第231話 第六章「積荷を捨てる」前編

三月二十一日 午後五時三十六分

 橋は、荷物の正しさを量らない。

 重いか、軽いかだけを見る。

 伏見轟は第九号車の助手席で、前方の白い線を見た。

 旧北塩湖を横切る塩橋。

 長さ、二・七キロ。

 幅、六・四メートル。

 中央に継ぎ目。

 左右の縁には、高さ四十センチの防輪材がある。

 防輪材の外は、白い塩水だった。

 深さは場所によって違う。

 浅い所で膝。

 古い採掘穴では、車体が立ったまま沈む。

「橋上、横風十二」

 由良の声。

『六百メートル先で十四。西側の防風板、三枚欠損』

「大型車は間隔百二十。中型九十。小型は大型の直後へ入れるな」

 轟は車両表へ指を置いた。

 第一号車、空荷。

 第二、油と豆。

 第三、乾燥芋。

 第四、粉乳代替。

 第五、固形燃料と調理器具。

 第六、麦粉。

 第七、豆と塩漬け魚。

 第八、麦と油。

 第九、補修資材と一部食料。

 第十、麦粉。

 第十一、麦と乾燥芋。

 第十二、小型。石鹸、布、医療用の栄養食。

 申告重量は信用できない。

 荷札が二重なら、車体の重量まで紙の上で増える。

 しかし、ばねの沈みは嘘をつかない。

 車軸の音も。

 タイヤの潰れも。

 轟は出発前に見た沈み込みから、実荷重を概算していた。

「八号車、推定積載四・八」

『申告六・二です』

 蓑原。

「車体は四・八の沈み方だ」

『ばらつきがあります』

「ある。だから推定と言った」

『橋の制限は六・五。問題ありません』

「一台なら」

『何が問題ですか』

「追走車」

 鏡の中。

 塩轍の七台が、車列後方へ近づいている。

 彼らも橋を渡る。

 橋上で横へ並べば、荷重が同じ横梁へ集中する。

 車体同士が接触すれば、片方を避けた車が防輪材へ乗る。

 道路は二台分ある。

 安全に二台並べる幅ではない。

「全車へ。橋上、追い越し禁止。敵車が並んでも、中央を譲るな。接触回避は速度差で取れ」

 凱の声が返る。

『命令か』

「構造上の条件だ」

『各運転手へ、そのまま伝える』

「頼む」

 凱は一人ずつ名を呼んだ。

 轟が言えば、一斉に動かす方が早い。

 早さは、橋の強度にならない。

 運転手が自車の癖を知り、自分で速度を選ぶ方が、接触した時に戻せる。

 午後五時四十二分。

 第一号車が橋へ入った。

 白い路面が、夕日を下から返す。

 目の奥が痛む明るさだった。

 峰岸は速度三十二。

 二号車、三十。

 三号車、二十八。

 全車が違う速度で、違う間隔を取る。

 隊列はさらに長くなる。

 最後尾が橋へ入る前に、先頭は八百メートル先へ行った。

「守れない形ですね」

 第九号車の運転手、磯辺悟が言った。

「守る物を一つにすればな」

「車列は一つでしょう」

「車は十二」

「敵は七」

「人はもっといる」

「そういう数え方、嫌いです」

「なぜ」

「事故報告みたいだ」

「事故を減らすために数える」

「減らせなかった時は」

「名前を書く」

 磯辺は前を見たまま、口の端を動かした。

「それは慰めですか」

「責任の始まりだ」

 午後五時四十七分。

 七瀬が、監査途中の数字を公開した。

『申告総量、四十二・六トン。現物監査は未完了。現時点で確認した二重計上、麦粉三・二トン。豆、確認中。油、未確認。配布先は未決定。環水三号塔十八・二トンという記録は、こちらの保有資料には存在しない』

