第515話 第四章「役所の迷路」前編

迷路には、壁がある。

 役所には、言葉がある。

 壁は壊せる。

 言葉は、壊すと増える。

 四月二十一日、午前八時四十分。

 中央官庁群は、七棟の建物を渡り廊下でつないでいる。

 地図では簡単だった。

 北棟。

 東棟。

 南棟。

 西棟。

 中棟。

 記録棟。

 放送棟。

 迅は地図を三秒見て、折った。

「真っ直ぐ行けば着く」

「着きません」

 朝が言った。

「地図に線がある」

「その線は、通行経路ではなく所管関係です」

「何が違う」

「建物は、線どおりにつながっていません」

「地図じゃない」

「組織図です」

「壁に貼るな」

「役所では、組織図も地図です」

「なら迷う」

「はい」

 朝は黒い杖をついた。

 杖。

 右足。

 間。

 左足。

 迅は歩幅を合わせない。

 昨日と同じ。

 先へ行き、曲がり角で待つ。

 待つことは、合わせることではない。

 急かさないという選択だった。

 真琴は七冊の別表を二つの箱へ分けている。

《現在有効》

《説明者未定》

 箱は轟が作った。

 持ち手の高さが違う。

 迅用は低い。

 真琴用は高い。

「俺が両方持つ」

「分ける意味がなくなります」

「重い」

「法的状態が違います」

「重さは同じ」

「紙ですから」

「だから持つ」

 迅は低い方を右手へ。

 高い方を左手へ持った。

 右環指と小指が、朝の冷気で少し痺れる。

 箱の縁へ小指を掛けない。

 中指と掌で支える。

「逆です」

 真琴。

「何が」

「有効箱が左、疑義箱が右」

「分かる」

「表示が、こちらから逆に見えます」

「お前が後ろを歩くから」

「前を歩けば、案内できますか」

「できる」

「地図を折った人が?」

「道は見る」

「言葉は」

「お前が見ろ」

 朝が言った。

「分担としては正しいです」

「褒めた?」

「記録です」

 迅は嫌そうな顔をした。

 朝は少しだけ笑った。

 最初の目的地は、医療維持局。

 同じ命令は、そこでは《緊急医療アクセス保全措置》と呼ばれていた。

「集会制限じゃないのか」

 迅。

「病院へ人が集まるのを制限するので、医療アクセスです」

 窓口職員。

「出るのも止める」

「転院先の安全確認です」

「元能力者だけ?」

「再発時の医療負荷を考慮しています」

「監視?」

「医療経過確認です」

「同じものを、何個の名前で呼ぶ」

「所管ごとです」

「名前を増やすと、中身が減るのか」

「減りません」

「じゃあ一つでいい」

「一つにすると、担当が分かりません」

「今も分からない」

 職員が詰まった。

「私も更新者ではありません」

 本気で言った。

 迅は、その顔を見た。

 嘘をついている顔ではない。

 責任を逃がして安心している顔でもない。

 本当に、自分は更新者ではないと思っている。

「何した」

「病床数を入力しました」

「それで更新された」

「安全認定端末が判断しました」

「病床数を入れたのは」

「私です」

「名前」

「佐橋由梨」

「じゃあ、更新した」

「していません」

「数字を入れた」

「事実を報告しただけです」

「報告が引き金なら」

「私は引き金があることを知らなかった」

「知ってたら」

 佐橋は答えなかった。

 朝が横へ出る。

 長く立たないよう、窓口の折畳椅子を借りる。

「佐橋さん。病床数を入力しなければ、医療物資の配分が止まりましたか」

「止まります」

「入力すれば、移動制限が更新されると知っていましたか」

「いいえ」

「入力を取り消せますか」

「病床数は事実です」

「事実を消す必要はありません。更新への使用を拒否できますか」

「端末に、そういう欄が」

「拒否窓口がない?」

「見たことがありません」

 真琴が正式文を見る。

「認定に使用された報告者は、目的外使用を拒否できる、とあります」

「どこに」

「第七冊、百四十一ページ、脚注」

 佐橋が冊子へ顔を近づけた。

「脚注?」

「はい」

「私は本冊を配られていません」

