第232話 第六章「積荷を捨てる」後編
右後ろが塩水側へ出る。
後続車が迫る。
「後ろ、右へ逃がせ!」
轟は敵側回線へ叫んだ。
『右は援助車列!』
「第九号車、中央を空ける!」
磯辺がハンドルを切る。
第九号車は右の防輪材まで十五センチ。
左へ、塩轍後続一台分の空間ができる。
敵車が滑り込む。
接触。
金属が擦れる。
双方の側面が凹む。
転落はしない。
鳥飼の車は、半分だけ防輪材へ乗ったまま止まった。
援助車列の最後尾が橋を抜ける。
塩轍の六台も抜けた。
一台だけ残る。
轟は第九号車を止めた。
「何してる」
磯辺。
「戻る」
「敵です」
「橋上に一台残せば、次の車が落ちる」
「追ってきた結果だ」
「結果は、橋の強度を増やさない」
迅が隣へ来た。
「俺も」
「左側を持て」
「轟の左?」
「そうだ」
「今日は二回目」
「数えるな」
二人は塩轍車へ向かった。
小麦も六号車から降りる。
包丁の刃に粉が固まっている。
「私は行かない」
そう言って、道路へ落ちた空袋を一枚ずつ拾った。
回収できるのは布だけ。
中身は、塩水と油とタイヤ痕へ混ざっている。
午後六時十四分。
塩轍車は、右後輪を塩水の上へ出したまま止まっていた。
車体角度、十一度。
防輪材へ乗った左前輪が支点。
荷台には、燃料缶、交換用タイヤ、地元商店から集めた空箱。
目録箱は別の車にある。
鳥飼は運転席から出られない。
扉が防輪材へ押しつけられている。
「窓から」
迅が言う。
「右脚が挟まった!」
「感覚は」
「ある。痛い。すごくある!」
「なら、車体を先に固定」
轟は右側の後輪を見る。
空中へ半分出ている。
塩水面まで六十センチ。
車がさらに三度傾けば、荷の重さが外へ逃げる。
そのまま横転。
「塩戸。荷台の燃料を前左へ移せ」
『命令するな』
「構造条件だ」
『今度は何キロ』
「燃料缶六。百二十。交換タイヤ二本、百四十。工具箱四十。合計三百」
『足りる?』
「足りない。だが、動かす時間を作る」
塩戸は返事をせず、組合員へ手を振った。
三人が荷台へ上がる。
燃料缶を一つずつ前左へ。
急げば、缶の中身が揺れる。
揺れが車体を倒す。
「置く時に手を離すな」
轟。
「そんなに丁寧にやってたら日が落ちる!」
組合員。
「落ちても橋は残る。車が落ちれば終わる」
「人は?」
「先に出す」
迅が助手席側の窓へ回る。
塩戸が止めた。
「屋根を踏むな。重心が右へ行く」
「分かってる」
「さっき紙を分かってなかった」
「今は車」
「車も紙で動く」
「あとで喋る」
「落ちなかったらな」
迅は窓枠へ左手だけを掛けた。
右は包帯。
身体を車体へ預けず、橋の防輪材へ足を置く。
鳥飼の腕を掴む。
「脚はどこ」
「座席とペダルの間。靴が挟まってる」
「靴を脱げ」
「紐が下!」
「切る」
迅が小刀へ手を伸ばす。
小麦の声が飛んだ。
「食料を切った刃は使わないで!」
「違う刃」
「見せて」
「今?」
「感染したら、今の二分が三日になる」
迅は刃を見せた。
小麦が遠目で頷く。
「使って」
「許可が細かい」
「身体は、細かい所から壊れる」
靴紐を切る。
鳥飼が脚を抜く。
迅は身体を窓から引き上げた。
鳥飼の右足が外へ出る。
次の瞬間、車体が一度沈んだ。
右後輪がさらに外へ滑る。
「動くな!」
轟の声で、全員が止まる。
止まることは、何もしないことではない。
腕の震えを保つ。
燃料缶を持ったまま、床へ置かない。
鳥飼の体重を窓枠と防輪材へ半分ずつ残す。
迅は息を止めず、吐く。
塩戸が車体下へ膝をついた。
「後輪の下、空洞が広がってる」
「見るな」
轟。
「見ないと支点が分からない」
「頭を入れるな。落ちれば潰れる」
「運送屋に車の下を見るなって?」
「死んだ運送屋は車を直せない」
塩戸は、頭を引いた。
代わりに、小さな鏡を棒へ付けて差し込む。
「空洞、幅三十。防輪材の基礎が一部欠けてる」
「写真」
「撮影機はない」
