第47話 第十章「百人目」前編

七月二十七日 午後四時三十一分

 荷物は、運べば届く。

 人の意思は、届いた後で行き先を変える。

 環玉樹は旧第二体育館の用具口で、鉄箱の中身を一つずつ声に出した。

「音声端子、一。手回し発電機、一。銅線、二百十メートル。接続口、雄二、雌三。予備ヒューズ、四。絶縁布、二巻。番号札、九十七。工具、圧着、切断、ねじ回し。水、五百。塩パン、二個」

「塩パンは機材か」

 迅が訊いた。

「小麦が入れた。僕が空腹で倒れると、機材も届かない」

「一個食え」

「出発前に?」

「今」

「時間」

「二分」

「食べるのに三分」

「噛め」

「急いで食べると四分」

 迅は言い返さなかった。

 タマキは塩パンを一個取り出し、袋ごと上着の胸へ差した。

「走りながら食べるな」

 小麦が台所口から怒鳴る。

「まだ食べてない」

「病院まで持っていくと潰れる」

「鉄箱の外」

「胸で潰れる」

「じゃあ一口」

「全部」

「時間」

「食べずに倒れる時間の方が長い!」

 タマキはパンへ噛みついた。

 塩が強い。小麦は急ぐ人へ、喉が渇く味を渡さないはずだ。今日は本人も疲れている。

「しょっぱい」

「水飲んで」

「小麦が間違えた?」

「味は間違える!」

 議場の怒号より大きい返事だった。

 タマキは笑いそうになり、口の中のパンで咳き込んだ。

 七瀬が背中を叩こうとして止める。

「撮影しません」

「咳は事件じゃない」

「確認です」

 彼女は小型の音声計を鉄箱の蓋へ固定した。左肩を使わず右手だけでねじを締めるため、作業がいつもより遅い。

「映像端子は外しました」

 七瀬が言う。

「何で」

「九十七番本人は処置後です。病室を政治の映像にしない。音声も本人の許可後に接続」

「途中の道は撮る?」

「固定機が議場を記録します。あなたは運搬記録票へ時刻を書く。襲撃や事故があれば、現場証者を取る」

「証者が敵しかいなかったら」

「敵という区分を書かず、氏名と行為を」

「名前を言わなかったら」

「外見でなく、服、道具、位置、時刻」

「僕が忘れたら」

「帰ってから、分からないと書く」

「映像があれば早い」

「早いです」

「じゃあ何で」

「患者が払うから」

 七瀬は音声計の針を指で弾いた。

「あなたが機材を運ぶ姿を撮れば、見せ場になります。病室へ駆け込む映像も。九十七番の顔がなくても、窓、階、看護師の制服で病室は特定できます」

「見せ場って、会議にいる?」

「欲しがる人はいます」

「七瀬も?」

 七瀬の口元が水平になった。

「はい」

 タマキは彼女を見た。

「正直」

「だから外します」

「撮りたいから撮らない?」

「撮りたい自分が、必要だと理由を作る前に」

 タマキは映像端子の空いた穴へ指を入れた。

「軽くなった」

「四百八十グラム」

「僕が運ぶのも軽い」

「記録は少なくなります」

「全部持たなくていい」

「今の言葉は」

「料金取る」

「会議経費」

「もう飽きた」

 七瀬は少しだけ笑った。

 クランクを半回転、逆へ戻す癖は、固定機から離れているのでできなかった。

「経路確認」

 澪が地図を床へ置いた。

 左手を壁へ触れ、右耳の補助具は外している。重要な道具を聞こえる左側へ寄せた姿が、先週より自然になっていた。

「体育館東用具口。旧校舎一階。中央階段は群衆二十七、通行不可。北階段は窓破損。西階段は帰路専用。屋上放送線へは、理科棟外階段」

「屋上、風」

「西六メートル。突風九。鉄箱を身体へ二点固定。銅線を先に投げない」

「病院まで全部屋根?」