「何を」

「入力手順、一枚だけ」

 迅は箱を床へ置いた。

「持ってこい」

「何を」

「一枚」

 佐橋が入力手順を出す。

 大きな文字。

《病床数を毎日午前八時までに入力》

《未入力は物資配分停止の可能性》

 目的外使用拒否はない。

 迅は紙を朝へ渡す。

「こいつの命令?」

「入力は佐橋さん。更新用途への同意は確認されていません」

「じゃあ違う」

「全部が違うわけではありません」

「面倒」

「人間は、だいたい面倒です」

「知ってる」

 佐橋が、自分の入力端末を見る。

「病床数の報告は続けます。でも、移動制限への使用は拒否したい」

「氏名で?」

「佐橋由梨。医療維持局病床調整係」

「理由」

「患者が退院できず、空床が増えないから。病床数の少なさを理由に移動を止めると、そのせいで病床数が少ないままになる」

 真琴が書き取る。

 朝が時刻を読む。

 迅は、端末横の小さな穴を見つけた。

《用途拒否票投入口》

 紙が一枚も入っていない。

「穴はある」

 佐橋。

「知りませんでした」

「小さい」

「文字も」

「広げる」

 迅が指を入れようとする。

「壊さないでください」

 朝と真琴が同時に言った。

「穴を広げるだけ」

「設備損壊です」

「見えるようにする」

「紙の表示を大きくします」

 真琴。

「俺の方が早い」

「修理が遅い」

 迅は指を引いた。

 タマキが新しい札を作る。

《この数字を、移動制限に使わないで》

 大きな矢印。

 投入口へ貼った。

「短い」

 真琴。

「正式文は隣」

 巴はいない。

 それでも、二枚並べる方法は残っている。

 佐橋が拒否票を入れた。

 端末が鳴る。

《病床数報告――受領》

《安全認定への使用――停止》

 迅は音を聞いた。

「止まった?」

「医療維持局分だけ」

 朝。

「一個」

「はい」

「あと」

「少なくとも七十一」

「少なくとも?」

「一件に複数の更新入力があります」

「増えた」

「名前ではなく、経路が」

「同じ」

「違います」

「殴りたいものが増えた」

 朝は椅子から立つ。

「次は上水保全局です」

 医療維持局から上水保全局へは、組織図では一本の線でつながっている。

 実際には、三階の渡り廊下が閉鎖されていた。

《医療動線保全のため、一般通行禁止》

「俺たち、医療の紙を持ってる」

 迅。

「人は一般通行者です」

 朝。

「紙だけ通す?」

「文書搬送管があります」

「俺の仕事なくなる」

「紙だけ先へ送ると、説明する人が後になります」

「じゃあ一緒」

「別経路です」

 別経路は、一階へ下り、南棟を横切り、貨物昇降機で四階へ上がり、二階へ戻る。

 凱が組織図を見た。

「階段は何段だ」

「百三十八」

「使わない」

 朝。

「私も」

 迅は箱を持ち直す。

「俺だけ先に行く」

「文書と説明者を離さないでください」

「朝を抱える?」

「拒否します」

「凱は」

「膝が壊れる」

「役に立たない」

「おまえの右手よりは働く」

「喧嘩を始めるなら、階段を使わせます」

 真琴の一言で、二人は黙った。

 貨物昇降機の前には、薬品台車が三台待っていた。

 優先順位は医療物資。

 書類箱は最後。

 迅が扉横の表示を見る。

《医療維持関係書類は、医療物資に準ずる》

「医療の紙」

「上水へ運ぶので、準じません」

 真琴。

「さっき医療局から出た」

「行先で決まる運用です」

「紙にも行先がある」

 タマキなら喜びそうなことを言った。

 昇降機担当者が来る。

「書類は搬送管へ」

「本人説明が必要です」

 朝。

「同乗者は一名まで」

「誰」

「説明者」

「説明者が一人だと、またその人へ集まる」

 凱。

「規則です」

「氏名」

 担当者は胸札を見る。

「野々村葉」

「野々村さんは、一名が安全だと判断する?」

「積載重量です」

 迅が薬品台車の表示を見る。

「あと百八十キロ」

「人数ではなく?」

 野々村は、運用票をめくった。

 大きな文字には《同乗一名》。脚注には《積載上限内で、業務上必要な同行者を追加できる》

