第476話 第八章「轟の手動切替」後編

「工具箱」

 鉄志が拾う。

 角が潰れている。

「誰の」

「工場」

「貸出票」

「ある」

「修理」

「俺」

「勤務外」

「今は発注先」

「請求しろ」

「箱のへこみまで?」

「へこみで蓋が閉まらん。運搬中に工具が落ちる」

 警備班長が、扉の近くに立っていた。

 命令は中止されていない。

 盤へ触れる経路だけがなくなった。

「我々の装備損傷も記録します」

 盾一枚の縁。

 短棒二本の擦過。

 絶縁手袋一組。

「原因」

 轟が訊く。

「職務執行中」

「何へ当てた」

「盾は床。短棒は、あなたの手袋と配電盤前の支持材」

「人への打撃」

「右肩一回」

「名前」

「私」

 班長は勤務札を示した。

 氏名の公開はしない。

「打った人と、命令した人が同じ?」

「同じです」

「楽だな」

「何が」

「記録が」

「痛みは」

「別」

 轟は右腕を横へ上げた。

 肩の高さまで。

 痛みはある。

 力は入る。

「診察」

 鉄志。

「後」

「休憩の四角」

「今、設備」

「人が先に壊れるって自分で言った」

「言葉を武器にするな」

「便利だから使う」

 地域保守の女性が、盤の下へ落ちた留め具を拾った。

「一本、曲がってる」

 中央同期端子の保護金具。

 戦闘の衝撃ではない。

 切替前から、古い亀裂があった。

「いつから」

「分からない」

「中央へ戻す時に使う金具だ」

「戻さないから不要?」

 若い実務者が訊いた。

「違う」

 轟は金具を取った。

「戻さない機械にも、戻せない状態を安全に保つ蓋が要る」

「中央同期端子は外しました」

「穴は残る。誰かが棒を差せば、接触する」

「封鎖する」

「溶接はしない」

「なぜ」

「後で監査できない。ボルト四本、二鍵、開封記録」

「再接続できる構造を残す?」

「接続するためじゃない。中を見て、壊れてないか確認するため」

「誰が鍵を持つ」

「地域機械担当と、水質担当」

「配給担当は」

「開ける理由を承認。鍵は持たない」

「三者が揃わないと」

「開かない」

「緊急時」

「一鍵でも破壊開放できる。その人の名と理由」

 班長が訊いた。

「我々が緊急に戻す必要がある場合」

「地域へ申請」

「中央命令なら」

「今、中央命令で壊しかけた」

 班長は反論しない。

「あなた方の命令が誤りだったと、まだ認定されていません」

「そうだ」

 轟は答えた。

「だから、正しかった記録にもしてない。盤へ届かなかった。右肩を打った。同期端子は外れた。今はそれだけ」

「切替の成功は」

「まだ分からん」

 暖房第二の末端温度が戻るまで、二時間掛かる。

 上水第三の濁度は、次の配給まで見なければならない。

 勝ったという言葉は、点検より早く現場へ来る。

 早い言葉は、人を片づけてしまう。

 轟は右肩へ冷却布を巻かれた。

 巻いたのは鉄志ではない。

 地域保守の女性。

「十八分」

「長い」

「抵抗器の冷却は二十五分」

「俺は陶器じゃない」

「陶器より高い」

「価みたいなことを」

「請求書、書いたから」

 右肩打撲の診察時間。

 工具箱修理。

 保護蓋。

 警備装備。

 暖房遅延で止めた染色布。

 切替作業の横に、壊れた物と人の一覧が増えた。

 地域時計は中央から三十七秒ずれている。

 その三十七秒の中で、修理と休憩が始まった。

 午後一時五分。

 中央監視塔から配置転換された元監視員が、暖房第二へ来た。

 名を公開しない。

 胸の札には《状態監査》

 九十六節点の監視網が見直されるまで、その映像を見ていた一人だった。

 今は、住民の顔を見ない。

 見るのは、弁の角度。

 圧力計。

 交代札。

 休憩時刻。

 警報灯。

「映像は」

 轟が訊く。

「使いません」

「使える?」

「見れば早いです」

「見ない理由」

「今日の監査範囲に、住民の生活は入っていない」

「異常があったら」

「設備係から状態だけ受ける。必要なら、その時に範囲を広げる同意を取る」

「誰へ」

「映る人と、運用担当」

「間に合わない時」

「見ます。緊急理由、開始、終了、保存しないことを記録します」

「見ないことを能力みたいにするな」

 元監視員が、轟を見る。

「能力じゃありません」

「なら、失敗する」

「します」

「見たくなる」

「なります」

「見たら」

「記録します」

「隠さない?」

「見なかった実績を仕事にすると、隠すでしょう」

「分かってるな」

「前に隠しました」

 元監視員は、四つの時計を机へ置いた。

 上水第三。

 暖房第二。

 病院東補助。

 中央。

 全部、違う時刻。

「同期させません」

「監査はどうする」

「時刻差を監査します」

「正しい時計は」

「ありません。各現場の打刻と、受領時刻の差が残ればいい」

「中央から見れば、ばらばらだ」

「ばらばらを異常と呼ばない仕事です」

 轟は四つの時計を見た。

 人の顔を見続けた者が、今は時計を見ている。

 逃げたわけではない。

 仕事内容を変えた。

 視線は、道具だ。

 置いたから善人になるわけではない。

 持ち方を決め直す仕事が残る。

「交代札」

 元監視員が言う。

 暖房担当の交代時刻が、五分過ぎていた。

「故障対応」

「だから交代できなかった」