「旧校舎屋上から北連絡橋。そこから地上の医療路。最後百八十メートルを病棟外壁の保守線へ接続」

「追ってくる人」

「確認十一。目的未確認。白い腕章七、白布三、無印一」

「みんな敵?」

「行為で判断。機材へ触れる、進路を塞ぐ、身体を押す。腕章では決めない」

「帰り」

「同経路は使わない。病棟へ機材を引き渡し、北医療路を地上帰還。日没十八時四十三分。十八時十五分までに病棟着を目標」

「危険時」

「中止」

「誰が決める」

「現地のタマキ」

「会議が九十九のままでも」

「中止」

「患者が待ってても」

「中止」

「機材だけ投げれば届く時」

「受取人と用途を確認できなければ中止」

「復唱。僕が危ないと思ったら中止。会議が止まっても。患者が待ってても。箱だけ届くのは届いたことにしない」

「確認」

 澪は一番小さい笛を握り、吹かなかった。

「進行笛一。停止二。帰還三。ただし右耳不調。笛だけで判断せず、光札も見る」

「澪は来ない?」

「西橋の帰路を離れない」

「迅は」

「投票箱」

「轟は」

「用具口」

「凱」

「議長」

「七瀬」

「固定記録」

「真琴」

「委任確認」

 タマキは鉄箱を背負った。

「僕だけ?」

「一人じゃない」

 迅が言った。

 タマキが睨む。

「誰」

「道を作った人がいる」

「それ、一人で行く人に言う大人の言葉」

「そうだな」

 迅は言い直した。

「走るのはおまえ一人。途中の扉を開ける人、線を受ける人、病棟で待つ人は別にいる。誰もいなかったら戻れ」

「分かった」

「タマキ」

 迅が名前を一度だけ呼ぶ。

「箱より先に戻れ」

「箱を置いたら患者の声が」

「箱を置く判断も、おまえの仕事だ」

「迅なら置く?」

「今聞くな」

「今しかない」

 迅は右親指で赤紐を押さえた。

「人を取る」

「箱は」

「あとで拾う」

「会議が負ける」

「人が落ちたら、勝ってない」

 タマキは頷いた。

「行く」

 午後四時三十七分。

 澪の笛が一声、鳴った。

 東用具口から理科棟外階段まで、最短で百四十六メートル。

 タマキは最短を使わなかった。

 最短路の中央廊下には、倒れた鉄柵と、互いを押し返す二つの集団がいる。肩幅の狭いタマキなら抜けられるが、鉄箱は抜けない。箱を横にすれば、端子が折れる。

 だから給食室裏の配膳廊下へ入った。

 床は濡れている。

 薄粥を運んだ台車の車輪跡。洗い場から出た水。塩漬け大根の切れ端。

 タマキは右足を半歩短くする。右靴は半サイズ大きく、中敷きが二枚。濡れた床で踏み込むと、箱の重さが踵から抜ける。

 鉄箱の重量、二十七・四キロ。

 いつもの配達物より重い。

 重い荷物は、速く走るより止まれる速度を選ぶ。

 後ろで足音が四つ。

「待て!」

 待つ理由がない呼びかけだった。

 タマキは止まらない。

 配膳廊下の角へ《四一》の番号札を一枚落とす。

 追ってきた男が拾う。

「こっちだ!」

 四十一番教室へ向かう矢印が札の裏にある。午前の受付誘導で使ったものだ。

 二人が右へ曲がる。

 残り二人はタマキを見る。

「番号が違う!」

 賢い。

 タマキは《九七》を鉄箱の内側へしまってある。

 外へ出していない。

「その箱を止めろ!」

「誰から誰へ何のため!」

 走りながら叫ぶ。

「会議を守るためだ!」

「会議って誰!」

「全員だ!」

「全員の名前!」

 答えは来ない。

 配膳廊下の先で、蒸気が上がる。

 小麦が第二鍋の蓋を開けていた。

「通る!」

 タマキが叫ぶ。

「何秒!」

「三!」

「二で来て!」

 小麦が木べらで床の排水板を跳ね上げる。

