選択を、迷子と呼ばない仕事でもある。

 九時二十六分。

 最初の三人がそれぞれの場所へ着いた後、タマキはもう四人を試した。

 香辛料店の女主人は、胡椒で咳き込むため北廊下を避けたい。北には粉挽き場の排気口がある。

 診療所の看護師は、酸素筒を載せた台車を押す。幅は狭いが、傾けられない。

 製本工は、濡らせない紙束を抱えている。近道は魚屋の氷水が流れる。

 五歳の子どもは、祖父の部屋まで行きたい。大人の最短路より、顔を知っている店が並ぶ道しか一人で歩けない。

「目的地は同じでも、荷物で変わる」

 タマキが言う。

「人も荷物へ含めるのですか」

 真琴。

「持ってる物」

「呼吸器や杖も?」

「ないと着かないなら、身体」

 看護師が笑った。

「台車は身体じゃないよ」

「途中で手放せる?」

「患者へ着くまでは無理」

「じゃあ道では身体」

 タマキは酸素筒の円周を測り、地図へ太い線を引く。

 次に、香辛料店の女主人へ小袋を渡した。

「北を通らない地図」

 女は読んだ。

《南搬入路を使用。業者札を臨時発行》

「私は業者じゃない」

「札だけ」

「昨日、札だけが人だって話をしたばかりだろ」

 タマキは地図を見直す。

「通るために業者になるの、嫌?」

「嫌。うちの夫は搬入業者に賃金を踏み倒された。あの腕章は着けない」

「道は通れる」

「でも私じゃなくなる」

 タマキは南線へ×をつけた。

 効率では通れる。

 本人は通れない。

「じゃあ、中央。魚屋の前で布」

「胡椒は北だ。中央なら咳は出ない」

「遠い」

「歩ける」

 タマキは距離を書き直す。最短より四十二メートル長い。本人が選んだ線は、地図の上で遠回りに見える。

 子どもの線はもっと曲がった。

 飴屋。

 縫い直し屋。

 井戸。

 青果台。

 祖父の階段。

「まっすぐ行けば半分」

 迅が言う。

「知らない店がある」

 子どもは首を振る。

「一緒に行く」

「一人で行ける道を決める」

 タマキ。

「何で一人」

「いつも人がいるとは限らない」

「なら、いつも人がいる道を作ればいい」

 迅は店先を指す。

 タマキは考える。

「店が休みの日」

「休みの札を出す」

「子ども、読める?」

 子どもは首を振る。

「色にする」

 七瀬が提案する。

「今日、道にいる店は黄色い布。休みは外す。子どもが選んだ店だけ」

「布を忘れたら」

「忘れた店の人が記録する」

「誰もいなかったら」

「その道は使えないと分かる」

 タマキは、使えない可能性を消すのではなく、見えるようにした。

 飴屋の軒に黄色い布。

 縫い直し屋。

 井戸。

 青果台。

 子どもは一人で歩いた。角ごとに振り返り、黄色を見つけると次へ進む。最短路より三分遅く、祖父の部屋へ着いた。

「三分」

 タマキが記録する。

 子どもは上階から叫んだ。

「怖くなかった」

 タマキは《所要時間》の横へ、新しい欄を足した。

《本人が通れる理由》

 真琴が覗く。

「客観評価が難しい」

「本人が言う」

「毎回変わるかもしれません」

「変わったら線も変える」

「地図が増えます」

「紙、ある?」

「あります」

「じゃあ増やす」

 真琴は反論を飲み込み、透明紙を追加した。

 紙が増えることは、制度が壊れることではない。

 誰かを一枚からはみ出させずに済んだ証拠でもある。

 地図が役に立つかどうかは、描いた人がいなくなった時に分かる。

 その言葉を口にしたのは、タマキではなく市場管理室の若い男だった。

 男は十五枚目の透明紙を受け取り、窓際の複写機へ載せた。黒い蓋を閉じ、横の回転把手を三度回す。機械は腹を空かせた虫のような音を立て、薄い紙を吐いた。

 全員で覗き込む。

 線が、ほとんど消えていた。

 タマキは道を色鉛筆で分けている。歩ける道は青、車椅子は緑、粉塵を避ける道は紫、途中で座れる道は橙。元の紙では分かる。白黒の複写では、全部が同じ灰色になった。

「俺が死んだら終わる地図だ」

 タマキが言った。

 管理室の男が慌てる。

「縁起でもない」

「死ななくても、寝る。飯も食う。別の仕事へ行く」

「今日だけ手伝ってくれれば」

「今日だけ通れる道?」

