第233話 第七章「由良の拒絶」前編

三月二十二日 午前六時十八分

 夜が明けると、捨てた食料は雪に見えた。

 鷹取由良は、橋の手前の岩へ立った。

 白い粉。

 白い塩。

 白い空袋。

 遠くからなら、どこまでが損失か分からない。

 近づけば、油の黒い筋と、車輪の跡がある。

 四十八袋。

 千九百二十キロ。

 数字は、景色より小さい。

 由良は赤索を左の人差し指へ巻いた。

 一周。

 二周。

 三周目へ行く前に、外す。

「代表署名を」

 背後で、蓑原梢が言った。

 昨日と同じ紙ではない。

 新しい紙。

 厚い。

 水に強い。

 上部に五つの寄贈団体章。

《残存援助物資・緊急一括管理委任書》

「嫌な言葉が増えた」

 由良。

「損失が出ました」

「見れば分かる」

「目録原本も奪われています。配布先ごとの確認を続ければ、さらに停止時間が増える。残存物資を一人の責任で管理する必要があります」

「どうして私」

「受け入れ側で、全経路を知り、各地区へ連絡でき、車列全体に同行している」

「迅も道を知る」

「受け入れ側ではありません」

「小麦は地区へ連絡してる」

「剛嶺側ではありません」

「私は剛嶺側全部じゃない」

「誰も全部ではありません」

「だから一人にするな」

 蓑原は紙を引かなかった。

「委任範囲は三十一日まで。配布完了後に失効。監査を受ける。永久権限ではありません」

「一日でも、私が行先を決める」

「決めなければ、次の袋も橋へ落ちます」

「脅し?」

「昨日起きたことです」

 由良は岩から降りた。

 止まった地面へ長く立つと、脚の内側がざわつく。

 歩く。

 蓑原もついてくる。

「あなたが署名すれば、寄贈団体は損失補填の審査へ入れます」

「署名しなければ?」

「責任主体不在として、補填を保留します」

「やっぱり脅し」

「制度です」

「制度が言えば脅しじゃなくなる?」

「私が作った制度ではありません」

「使ってる」

「使わなければ、車列が止まります」

「止めるのはあなたたち」

「保険が切れれば、運転手を走らせられない」

「運転手が決める」

「事故時の治療費を本人へ負わせて?」

 由良の足が止まった。

 蓑原は、止まったことを勝ちにしなかった。

 紙を差し出したまま、待つ。

 制度は、人の悪意だけで動かない。

 治療費。

 修理費。

 失った食料。

 責任の空白を埋めるために、一人の名を求める。

 その一人が、後で道を持つ。

「署名欄を三十六にして」

「多すぎます」

「地区が十一。各三人。運転側一。援助側一。記録一」

「意思決定できません」

「一人ならできる?」

「できます」

「間違っても?」

「責任を問えます」

「三十六人は問えない?」

「分散します」

「分散して何が悪い」

「誰も全体を引き受けない」

「全体って誰」

 蓑原は答えなかった。

 朝風が紙を鳴らす。

 由良は委任書を受け取らず、車列へ戻った。

 午前六時二十九分。

 土門小麦は、第六号車の横で空袋を数えていた。

 昨日数えた。

 今朝も数える。

「四十八」

 由良が言う。

「知ってる」

「減ってない」

「増えてもない」

「誰か持っていったら?」

「汚染袋。持っていった先で粉を使われたら困る。全部回収して印を切る」

 小麦は金の穂の印を鋏で切り抜いた。

 次に赤い太陽。

「何で印を切る」

「袋を洗って使う人が、寄贈団体の新品だと思わないように」

「袋は使う?」

「洗って、汚染物入れ。食料には使わない」

「捨てないんだ」

「捨てるにも場所と人手がいる」

 小麦は由良の手にあるものを見た。

 何もない。

「署名した?」

「しない」

「また?」

「また」

 鋏が止まった。

「補填、止まるよ」

「知ってる」

「運転手の治療費も」

「別の方法を探す」

「いつ」

「今日」

「朝飯は」

「干し肉一枚」

「食べたのは進歩」

「そこじゃない」

「ずっとそこ」

 小麦は切り抜いた印を鍋帳へ貼った。

