第475話 第八章「轟の手動切替」前編

二月二十三日 午前四時五十分

 再起動しない機械には、停止後の取扱説明書が要る。

 再起動する機械にも要る。

 違うのは、説明書の最後に「戻す」と書くか、「戻さない理由」と書くかだった。

 伏見轟は、上水第三地域手動所の床へ、白い四角を十二個描いた。

 一。

 受電。

 二。

 圧力。

 三。

 逆止め。

 四。

 抵抗器。

 五。

 手動輪。

 六。

 予備水槽。

 七。

 記録台。

 八。

 休憩。

 九。

 交代。

 十。

 故障部品。

 十一。

 連絡。

 十二。

 止める権限。

「八と九が、機械じゃない」

 地域保守の女性が言った。

「機械より先に壊れる」

「人が?」

「人が」

「十二は」

「誰が止めるか」

「中央」

「今日から違う」

「誰」

「今、決める」

 轟は十二番の四角を大きくした。

 横へ、三本の線を引く。

 水質。

 機械。

 配給。

「一人で全部決めるな」

「緊急時は」

「水質が危険なら水質担当。軸が焼けるなら機械担当。配給が足りないなら地域担当」

「意見が違ったら」

「止める側を優先」

「それで断水したら」

「止めた理由を名で残す」

「怖いね」

「止めない理由を隠すよりいい」

 鉞谷鉄志が、抵抗器八番を持ち上げた。

 昨日、タマキが運んだ耐熱陶器の筒。

「九・四キロ」

「知ってる」

「運んでない顔だな」

「タマキへ言え」

「言ったら料金を取られる」

「払え」

「親方へ言うか、それ」

「今は発注先」

「寂しいな」

「権限を返せと言う顔だ」

「言わん」

「能力は」

「使わん」

「炉心不落は、ここで便利だ」

「便利だから使うと、便利な奴がまた親方になる」

 鉄志は抵抗器を床へ置いた。

「俺は、作った。入れるのはここの人間だ」

 地域保守の女性が、鉄志を見る。

「失敗したら」

「作った責任は俺。入れた責任はお前。図面を読んだ責任は轟。止める判断は三人で分ける」

「責任を分けたら軽くなる?」

「軽くならん。誰の分か分かる」

 轟は頷いた。

「荷物も同じだ」

「建物の話にするな」

「責任は荷重だ」

「言ったそばから」

「見えないと床が抜ける」

 鉄志は補聴器を押さえた。

「今、何て」

「床が抜ける」

「その前」

「責任は荷重」

「聞こえた」

「じゃあ何で」

「もう一回聞くと、少し賢そうに聞こえる」

「便利だな」

「耳は便利じゃない」

 鉄志は笑い、咳をした。

 咳が止まるまで、誰も手動切替を始めなかった。

 休憩の四角は、飾りではない。

 切替前の模擬試験は、二度失敗した。

 一度目。

 中央信号を示す赤札が消えた瞬間、地域保守の女性が手動輪へ飛びついた。

「早い」

 轟が止める。

「信号が落ちた」

「三十秒待つ」

「水圧が下がる」

「下がるか見るための三十秒だ」

「本番で、待って断水したら」

「待たず逆流させたら、配管が割れる」

「どっちを選ぶ」

「今は試す」

 木製の模擬輪を元へ戻す。

「失敗理由」

「焦った」

「違う」

「何」

「赤札が消えたら回せ、と昔の訓練で覚えた」

 女性が黙る。

 中央自動制御の訓練。

 警報が消えたら復旧動作。

 中央へ合わせることが安全だった時代の身体。

「焦りじゃない。古い手順が残ってる」

 轟は白い四角の横へ、新しい欄を書いた。

《やってしまう旧動作》

「こんなのまで書く?」

「身体は、図面より古い」

 二度目。

 三十秒は待てた。

 水質担当が試験紙を浸し、色を読む。

「許容」

 地域保守が手動輪を回す。

 その時、配給担当が叫んだ。

「第五区、朝の配給開始まで十二分!」

 全員の手が速くなる。

 模擬圧力計が赤へ入る。

