第477話 第九章「機械室」前編
二月二十四日 午前八時五十六分
人を殴る時、拳は相手へ向く。
仕組みを殴る時、拳はどこへ向けばいい。
竜胆迅は、中央機械塔の地下七層で、答えを見失った。
天井から、銀の線が四十八本降りていた。
細い管。
光ではない。
透明な被覆の中を、灰色の液体と細かな銀粉が流れている。
四十八本は、円形の分配輪へ集まり、そこから二本へまとまる。
一本は中央抑制網。
一本は上階の決裁室。
決裁室へ続く管だけ、黒い布で覆われていた。
「見えるように隠してる」
迅が言った。
「何」
獅堂凱が訊く。
「黒い布。隠したいなら壁に入れる」
「見せる相手がいる」
「誰に」
「設備員。決裁者。ここへ入れる者」
「四十八人には」
「見せない」
凱は能力を使えない。
王路不退の気配もない。
左膝へ装具。
胸へ、元王でも指揮官でもない来訪札。
《停止案署名確認者》
「役が長い」
迅が言う。
「名前だけで通すよりいい」
「俺は」
《機械室作業補助》
「もっと短い」
「実態が短い」
「悪口か」
「褒めると聞かないだろ」
「流行ってる」
水科イオが二人の後ろから入った。
左前腕の真鍮装具。
左右違う靴。
右膝を完全には伸ばさない歩き方。
能力はない。
機械室の時刻表だけを持っている。
「八時五十七分十二秒」
「何」
「入室。予定より二分四十八秒早い」
「早いならいい」
「早い事故もある」
「縁起悪いな」
「時計は縁起を測らない」
イオは分配輪の前へしゃがんだ。
右膝が途中で止まる。
無理に曲げない。
床へ薄い板を置き、左膝だけを付く。
「銀具の同期線」
黒布の下へ触れない。
近づけた紙片が、微かに引かれる。
「磁気?」
凱が訊く。
「一部。液体は導電。銀粉が反証値を読む。分配輪が四十八本へ負荷を割る」
「均等」
「違う」
「何で」
「適応値。年齢。体重。誓痕痕。過去の耐性。中央が『耐えられる』と判断した人へ多く」
「昨日の十六歳」
「三・七倍」
「管を切る」
迅が言った。
「切れば」
「止まる」
「最後の圧が四十八本へ返る」
「先を閉じる」
「閉じた管へ溜まる。破裂する」
「分配輪を壊す」
「同じ」
「銀具側」
「冬城へ返る前に、輪が登録者へ逃がす」
「じゃあ何を止める」
「抽出弁。抵抗器。連結軸。三つ」
「順番」
「抽出を細くする。抵抗器へ負荷を移す。分配輪を空転させる。最後に連結軸を中立へ落とす」
「何分」
「理論、十一分四十秒」
「現物」
「分からない」
「感染」
「元から」
迅は黒い布の管を見た。
「冬城を止めれば」
「決裁側からの追加負荷は止まるかもしれない」
「殴る」
「それでも、現在の圧は残る」
「殴ってから機械」
「逆」
イオは迅を見た。
「先に機械。冬城が能力を使っても、四十八人へ送れない状態を作る」
「その間に使われたら」
「だから十一分四十秒」
「俺が決裁室へ行く」
凱が言った。
「一人で?」
「署名確認者がいる」
「名前が長い」
「役目は短い。二案へ署名させない」
「止められる?」
「分からない」
「二人とも感染した」
イオは時刻表を開いた。
「九時。開始」
九時零分。
第一抽出弁を八分の一閉じる。
機械室の音が変わった。
高い回転音の下へ、低い摩擦が生まれる。
銀の四十八本が、同時には動かない。
七番。
十九番。
三十一番。
先に脈打つ。
次に、残り。
「三十一、上昇」
イオが言う。
病院と四十八人の連絡所から、真琴が数値を読み上げる。
『三十一、脈拍上昇。意識あり。本人へ説明中』
「止める?」
迅が訊く。
