第88話 第六章「条文迷路」後編
《誰》
市場中を見渡す。
契約外の人間は、ほとんどいない。
店主。
住民。
管理員。
黒板会。
空白の旗は招待状で関連者にされた。
三一が自分の名札をポケットから出す。
「俺、外したら契約者じゃない?」
真琴が即答する。
「契約者です。名札の装着状態と地位は別」
「昨日は札がないと人じゃなかった」
「本人確認ができないだけです」
「便利だな。入れない時だけ人じゃなくて、縛る時は人」
真琴は言葉を失う。
タマキは床の透明紙を持ち上げた。
白い一本線。
その下に、赤、青、黄、緑、黒の経路。
「正しい道を探すの、やめる」
迅が振り返る。
「何を探す」
「別々にする」
「契約を?」
「生活」
「同じだろ」
「今、同じにしたから閉じた」
タマキは白線の上へ、三枚の透明紙を置く。
老人の休める道。
帳場係の車輪が曲がれる道。
三一が途中で行かないと決めた道。
「一つの道を直すんじゃない」
槙司を見る。
「一つにしない」
「運用不能になる」
「今、動いてない」
市場の各所から、閉じた扉を叩く音がする。
正規経路だけが白く光り、誰もそこへ辿り着けない。
槙司は自分の線を見る。
彼は契約を破っていない。
全員へ同じ正しい道を与えた。
だから全員が、違う場所で止まっている。
タマキは十五枚の透明紙を、床へ扇のように並べた。
「轟のところへ行く人」
迅が手を上げる。
「白線外で止まる」
「床を歩かなければ」
タマキは天井を見る。洗濯物の滑車。棚の梁。上階廊下の手すり。
「ぶら下がるのは通行?」
槙司が即答する。
「人が場所を移る行為は通行に含む」
「物を送るのは搬送」
「そうだ」
「道具を送る」
タマキは轟へ向けて叫ぶ。
「扉の下、何センチ」
「七」
「長い物、通る?」
「平らなら」
市場の店を見回す。
「板、二枚。長さ一・五。幅二十。紐。車輪止め」
製本工が裁断台の下から薄板を出す。魚屋が箱を運ぶ板。乾物屋が麻紐。全員、差し出す前に所有者と返却条件を言う。
「板は水に濡らすな」
「紐は切っていい。残りを返せ」
「車輪止めは今日の閉店まで」
タマキは一つずつ復唱し、紙へ書く。
道具を格子の下へ滑らせる。
轟が右手だけで受け取る。左肩は胸より上へ出さない。
「何を作る」
「車椅子の道。人の道じゃない」
「本人は西に残る」
「本人が自分で渡る」
「どうやって」
タマキは西廊下の地図を指す。帳場係が使う机。壁際の低い商品棚。床から四十センチ。
「板を棚と中央側へ渡す。車椅子の座面板を外して、腹ばいで移る」
帳場係が扉の向こうで怒鳴った。
「私を芋虫にする気か」
「嫌なら別」
「別は」
「まだない」
「先に私へ訊け」
「今、訊く。自分で渡る? 轟が支える? 待つ?」
沈黙。
「板の幅は」
「二十、二枚。四十」
「落差」
「四センチ」
「私の腕で行ける。轟は板だけ押さえろ。身体へ触るな」
「受けた」
轟の声。
扉の向こうで板が組まれる。
槙司が床の白線を見る。
「人の移動なら通行だ」
「白線外で動けない?」
タマキ。
「契約者の通行は正規経路を利用することと定義した」
「本人は、契約者としてじゃなく、閉じ込められた人として避難する」
「地位は選べない」
「目的は選べる」
「名称を変えても通行だ」
「じゃあ、通行の中に《避難》を足して」
「定義更新には一貫性が要る」
「今、人が動けない」
「補助員を――」
「いない」
槙司の眼鏡の奥で視線が止まる。
彼が正しい道を守れば、帳場係は西に残る。定義を例外で緩めれば、一つの道という根拠が崩れる。
帳場係が言った。
「主幹。私は契約を守る。だが、あんたの間違いを待つ契約はしてない」
槙司の右手が白チョークへ触れる。
「正規経路の外における、生命・身体の安全確保を目的とした移動は、通行制限の対象外とする」
床へ一行を足した。
誓痕の黒い線が手首から伸びる。
西廊下の重さが消えた。
「生命・身体の安全?」
帳場係が訊く。
「私は帳簿を返しに行く途中だ」
槙司の指が止まる。
タマキは言った。
「閉じ込めたままだと、身体の安全」
「移動目的は帳簿だ」
「今は出ること」
「本人がそう言うなら」
帳場係は笑った。
「出る。帳簿はその後」
定義が通った。
板の上を、彼女は腕の力で進んだ。轟は板だけを押さえ、身体へ触れない。中央側で迅が受けようとしたが、帳場係は首を振る。
「床まで自分で」
最後の四センチを、両掌で降りる。
車椅子へ戻り、自分で大車輪を嵌めた。
「遅い」
タマキが時刻を書く。
「最短より十二分」
「でも私は荷物じゃなかった」
タマキは《所要時間》の横へ書く。
《本人が選んだ》
西の扉が開いたわけではない。轟はまだ向こうにいる。
「俺は?」
轟が訊く。
「おまえは契約者じゃない。暫定協力者」
迅。
「関連者って言われたぞ」
タマキは招待状を思い出す。活動者が負わせた損害の連帯責任。関連者だが、市場契約者ではない。
「帰る目的」
「板を返す」
「物品搬送」
轟は板を一枚ずつ格子の下へ返した。最後に自分の大きな身体を横へして、七センチの隙間へ右腕を通す。肩は通らない。
「無理」
「分かってる」
「扉を上げる」
「誰が」
轟は格子の向こうにある商品台を右手で押す。台の脚を案内溝へ噛ませ、てこの支点にする。中央側から迅が左手で同じ高さへ板を差す。二人で持ち上げるのではない。荷重を台と壁へ逃がす。
「三センチ」
轟。
「足りない」
「もう二つ」
迅は左足を踏ん張りかけ、腫れを思い出す。右足へ重心を移す。右腕は使わない。使える部位が違う二人で、一つの動作を分ける。
格子が十二センチ上がった。
轟は床へ寝転び、右肩から抜ける。左肩を最後まで低く保つ。服の背が破れたが、身体は通った。
「板」
タマキ。
「二枚。濡れなし」
「紐」
「半分切った。残り」
「車輪止め」
「閉店まで借りる」
返せる物と、返せない時間を分けて記録する。
一本の正規経路は、救助の途中で二つの例外を必要とした。
例外と呼べば、道の方は正しいままに見える。
タマキには、止まった人の方が基準に見えた。
タマキは白線を消さない。
上から色の違う透明紙を重ねる。
一本の正解を隠すのではない。
その周りに、通れなかった人の道を残す。
地図は、もう一枚では持ち上がらなかった。