 男は黙った。

 タマキは複写紙を机へ置き、色の代わりになる印を考えた。

 歩行は一本線。

 車椅子は二本線。

 粉塵を避ける道には斜線。

 途中で座れる場所には四角。

 案内する店が変わる場所には丸。

 本人がまだ通れるか確かめていない箇所には、何も描かず《不明》と書く。

「不明にも印を付けませんか」

 真琴が訊く。

「印を付けると、何か分かったみたいに見える」

「空白は見落とされます」

「じゃあ、空白の横に日付」

「確認していない日を示す?」

「うん」

 分からないことを、分かった形で埋めない。

 巴が折り畳み黒板へ書いた。

《地図にも、分からないと言う欄が要る》

 タマキは頷いた。管理室の男へ鉛筆を渡す。

「描いて」

「私が?」

「俺の線、写したら駄目」

「なぜです」

「意味を知らないまま写すから」

 男は困った顔で、最初の一本を引いた。管理室から診療棟まで。階段を避け、坂を通り、薬種店の前で左へ折れる。

 タマキが訊く。

「誰の道?」

「車椅子の人です」

「全員?」

 男は鉛筆を止めた。

「……全員ではない」

「誰」

「三番棟二階の、縫い直し屋の男性」

「名前」

 男は帳面を探す。

 真琴が遮った。

「公開地図へ個人名は載せません。路線番号にして、対応表は本人の許可を得た管理用に分けます」

「番号なら、また人が番号になる」

 タマキが言う。

「番号だけで契約しない。地図を探すためだけに使う。本人は自分の番号を変えられる」

「誰が変える?」

「本人か、本人が頼んだ人」

「頼んだ人が勝手に変えたら」

「変更記録を二人で確認する」

 巴が黒板へ短く足す。

《代理は、本人の代わりに本人になることではない》

 管理室の男は、公開図へ《車椅子路線・車七》と書いた。別紙へ、本人が希望した呼び名と確認日を書く。

「座る場所がありません」

 男が言う。

「本人に訊いた?」

「さっき、一度も座らず通れたので」

「今日の本人が通れた。明日の本人は?」

 男は市場へ走った。

 戻って来るまで七分かかった。縫い直し屋の男性は、暑い日は途中で一度座りたいと答えた。青果台の横なら日陰があるが、朝は荷箱で塞がる。

 管理室の男は、四角を一つ描き、横へ《午前九時以降》と書いた。

「これで完成です」

「完成って書かない」

「では、何と」

「九月十六日版」

 タマキが複写紙の端を指す。

「古くなったら捨てる?」

「残します」

「何で」

「どの道が、いつ使えなくなったか分かるから」

「なら日付」

 男は日付を書いた。

 複写機を回す。

 今度は線も、四角も、斜線も残った。

 タマキは複写紙を一枚受け取り、わざと管理室を出た。廊下の角まで歩き、振り返る。

「続けて」

 男は十五枚目の透明紙を机へ置いた。

 自分で住民へ訊き、自分で線を引き始める。

 地図からタマキの手が離れた。

 離れても、仕事は止まらなかった。

 タマキはその事実を見届けてから戻り、男が描いた線へ一本だけ指を置いた。

「ここ、荷車」

「午後は通りません」

「今日?」

「……毎日か、訊いてきます」

「うん」

 仕組みは、正しい人が一人いることではない。

 間違いを見つけた次の人が、直せることだ。

 午前十時四十分。

 透明紙は十五枚になった。

 住民ごとに、線が違う。

 同じ部屋から同じ診療所へ行く二人でも違った。

 歩く人。

 車椅子の人。

 階段で息が切れる人。

 店を続けている人。

 店を終えたい人。

 名札を首へ掛ける人。

 ポケットへ入れる人。

 文字を読む人。

 札の色だけを見る人。

 真琴は最初、すべてを一枚へ統合しようとした。

 線が重なり、紙が黒くなった。

「読めません」

 七瀬が言う。

「情報を落とせば、例外が消えます」

 真琴。

「全部を一枚に載せたら、人が消えます」

「では、基準図と個別図を分ける」

 巴が黒板へ書く。

《基準は誰》

「平均的な利用者」

《平均の身体》

「統計上――」

「そんな人、歩いてない」

 タマキが言った。

 市場通路を見渡す。

 平均身長。

 平均速度。

 平均視力。

 平均的な店。