 紙面に四十八の空欄がある。

 読めた荷札だけ、番号を書き込む。

「小麦。援助側が私へ一括管理を渡したいって」

「受ければ」

「本気?」

「今だけ」

「今だけ決めた道が、後に残る」

「残さない条件を書けば」

「条件を守らせる人が私になる」

「なら、誰ならいいの」

「一人じゃない」

「三十六人?」

「聞いてた?」

「車は壁じゃない」

 小麦は鋏を置いた。

「三十六人が集まるまで、何食止まる」

「無線で集める」

「全員、無線がある?」

「地区に一台は」

「話せる人が、その地区の代表になる」

「一人にしない」

「三人でも、無線の前に来られる人だけ」

「なら、来られない人のために保留欄を作る」

「保留してる間に腹が減る」

「急いで決めた人が、明日も決める」

「その台詞、昨日から何回目」

「必要なだけ」

「腹が減るって、私も何回言った」

「必要なだけ」

 二人の声が同じ高さになった。

 迅が少し離れた所で、包帯を巻き直している。

 凱は運転手の睡眠時間を聞いている。

 七瀬は撮影機を向けない。

 誰も仲裁しない。

 小麦は前掛けの紐をきつく結んだ。

「由良は、決めないことで手をきれいにしてる」

 由良の顎が上がった。

「何」

「私は代表じゃない。私は決められない。私は許可されてない。全部正しい。正しいまま、鍋は空」

「あなたは食べさせることで、人を従わせる」

「従わせてない」

「食事を持ってきて、今食べるならここへ並べって言う」

「列を作らないと配れない」

「列を作った人が、次は住所を聞く」

「私は聞かない」

「あなたの後に来る人は」

「それを止める条件を作ってる!」

「私も作ってる!」

「作ってない。断ってる!」

 小麦の声が、初めて荒れた。

 丸い声ではない。

 鍋底を金属で擦ったような音になった。

「断るだけなら、空席と同じ。誰かが勝手に座る!」

「座らせない!」

「どうやって!」

「道を止める!」

「また止める!」

「走らせたら奪われる!」

「止めても傷む!」

「傷んだ物は捨てる!」

「誰の分を!」

 由良の口が閉じた。

 小麦は鋏を握った。

 刃先が白くなる。

「昨日、四十八袋を切った」

「知ってる」

「私が切った。轟さんが必要って言った。車を守った。人を守った。全部正しい」

 小麦は、自分の右前腕を左手で掴んだ。

 古い油火傷の上へ、粉が残っている。

「でも、切ったのは私。受け取る人へ、まだ一人も謝ってない」

「謝れば戻る?」

「戻らない」

「なら」

「戻らないことを、誰の選択だったか言うの!」

「私は選んでない」

「そう。いつもそこにいない」

 由良の赤索が、指へ三周した。

 締まる。

 皮膚が白くなる。

「私は侵攻で道を選んだ」

 由良は言った。

「帰る道だと思った。自分たちが水を得る最短だと思った。地図へ線を引いた。線の先に他人の家があった。選んだら、道が人のものになる。だから、今度は選ばない」

「それは、反省じゃなくて反対側へ逃げただけ」

「何が分かる」

「食事を止めたことなら分かる」

 小麦の顔から、怒り以外のものが消えた。

「子どもの時、調理する人が倒れた。三日止まった。誰も代われなかった。みんな、その人が決めるから大丈夫だと思ってた。私は、誰か一人を必要にしないって決めた」

「なら、私を一人にするな」

「してない。あなたが自分から一人の反対側へ立ってる」

「署名しろって言った」

「三十六人を待つ前に、三人でも始めろって言ってる!」

「三人なら誰」

「今いる人!」

「いない人は」

「後から変える!」

「最初の配布で減った物は戻らない」

「戻らないから、全部止めるの?」

「全部とは言ってない」

「由良は、言ってないことを盾にする!」

 小麦は空袋を掴んだ。

 四十八枚が崩れる。

 白い布が二人の足元へ広がった。

「今ここにある人で始める。来られない人の分は保留する。保留した分を、来た人が取れないようにする。あとから変更できる。間違えたら、間違えた名前を書く。これじゃ足りない?」

