第89話 第七章「迅の署名」前編

九月十九日 午前五時四十一分

 一人で背負うと言う男は、たいてい荷物の持ち主を見ていない。

 竜胆迅は、十二枚目の債務一覧へ自分の名前を書いた。

 左手で。

《竜胆迅》

 字はまだ少し傾く。

 右手なら、もっと速かった。

 速い字はもう書けない。

 遅くなったぶん、何へ署名しているか考える時間は増えた。

 考えた結果が、これだった。

《南環市場複合契約に付随する未払債務、保証停止損害、解約手数料及び再審査中の暫定負担を、竜胆迅へ移転する》

 金額欄は空白。

 対象者欄には、柏木秋枝、三一、刃物研ぎ、陶器屋、手話の老女、ほか二十七名。

 署名欄の下に、相手方承認欄がある。

 黒板会の印が押される前なら、まだ効かない。

「馬鹿ですか」

 真琴が言った。

「朝から挨拶が長い」

「債務総額を見ましたか」

「見てない」

「見てください」

「払えない」

「なら、なぜ署名したのです」

「払うためじゃない」

「債務引受は払うための制度です」

「俺に集めれば、住民の札を止められない」

「あなたの札が止まります」

「持ってない」

「財産差押え、労務請求、将来所得――」

「殴りに来るなら分かりやすい」

 真琴は眼鏡の奥で目を閉じた。

「借金取りは、あなたの好みに合わせて拳だけで来ません」

「来た奴から聞く」

「一人ずつ?」

「そうだ」

「三十二人分を?」

「相手が一人になる」

 迅は紙を畳んだ。

 市場の共同食堂は、まだ火が入っていない。夜明け前の冷えが床へ残り、椅子は卓の上へ逆さに置かれている。

 白い布は壁際の棒へ巻かれたまま。

 旗芯はない。

 この仕事の責任票だけが、入口へ貼られている。

《市場契約整理》

《期限 九月二十三日》

《責任分担 聞き取り:一文字巴ほか/法文照合:朽葉真琴/安全:伏見轟・竜胆迅/記録:火群七瀬/読み上げ:獅堂凱/配達・本人確認:環玉樹》

 迅の名前は、安全の横だけ。

 それが面倒だった。

 安全だけ守って、言葉の決着を待つ。

 扉が閉まれば開ける。

 人が殴られれば止める。

 契約は他の者へ任せる。

 自分の仕事が小さく見える。

 小さい仕事は、終わったかどうか分かりにくい。

 一人で債務を取れば、敵が見える。

 自分が倒れれば終わる。

 七歩退いて、一発返すのと同じ形になる。

「黒板会へ持っていく」

 迅が立つ。

 巴が食堂へ入ってきた。

 朝の白手袋は、右親指に読点、人差し指に句点。左手の小指へ、小さな疑問符。

 彼女は迅の顔を見ない。

 手にした紙を見る。

 迅が隠すより早く、巴の右手が伸びた。

 奪わない。

 掌を上へ向ける。

《見せて》

「真琴が説明する」

《迅の署名》

「俺の」

《だから、あなたが説明》

 迅は紙を渡した。

 巴が読む。

 最後まで。

 一行ごとに顔を上げることはしない。これは迅が自分で書いた文ではなく、真琴の定型書式へ名前を置いただけだと分かっている。

《何が起きると思う?》

「住民の借金が俺へ来る」

《住民の店、家、診療》

「止まらない」

 真琴が横から言う。

「停止猶予を求める根拠にはなりますが、自動では止まりません」

「止めさせる」

《どうやって》

「榊と話す」

《断られたら》

「扉へ行く」

《何をする》

「開ける」

《保証》

「俺の債務だ」

《住民の契約は》

「残る」

《終えたい人は》

「後で終える」

《いつ》

「これが済んでから」

《誰が決める》

「本人」

《今、誰が決めた》

 迅は答えない。

 巴は紙を両手で持った。

 中央から裂く。

 乾いた音。

「おい」

 迅が左手を伸ばす。

 巴はさらに裂いた。

 四枚。

 八枚。

 署名の《竜》《胆》が別れる。

「人の署名を破るな」

 迅の声が低くなる。

 巴は小さく手話をする。

《相手方未承認。効力なし。原本は真琴にある》

 真琴が机の端にある控えを上げる。

「残念ながら」

「残念って顔じゃない」

「安心しています」

「なら笑うな」

「笑っていません」

 眼鏡の奥は少し笑っている。

 迅は巴を見る。

「俺が決めた」

《誰の債務を》