 タマキは一、二で踏み切った。

 排水溝を越える。

 三秒目、追手の一人が同じ場所へ来る。小麦は板を戻さない。代わりに鍋の蒸気を廊下へ流した。

「熱い!」

「六十度。火傷しない。止まるには十分!」

「妨害だ!」

「台所の換気!」

 小麦は嘘をついた。

 換気方向は逆だった。

 タマキは後で記録へ書くつもりで、時刻を覚えた。

 四時三十八分二十秒。

 理科棟へ入る扉は閉じている。

 白布の帯を巻いた荷役員が待っていた。

「受取人、環玉樹?」

「送り主は会議。目的は九十七番の音声」

「合ってる」

 扉を開ける。

 タマキが通る。

 荷役員は閉めず、自分も後ろへ下がった。追手を閉じ込めない。扉を押さえ、同じ質問をする。

「誰から誰へ何のため」

「うるせえ!」

「答えないなら通さない」

 追手の一人が荷役員へ突進する。

 タマキは振り返りかけた。

「行け!」

 荷役員が叫ぶ。

 これは命令か。

 自分で引き受けた仕事の範囲か。

 タマキは一秒だけ迷い、走った。

 後ろで身体が扉へ当たる音。

 誰かが倒れた音はしない。

 助けに戻るかは、音で決めない。

 けれど、戻れば音声端子が届かない。

 タマキは鉄箱の留め具を鳴らした。

 怖い時の癖。

 走り続ける。

 理科棟外階段は、三階から先が崩れていた。

 予定では二階踊り場から保守梯子を使い、屋上へ出る。

 梯子がない。

 壁に掛けてあったはずのアルミ梯子は、下へ落とされ、脚が曲がっている。

「変更」

 タマキは運搬票へ時刻を書く。

《十六時四十分。理科棟二階。保守梯子使用不能。判断者、環玉樹》

 代替は三つ。

 一、中央階段へ戻る。群衆あり。

 二、外壁の排水管を登る。箱が重い。

 三、配膳用昇降機の保守孔から屋上機械室へ上がる。

 昇降機は人用ではない。

 だが、籠は停止している。保守梯子が内側にある。鉄箱を先に索で上げ、自分が後から登れる。

 誰が上で受ける。

 いない。

 箱を一人で先に上げると、受取人がいない。

 迅に言われた。

 誰もいなければ戻れ。

 タマキは昇降機の上を見た。

 暗い。

「上、誰かいる!」

 返事なし。

「受取人名!」

 返事なし。

 鉄箱の中の端子は、ここで置く荷物ではない。

 タマキは三を消した。

 二、排水管。

 排水管は壁から二十センチ離れ、支持金具が一メートルごと。体重三十九キロと箱二十七キロ。合計六十六。古い金具が持つ保証はない。

 壁を叩く。

 轟のように材質を音で当てられない。

 でも、上から錆水が垂れていない。金具周りの壁にひびなし。一本ずつ体重を預ければいけるかもしれない。

 箱を背負ったままは無理。

 索で腰へ下げる。身体の下へ来ると壁へぶつかる。

 タマキは鉄箱から銅線の巻きを一つ出した。

 十三キロ。

 箱の総重量を十四キロへ減らす。

 銅線巻きはどうする。

 置けば百八十メートル足りない。

 別経路を探すしかない。

 タマキは配膳廊下から押してきた小型の食器回収車を見た。小麦が追手を止めた後、調理補助が「使える」と押してきたものだ。車体に低い棚、側面に取っ手。

 銅線巻きを車へ載せる。

 車の取っ手へ長い索を結ぶ。

 屋上まで排水管を登った後、索で巻き上げる。

 上で受けるのは自分。

 荷物より先に自分が行く。

「受取人、環玉樹」

 タマキは自分へ確認した。

「送り主、今の環玉樹。目的、上の環玉樹へ銅線」

 変な言い方だった。

 でも、分からないままよりいい。

 鉄箱の肩紐を胸と腰へ二点固定する。

 排水管へ右足。

 支持金具が少し鳴る。