 車列の無線へ、受取側から質問が重なる。

『実際には何トンある』

『足りない分を誰が補う』

『二重計上した団体名を出せ』

『うちへ来る量を先に言え』

 七瀬は、同じ答えを繰り返さない。

 一問ずつ番号を付けた。

『一、実量は監査中。二、補填者は未確定。三、団体名は現物と申告記録の照合後に出す。四、配布量は受取側の在庫、調理能力、選択を確認して決める』

 塩戸の声が割り込む。

『空腹へ番号を付けた』

 七瀬。

『質問を失くさないためです』

『数字を遅らせる人間は、順番を権力にする』

『あなたは偽の十八・二を先に出した』

『先に出した数字が、車を止めた』

『嘘でも?』

『止まったという事実は本当だ』

 轟は無線を切った。

 橋へ集中する。

 言葉は、後で記録できる。

 車体が傾く角度は、一度を逃すと戻らない。

 西から突風。

 第九号車の右側面へ当たる。

 車体が三度傾いた。

 ばねが戻る。

「速度二十六」

 轟。

「後続との距離」

 磯辺。

「百十」

「前は」

「九十」

「減速、二」

 磯辺がアクセルを戻す。

 急なブレーキは踏まない。

 荷が前へ寄れば、横風より危険になる。

 午後五時五十一分。

 後方で警笛が三度鳴った。

 第十二号車。

 小型車の右後輪が、防輪材へ擦っている。

 その右に、塩轍の車が並んでいた。

 灰色の帆を倒し、車幅を低くしている。

「塩轍、離れろ」

 轟が全回線で言う。

『橋は誰の道だ』

 塩戸。

「今は二台並ぶ強度がない」

『橋の荷重票は、片側九トン』

「静止荷重だ。風と接触を入れていない」

『おまえの計算を信じろ?』

「信じるな。橋脚五番の継ぎ目を見ろ。右梁が二センチ落ちてる」

 塩戸車の速度が一瞬落ちた。

 運転席の鳥飼が橋脚を覗く。

『……一・五』

「遠目だ。二ある」

『景、下がる?』

『半車身』

 塩轍車が少し後ろへ下がる。

 第十二号車との間に、五十センチの空白ができた。

 敵が指示を聞いた。

 味方になったわけではない。

 橋が落ちれば、双方が沈むだけだ。

 共同の危険は、共同の目的ではない。

 それでも、一秒の協力にはなる。

「十二号車、中央へ二十センチ」

『無理、左に十号車!』

「十号車、前へ三メートル。自車判断で可能か」

『前に七号車、距離十』

「七号車、二メートル前」

『その前が詰まってる!』

 車列前方。

 防風板の欠損区間で、第五号車が速度を落としている。

 横風十四。

 車体の高い第四号車が、中央線を越えかける。

 全体が、蛇腹のように縮んでいた。

「凱。前を広げろ」

『誰から』

「第一号車を四十。二号車三十八。後ろは順に自車の制動距離を残す」

『各車へ聞く』

「時間がない」

『何秒』

「十二号車が防輪材へ乗るまで、二十」

『なら、聞ける』

 凱は呼んだ。

『峰岸環奈、四十まで上げられるか』

『路面前方百は平ら。上げる』

『江橋勇、三十八』

『油が揺れる。三十六』

『採用。三号車――』

 一台ずつ。

 返事の間、轟の背中に汗が流れた。

 遅い。

 けれど、返事のない車を動かせば、荷の癖を知らない命令になる。

 十二号車の右輪が、防輪材へさらに三センチ上がる。

 車体が左へ傾く。

 左側には十号車。

 接触まで、四十センチ。

「十号車、右へ寄るな。速度維持」

『接触する!』

「十二号車が戻る」

『戻らない!』

 轟は座席を蹴って立った。

 左肩を上げない。

 右手で屋根の把手。

 荷台へ出る。

「磯辺、俺を十二へ寄せろ」

「第九から十二まで、十号と十一号がいる」

「歩く」

「走行中です」

「知ってる」

「全員それを言う」

 磯辺は舌打ちし、第九号車を十号車へ十センチ寄せた。

 車体間、八十センチ。

 轟は右足を手摺へ掛ける。

 左肩の奥が警告を出す。

 跳べる。

 跳んだ後、左で掴めない。

「迅!」

 轟が呼ぶ。

『どこ』

「十号車へ来い。俺の左になる」

『分かった』

 それだけ。

 迅は第一号車から屋根伝いに来る。

 走行中の車列を五台分。

 近道ではない。

 轟は待つ。

 待つ間、凱が前を広げる。

 第一が上がる。

 第二。

 第三。

 車列前方に二十メートルの余裕が生まれ、その余裕が一台ずつ後ろへ伝わる。

 十号車が三メートル進む。

 十一号車が二。

 十二号車の左側へ、戻る空間ができた。

「十二、ハンドル左へ切るな」

 轟。

『左へ戻すんじゃないの?』

「防輪材に右輪が乗ってる。左へ切れば、右輪が壁を登る。ハンドル真っ直ぐ。速度を二だけ上げろ」

『落ちる!』

「前へ出れば、防輪材の欠けた所がある。そこで右輪が自然に下りる」