 鉄志が木槌を床へ落とした。

 音。

 全員が止まる。

「今の失敗」

 轟が訊く。

「急いだ」

「何で」

「配給」

「配給が遅れると」

「待ってる人が怒る」

「水がなくなる?」

「十五分なら、地域水槽がある」

「誰も言わなかった」

 配給担当が唇を噛む。

「怒られるのが怖かった」

「名前へ書く?」

「怖かった、を?」

「配給開始遅延の判断理由。住民苦情への不安」

「恥ずかしい」

「機械が壊れた方が恥ずかしくない?」

「壊れたら、機械のせいにできる」

 鉄志が笑わなかった。

「できるな」

「認めるの」

「俺も、工員を急がせた時は炉のせいにした」

「じゃあ、どうする」

「配給へ先に知らせる。十五分遅れる。水槽残量。次の更新時刻」

「誰が言う」

「配給担当」

「怒鳴られたら」

「受ける人を二人にする」

「苦情係まで図面に入れる?」

「入れる」

 轟は八番の《休憩》と十一番の《連絡》の間へ、細い線を引いた。

《遅延説明》

「機械の手順じゃない」

「人が急いで機械を壊すのを止める手順だ」

 三度目。

 赤札が消える。

 三十秒待つ。

 配給担当が、模擬連絡板へ書く。

《開始十五分遅延。水槽残量七十八パーセント。次報五時四十分》

 水質担当。

 機械担当。

 配給担当。

 三人が別々に確認する。

 手動輪は、予定より四十三秒遅れて回った。

 模擬圧力は許容内。

「成功?」

 地域保守の女性が訊く。

「模擬では」

「本番は」

「失敗するかもしれん」

「励ます気ないね」

「失敗した時、戻す位置は決めた」

「戻せない時」

「止める」

「誰が」

「十二番」

 三本の線。

 水質。

 機械。

 配給。

 中央の一人へ電話する代わりに、現場の三人が、自分の範囲で止められる。

 模擬試験の不合格票二枚は捨てなかった。

 一枚には古い身体。

 一枚には怒られる恐怖。

 どちらも、本番の配管へつながっていた。

 午前五時二十二分。

 上水第三の中央自動制御を外す。

 順番は、十二段階。

 一、地域水槽を七十八パーセントまで満たす。

 二、予備水槽の濁度確認。

 三、中央補償器からの信号を模擬負荷へ逃がす。

 四、抵抗器八番を組み込む。

 五、手動輪を半回転。

 六、中央圧力弁を四分の一閉鎖。

 七、地域弁を八分の一開放。

 八、三十秒待つ。

 九、音を聞く。

 十、圧力を見る。

 十一、水質を取る。

 十二、戻すか進むかを三者で決める。

「八番」

 轟が言う。

 全員が手を止める。

 三十秒。

 機械の音を聞く時間。

 中央施設では、待つことを自動制御が代わりにやっていた。

 地域では、人間が待つ。

 待つ人間には、焦りも、耳鳴りも、昨日の失敗もある。

 鉄志は右耳の補聴器を外した。

「外すのか」

 轟が訊く。

「高い音が多すぎる」

「警報」

「灯で見える」

「聞こえない時は言え」

「今、聞こえない」

「受領」

 轟は赤灯の担当になる。

 地域保守の女性は圧力。

 水質担当は試験紙。

 三十秒。

 二十。

 十五。

 床から、低い振動。

 轟の足裏へ来る。

 中央の回転と、地域ポンプの回転が、まだ同じ拍子を打っている。

 十。

 違う。

 地域側が半拍遅れた。

 鉄志が指を一本上げる。

 異常ではない。

 分離の始まり。

 五。

 圧力計が一目盛り下がる。

 水質担当が、まだ見るなと手を出す。

 ゼロ。

「九番」

 音。

 鉄志は床。

 轟は配管。

 地域保守は軸受。

「十番」

 圧力。

 許容内。

「十一」

 水質。

 濁りなし。

 消毒残留、下限より少し上。

「十二」

 三人が別々に答える。

「進む」

「進む」

「進む」

 地域弁をさらに開く。

 中央弁を閉じる。