 左手。

 右手。

 火傷で皮膚移植した左首が肩紐に擦れる。帽子が壁へ当たり、ずれる。左側頭部の薄い髪と赤い痕が風へ出る。

 隠すかどうかは、自分で選ぶ。

 今は両手を使う方を選ぶ。

 一メートル。

 二メートル。

 二階踊り場が下へ離れる。

 追手の足音が近づく。

「いたぞ!」

 男が踊り場へ出る。

 白い腕章。朝、受付にいた者ではない。右手に棒、左手に《会議保全》と書いた札。

「降りろ! 屋上線は公共設備だ!」

「九十七番へ使う!」

「無断転用だ!」

「委員会三人承認!」

「紙を見せろ!」

「鉄箱の内側!」

「今出せ!」

「落ちる!」

 男は排水管を揺らさなかった。

 そこまで悪人ではない。

「降りて見せろ!」

「病院で見せる!」

「逃げる気か!」

「届ける!」

 タマキは三階の高さへ達した。

 上の金具が錆びている。

 触った瞬間、薄い金属片が剥がれた。

 左足を置けない。

 右手で管、左手で屋上縁へ届くには二十センチ足りない。

 鉄箱を一度、背から外す必要がある。

 落とせば終わる。

 下の男が叫ぶ。

「動くな!」

「動かないと落ちる!」

「助けを呼ぶ!」

「何分!」

「知らん!」

「待てない!」

 タマキは腰索を屋上の排水口格子へ投げた。

 一度目、届かない。

 二度目、格子の角へ掛かる。

 引く。

 格子が動く。

 固定が弱い。

 別の場所。

 三度目、換気塔の脚へ回る。

 引く。

 持つ。

 タマキは左足を壁へ押し、身体を横へ振った。

 鉄箱が外壁へ当たる。

 中で端子が鳴る。

 右手を屋上縁へ。

 指が掛かる。

 左手も。

 肩を引き上げる。

 箱の重さが首を後ろへ引く。

 足が壁から離れる。

 一瞬、身体は両手だけで空中にあった。

 下を見ない。

 見なくても高さは消えない。

 右肘を縁へ乗せる。

 腹。

 膝。

 屋上へ転がり込む。

 呼吸が速い。

 箱を開ける。

 音声端子に傷なし。発電機の柄が少し曲がった。銅線は下の車。

「届いた!」

 下へ叫ぶ。

 追手の男が見上げている。

「何が!」

「僕!」

「箱は!」

「一緒!」

「なら降りろ!」

「銅線上げる!」

 男は頭を抱えた。

 敵というより、規則を守りたい人に見えた。

 タマキは索を引く。

 下の食器回収車が動き始める。

 車輪が濡れた床を滑る。

 銅線巻きの重さで、右へ傾く。

「押さえて!」

 タマキが叫ぶ。

「俺に頼むのか!」

「倒れたら公共設備、床壊す!」

 男は反射的に車を押さえた。

「真っ直ぐ! 壁から二十センチ!」

「命令するな!」

「じゃあ依頼! 断る?」

 男は罵りながら、車を中央へ直した。

 タマキが索を引く。

 一メートル。

 二メートル。

 車ごとは上がらない。銅線巻きだけが取っ手から離れ、索へ吊られるよう結んである。

 四メートル。

 追手の男が下から支え、壁へ当たらないよう押す。

「何で手伝ってるんだ、俺は!」

「会議を守るため!」

「誰の!」

「九十七番!」

 男は一瞬黙り、また罵った。

 銅線巻きが屋上へ届く。

 タマキは引き上げ、索を解いた。

「名前!」

 下へ訊く。

「言うか!」

「記録に《白い腕章の男》って書く!」

「それが嫌だから言わねえ!」

「じゃあ外見!」

「勝手にしろ!」

「公共設備の転用に反対したけど、銅線を上げるのを手伝った人!」

 男は顔をしかめた。

「……長谷部。席はない。旧校舎保全」

「長谷部さん。ありがとう」

「礼じゃなく、線を戻せ!」