「俺が持つって」

《誰から取るかも、あなたが決めた》

「いらないって言う奴がいるか」

《聞いた?》

「助かる」

《聞いてない》

「止まってる間に、家が切れる」

《早く助けるため、一人にする》

「そうだ」

《早く殴るため、敵を一人にする》

 迅の左拳が握られる。

 右腕の支持具の下で、古い骨が熱を持つ。

「違う」

《何が》

「殴らない」

《一人で背負う》

「俺の身体だ」

《住民の約束》

「俺が取れば俺のだ」

《それを、支配と言う》

 言葉が刺さる。

 迅は半歩前へ出た。

 巴は下がらない。

 全員の視線が彼女の手へ集まるまで、次を言わない。

 迅は待たされる。

 待つことが、殴られるより苦手だった。

《あなたは、紙が嫌い》

「そうだ」

《でも、紙と同じことをした》

「何が」

《三十二人を、一つに束ねた》

 裂かれた紙片が、卓上へ散っている。

 人の名前。

 債務額。

 住居番号。

 一枚の書式へ並べられていた。

 迅はそれを見た。

 殴れば早い。

 一人で背負えば早い。

 どちらも、相手が遅いことを待たない。

「じゃあ、どうする」

 巴は、紙片を二つの山へ分けた。

 左に《残す》

 右に《終える》

 中央に《まだ決めない》

《聞く》

「昨日も聞いた」

《昨日は道》

「同じこと言う」

《違ったら》

「面倒だ」

《そう》

「間に合わない」

《間に合わせる方法を、本人から取らない》

 迅は椅子を一脚、床へ下ろした。

「何人」

《三十二》

「一人何分」

《決めない》

「期限」

《明日正午までに一次確認》

「遅い奴は」

《遅い》

「答えになってない」

《人です》

 食堂の戸が三度叩かれた。

 黒板会の執行員が二人、灰色の箱を運び込む。昨日の階段で迅と向き合った男もいた。胸を押さえられた痣が、襟の下に隠れている。

「債務確認書を届ける」

 男は迅へ敵意を向けない。職務の声だ。

 箱の中には、三十二人分の紙束。

 未払場所代。

 共益費。

 冷蔵庫使用料。

 診療立替。

 保証積立不足。

 解約手数料。

 名義変更料。

 延滞利息。

 同じ《債務》という見出しの下へ、食べた薬と、使わなかった店と、誰かが割った窓が並んでいる。

「総額」

 迅が訊く。

「現時点で三百八十七万四千二百円。処理中の損害は含まない」

 真琴が迅を見る。

「将来所得で払える額ではありません」

「何年なら」

「金利を無視しても――」

「計算するな」

「あなたが訊いたのです」

 執行員は紙束の一番上へ、迅の引受書の控えを置いた。

「相手方未承認で失効扱いにする。原本破棄の確認が必要だ」

 迅は巴を見る。

「破いた」

《効力のない写し。破棄していいかは迅が決める》

「捨てる」

「記録保全期間がある」

 真琴。

「捨てられないのか」

「無効になった経緯を残します。ただし、第三者へ公開しない」

「俺の馬鹿が保管される」

「制度改善資料としては価値があります」

「名前を消せ」

「本人の希望として処理できます」

 執行員が迅へ確認票を出す。

《氏名を伏せ、無効債務引受の事例として保存》

 迅は左手で署名しかけ、止まった。

「また署名か」

「保存方法への同意だ」

「署名しないと」

「元の氏名入り書類を法定期間保管する」

「選ばせてる顔で、二つしかない」

「第三の案を出してよい」

 迅は紙を睨む。

「名前のところを破る」

「原本改変になる」

「破いた紙片を俺が持つ」

「保管記録と照合できなくなる」

 巴が黒板へ書いた。

《原本は封印。閲覧には迅へ通知。統計利用は氏名を外す。保管期限後、迅が破棄確認》

 執行員は読む。

「可能だ。ただし通知先が必要」

「市場の共同掲示板」

「個人情報を掲示するのか」

《あの馬鹿な紙を開ける》って書け」

 執行員が初めて笑った。

「正式名称が要る」

「無効債務引受書」

「通知文は」

「迅へ、でいい」

「姓は」

「市場で竜胆は俺だけだ」

 三一が食堂の入口から言った。

「増えたら?」

「その時変える」

 迅は保存方法へ署名した。

 今度は、何が起きるかを自分で言った。