 一本の水が、中央の拍子から外れた。

 ポンプ室の時計は、午前五時二十四分十四秒。

 中央の予定表では、午前五時二十四分ちょうど。

 十四秒ずれた。

 轟は直さない。

「時刻ずれ」

 中央の若い実務者が言った。

「記録する」

「同期してください」

「しない」

「計画時刻と違います」

「現物が十四秒遅い」

「中央記録へ合わせないと、他地域と」

「合わせると全部落ちる」

「理論上は」

「現物で一回、圧差が出た」

「中央補償器が修正します」

「その補償器から外した」

「では、全体管理が」

「地域管理へ移った」

「管理責任者は」

 轟は十二番の四角を示した。

 三本の線。

 水質。

 機械。

 配給。

「一人じゃない」

「中央書式に入りません」

「真琴へ言え」

「書式を増やします」

「感染したな」

 実務者は少しだけ笑った。

 自分で笑ったことに驚き、すぐ顔を戻した。

 午前七時十六分。

 暖房第二地域。

 切替は、水より難しかった。

 暖房は、人が止まっている間にも冷える。

 止めた後、配管内の温水がどちらへ縮むかで、次に開く弁が変わる。

 工場のように、全員を一度外へ出してから止められない。

 五百三十二世帯。

 病院別棟。

 共同浴場。

 保育室。

 染色工房。

 食堂。

 同じ黄線の先にある。

「二度下がる」

 轟が言う。

「平均で」

 暖房担当が答える。

「端の住戸は」

「四度」

「保育室」

「補助ストーブ」

「燃料」

「六時間」

「次」

「運搬中」

「受領」

「未確認」

「切り替えない」

「予定が遅れる」

「子どもが冷える」

「中央から、計画遵守を」

「中央を暖炉に入れるか」

 鉄志が言った。

「比喩ですか」

 若い実務者が訊く。

「燃えるなら役に立つ」

「人を燃料にする表現は」

「反証転嫁への皮肉だ」

「分かりにくい」

「聞こえにくいよりましだ」

「何て」

「自分で言っただろ」

 燃料到着は、午前八時十一分。

 中央計画より五十五分遅れ。

 その間、轟は何もしないのではない。

 住戸ごとの温度計を確認。

 保育室の窓を二重布で塞ぐ。

 浴場の湯を、配管保温へ一部回す。

 染色工房へ、今日は蒸し工程を止めるよう依頼。

 工房の責任者が怒る。

「今日止めた布は、明日売れない」

「補償」

「誰が」

「停止費」

「まだ予算がない」

「未払い記録」

「それで飯が食える?」

「食えん」

「じゃあ止めない」

「保育室が四度下がる」

「工房にも子どもがいる」

「何人」

「七人」

「今日の賃金」

「一人四単位」

「二十八。材料損失」

「十一」

「三十九」

「価へ出す」

「払われる保証」

「ない」

「正直だね」

「嘘で温めるか」

「布は温まらない」

 工房責任者は、今日の蒸し工程を止めた。

 納得したのではない。

 補償請求へ自分の名を書いた。

 轟は、その署名を暖房切替の成功記録へ混ぜなかった。

 損失記録へ置いた。

 安全にしたことで、生活が傷ついた。

 両方が同じ日へ残る。

 午前九時三十分。

 暖房第二の切替を始める直前、中央警備が機械室へ入ってきた。

 六人。

 盾。

 短棒。

 絶縁手袋。

 班長が命令書を上げる。

「中央一括同期へ戻します」

「理由」

 轟が訊く。

「地域時刻のずれにより、全体安定性が低下しています」

「ずらしてる」

「規定外です」

「合わせると全停止する」

「中央補償器が制御します」

「今朝、外した」

「無断変更です」

「受領番号、枝番三」

「決裁未了です」

「現場は始まってる」

「退いてください」

「配電盤へ触るな」

 班長が手を上げる。

 警備員二人が左右へ分かれた。

 狙いは轟ではない。