「それを記録してください」

「安全優先だ」

「安全のために休憩を消した、と」

「言い方が悪い」

「事実です」

 轟は、鉄志を見た。

 鉄志が肩をすくめる。

「聞こえた」

「何も言ってない」

「顔が言った」

「顔は役職じゃない」

「もう飽きたぞ、それ」

 交代は七分遅れで行われた。

 遅れた理由。

 代わった人。

 休憩開始。

 次の交代を七分ずらすか、元の時刻へ戻すか。

 現場は、元へ戻さなかった。

 全員の休憩を七分削れば、時計だけが正しくなる。

 人の疲れは、時計へ従わない。

 午後三時四十分。

 上水第三で、最初の地域訓練が始まった。

 受講者は十二人。

 元配管工。

 共同浴場の番台。

 染色工房の補修係。

 病院の器械係。

 配送員。

 能力を失った元監視員。

 家で暖房弁を直していた老人。

 資格を持つ者だけではない。

 轟は、手動輪の回し方から教えなかった。

「止める理由を言え」

 十二人が黙る。

「壊れたら」

 一人が言う。

「何が」

「ポンプ」

「どこまで」

「軸受が熱くなったら」

「何度」

「分からない」

「触るな。温度札を見る」

「札が壊れたら」

「交代して測る。分からん時は止める」

「止めたら水が」

「予備水槽へ切り替える」

「水槽も空なら」

「配給担当へ渡す」

「誰が怒られる」

「止めた人」

「違う」

 轟は十二番の四角を示した。

「機械担当は、壊れると判断した範囲。配給担当は、残水の配り方。水質担当は、飲めるか。怒られるのは、後で決めるな」

「先に決める?」

「責任範囲を」

「それで事故が減る?」

「事故の後、全員が逃げるのを減らす」

「事故は」

「起きる」

 訓練室が静かになる。

 安全講習で、「事故は起きない」と言う者は多い。

 事故は起きると言う者を、人は不安に思う。

 不安は正しい。

 不安を消すための嘘は、事故の時に役に立たない。

「最初の交代は、俺が見る」

 轟が言う。

「二回目」

「地域担当」

「三回目」

「俺はいない」

「いつ帰る」

「明日の朝」

「不安だ」

「正しい」

「残って」

「残らん」

「何で」

「俺がいない時に回す機械だからだ」

 老人が手を上げた。

「壊したら、あんたを呼ぶ」

「呼べ。だが、止める判断は待つな」

「責任は」

「俺の図面が悪ければ俺。お前の操作が悪ければお前。分からない時に止めたなら、責める前に記録を見る」

「優しくないね」

「屋根は優しくない」

「でも、雨を止める」

「止めん。受ける」

 老人は笑った。

「細かい」

「構造だ」

 午後六時十八分。

 病院東補助の切替。

 ミソラは、患者十一人の条件票を持って立っていた。

 代替濾過器、四台。

 透析水、手動試験二回。

 薬剤冷蔵、三か所記録。

 局所加温費用、仮免除。

 代替刺激器、二台。

 夜間担当名簿。

 全部、揃ったわけではない。

 最後の一人。

 期限なしで「止めない」と言った患者の代替刺激器は、試験を通っていない。

「この区画だけ、中央補助を残す」

 轟が言う。

「できる?」

「細くする。回収炉とは切る。病院補助の地域線へ、旧中央電源を一台だけ残す」

「反証転嫁は」

「送らない。電力だけ」

「中央が許す?」

「許可は未了」

「違法」

「真琴の言葉だと、判断者を記録」

「轟は」

「設計した」

「止めない判断は」

「患者、ミソラ、設備係」

「私の名も」

「入る」

「入れて」

 ミソラは署名した。

「全部止めないと、作戦が不完全になる」

 轟が言う。

「不完全」

「嫌か」

「医療は、いつも不完全」

「建物もだ」

「同じにしないで」

「何で」

「建物は、痛いって言わない」

「床は泣く」

「比喩」

「俺には音だ」

 ミソラは少し考えた。

「じゃあ、同じじゃない。でも、聞き逃すと壊れるところは似てる」

「受領」

 病院東補助は、三つの小区画へ分かれた。

 一号、地域手動。

 二号、地域手動。

 三号、旧電源を限定継続。

 時計は、それぞれ違う時刻を刻む。

 午後六時二十一分十秒。

 十八秒。

 三十七秒。

 中央時計は、午後六時二十一分ちょうど。

 四つの時刻が、同じ壁に並んだ。

「揃えない?」

 病院設備係が訊く。

「揃えない」

「気持ち悪い」

「正しい」

「慣れる?」

「慣れすぎるな。毎回、差を確認する」

 元監視員が、四つの時計の差を記録した。

 誰の顔も見ない。

 内容ではなく、切替状態だけを見る。

 轟は機械室の入口で、右肩へ冷却布を当てた。

 左肩は、古い制限のまま。

 右肩は、新しい打撲。

 両方を同じ痛みとは呼ばない。

 鉄志が工具箱を閉じる。

「止めた後、誰が食う」

「地域保守十二人。暖房担当九人。病院設備六人。交代を入れて」

「賃金」

「価が仮計上」

「中央は」

「払うとは言ってない」

「止めた機械より、そっちが壊れるぞ」

「だから、残す」

「何を」

「未払い」

「記録で腹は膨れん」

「記録がないと、払わせる相手も消える」

 鉄志は納得しない顔で頷いた。

 納得と作業は、同じでなくていい。

 夜、五つの地域時計は、五つの違う秒を刻んだ。

 一つの中央時刻から外れた機械は、壊れたのではない。

 初めて、自分の現場の遅さで動いていた。