「本人の条件」
『上限一二〇。現在一一二。続行希望』
「続ける」
イオが言う。
「本人が言った?」
「真琴」
『本人の言葉。続ける。ただし、一一八で停止』
「受領」
抽出弁を、さらに八分の一。
銀管の流れが遅くなる。
機械室の北扉が開いた。
中央実働隊。
八人。
盾。
短棒。
絶縁網。
前回の暖房機械室より装備が重い。
隊長が告げる。
「作業停止。中央決裁未了です」
「枝番一、受領済み」
イオが答える。
「決裁されていません」
「現場条件で開始」
「違法操作です」
「今、九時二分。三十一、一一四」
「作業を止めろ!」
隊長の合図。
二人がイオへ向かう。
迅が間へ入る。
最初の盾。
左肩に来る。
避ければイオへ当たる。
迅は肩で受けない。
盾の下端へ靴を当て、上端を左掌で押す。
盾を垂直から斜めへ寝かせる。
突進の力が床へ落ちる。
隊員の膝が曲がる。
迅は顔を殴らない。
肘を掴み、分配輪と反対側へ流す。
二人目の短棒。
右側。
右手で受けない。
半歩退く。
棒が胸前を通る。
手首へ左の指を掛ける。
引かない。
相手が戻す方向へ押す。
棒が盾へ当たる。
「味方を殴るな」
迅が言う。
「お前が動かした!」
「主語が戻った」
三人目が絶縁網を投げる。
迅ではなく、イオの左前腕。
真鍮装具を機械端子と誤認したのか、狙ったのか。
迅は網を掴まない。
床の工具箱を蹴る。
蓋が立つ。
網が箱へ絡む。
「二弁、四分の一」
イオは戦闘を見ない。
第二抽出弁は、床から一メートル下にあった。
通常は自動腕が回す。
中央制御を外した今、人間が保守穴へ降りなければならない。
イオは床板の留め具を外した。
「私が降りる」
「膝」
迅が言う。
「曲げない」
「穴、狭い」
「左脚から」
実働隊の一人が床板へ足を置いた。
「開口を閉鎖します」
「閉めたら、二弁へ届かない」
「作業停止命令です」
「今、止めると第一弁だけが絞られたまま。流量差で三十一へ集中する」
「中央制御へ戻します」
「連結軸が半固定。戻せば跳ねる」
「設備統括の判断を」
「現物は、今ここ」
イオは相手を押さない。
床板を外す手を止めない。
隊員が靴で板を踏む。
迅はその足を蹴らない。
隊員の盾の縁へ左手を掛け、身体ごと半回転させる。
盾が床板の上から外れる。
「板を守るな」
「違法作業を止めています」
「止めるなら、二弁を戻す人を出せ」
「中央が」
「名前」
「設備統括」
「ここへ降りる人」
答えがない。
イオは開口へ左脚を入れた。
右膝は伸ばしたまま。
腰を捻り、腕の力で身体を下ろす。
昔の右腕なら、一人で支えられた。
今は、左右の筋量差がまだある。
右手が滑る。
迅が手を出す。
「触る場所」
「左前腕の装具」
「外れない?」
「固定済み」
迅は真鍮装具を掴む。
能力の名残を、人を持ち上げる取っ手として使う。
「右膝、床へ当てるな」
「見えてる」
「下、油」
「匂いで分かる」
保守穴の中は、立てない。
イオは左膝を板へ置き、右脚を伸ばしたまま、第二弁の手動輪へ工具を掛ける。
「真琴、三十一」
『一一五』
「本人条件」
『一一八で停止』
「二弁、四分の一」
工具を回す。
重い。
能力があった頃なら、終了時刻を固定し、正確な秒で閉じられた。
今は、右腕の力が足りない。
イオは工具へ短い延長管を差す。
「規格外」
実働隊の設備員が言った。
「規格内の工具じゃ回らない」
「弁軸を折る」
「荷重上限」
「百二十」
「延長管なら百四十」
「私の体重と左手で百十六」
「計算した?」
「今」
「誤差」