 配電盤。

 中央同期端子へ鍵を差せば、地域切替を上書きできる。

 轟は盤の前へ立った。

「人を殴るなら、外でやれ」

「退避してください」

「盤を殴るな」

「あなたを退かせます」

「なら、俺だけに来い」

 言った瞬間、左胸の誓痕が僅かに熱を持った。

 一人門。

 使わない。

 能力で一対一へ固定すれば、他の五人が盤へ向かう理由を消せない。

 轟は普通に両腕を広げた。

 左肩は頭上へ上げない。

 肘を胸の高さ。

 足は盤から四十センチ前。

 最初の盾が来る。

 正面から受けない。

 右手で盾上端を押し、腰を半歩ずらす。

 盾の角を床の白い四角へ落とす。

「そこ、踏むな」

 警備員の足元。

 抵抗器の仮配線。

 警備員が反射的に足を上げる。

 轟はその膝を押さない。

 盾だけを回す。

 一人目が横へ流れる。

 二人目の短棒。

 左肩へ来る。

 轟は左腕で受けない。

 右前腕の厚い手袋で角度を変える。

 棒が盤へ向かう。

 轟は背中を盤へ付け、棒と盤の間へ手袋を挟んだ。

 衝撃が手の骨へ入る。

 盤は鳴らない。

「盤へ当てるな」

「あなたが避ければ」

「避けた先が街だ」

 第三の警備員が、床を蹴る。

 鉄志が横から工具箱を滑らせた。

 足元へではない。

 進路の先へ。

 警備員は工具箱を踏まないよう飛ぶ。

 着地位置が白い四角の外へずれる。

 地域保守の女性が、手動輪の長柄を引く。

 長柄は武器ではない。

 床へ水平に置き、機械室と配電盤の間に境界を作る。

「ここから先、設備作業区」

「退け!」

「名前」

「勤務中だ」

「だから名前」

「中央警備第三班」

「個人」

 班長が短棒を振る。

 轟の右肩。

 当たる。

 鈍い。

 右肩の古い打撲は、もう治っている。

 今の一撃は新しい。

 腕は上がる。

 骨ではない。

 自分で診断しない。

「鉄志。右、少し落ちる」

「聞こえた」

「代われ」

「俺は盤前に立たん」

「何で」

「立ったら親方に戻る」

「今は作業員だ」

「だから、横から支える」

 鉄志は轟の代わりに前へ出ない。

 配電盤の下へ、支持材を入れる。

 盤そのものを守る。

 轟の体一つへ安全を集中させない。

 地域保守の二人が左右を埋める。

 暖房担当が停止記録を読み上げる。

「中央同期を戻せば、上水第三と暖房第二の位相差が四十七秒。補償器は全停止を選ぶ可能性」

「中央は安全と判断しています」

「判断者名」

「冬城決裁者」

「現場確認者」

「中央設備統括」

「氏名」

 班長が答えない。

 轟は盾を押し返さない。

「名前のない安全で、盤を触るな」

 警備員の一人が、短棒を下げた。

「班長」

「命令続行」

「全停止したら、病院も落ちます」

「中央が責任を」

「中央って誰です」

 若い警備員の声が揺れる。

 班長が睨む。

「勤務命令だ」

「受領者、俺です」

「なら従え」

「俺の名で盤を戻すんですか」

 班長は答えなかった。

 轟は、その間に手動輪を半回転させた。

 暖房第二の中央同期端子が、物理的に外れる。

 もう鍵では戻せない。

 戻すには、配管を止め、地域の許可を取り、抵抗器を外し、再試験が要る。

「無断切替!」

 班長が叫ぶ。

「受領番号、枝番三」

「決裁されていない!」

「現場三者が決めた」

「違法だ!」

「名前を付けろ」

 轟は言った。

「安全か、違法か、両方残す」

 警備員たちは、盤へ届かなかった。

 倒された者はいない。

 盾を持つ腕が痛み、轟の右肩が腫れ、工具箱の角が凹んだ。

 暖房第二の時計は、午前九時四十二分三十一秒で、中央から三十七秒ずれた。

 配管の音は、一度低くなった。

 その後、地域の拍子で回り始めた。

 切替の直後、轟は成功確認をしなかった。