「また小さい」

 迅。

「見落としていました」

 野々村は、自分で言った。

「説明者二名、文書搬送一名、移動補助一名。合計四名。重量を計測します」

「誰が残る」

 朝。

「私は次便」

 凱。

「膝」

「荷役の椅子を借りる」

「元王が、貨物待ち」

 迅。

「王だった時は、人を待たせた。今は俺が待つ」

「名言みたい」

「言うな。急に軽くなる」

 最初の便に、朝、真琴、迅、文書箱。

 次の便に、凱と七瀬。

 全員を一度に運ばない。

 それでも、同じ判断へ合流できるよう、野々村が便ごとの氏名と重量を記録する。

 迷路は、近道を見つければ終わるのではない。

 誰を後へ残したかまで書いて、ようやく通路になる。

 上水保全局では、同じ命令を《送水系統安定化期間》と呼んだ。

 移動統制局では、《緊急経路純化措置》

 集会安全室では、《局所密度緩和》

 記録監査局では、《追跡空白防止期間》

 誓務法制局では、《反証波及抑制附帯処分》

 中央危機調整局では、《暫定命令》

 迅は六個目で立ち止まった。

「全部、同じ紙?」

「同じ番号です」

 真琴。

「名前が違う」

「目的の説明が違います」

「誰か、嘘ついてる?」

「全員が自分の部分だけ本当だと思っています」

「一番悪い」

「嘘より?」

「嘘なら殴れる」

「嘘を殴るのは、やめてください」

「人を?」

「それも」

 朝が壁の案内を読む。

《上水保全局・送水認定課》

 矢印は右。

 右へ行くと、移動統制局の倉庫。

「違う」

 迅。

「仮移転中です」

 職員が言う。

「どこ」

「上水認定の窓口は、移動統制局の中です」

「なぜ」

「送水車両の経路認定と統合したため」

「じゃあ同じ部署」

「所管は別です」

「部屋は同じ」

「机が違います」

 部屋へ入る。

 机が二列。

 左列に青い札。

 右列に白い札。

 中央の通路は一本。

 上水保全局の職員が、移動統制局の端末を使う。

 移動統制局の職員が、上水保全局の印を押す。

 迅は、しばらく見た。

「同じじゃない?」

 二人の職員が同時に首を横へ振った。

「違います」

「何が」

「権限」

「誰の」

「職名です」

 迅は、箱を床へ下ろした。

 右手の痺れが強くなっている。

 握り直す。

 朝が気づく。

「休憩を」

「いらない」

「箱を置きました」

「道が狭い」

「右手を開いてください」

「命令?」

「確認」

 迅は右手を開く。

 小指が遅れる。

 朝は触らない。

 見るだけ。

「十分、荷を替えます」

「誰が」

「私では持てません」

「なら俺」

 凱が後ろから来た。

「半分、持つ」

「膝」

「平地だ」

「階段ある」

「階段前で返す」

「面倒」

「人間は、だいたい面倒だ」

「朝の真似」

「便利な言葉だった」

 凱は有効箱を受け取る。

 左膝へ負担をかけず、胸の近くで持つ。

「王が書類運び」

「王ではない」

「元王」

「役割は書類運搬、期限は階段まで」

「細かい」

「増えるからな」

 迅は疑義箱だけを持つ。

 軽くなった。

 右手の痺れは消えない。

 軽くなったからといって、治ったわけではない。

 役所の命令と似ていた。

 負担を別の人へ分けても、元の傷は残る。

 午前十一時三十四分。

 貨物昇降機が四階へ着く前に、野々村葉の受信具が鳴った。

『用途拒否票、誤送。上水保全局向け三十八枚が、移動統制局の未処理箱へ入った』

 朝が昇降機の壁へ手を添える。

「次の自動更新は」

『正午』

「二十六分」

 真琴。

「拒否票が処理されなければ」

『給水待機人数報告が、送水系統安定化期間の更新認定へ使用されます』

「票の現在地」

『移動統制局、南倉庫。箱名は《緊急経路純化・補足資料》

 迅が言う。

「今から取る」

「原票は封印されています」

 野々村。

「封印ごと」

「受取部署が違うため、倉庫から出すには移動側の返送署名が必要」

「誰」

『梅野紺』

「受け取る人」

『上水保全局、笠井尚』

