第478話 第九章「機械室」後編
右手を開く。
小指と薬指の動きは、朝と同じ。
古い痺れは増えていない。
新しい痛みは、左肩だけ。
午前九時十二分十九秒。
抵抗器十三番から、白い煙が上がった。
陶器が焼ける匂い。
「割れる?」
迅が立ちかける。
「座る」
イオ。
「煙」
「釉薬の油。温度は上限下」
「本当に」
「温度札、百七十八。上限二百」
言った直後、百八十一。
「上がってる」
「負荷が来た」
四十八本のうち、十二番から十六番が同時に白くなる。
真琴の通信。
『十二、胸部圧迫感。十三、指先痙攣。十四、意識あり。十五、測定拒否。十六、会話可能』
「十五、本人条件」
『数値測定を拒否。自分の言葉だけ伝える。今、続けていい。息が二回詰まったら止める』
「何で測る」
『本人の合図。呼吸一回ごとに指を上げる。二回連続で上がらなければ停止』
「受領」
中央実働隊の隊長が言う。
「医療値のない続行は認められない」
「本人が測定拒否」
「客観値が必要です」
「客観値を取るために拘束する?」
「安全確認です」
「安全の名で、本人条件を壊すな」
「事故が起きれば」
「続行を決めたのは私。本人の条件を受けたのは真琴。測定を拒否したのは本人。全部、別に残す」
「あなたは医療者ではない」
「機械側を止める担当」
イオは十三番の抵抗器へ手を伸ばさない。
温度札だけを見る。
百八十六。
「冷却風、三段」
実働隊の設備員E-4が言った。
「中央制御が二段へ戻しています」
「自動を切る」
「私が」
「命令は」
「作業停止。でも、抵抗器を焼けば設備損壊です」
「受領」
E-4が冷却盤へ向かう。
別の隊員が止める。
「班長命令!」
「盤を守るためです」
「停止作業へ協力するな」
「冷却は復旧作業でも必要です」
「詭弁だ」
「設備です」
二人が腕を掴み合う。
迅は間へ入らない。
入れば、誰がどの判断をしたか一つへまとめる。
「E-4」
イオが呼ぶ。
「冷却三段。誰の判断」
「私。設備保全」
「班長」
「中央自動へ戻す判断は」
班長は答える。
「中央設備統括の命令」
「氏名」
「非公開」
「勤務識別」
「統括A-1」
「二つ記録」
真琴が通信越しに復唱する。
『E-4、抵抗器冷却三段。設備保全。A-1、中央自動二段へ復帰指示。現在の現物温度、一八九』
「三段へ」
班長が腕を放した。
「一時的です」
「期限」
「抵抗器温度一六〇まで」
「受領」
冷却風が強くなる。
白い煙が横へ流れる。
四十八本の銀線が、風で揺れたように見える。
実際には、内部の液体が脈打っている。
真琴。
『十五、指が上がった。一回』
全員が次の一回を待つ。
機械室の音が大きい。
呼吸は聞こえない。
通信の向こうで、記録係が数える声も出さない。
十五の指。
二回目。
上がる。
『続行』
イオは時刻を書く。
九時十四分六秒。
その一行を書いている間に、二十一番の抵抗器が暗くなった。
「二十一、切れた」
迅。
「割れてない」
「電流がない」
「接点」
イオは右膝を曲げず、床を滑るように移動する。
接点の銀板が、振動で一ミリ浮いている。
「押さえる?」
「手で押さえたら、離せない」
「楔」
「絶縁材」
迅が工具箱を見る。
絶縁網が絡んだまま。
「網の柄」
「切るな」
若い隊員が言う。
「備品です」
「使う」
「破損扱い」
「費用」
「中央」
「勤務札」
「第三班、D-6」
隊員は自分で網の柄を外した。
敵側の装備。
今は抵抗器の接点を支える絶縁楔になる。
イオが長さを測る。
「二センチ切る」
「返せない」
「用途変更」
「受領」
D-6が自分で鋸を入れた。
迅が楔を打とうとする。
「右手?」
イオ。
「小さい打撃」