七瀬が、橋の反対側から言った。
「鏡をその角度で止めて。轟さん、私の機材を持つ」
「左肩は」
「右手で固定台。三秒」
「俺が」
「あなたは車体を見て」
七瀬は低い姿勢になり、撮影機を路面へ置いた。
左肩を上げない。
右手で角度を合わせる。
鏡越しに、欠けた基礎を撮る。
「記録」
「今必要か」
塩戸。
「同じ橋を次の車が通る」
「今落ちる車が先だ」
「三秒で終えた」
七瀬は機材を胸へ戻した。
「役に立つ記録だけ残すの?」
小麦が聞く。
「今は役に立つ」
「なら、あとで役に立たなかった袋も撮って」
「撮る」
轟は計算を変えた。
車を橋へ戻すのではない。
防輪材の欠けを越えて、前へ三メートル出す。
そこは基礎が残っている。
後輪の下へ、第一号車の牽引用板を差す。
「峰岸。空車を後退で橋へ戻せるか」
『後方視界が白い。誘導二人なら』
「由良と凱」
『凱は膝』
「立ち位置を固定。歩かせない」
『了解』
第一号車が、ゆっくり後退してくる。
由良が赤索を道路中央へ張る。
凱は橋入口の一点へ立ち、車体角度を声で読む。
『右、五センチ』
峰岸が切る。
『戻し一』
凱の声は命令に聞こえる。
だから一つずつ、峰岸が復唱する。
『右五。戻し一。実行』
言われた通りに動いたのではない。
自分の操作として返す。
第一号車の後部が、塩轍車から四メートルへ来る。
轟は牽引用板を降ろした。
左手を使わない。
右手と腰で支える。
迅が反対側。
二人で、板を後輪の下へ差し込む。
「車体、二センチ上げる」
轟。
「ジャッキは」
「使わない。支点が塩殻。割れる」
「どうする」
「第一号車で引きながら、塩轍車を前へ出す」
「同時?」
「同時じゃないと落ちる」
塩戸が運転席へ入った。
鳥飼は道路へ座り、右足首を小麦に診られている。
「折れてない?」
「今、決めない。腫れが出るまで固定」
「走れる?」
「運転はしない」
「景がする」
「なら、助手席にも乗らない。揺れる」
「敵に決められた」
「身体は敵味方を見ない」
「橋と同じ?」
「橋より文句が多い」
小麦は板を当て、包帯を巻いた。
包帯には、金の穂。
鳥飼が笑う。
「また寄贈印」
「嫌なら裏返す」
「今日はこれでいい」
「本人が選んだって書く」
「そこまで?」
「そこから」
牽引索が張る。
赤い索ではない。
太い鋼索。
第一号車と塩轍車の間で、低い音を出す。
「峰岸、二十センチ」
轟。
『実行』
「塩戸、前進十」
『入れる』
エンジンが唸る。
右後輪が牽引用板へ乗る。
板がしなる。
「止める!」
双方が止まる。
車体角度、九度。
「もう一回。峰岸十五。塩戸十五」
動く。
角度、七。
後輪が橋へ戻る。
全員の腕から、同時に力が抜けかけた。
「まだ離すな」
轟。
「四輪が平らになるまで」
最後の三十センチ。
塩轍車は橋上へ戻った。
第一号車が索を緩める。
車体は立っている。
鳥飼も立とうとした。
小麦が鍋蓋で膝を押した。
「座る」
「俺の車」
「景が運転する」
「積荷確認」
「他の人がする」
「仕事を取るな」
「足首を取られるよりまし」
鳥飼は座った。
塩戸が運転席から降りる。
「助けた代金」
「いらない」
迅。
「轟に聞いてる」
「橋を塞がないためだ」
「うちの車を戻した」
「次の車のため」
「人は?」
「同じだ」
「同じにするな」
塩戸の声が低くなる。
「鳥飼は車より先に出した。そこは借りだ」
「借りにするなら、返す相手は鳥飼だ」
「本人へ?」
「俺へ返すな」
塩戸は、道路へ座る少年を見た。
「至。何を返してほしい」
「皿洗いを減らして」
「却下」
「じゃあ、今日の運転を責めないで」
「それも却下。ブレーキを踏んだのはおまえだ」
「命を助けてもらった人に厳しい!」
「命と運転評価は別」
小麦が小さく頷いた。
「そこは正しい」
「敵に褒められた」
「褒めてない」
塩戸と小麦の声が重なった。
二人とも嫌そうな顔をした。