「六」
「上限内」
設備員は止めなかった。
命令へ逆らったのではない。
現物の荷重計算へ答えた。
イオが工具へ体重を掛ける。
一度、滑る。
左前腕の装具が床へ当たり、鈍い音。
「能力、戻った?」
隊員の一人が反射的に訊く。
「金属音」
イオは答えた。
「光ってない」
「でも、装具が」
「道具。昔の」
「外さないんですか」
「今、その質問は弁を回す?」
「回しません」
「後」
弁が動く。
八分の一。
真琴の声。
『三十一、一一六』
「もう八分の一」
「待て」
迅が言う。
「隊長の盾、来る」
保守穴の上で、盾が振り下ろされる。
迅は身を避ければ、穴へ落ちる。
盾の面へ右手を当てない。
左肘と肩で角度を変える。
左肩へ衝撃。
痛みが走る。
盾は床板の端へ滑り、保守穴を塞がない。
「上、何秒」
イオが訊く。
「三」
「足りる」
もう八分の一。
第二弁、四分の一。
銀管の流れが細くなる。
真琴。
『三十一、一一五へ低下』
イオは工具を外した。
上へ戻る。
右膝が途中で固まる。
「待つ」
「何秒」
「分からない」
「初めてだな」
「黙れ」
迅は装具を引く。
設備員が、反対側の肘を支えた。
中央実働隊。
「命令は」
迅が訊く。
「作業停止です」
「今、助けた」
「保守穴への転落防止です」
「違う仕事」
「違う責任です」
イオは床へ戻った。
右膝を伸ばし、二度叩く。
動く。
痛みは残る。
「名前」
「設備員、勤務札E-4」
「荷重計算の確認者」
「私」
「記録」
真琴が通信越しに受領する。
命令に従う者の中にも、弁軸の上限を知る者がいる。
味方に変わったのではない。
現物を壊さない責任だけが、一瞬同じ側へ来た。
床へ戻ると、イオはまた目盛りだけを見る。
迅が一歩下がる。
攻撃から。
まだ能力の一歩ではない。
暴力の源が、人、命令、機械、時間の間を移る。
源を決められない。
「迅、左」
凱の声が通信器から入る。
迅は左へ避けない。
「何」
『決裁室側で同期圧が上がった。冬城が準備に入った』
「何分」
『署名が揃えば即時』
「揃った?」
『技術代表、中央が代行署名しようとしている』
「止めろ」
『止める』
凱の通信が切れる。
隊長が盾を振り下ろす。
迅は二歩退く。
今度は能力条件へ近い。
暴力の源は、隊長の腕か。
違う。
隊長が止まっても、同期圧は上がる。
三歩。
銀管が脈打つ。
暴力の源は分配輪か。
違う。
輪を壊せば四十八人へ返る。
「抵抗器、五番から」
イオが言う。
地域側から、一つずつ投入確認。
『五、受領』
『十二、受領』
『二十一、受領』
抵抗器へ負荷が移る。
透明な管の銀粉が、灰色から鈍い白へ変わる。
四歩。
絶縁網が足元へ来る。
迅は跳ばない。
足首を取られれば倒れる。
後ろへ退き、網の端を踏む。
投げた隊員の腕が引かれる。
迅は引き返さない。
五歩。
「七退一還を使うな」
イオが言った。
「まだ源が違う」
「分かってる」
「顔が分かってない」
「流行ってる」
「感染は後」
六歩目の前で、迅は止まった。
赤い七結びへ親指を当てる。
隊長の短棒が、左肩の打撲へ当たった。
痛み。
視界が白くなる。
迅は殴り返さない。
左膝を床へ付く。
短棒の二撃目を、背中で受けない。
工具台の下へ潜る。
打撃が台の縁へ当たる。
振動が連結軸へ伝わる。
軸の固定爪が、一段ずれた。
イオの顔が変わる。
「今の衝撃」
「何」
「軸が噛んだ」
「外す」
「今、触るな」
「止まらない」
「固定爪が半掛かり。回転中に外せば、軸が跳ぶ」
「何秒」
「次の回転谷、十八秒」