「能力発動後。左肩打撲」
「E-4」
中央設備員が槌を取った。
「私が」
「力」
「二回、軽く」
「接点は割れる」
「一回目、位置。二回目、固定」
「受領」
槌。
一。
銀板が接点へ戻る。
二。
楔が止まる。
抵抗器二十一番が、鈍い赤へ戻った。
設備員は槌を置く。
味方になった顔をしない。
「作業終了後、違法改変として報告します」
「して」
イオ。
「同時に、設備保全へ寄与と書く」
「両方?」
「両方」
「面倒です」
「正常」
午前九時十七分。
三十一番が一一八へ達した。
真琴の声が鋭くなる。
『本人、停止要求』
「抽出弁、止める」
イオは迷わない。
第一弁を戻さない。
さらに閉じる作業を止める。
「どれくらい」
「本人が再開を選ぶまで」
「抵抗器は熱い」
「冷却継続」
「決裁側から流入」
「凱が止めてる」
「止め切れなければ」
「今は待つ」
迅が隊長を見る。
実働隊も動きを止めている。
停止要求を、作戦全体の中止とは読まない。
三十一番一人の負荷を下げるための停止。
四十八人の一人。
数が小さいから、全体へ従わせない。
数が一だから、全体を無視しない。
九時十八分。
『三十一、一一六。本人、待つ』
九時十九分。
『一一四。再開条件、一一三以下で本人確認』
九時二十分。
一一三。
真琴はすぐ再開を訊かない。
『本人、呼吸を整える。次の質問時刻を本人が指定。九時二十二分』
二分。
機械室では、二分が長い。
抵抗器の温度。
決裁側の脈動。
警備隊の命令。
それでも、三十一番の二分を、誰も短くしない。
九時二十二分。
『本人、再開希望。上限一一六へ変更。理由、前の一一八は高すぎた』
「受領」
イオは時刻表の上限を書き換えた。
中央の安全値ではない。
本人が一度痛みを受けた後、自分で下げた値。
「再開」
抽出弁の閉鎖を、八分の一だけ進める。
この二分で、作戦は遅れた。
遅れたため、決裁側に時間を与えた。
それでも、本人が止めた時間を、冬城の攻撃と同じ損失欄へ入れなかった。
九時二十四分。
十三番の温度、一五九。
冷却を二段へ戻す。
E-4が記録する。
九時二十六分。
四十八人、意識確認四十七。
一人は睡眠中で、事前に指定した代行監視。
死亡、ゼロ。
治った者、ゼロ。
これ以上流れ込む量を減らしただけ。
迅は冷却布を左肩へ押し当てた。
「今、勝ってる?」
若い隊員D-6が訊いた。
「何に」
「設備に」
「設備は相手じゃない」
「冬城に」
「上に訊け」
「じゃあ、ここでは」
イオが答えた。
「壊してない。止め切ってない。四十八人は生きてる。九時二十六分の状態」
「勝敗なし?」
「記録にない」
D-6は、短くなった絶縁網の柄を見た。
「これ、返却不能」
「用途変更」
「勝利品じゃない?」
「請求書」
迅が言った。
隊員は少し笑った。
九時二十七分。
四十八本の銀線は、まだ天井へ続いていた。
切らないまま流れを減らし、一本ずつ状態を返す作業が続いた。
実働隊の若い隊員が、床の絶縁網を片づける。
「俺たち、敵ですか」
迅が見る。
「今は、盤へ触るな」
「答えじゃない」
「役割で呼ぶの、嫌いだろ」
「誰が」
「俺が」
「じゃあ名前」
「公開しない」
「なら、今はそれでいい」
若い隊員は網を畳んだ。
機械室では、敵と味方の区別より先に、触ってはいけない端子があった。
午前九時二十九分。
抵抗器二十四本のうち、二本が許容温度の上限へ近づいた。
完全停止まで、まだ決裁側の転嫁を切る必要がある。
イオは新しい抵抗器を入れない。
「予備は」
迅が訊く。
「八本。全部入れると、余裕ができる」
「入れろ」
「余裕があると、中央が決裁を続ける時間も伸びる」