 どこにもいない。

 槙司が管理台から現れた。

 黒い長衣の裾へ、昨日とは違う青い粉がついている。

「複数経路は、執行員の判断を不安定にする」

「人が違う」

 タマキ。

「条件を定めればよい」

「条件が多い」

「分類する」

「誰が」

「黒板会」

「間違えたら」

「訂正する」

「通れなかった人は」

「補償する」

「その時、もう遅い」

「規則は事後責任も含む」

「道は、通る時に要る」

 槙司は床の地図を見る。

 強い近視のため、しゃがんで二十センチまで顔を近づける。

 タマキの線を一枚ずつ読む。

「目的地ごとに、正規経路を一つ定める」

「一つだと通れない」

「設備を正規経路へ合わせる」

「今?」

「暫定運用を先に行う」

「誰の道」

「最大多数が利用できる道」

「通れない人」

「補助員を置く」

「毎回?」

「必要な時」

「必要って誰が決める」

「申請する」

「申請の道」

 槙司の口元が固くなる。

「管理台だ」

「そこまで行けない人」

「代理申請」

「代理がいない人」

「例外窓口」

「どこ」

「管理台」

 三一が吹き出した。

「また一周した」

 槙司は笑わない。

 右手の白チョークで、床へ一本の線を引く。

 南口。

 中央通路。

 中央階段。

 各階の主廊下。

 東棟診療所。

 最短で、幅が広い。

「本市場でいう正規経路は、この白線を指す」

 左手の青チョークで、市場全体の外周を描く。

「契約者の通行は、正規経路を利用することと定義する」

 誓痕が黒く浮かぶ。

 床の白線が光った。

 同時に、白線以外の扉が閉じ始める。

 北廊下。

 南搬入路。

 脇階段。

 店舗間の抜け道。

 がしゃん。

 がしゃん。

 がしゃん。

 市場の音が、区画ごとに切られていく。

「待って」

 七瀬が叫ぶ。

「西に轟さんと車椅子の人がいる」

「正規経路へ戻れ」

 槙司。

「曲がり角から戻れない」

「補助員を送る」

「扉が閉まった」

 迅が西へ走る。

 中央通路から外へ出た瞬間、足元の床が重くなる。

 白線以外は、通路として定義されていない。

 迅の靴が、石へ沈むように止まる。

「何だ」

「通行は正規経路を利用すること」

 槙司。

「白線の外で歩く動作は、契約上の通行にならない」

「歩けないって意味か」

「契約者には」

「俺は契約者じゃない」

「暫定協力者は関連者だ」

「便利に広げるな」

「招待状へ署名した」

 迅の右腕がわずかに上がる。

 殴る距離ではない。

 左足を引き抜こうとする。

 床の抵抗。

 定義が身体へ絡む。

 凱が白線上から呼ぶ。

「迅、戻れ」

「轟が向こう」

「別経路を作る」

「今、閉じた」

 タマキは透明紙をめくった。

 轟の位置。

 帳場係の目的地。

 閉まった扉。

 白線へ戻る道はない。

 しかし、通行の定義は《契約者が正規経路を利用すること》。帳場係は契約者。轟は暫定協力者。

「荷物は?」

 タマキが訊く。

 槙司を見る。

「荷物の通行も白線?」

「物品搬送は、搬入規約を適用する」

「搬入路、閉じた」

「正規経路へ統合した」

「台車は?」

「物品搬送具」

「車椅子は?」

「人の移動具だ」

「人は降りたら?」

 槙司が答える前に、タマキは西廊下へ叫ぶ。

「帳場の人。椅子から降りられる?」

 扉の向こうから声。

「床なら、少し」

「嫌ならしないで」

「何する」

「椅子を先に送る」

「私は」

「轟と待つ。別の道を作る」

「何分」

 タマキは地図を見る。

 分からない。

 いつもなら、受けない。

「分からない。でも、戻る」

 沈黙。

 帳場係が答える。

「椅子を壊すなよ」

「返す」

 轟が車椅子の大車輪を外し、閉じかけた格子の隙間へ縦に通す。次に本体。物品として扱われた車椅子は、床の抵抗を受けず白線側へ滑る。

 人は西へ残る。

 正解ではない。

 時間を作るだけだ。

「人を荷物から降ろして、通れると言うのか」

 巴が槙司へ手話を突きつける。

 槙司は口元を巴へ向ける。

「補助員が迎えに行く」

《白線外を歩けない》

「契約外の補助員を選ぶ」