「紙は封印。見る時は俺へ知らせる。名前なしなら例に使う。期限が来たら捨てるか決める」

 巴が言い戻す。

《あなたの債務は移らない。住民の債務も消えない》

「そうだ」

《それでも署名?》

「する」

 句点の指が小さく丸を描いた。

 執行員は三十二束を一つずつ机へ置く。

「各人へ内訳を説明する。説明順は停止予定が早い者から」

「番号順じゃない?」

 タマキ。

「緊急度順だ」

「誰が緊急を決めた」

「管理台」

「本人は」

「申立てできる」

「申立ての締切」

「今日九時」

「今、六時二十」

「だから届けた」

 巴は紙束を見た。

《全員へ届くまで二時間四十分》

「市場内だ」

《三十二人。読む時間》

「掲示済みだ」

《掲示を読めない人》

 執行員は少し考えた。

「一時間延長を申請する」

《誰が責任》

「私が」

 男は自分の名を書いた。

 迅は昨日、階段でこの男を殴る寸前まで行った。

 今、彼は自分の期限を延ばすためではなく、住民が申立てる時間を増やすために署名している。

 職務は、人を敵にも味方にも固定しない。

 紙束の重さは変わらない。

 ただ、誰がどの一枚を持つかが、ようやく分かれ始めた。

 午前七時十二分。

 迅は柏木秋枝の店にいた。

 縫い直し屋の看板は、まだ外れていない。

 店内には、直す服が十二着。

 秋枝は母親の朝の吸入を終え、糸を色ごとに片づけている。

「残すもの」

 迅が訊く。

「部屋。診療。母の薬。共同洗濯場」

「店」

「終える」

「道具」

「自分のは残す。借りている足踏み機は返す」

「借金」

「場所代の今月分までは払う。解約手数料は争う」

「俺が払うのは」

 秋枝の手が止まる。

「何を」

「いや」

「あなた、何かした?」

「してない」

「その顔は、する前に止められた顔だね」

「どんな顔だ」

「子どもが屋根から飛ぶ前に襟を掴まれた顔」

「見たことあるのか」

「三一が何度も」

 秋枝は針を布へ刺した。

「私の借金を払うと言った?」

「言ってない」

「書いた?」

「破られた」

「誰に」

「巴」

「礼を言っておく」

「何でだ」

「あなたに払われたら、私は店をやめた人じゃなく、助けられた人になる」

「助かるなら同じだろ」

「違う。店をやめたのは私。払えない部分を争うのも私。あなたが払ったら、次に同じ契約が来た時、あの人は迅を待てばいいって言われる」

「待たせない」

「死んだ後も?」

 迅は黙る。

 秋枝は淡々と続ける。

「人は、助けてくれた人がいなくなった後も家賃を払うの」

 迅は、裂かれた署名の感触を左指へ思い出した。

「残す。家、診療、薬、洗濯。終える。店、借りた機械。争う。手数料」

「そう」

「俺が払わない」

「そこは最初から頼んでない」

 迅は紙へ書く。

 左手。

 秋枝が覗く。

「『洗濯』の濯が違う」

「読める」

「契約に使うんでしょう」

「後で真琴が直す」

「私が直す」

 秋枝は赤糸で、誤字へ小さな×を縫った。

 その横へ自分で《洗濯場》と書く。

「紙に糸を通すなって怒られる」

 迅。

「私の聞き取り票」

「真琴の書式」

「私の言葉」

 迅は何も言わなかった。

 三一は、青果台の下にいた。

「残す」

「部屋。名札。母ちゃんの服」

「名札は残す?」

「俺のだから」

「契約は」

「終える」

「名札と契約を分ける」

「そう」

「借金」

「払わない」

「全部?」

「全部」

「母親が使った冷蔵庫代」

「知らない」

「使ってた」

「俺は知らない」

「分からない欄」

「払わない欄」

「確認してからでも」

「迅、俺に払わせたい?」

「正しい分は」

「誰の正しい」

 迅は苛立つ。

 自分が巴にされた質問と同じ形だ。

「真琴に内訳を出させる。見てから変えてもいい」

「変えなくてもいい?」

「いい」

「じゃあ、今は払わない」

「書く」

「あと、店の台は残す」

「店を終えるのに?」

「座る」

「住居へ持っていく?」

「市場に置く」

「場所代」

「座るだけなら店じゃない」

「誰でも?」

「俺が座る」

「また契約になる」

「じゃあ、誰でも」

 三一は少し考える。