実働隊は止まらない。
隊長が工具台を蹴る。
台がイオへ滑る。
迅は床から立ち、台の横へ肩を入れた。
左肩。
痛みが増す。
それでも骨の音はない。
「肩」
「後」
「今、壊すと右手も使えない」
「右は使える」
「八割」
「知ってる」
イオは抵抗器の時刻を読む。
「十四秒」
迅は隊長を見る。
隊長の足は、分配輪を守る位置ではない。
中央制御端子へ向いている。
命令を遂行している。
冬城の命令。
だが、冬城を殴っても、半掛かりの爪は戻らない。
「十」
固定爪。
これが今、四十八人へ負荷を戻す危険の源だ。
人ではない。
機械でもない。
半端に掛かった状態。
「八」
迅は一歩退いた。
一。
隊長が追う。
盾。
二。
盾の角を避ける。
三。
短棒が床を打つ。
四。
網が通路を塞ぐ。
五。
連結軸の回転音が低くなる。
六。
迅の踵が、固定爪の正面線へ入る。
「三秒」
イオが言う。
七。
七退一還〈セブン・リターン〉。
退いた七歩の力が、身体へ戻る。
迅は隊長を見ない。
冬城のいる上階も見ない。
右拳を使わない。
左の掌底を、固定爪の解除板へ打ち込んだ。
衝撃は板から爪へ。
爪は外れるのではない。
設計された中立溝へ落ちる。
連結軸が、空転した。
金属の悲鳴。
銀の四十八本が、一斉に白くなる。
明日班の医療回線で、一人の若者の全身痙攣が小さくなった。
隣の寝台の若者は、同じように顎を震わせ続けた。
白くなったことは、全員が治ったことではない。
それでも、流れが変わったのは目で分かった。
「抵抗器!」
イオが叫ぶ。
二十四本へ負荷が流れる。
陶器筒が赤くなる。
一本。
二本。
三本。
割れない。
機械室の照明が落ちる。
非常灯。
実働隊も、動きを止めた。
何が起きたか分からない。
「抽出弁、閉鎖!」
イオ。
地域側の作業員が、三弁を順に閉じる。
一。
二。
三。
最後の弁は固い。
迅は能力発動後の左腕が痺れている。
触らない。
隊長が弁へ手を出した。
開けるためか。
閉じるためか。
迅は身構える。
「閉める」
隊長が言った。
「命令は」
「設備を守れ」
「止めるのは違反」
「軸が中立なら、開けた方が壊れる」
「名前」
「今か」
「今」
隊長は勤務札を外した。
名前を言わない。
本人公開は勤務識別まで。
「第三班長。閉鎖作業へ参加」
「受領」
迅と隊長は、一緒に弁を閉めなかった。
隊長が手動輪を回す。
迅は周囲の隊員が盤へ触れないよう立つ。
役割を分ける。
最後の弁が閉じた。
回収炉の抽出音が、一段下がる。
完全には止まらない。
惰性回転。
イオが時刻を読む。
「九時十一分五十二秒。抽出弁閉鎖。連結軸中立。反証負荷、抵抗器へ移行」
「四十八人」
迅が訊く。
真琴の声。
『三十一、一一七。上限前。七番、低下。十九番、横ばい。全員、現在意識確認中』
「止まった?」
『流入は減少。転嫁線はまだ生きてる』
イオは黒布の管を見る。
「決裁側が続いてる」
上階。
冬城。
「行く」
迅が言う。
「肩」
「動く」
「診断するな」
「ミソラに感染した」
「十八分、冷やす」
「その間に能力を使う」
「凱がいる」
「一人」
「元王を一人と数えない?」
「一人だ」
「なら、任せる」
「任せて、待てる?」
迅は答えなかった。
赤い七結びへ触る。
今使った力は、戻らない。
一巻に一度。
もう、拳で解けるものは残っていない。
イオが冷却布を投げた。
「座る」
「命令?」
「機械室作業補助への安全指示」
「役が短い」
「責任も短くしろ」
迅は座った。
左肩へ冷却布。