『何メートル』

「七」

『見えない!』

「俺が見る」

 轟は第十号車へ移った。

 跳ばない。

 迅が差し出した右手首を、轟が右手で掴む。

 互いに片手。

 迅は腰を落とし、轟の体重を車体へ流す。

 轟の左腕は胸の前に固定したまま。

「重い」

「知ってる」

「人を荷物みたいに」

「小麦の真似?」

「違う」

 十号車。

 十一号車。

 十二号車。

 二人は三台を渡る。

 防輪材の欠けまで、三メートル。

 十二号車の運転手が速度を上げる。

 右輪が欠けへ落ちた。

 車体が大きく右へ振る。

「反対へ切るな!」

 轟。

 運転手はハンドルを握り込む。

 車体が二度揺れる。

 戻った。

 接触なし。

 落下なし。

 呼吸が一つ、無線全体から漏れた。

 次の瞬間、橋の前方で金属音がした。

 第五号車の左側面板が、突風で外れた。

 板は道路へ落ち、後続の第六号車が踏む。

 左前輪が跳ねる。

 麦粉を積んだ車体が右へ傾いた。

 右には防輪材。

 その外へ、白い水。

「六号車、速度落とすな!」

 轟が叫ぶ。

『落ちる!』

「落とせば荷が前へ来る。直進!」

 第六号車の後ろで、第七、第八が詰まる。

 塩轍の二台が左側へ入った。

 逃げ道を塞ぐ形になった。

「塩戸、下がれ!」

『後ろも詰まってる』

「なら止まるな。左の車を前へ出せ」

『前は六号車の側面板』

「踏むな。板を引く」

『誰が』

「俺」

「無理」

 迅が言った。

「重量を落とす」

 轟は第六号車の傾きを見る。

 右ばね、限界近い。

 左輪は板の上。

 前へ進めば、板がタイヤへ巻き込まれる。

 止まれば、荷が右前へ崩れ、横転する。

 荷を移す時間はない。

 捨てるしかない。

「第六号車、右後方の麦粉を落とす。四十八袋」

 無線が静かになった。

『四十八?』

 小麦。

「一袋四十。千九百二十キロ」

『何で四十八』

「右側荷重を一・九落とせば、ばねが戻る。五十だと左へ振りすぎる。四十八」

『袋を外へ?』

「橋上へ。後続は速度を落とさず避ける」

『袋が破れる』

「破る」

 轟は言った。

『誰が決めた』

「構造上、必要だ」

『そうじゃない。食料を捨てるのを、誰が引き受ける』

 轟は答えられなかった。

 荷重は計算できる。

 誰の腹から四十八袋を引くかは、計算の外にある。

 小麦が言った。

『私が切る』

「おまえは第八号車」

『六号へ行く』

「時間がない」

『だから行く』

 黄色い前掛けが、車列中央を走る。

 小麦は屋根へ上がらない。

 第八号車を六号車の左へ寄せ、車体間へ短い板を渡す。

 由良が赤索を張る。

 小麦はその索へ腰帯を掛け、板を這って移る。

 足裏が痛むはずだ。

 顔には出さない。

 六号車へ入る。

 麦粉袋は、寄贈旗の紋を外へ向けて積まれていた。

 金の穂。

 赤い太陽。

 白い手。

 小麦は鍋帳を胸へ入れ、包丁を抜いた。

「四十八。番号を読む」

『時間がない』

 轟。

「捨てたものを、なかったことにしない時間はある」

 小麦は一袋目の荷札を読む。

「KH-0321-一一〇」

 七瀬が復唱する。

『記録』

 二袋。

 三。

 十。

 車体の傾きが増える。

 荷締め帯が軋む。

「全部読むな!」

 迅。

「読めるだけ読む!」

 小麦は帯を切った。

 袋ではない。

 右後方を束ねた荷締め帯。

 十二袋が、車体外側へ崩れる。

 防輪材へ当たる。

 そのままでは落ちない。

 小麦が一袋の腹へ包丁を入れた。

 白い粉が噴いた。

 風が、粉を道路へ広げる。

 二袋。

 三。

 袋は軽くなり、防輪材を越えて塩水へ落ちる。

 残りの袋が、その空間へ滑る。

 小麦は切る。

 食べ物を守る手で、食べ物を壊す。

 四十八袋。

 千九百二十キロ。

 六号車の右ばねが、少しずつ戻る。

「あと八百」

 轟。

「二十袋!」

 小麦。

「あと四百」

「十!」

「あと八十!」

「二!」

 最後の二袋が切られる。

 粉が夕日の中へ上がった。

 六号車の車体が水平へ戻る。

「直進。板を踏み抜け」

 轟。

 左前輪が側面板へ乗る。

 板が折れる。

 タイヤが路面へ戻る。

 六号車は進んだ。

 後続の第七号車が、粉の上へ入る。

「速度を落とすな。ハンドル固定」

 白い粉と塩が、タイヤの下で滑る。

 第七が揺れる。

 八。

 九。

 全車が一台ずつ通過する。

 塩轍の先頭車が粉へ入った。

 鳥飼がブレーキを踏んだ。

『至、踏むな!』

 塩戸の声。

 遅い。

 後輪が横へ流れる。

 灰色帆の車が、橋の中央で九十度近く回った。

 左前が防輪材へ当たる。