「二人、呼べ」

 朝。

『梅野さんは南倉庫。笠井さんは上水認定課。建物は同じですが、階が違います』

 迅が昇降機の扉を見た。

「俺、箱」

「封印受領後」

「凱、梅野」

「勝手に役割を決めるな」

「じゃあ、何する」

 凱は左膝へ手を置く。

「俺は南倉庫へ行く。階段は使わず、次の貨物便。梅野本人へ、返送署名の範囲を確認する」

「同じ」

「決め方が違う」

「面倒」

「おまえが言った」

 朝は、野々村を見る。

「私は笠井さんへ、受領準備と用途拒否票の効力を確認します」

「歩く速度」

 迅。

「通常」

「間に合わない」

「だから、あなたが箱を運ぶ。ただし、封印、受取人、目的を確認してから」

「タマキみたい」

「配達の基本です」

 昇降機が四階へ着く。

 朝と真琴は上水認定課へ。

 迅は空の手で南倉庫へ走る。

 凱は一便後。

 七瀬は、どちらも追わない。

「私は、原票が動く時だけ撮ります」

 分かれた人間を、一つの映像へ無理に入れない。

 南倉庫の入口には、同じ形の箱が二十七個あった。

《緊急経路純化》

《送水系統安定化》

《医療アクセス保全》

 名称が違う。

 箱の寸法は同じ。

 迅は、ひとつずつ持ち上げない。

 右手の痺れがある。

 箱の番号だけを見る。

「三十八枚」

 梅野紺が奥から来た。

「こっち」

 彼女は、黄色でも赤でもない縄で封じた箱を示す。

「色を使わない?」

「照明で変わる。結び目が二つ、移動。三つ、上水」

 問題の箱は、二つ結び。

 ラベルは《緊急経路純化・補足資料》。中身は上水。

「何で」

「提出端末が、送水車の経路拒否として分類した」

「水の人が、道を拒否した?」

「違う。待機人数報告を、命令更新へ使うなという票」

「じゃあ三つ結び」

「中身を開けずに変えられない」

「開ける人」

「私」

「返す判断」

「梅野紺。移動統制局の保管分類が誤りと確認したので、上水保全局へ返送する」

「いつ」

「今」

「署名」

「する」

 梅野は封印帳へ書く。

 返送理由。

 箱番号。

 枚数三十八。

 開封なし。

 受取人、笠井尚。

 迅が箱を持ち上げる。

 右手を使わず、左腕と胸で支える。

「重い?」

「紙」

「軽い?」

「聞くな」

 梅野は、新しい三つ結びを箱へ付ける。

「上水認定課は四階北端」

「真っ直ぐ」

「途中、医療渡り廊下は通行禁止」

「別」

「三階へ下り、記録棟を回って、四階へ」

「迷路」

「役所」

 迅は走り出す。

 右へ。

 階段へ行きかける。

「右じゃない」

 梅野。

「地図は」

「組織図しかない」

「役に立たない」

「人に聞け」

 迅は最初の角にいた清掃員へ訊く。

「記録棟」

「左、二つ目の扉。札は《医療資料返却》

「記録って書け」

「昨日変わった」

「誰が」

「知らない」

「名前」

「私? 清掃、野々村葉」

 昇降機担当と同じ名前。

「同じ人?」

「交代で清掃もする」

「役所、職名より人が多いのか少ないのか分からない」

「急げ」

「命令?」

「お願い」

「受領」

 迅は、教えられた扉へ入る。

 記録棟の通路は、床がわずかに傾いている。

 箱が胸から滑る。

 右手を出しかける。

 小指が遅れる。

 壁へ箱の側面を当て、摩擦で止める。

 紙を落とさない。

 自分も転ばない。

 七歩は取らない。

 暴力の源は、床でも箱でも端末でもない。

 ただ、時間が減る。

 午前十一時五十二分。

 上水認定課の扉へ着く。

 笠井尚が待っていた。

「箱番号」

 迅が読む。

「枚数」

「三十八」

「送り主」

「梅野紺」

「目的」

「待機人数報告を、自動更新へ使うなって票」

「正式には」

「知らない」

 朝が椅子から言う。

「給水利用者の待機人数報告に関する目的外使用拒否票。三十八枚」

「受領者」

「笠井尚」

「開ける」

「名前、言った」

「言った」

 笠井が封を切る。

 票を端末へ一枚ずつ入れる。

 三十八人の氏名は公開しない。

 拒否時刻と対象報告だけを記録する。