「四十八人を守る」
「同時に、仕組みを長く生かす」
「どうする」
「二本だけ」
「残り六本」
「割れた時」
「判断は」
「私」
「一人で」
「機械担当。今は私」
「能力がないのに」
「機械は能力を見ない」
「人は見る」
「見てる」
イオは左前腕の真鍮装具を外さない。
能力があった頃の道具。
今の判断に、力は要らない。
要らないから、怖くないわけではない。
中央設備員E-4が、壁の保守庫から細長い金属箱を出した。
箱には、古い警告札。
《緊急作業者用・誓痕出力補助》
「何」
迅が訊く。
「短時間の再起動器です」
E-4が答える。
「誰へ」
「水科イオ。旧記録上、適合率が最も高い」
イオは箱を見ない。
「本人同意」
「今、確認します」
「反証」
「局所。中央記録では装着者へ返る設計」
「中央記録」
「現物検証は、未実施」
「四十八本と同じ線へ」
「非常電源は別ですが、接地は共通」
「使わない」
E-4は箱を閉じない。
「右腕が一時的に戻れば、予備抵抗器を同時に二本入れられます」
「二人で入れる」
「終業刻が戻れば、弁の停止時刻を固定できる可能性も」
「可能性」
「はい」
「使わない」
迅が箱を見る。
「俺が壊す?」
「壊さない」
イオ。
「今後、本人が選ぶ道具かもしれない」
「危ない」
「危険と記録する。破壊はしない」
「保管者」
「E-4」
「私ですか」
「出した人」
「中央備品です」
「今、持ち出した判断者」
E-4は少し迷い、勤務札を箱へ付けた。
「使用提案者、E-4。本人拒否。現物検証未了。接地共通」
イオが復唱する。
「次の使用」
「中央設備統括の許可」
「本人同意も」
「追加します」
「本人同意だけで、他人へ返らない証明にはならない」
「検証条件を追加します」
「今は封印」
E-4が箱を保守庫へ戻す。
鍵は一つ。
「二鍵」
イオが言う。
「今は一鍵しか」
「二つ目は機械室の地域作業者」
「中央設備に地域鍵を」
「今、街の機械を触った」
第三班長が、自分の予備封印帯を出した。
「私の帯を使います。開封時、中央と地域の二者確認」
「班長が地域?」
「違います。今は仮の第二保全者。地域担当到着まで」
「期限」
「本日十二時」
「受領」
危険な道具を壊さないことも、使える状態で放置しないことも、同時に必要だった。
箱が閉じられる。
イオは、戻るかもしれない右腕を見なかった。
見なかったから欲しくないのではない。
欲しい物ほど、誰が代金を払うか先に見た。
「再起動を受ければ、もっと早くできる?」
迅が訊いた。
「右腕が戻れば、二つの弁を同時に回せる。終業刻が戻れば、停止時刻を固定できるかもしれない」
「受ける?」
「受けない」
「怖くない?」
「受けたい」
イオは言った。
「だから受けない」
「矛盾」
「人は一つの欄に入らない」
「感染」
「全員」
「受けたいなら」
「戻った能力で止めたら、能力がある人だけが設備を止められる証明になる。それから、再起動の反証を誰が受けるか分からない」
「自分で受けるなら」
「自分だけで済む証明がない」
「済む証明が出たら」
「その時の私が決める」
「今は」
「拒否」
イオは予備抵抗器を二本だけ入れた。
温度が下がる。
決裁側の黒布管は、まだ脈打っている。
上階から、低い鐘のような音がした。
一度。
二度。
冬城の銀具。
決裁が始まる音。
迅は立とうとした。
イオが左手で肩を押さえる。
「任せる」
「凱に」
「凱と、署名した人に」
「冬城は強い」
「機械より?」
「人だから」
迅は座り直した。
回収炉の連結軸は、空転している。
拳が止めたのは、一本の軸だけだった。
街を止める仕事は、まだ上階の紙の上で続いていた。