「でも、母ちゃんの傷がある」

 青果台の端に、包丁で切った細い線が三本ある。

「持ち主は三一。使う人は誰でも。売らない。場所代は相談」

「相談って書くのか」

「まだ決めない」

 迅は中央の欄へ書いた。

 自分なら、台を部屋へ運ぶ。

 その方が早い。

 三一は、市場へ残したい。

 理由を全部説明しない。

 迅は台を動かさない。

 刃物研ぎの老人は、契約を残したいと言った。

「夜警も、共同保証も、場所も要る」

「解約したいって聞いた」

「古い版へ戻したい」

「無理だ」

「訊く前に決めるな」

 迅は口を閉じる。

 老人が続ける。

「全部なくせば、盗まれた時に俺一人で損をする。若い店は、契約がなくても走れる。俺は走れん。だから残す」

「今の契約で困ってる」

「困ってる部分を切る」

「どこ」

「名札と住居。俺は店をやめたら息子の家へ行く。診療もそっちで受ける。だが店の保証は、閉める日まで要る」

「いつ閉める」

「まだ決めない」

 迅は中央の欄へ書く。

 解約を求める三十二人を助けるつもりだった。

 その中に、契約を残したい人がいる。

 敵が一人にならない。

 住民も一つにならない。

 面倒だ。

 面倒なまま、老人の言葉を書く。

 香辛料店の女主人は、共同仕入れだけ残す。

 陶器屋は、清掃契約を終え、夜警を残す。

 手話の老女は、娘と住める保証を残し、店舗番号を終える。

 硝子屋の男は、契約を全部残すと言った。

「不満はない?」

「ある」

「なら、何で」

「契約がなかった頃、値切り客が店へ三人で来た。払わずに硝子を持っていった。追ったら、俺の方が暴れたとされた」

「今は」

「夜警が来る。破損も共同で持つ。説明が長くても、守られている」

「他の人が出られない」

「俺は出たくない」

「出る人を止める?」

「止めない。だが、全部壊すなら反対する」

 迅は、男の名前を確認する。

「波佐間啓吾」

「名札は」

「硝子二二」

「どっちで書く」

「両方」

「残す」

「全部。ただし、他人の解約で俺の保証まで消さない」

 迅は紙へ書いた。

 敵ではない。

 味方でもない。

 契約を残したい当事者。

 迅の署名一枚では、最初に消していた人だ。

 午後二時三十八分。

 魚屋の女が、濡れた前掛けのまま聞き取り卓へ来た。両手は鱗で銀色に光っている。紙へ触れる前に、井戸水で二度洗った。

「夫の名前が残ってる」

 差し出された契約票には、二人の名が並んでいた。

「一緒に住んでる?」

 迅が訊く。

「四年前からいない」

「死んだ?」

「死んだとは聞いてない」

「どこにいる」

「知らない」

「連絡は」

「年に一度、葉書が来る」

 迅は反射的に手を出しかけ、止めた。

「見せる?」

「見せない」

「証拠になる」

「私が不利になっても、見せない」

 女の返事は速かった。

 巴が黒板へ書く。

《見せないことも、本人の言葉》

 迅は契約票を見る。店、住居、診療、共同債務。夫婦のどちらか一人が署名すれば更新され、解約には二人の同意が必要とある。

「いない奴の同意なんて取れない」

「だから残ってる」

「なら夫の名前を消す」

「消さないで」

 迅は顔を上げた。

「いらないんじゃないのか」

「今の店を続ける権利は、私だけにしてほしい。今の家も。診療も私の分だけ。でも、あの人が一緒に借りた金まで、最初からいなかったことにはしないで」

「戻ってきたら」

「その時、店へ入れるかは私が決める」

「借金は」

「話す」

「話せなかったら」

「話せなかった時に決める」

 迅は苛立った。

「今、決めとけば楽だ」

「誰が?」

 女が訊き返す。

 迅は答えられない。

 今ここで夫を完全に切れば、手続きは簡単になる。妻だけの契約を作り、過去の共同債務を旧帳へ封じる。たぶん女は自由になる。

 ただし、女が残したいと望んだ「一緒に借りた」という事実も消える。

 自由は、過去をなくすことではない。

 過去に今の鍵を持たせないことだ。

「葉書、何て書いてある」

「見せないって言った」

「内容じゃなくて。返事してる?」

「してない」

「したい?」

 女は長く黙った。氷桶の水が、卓の脚まで細く流れてくる。