「誰が三人を選ぶ」

「地区の人」

「無線へ来られない人は」

「一人は厨房。一人は商い。一人は、どっちでもない人」

「警備や医療は」

「地区で変える!」

「三人が同意しなかったら」

「その地区分は出さない!」

「それで腹が減る」

「知ってる!」

「なら、私と同じ」

「違う。出さない人の名前を、鍋帳に書く。次に変えられる!」

 由良は、足元の空袋を見た。

 金の穂が切り抜かれた穴。

 寄贈者名のない布。

 それでも、袋は残っている。

 中身はない。

 拒否だけでは、空白になる。

 空白は自由だ。

 空腹も、同じ形をしている。

「三人」

 由良が言った。

「地区ごとに」

「同じ役割にしない」

「地区が決める」

「一人は、配る仕事をする人」

「一人は、受け取る人?」

「受け取る人全員は無理。配布を拒める人。厨房と違う立場」

「もう一人」

「在庫か道を知る人」

「三人とも、同じ家族は禁止」

「同じ組織も」

「署名が揃わない時は」

「その地区の予定量を保留」

「保留場所」

「車両か、地区外の仮倉庫。保管者も三人で決める」

「由良は」

 小麦が訊いた。

「署名しない?」

 由良は赤索を指から外した。

「一人として入る」

「どの地区」

「私が連絡と経路を確認できる所だけ。剛嶺全部じゃない」

「一人分の責任は取る?」

「取る」

「やっと座った」

「椅子は嫌い」

「立って署名して」

 小麦は笑わなかった。

 由良も笑わない。

 和解ではない。

 二人とも、相手の正しさを好きになっていない。

 ただ、役割を変えた。

 由良は、断る人から、一人分だけ署名する人へ。

 小麦は、今すぐ配る人から、揃わない分を止める人へ。

 午前六時五十八分。

 由良は蓑原の所へ戻った。

 委任書は、まだ手にある。

「署名しますか」

「これにはしない」

「では」

「新しい紙。地区ごとに三人。全体代表なし。配布、保留、拒否を選ぶ。署名は変更できる。三人が揃わなければ、その地区分は保留」

「責任が分散します」

「そうする」

「寄贈団体が認めない可能性があります」

「認めない団体の荷は、別に止める」

「食料が減ります」

「止めると決めた団体名を出す」

「交渉になりません」

「今、してる」

 蓑原は紙を見下ろした。

「三人の要件を」

「地区が決める。ただし同一家族、同一組織だけで揃えない」

「本人確認」

「地区側と車列側で一人ずつ。どっちかだけにしない」

「署名できない人は」

「声、指印、結び目。方法を選ぶ」

「撤回期限」

「配布前まで。配布後は、残量分を変えられる」

「配った物は戻せない」

「だから、配った時刻と量を書く」

 蓑原の鉛筆が、長さ順から外れた。

 一番短い鉛筆を取る。

 新しい紙へ書き始める。

「この方式の提案者名」

「鷹取由良と土門小麦」

「共同?」

「違う」

「では、どう書く」

「由良案、地域別三名。小麦条件、未合意分保留。別々」

「一つの紙に?」

「一つにして、別々だと書く」

「面倒です」

「知ってる」

 蓑原は、初めて少し笑った。

「全員、今日それを言いますね」

 由良は答えず、最初の地区へ無線をつないだ。

「環水三号塔。三人を選んで。私が代表になる話じゃない」

『何の三人』

「受け取るか、保留するか、断るかを決める三人」

『誰を選べばいい』

「私に聞かないで」

 言ってから、由良は言い直した。

「選び方は一緒に考える。でも、名前はそっちで決めて」

 最初の返事まで、十一分かかった。

 由良は走らなかった。

 赤索を指へ巻かず、止まった地面で待った。

 午前七時九分。

 環水三号塔から、最初の候補が返った。

『配給庫の鍵を持つ沼代ケン。診療所の梅野。五階の住民代表、久我檻』

 由良は即答しなかった。

「三人とも、同じ警備会議へ出てる?」

『梅野は出てない。沼代は月一。久我は警備担当』

「久我が入ると、警備を断った階は話せる?」

『本人へ聞く』

 無線が遠ざかる。

 由良は地面へ座標を描いた。

