第90話 第七章「迅の署名」後編

「迅。あなたが一人で背負いたくなるのは、自分が強いからじゃありません」

「弱い?」

「他人が途中で変わるのを待つのが怖いからです」

 迅は返事をしない。

「一人なら、裏切るのも失敗するのも自分だけです。三十二人いれば、明日、違うと言う人が出る」

「出た」

「嫌でした?」

「面倒だった」

「面倒は、嫌いと同じ?」

「違う」

「なら、言葉を分けてください」

 迅は七瀬を睨む。巴の仕事が市場全体へ感染している。

「面倒。疲れた。遅い。でも、嫌じゃない」

「記録していい?」

「駄目」

「残念」

「覚えるな」

「それは約束できません」

「消せ」

「記憶は編集機じゃないので」

「便利に逃げるな」

「では、他人へ話さない。文章へ使わない。今のあなたを、明日のあなたへ突きつけない」

「最後は何だ」

「人は変わるので」

 迅は紙束を拾う。

「契約みたいに言うな」

「今週ずっとその話です」

 屋上の端から、凱が上がってきた。左膝を庇い、最後の二段で息を吐く。

「二人とも、聞き取り票を探している」

「誰が」

「全員だ」

「下へ持っていく」

 迅は束を抱える。

 凱が半分を取ろうとする。

「持てる」

「知っている。俺も持つ」

「膝」

「腕で持つ」

「階段は脚だ」

「一段ずつ行く」

 迅は拒みかけ、紙束を半分渡した。

 一人で持てる物を分けるのは、能力不足の証明ではない。

 相手が持つ場所を奪わないための選択でもある。

 二人は、同じ速さでは下りなかった。

 迅が先へ行き、踊り場で待つ。

 待つたび、紙の角が腕へ当たった。

 午後六時二十四分。

 共同食堂の卓に、三十二枚の聞き取り票が並んだ。

《残す》

《終える》

《まだ決めない》

《他人と分ける》

《内訳を見てから》

《今は答えない》

 同じ欄は一枚もない。

 真琴が分類しようとする。

「住居、診療、店舗、保証、仕入れ、通路、清掃、債務――」

「待って」

 迅が言う。

 自分でも驚いた。

 待て、と言われる側だった。

「何を」

 真琴。

「本人の言葉を、先に残す」

「分類しなければ条文へできません」

「後で」

「いつ」

「全部読んでから」

「読みました」

「声で」

 凱が聞き取り票を一枚ずつ読み上げる。

 巴は手話へする。

 七瀬は撮影許可のある紙だけ映す。

 タマキは、誰の紙が誰へ返るか番号を付ける。

 迅は立って聞く。

 右腕が重い。

 左手は一日中、慣れない字を書いて痙攣している。

 一人で債務を取るより遅い。

 一人を殴るより、ずっと疲れる。

 裂かれた債務引受書は、巴が捨てていなかった。

 八つの紙片へ分け、卓の見出しに使っている。

《住居》

《店舗》

《診療》

《保証》

《通路》

《共同設備》

《債務》

《まだ決めない》

 迅の署名は、紙片の裏側にある。

 誰の欄にも見えない。