 十一時五十八分四十秒。

 最後の一枚。

 端末表示。

《待機人数報告――受領》

《自動更新への使用――拒否三十八》

 正午。

 送水系統安定化期間は、別の安全認定一件だけでは更新条件を満たさなかった。

 紙送り口が、一度鳴る。

 何も出ない。

 迅は箱を床へ置く。

「間に合った」

「拒否票が間に合っただけです」

 笠井。

「命令全部は?」

「別の報告で更新される可能性がある」

「また走る?」

「今度は、誰が次の報告を入れるかを確認する」

「終わらない」

 朝。

「だから、七十二本を一度に殴らないんです」

「できない」

「できても、しないでください」

 迅の右腕には、箱の角の跡が残った。

 怪我ではない。

 数分で薄くなる。

 それでも、三十八枚を運んだ時間は、端末の履歴へ残った。

 正午を過ぎると、官庁群の廊下へ昼食の匂いが流れた。

 出汁。

 温め直した豆。

 硬いパン。

 紙と糊の匂い。

 職員は机で食べる。

 食べながら命令を読む。

 命令を読みながら、人の移動を止める。

 迅は、廊下の端で小麦から渡された包みを開いた。

 塩むすび二つ。

 小さな煮豆。

 右手を使わず、左手で食べる。

 凱が箱を床へ置き、膝を伸ばす。

「王だった頃、昼は?」

 迅。

「予定表に入っていた」

「腹減る時間、決める?」

「会議が決めた」

「腹は?」

「従わなかった」

「王より強い」

「だいたいの身体は、制度より強い。制度は、それを認めるのが遅い」

 朝は椅子へ座り、薬を水で飲んだ。

 黒い杖を壁へ立てない。

 倒れるから、膝の上へ横にする。

「御厨」

 凱が呼ぶ。

「はい」

「原案を覚えているか」

「一部は」

「自動更新の条件」

「二十四時間以内に、異なる二部署が、具体的な継続理由と影響範囲を氏名で提出すること」

「今は」

「異なる二部署が、安全上必要と認定すること」

「氏名がない」

「はい」

「具体的理由も」

「別表へ分散しています」

「影響範囲」

「命令を受ける側へまとめられています」

 迅が煮豆を一粒落とした。

 床へ転がる。

「誰が削った」

「原案の変更履歴を確認します」

「覚えてない?」

「全部は」

「自分の言葉だろ」

「自分の言葉は、使われ続けると自分のものではなくなります」

「便利」

「言い逃れに聞こえますか」

「聞こえる」

「私にも」

 朝は、否定しなかった。

 迅は落とした豆を拾う。

 食べない。

 包みの端へ置く。

「じゃあ、誰のもの」

「探しているところです」

「朝の分も」

「はい」

 午後一時四十七分。

 誓務法制局の文案保管室。

 壁一面に、改訂履歴の紙帯が吊られていた。

 一本の命令文が、どの部署を通り、どの語を失ったか。

 紙帯は階段のように下がっている。

 朝の原案は、一番上。

《異なる二部署》

《具体的継続理由》

《影響範囲》

《更新判断者氏名》

《拒否・異議窓口》

《再確認期限》

 次の帯。

《更新判断者氏名》が、《更新認定部署》へ変わる。

 その次。

《具体的継続理由》が、《安全上の必要》へ。

 さらに次。

《影響範囲》が、別表参照へ。

 最後。

《拒否・異議窓口》が、脚注へ。

 六つあった条件のうち、表面に残ったのは二つだった。

《異なる二部署》

《再確認期限》

 しかも再確認は、自動だった。

 真琴が紙帯の端へ番号札を付ける。

「要約者の名があります」

 第一改訂。

 法制整理係、三名。

 第二改訂。

 危機広報班、二名。

 第三改訂。

 医療・上水合同調整、四名。

 第四改訂。

 自動更新実装班、六名。

 名前はある。

 全員が、命令全体を書いたわけではない。

 全員が、一部分を短くした。

 迅は紙帯を下から上へ見た。

「一人ずつ、少し?」

「はい」

 朝。

「少しずつ削ると、誰も削ってない?」

「削った事実は残ります」

「でも、全部削った奴はいない」

「いません」

「殴る奴がいない」

「それを基準にしないでください」