 塔。

 診療所。

 配給庫。

 警備を拒んだ階。

 同じ建物の中でも、道は四つある。

 数分後、別の声が入った。

『久我。今回は署名しない』

「理由」

『私が入れば、警備継続の条件と混ざる。物資の外周警備だけ依頼されたら受ける』

「代わりを指名する?」

『しない。指名できる立場じゃない』

 回線が切れた。

 小麦が、少し離れた所で聞いていた。

「断るだけでも、空白になる?」

 由良は訊いた。

「今回は、仕事の範囲を言った」

「私より上手い?」

「今は」

「腹立つ」

「食べたら」

「干し肉一枚」

「二枚目」

 小麦が、薄い平焼きパンを投げた。

 由良は左手で取る。

「援助食料?」

「私の持参分。帳面に書いてある」

「代金」

「経路情報で払って」

「何の」

「旧軌道宿舎の外竈。風下へ煙を逃がす場所」

「食べたら見る」

「食べながら」

「止まって食べると食欲が落ちる」

「歩いていい。走るな」

「注文が多い」

「一食分」

 由良は歩いた。

 パンを半分食べる。

 脚のざわめきが、少しだけ静かになる。

 環水三号塔の二人目の候補は、五階に住むチカだった。

 まだ若い。

 自室の鍵を自分で回した日から、ほとんど外へ出ていない。

『私が、三人に入るんですか』

「嫌なら断って」

『断ったら、食料が来ない?』

「あなたが断った分は、別の人を選ぶ。食料を罰にはしない」

『久我さんは断ったのに、警備をするんですよね』

「外周だけ頼まれたら」

『私は、何をするんですか』

「受け取りを拒否できる。配る人と、警備する人が決めたことに、違うって言える」

『違うって言えなかったら』

「黙ってもいい。保留になる」

『みんなに待たれる?』

「待つ」

『怖いです』

「別の人にする?」

 長い沈黙。

『決めるまで、切らないで』

「切らない」

 由良は無線の前で待った。

 小麦はパンの残りを渡さない。

 由良が自分で食べるまで、見ている。

 四分後。

『やります。ただ、顔と部屋番号は公開しないで。名前はチカだけ』

「了解。署名方法は」

『鍵の音でもいいですか』

 由良は七瀬を見る。

「同じ鍵を他人が回せる」

 七瀬。

「声と一緒なら」

『声は出します。鍵を二回。自分の部屋で』

「本人確認は誰」

『梅野さん』

「車列側は私」

『あなた、剛嶺の人でしょう』

「そう」

『信じていい?』

「信じなくていい。私が確認したと記録して、後から間違いを問えるようにする」

『もっと怖い言い方』

「上手く言えない」

 小麦が無線へ顔を寄せた。

「鷹取由良は、嘘をつかない人じゃない。嘘をついたら名前を書かせられる人」

『鍋の人?』

「そう」

『じゃあ、少しだけ』

 由良は小麦を見る。

「今のは保証?」

「あなたの性格の説明」

「勝手」

「嫌なら訂正して」

「だいたい合ってる」

「なら食べて」

 午前七時四十二分。

 環水三号塔の三人は、沼代ケン、梅野、チカに決まった。

 全員の役割は違う。

 配給庫。

 医療。

 居住者の拒否。

 同じ組織ではない。

 ただし、三人とも塔の中にいる。

 塔の外で暮らす一時避難者は、含まれていない。

「不足」

 由良は書いた。

「何が」

 蓑原。

「塔外の人」

「三人署名は成立したでしょう」

「成立と十分は別」

「不足を理由に止めますか」

「止めない。塔外分を別枠で保留」

 蓑原の眉間が深くなる。

「保留ばかり増えます」

「勝手に配るよりいい」

「小麦さんは」

「怒る」

「分かっていて」

「怒られて変える」

 由良は小麦へ伝えた。

「塔内三人は決まった。塔外分は保留」

「何食」

「まだ実量が出てない」

「予定で」

「百二十」

「多い」

「知ってる」

「いつ選ぶ」

「今日中」

「何時」

「夕食前」

「十九時」

「十八時半」

「十八時」

「厨房に火が入るのは」

「十七時」

「じゃあ十六時半」

「今、朝七時」

「時間ある」

「あなたが言うと腹立つ」

「私も」