「毎年、捨てようと思う」

「捨てた?」

「捨ててない」

「じゃあ、それも今は決めない」

 迅は新しい紙を三枚に分けた。

 一枚目。《現在の店舗・住居・診療》。署名者は女一人。

 二枚目。《過去の共同債務》。夫婦の名を残し、追加借入と担保更新を停止する。

 三枚目。《帰還時の再交渉》。自動復帰なし。女の同意なしに住居、店舗、金庫へ入れない。夫に説明を求める権利は残すが、説明を聞く義務は女へ課さない。

「こんなの、契約になる?」

 女が訊く。

「俺に聞くな」

「書いたの、あんたでしょう」

「決めたのは、あんた」

「まだ決めてない所もある」

「そこは空けた」

 迅は三枚目の末尾を示す。

《帰還時の安全と意思に応じ、当事者が新たに決める》

「暴れたら?」

 女が訊く。

「俺を呼べ」

「四年後も?」

 迅は口を開き、閉じた。

 四年後、自分がここにいる保証はない。白布の活動資格さえ、来月どうなるか分からない。

「市場の夜警を呼べる契約にする」

「今の夜警が辞めたら」

「後の夜警」

「夜警制度がなくなったら」

「その時、決め直す」

 女が笑った。

「便利な言葉ね」

「逃げる言葉かもしれない」

「でも、今のあんたが四年後の私を助けるって約束するよりは、まし」

 女は三枚を読む。巴が横で、難しい箇所を短い文へ直した。女は《共同債務》の横へ、自分で書き加える。

《借りたことは消さない。今の店を縛らせない》

「夫の署名は要らない?」

 迅が槙司へ訊くつもりで振り向くと、女が先に答えた。

「今の私の暮らしを決めるのに、いない人の署名は要らない形にするんでしょう」

「そうしたい」

「なら、そう言って」

 迅は紙へ自分の名前を書きそうになった。

 右手は支持具の中で動かない。左手に鉛筆がある。

 それでも書かなかった。

 女の名札には、今も夫婦二人の姓が刻まれている。

 同じ名札が、所有の印ではなく、終わっていない時間に見えた。

 迅の署名を足せば、また別の誰かがその時間の持ち主になる。

「確認者は巴。俺は運ぶ」

「何を」

「この三枚を、あんたが行く卓まで」

「近いわよ」

「近くても運ぶ」

「変なところで律儀ね」

「遠い時だけ運ぶ奴は、運び屋じゃない」

 女は三枚を重ね、迅へ渡した。

 鱗の匂いが紙へ残った。

 契約書は、清潔な机だけで作られるものではない。

 その人が今日まで働いた匂いを、少しだけ連れていく。

 午後四時。

 迅は聞き取り票を抱え、屋上へ上がった。左足の甲はまだ腫れている。階段は一段ずつ。タマキに十四時までと書かれた昇降制限は終わっていたが、痛みは契約期限を読まない。

 七瀬が先にいた。三脚を低くし、屋根の水路を撮っている。市場の映像ではなく、閉鎖扉が作動した時刻と、各棟の時計のずれを確認する資料だ。

「撮る相手がいない時も撮るんだな」

「人が映らない方が、楽な日もあります」

「紙、撮る?」

「本人の許可がある分だけ」

 迅は三十二枚を床へ置いた。風で飛ばないよう、左手と膝で押さえる。右腕は支持具の中。

「俺が一人で持つより、軽いと思った」

「何が」

「分けた紙」

「軽いですか」

「増えた」

「重量は?」

「分からない」

 七瀬が手回し秤を持ってくる。フィルム缶用の小さな秤だ。

「量る?」

「そういう話じゃない」

「あなたが重量と言ったので」

「言ってない」

「顔が言いました」

「顔は契約外だ」

「榊さんの言い方が移っています」

 七瀬は笑い、紙束を量らない。

 迅は波佐間の票を見た。全部残す、から、店と警備だけ残すへ変わっている。秋枝の票には赤糸。三一の票には、名札を残すが契約から離したいとある。

「俺が払えば、全員の紙を読まなくて済んだ」

「払えません」

「たとえば」

「払えたとしても、ですか」

「そう」

「あなたは英雄になれます」

「嫌味?」

「少し」

「続き」

「住民は、借金を肩代わりされた人になります。店を終えた人、保証を残した人、母親の名札を外した人ではなく」

「秋枝と同じこと言う」

「秋枝さんが先です」

「俺より皆、先だな」

「生まれた順では」

「そうじゃない」

 七瀬はカメラから目を離す。