午後六時三十八分。
橋を抜けた先の退避地で、双方は百メートルを空けて停車した。
援助車列は損失を数える。
塩轍は損傷を数える。
小麦は空袋を並べた。
四十八。
荷札が読めたのは三十一。
破れて読めないもの十七。
金の穂、十二。
赤い太陽、九。
白い手、七。
二重札、少なくとも三。
不明、十七。
「二重計上なら、捨てた量をどう書く」
七瀬。
「現物は一袋」
小麦。
「申告上は二袋でも、捨てたのは一袋。損失一。二重申告一は別欄」
「損失を減らして見せたと言われる」
「映像を付ける」
「粉は量れない」
「出発時の袋重量、四十。四十八で千九百二十。ただし、湿りと破袋があるから推定」
「三十キロ袋は混じってない?」
「全部麦粉の四十。私が持った」
轟が見る。
「持つなと言った」
「持ってない。切る時に押した」
「足は」
「痛い」
「座れ」
「記録が」
「俺が読む」
「字、読める?」
「おまえより大きい字なら」
「怒ると小さくなるだけ」
「今、小さい」
「怒ってるから」
「誰に」
「袋を捨てるって決めた人」
轟は黙った。
「俺だ」
「知ってる」
「他に方法がなかった」
「それも知ってる」
「なら、何を言え」
「捨てた先の腹を、計算の外に置いたって言って」
轟は、空袋を見た。
構造上は正しい。
車体を救った。
橋を守った。
人を落とさなかった。
それでも、千九百二十キロは戻らない。
「捨てた先の腹を、計算に入れなかった」
七瀬が記録する。
「理由は」
「時間がなかった」
「後で、どうする」
「配布量を減らすだけにしない。誰へどれだけ減るかは、俺が決めない」
「補填は」
「車体修理より先に検討する」
磯辺が、自分の車の凹んだ側面を見た。
「先って、順番だけですよね」
「そうだ」
「金が足りなければ」
「足りないと公開する」
塩戸が、百メートル先から声を飛ばした。
「千九百二十キロ」
小麦が振り向く。
「聞こえてた?」
「道は平らだ」
「何」
「鳥飼乾物の麦と豆を全部合わせても、一・三トン。久瀬油店、半年分で〇・九。おまえらは、二つの店の一年を橋へ撒いた」
「人を守るため」
「知ってる」
「なら、言い方」
「正しい損失は軽くなる?」
「ならない」
「だから重さを言った」
塩戸は、自分の車の凹みへ白墨で数字を書いた。
《右側面損傷/接触相手・第九号車/原因・粉塩上の制動/運転・鳥飼至》
その下へ、もう一行。
《救出作業・援助車列第一号、轟、迅、由良、凱、ほか》
名を残した。
謝罪ではない。
和解でもない。
損傷の原因と、戻した手を同じ扉へ書いただけだ。
小麦は鍋帳へ、塩戸車救出の時間を加えた。
《十八時十四分から三十八分。救出中、食料車列停止二十四分。粉袋劣化、追加なし。運転手休憩、二名のみ》
「休憩二名?」
七瀬。
「他は救出を見てた。見てるのは休憩じゃない」
「何もしなかった人は」
「何もしないで待つのも仕事になる時がある。でも、休めたかは別」
小麦は自分の欄へ、休憩ゼロと書いた。
由良がそれを見た。
「自分へ賃金払う?」
「払う」
「誰から」
「まだ決めてない」
「条件が増えた」
「人が増えたから」
夜風が出始める。
橋の上に残った粉は、水分を吸って固まりつつあった。
回収を試した整備員が、手袋へ付いた白い塊を見せる。
「乾かせば使えませんか」
小麦は匂いを嗅いだ。
塩。
車軸油。
防錆剤。
タイヤの粉。
「食べない」
「家畜は」
「成分を調べてから。今は廃棄」
「もったいない」
「もったいないから、食べない」
「逆でしょう」
「腹を壊して薬を使えば、もっと失う」
小麦は、使えない粉にも赤札を付けた。
《回収不能。理由、塩水・車軸油・防錆剤混入》
食べられない理由まで書く。
誰かが後で拾い、善意で鍋へ入れないために。
勝った時に上がる白煙には見えなかった。
日没の光の中で、捨てた食料が、誰の口にも入らないまま道路を白くしていた。