 保管室の職員が、紙帯へ手を伸ばした。

「照合後は戻します」

「まだ撮影していません」

 七瀬が固定台を押して入ってくる。

 左肩を上げない。

 右手で高さを調整。

「撮影許可は」

 職員。

「改訂履歴は公開対象です」

「原案者の氏名が」

「御厨朝さんは公開へ同意しています」

「他の担当者は」

「職務上の改訂署名は公開範囲です。住所、家族、病歴は撮りません」

「顔は」

「紙だけです」

 職員は手を止めた。

 七瀬が一枚ずつ撮る。

 光を強くしない。

 紙の繊維が反射しない角度。

 朝が、自分の原案を見つめる。

「撮りますか」

 七瀬。

「はい」

「顔も」

「今は紙だけ」

「理由」

「私の表情を、反省の証拠に使わせないため」

「受領」

 迅が訊く。

「反省してない?」

「しています」

「なら撮れば」

「表情は、反省を証明しません」

「殴られた顔も?」

「被害は証明できます」

「反省は?」

「行動で」

「面倒」

「人間は」

「もう聞いた」

 撮影が終わる前に、自動更新実装班の一人が来た。

 榎本ソウ。

 二十四歳。

 首から三枚の端末鍵を下げている。

「六名全員を呼べと言われましたが、現在勤務は私だけです」

 迅が紙帯から顔を上げる。

「これ、作った?」

「集約機の出力部だけ」

「職名だけ出すやつ」

「要求仕様どおりです」

「名前、出せなかった?」

「出せます」

「じゃあ、何で」

「氏名情報は別ログへ送る仕様でした」

「誰が決めた」

「発注側」

 朝が訊く。

「要求仕様書は残っていますか」

「地下文書庫」

「あなたは、氏名を紙へ出さない危険を指摘しましたか」

 榎本は、端末鍵を一枚ずつ指で揃えた。

「速度が落ちると指摘しました」

「危険ではなく」

「当時、発令者氏名の公開で家族が脅された事例がありました」

「だから隠した?」

 迅。

「公開紙面から外した。別ログには残る」

「誰が見る」

「監査権限者」

「今、見られない」

「権限照会に二部署承認が必要です」

「名前を探すために、名前のない二部署へ頼む?」

「そういうことになります」

 榎本は自分で言って、端末鍵を止めた。

「私は、今まで問題だと思わなかった」

「今は」

「問題だと思う。でも、紙面へ全氏名を出せば、報復を受ける人もいる」

「じゃあ、どうする」

 迅は答えを求める。

 榎本は技師だ。

 正解をすぐ出す役ではない。

「表面へ、氏名を記録した別ログの保管者名と照会先を出す。緊急時は、仮識別でも、本人確認期限を付ける」

 朝が小さく息を止めた。

 自分が後に放送で言う案と似ている。

 今、技師から先に出た。

「それを、改修案として署名しますか」

「します。ただし、今夜の更新には間に合わない」

「今夜に使えること」

「集約機が、どの部署の入力を選んだか、出力横へ手動で氏名を添える。私一人では、全入力者を確認できない」

「確認できる分だけ」

「はい」

 榎本は集約機の内部図を広げた。

 七つの細い紙帯。

 どの帯が《必要》を送ったか。

 どの時刻に選ばれたか。

 氏名は別端末。

「機械を止めれば」

 迅。

「全命令の更新が止まる。医療と給水も」

「壊せば」

「直す間、個別出力もできない」

「嫌な機械」

「便利な機械です」

「同じ?」

「便利さの持ち主が見えないと、嫌になる」

 迅は機械を殴らない。

 榎本は、自分が確認できる三入力へ氏名を添えた。

 残る四入力には、《確認者未定》と書く。

 空欄のままにしない。

 午後三時二十分。

 最初の更新停止同意がそろった。

 集会安全室。

 十二名以上の集会制限について、四月二十二日午前零時で更新を停止する。

 署名者。

 集会安全室長、浦部稔。

 更新担当。

 会場密度係、城崎ミナ。

 受領者。

 中央危機調整局、芒野澄子。

 拒否窓口。

 集会安全室一階、第三窓口。

 理由。

《集会人数のみを危険の指標とする運用が、葬儀、診療、配給、共同修理へ不均衡な影響を与えているため》

 迅は、四人分の名前を読み終えるまで待った。