「終わったら!」

「期限!」

「今日中!」

「曖昧!」

「二十一時!」

「遅い!」

「じゃあ二十時!」

「記録しろ!」

 タマキは運搬票へ書いた。

《旧校舎屋上線、二十時までに復旧。反対・補助、長谷部》

 長谷部は追手だった。

 途中から、作業者になった。

 人の所属は、一回の行為で固定できない。

 タマキは銅線を背へ括り、屋上を走った。

 屋上放送線の取り外しは、轟が前日に緩めたボルト位置を使った。

 会議の遠隔設備が不足した場合に備え、三か所だけ工具で外せるよう印が付いている。迅はその計画を知らなかった。凱も知らない。

 轟は「床が泣く」と思った時、誰の許可も待たず補修を始める。

 悪い癖が、今日は道になった。

 タマキは一つ目の接続を外す。

 番号札《一》を線へ結ぶ。

 二つ目。《二》

 三つ目。《三》

 後で戻す順番。朝の受付番号札が、今度は配線の記憶になる。

 線を丸ごと抱えず、屋上の縁へ沿って転がす。巻き癖が解け、銅線は蛇のように伸びる。

 北連絡橋まで七十メートル。

 風が西から吹く。

 線が浮く。

 タマキは足で踏まない。踏むと被覆が傷む。腰の索へ十メートルごとに仮留めし、身体ごと風上へ傾ける。

 背後の屋上扉が開いた。

 今度は三人。

 長谷部ではない。

 白い腕章が一人。白布を手首へ巻いた男が二人。

「止まれ!」

「どっちの人!」

 タマキが叫ぶ。

「白戸の票を奪わせるな!」

 一人。

「患者を会議へ利用するな!」

 もう一人。

「機材を戻せ!」

 三人目。

 同じ方向へ走っているのに、目的は三つだった。

 タマキは番号札を三枚投げた。

《一》《二》《三》。

「線を戻したい人は、一から外さないで! 患者を守る人は、病院へ先に確認! 票の人は、本人に聞く!」

「子どもが指図するな!」

「十四歳! 名前は環玉樹!」

 三人は止まらない。

 北連絡橋は屋根のない鉄骨通路。幅一・二メートル。左右は三階分の空間。床板は金網で、下の中庭が見える。

 タマキは高所が嫌いではない。

 揺れる高所が嫌いだ。

 連絡橋は風で少し揺れている。

 鉄箱の留め具が鳴る。

 怖い。

 でも恐怖は進行方向を決めない。

 走る速度だけを変える。

 タマキは歩幅を小さくし、金網の縁を踏まない。銅線を橋中央へ置き、自分は右側。追手が線を踏めば切れる。

「線から足を外して!」

「止まれ!」

 白布の男が先に追いつく。

 タマキの鉄箱へ手を伸ばす。

 左肩紐を掴まれた。

 身体が後ろへ引かれる。

 首の火傷痕へ紐が食い込む。

 タマキは前へ力を入れない。

 急に一歩下がった。

 相手は引く力の行き先を失い、タマキの横へ出る。

 迅のような技ではない。

 重い箱を背負って、犬に引かれた時に覚えた動きだ。

 男の足が銅線へ乗る。

「踏むな!」

 タマキは男の腰帯を掴み、横へ押した。

 男は金網の端へよろける。

 橋の手摺が低い。

 右足が外へ出る。

 身体が半分、空中へ傾く。

 タマキは鉄箱を取られないよう進めば、病院へ数秒早く着く。

 男は自分を止めようとした。

 敵かもしれない。

 タマキは鉄箱の胸紐を外した。

 箱が背から落ち、金網へ激突する。

 両手で男の腰帯を掴む。

「戻って!」

「離せ!」

「落ちる!」

「箱が!」

「人が先!」

 男の肩が手摺へぶつかる。

 もう一人の追手が腕を掴む。

 三人で引き戻す。

 男が金網へ倒れ込む。

 タマキはすぐ鉄箱へ向かった。

 蓋が開いている。

 手回し発電機が転がり、柄が金網の隙間へ挟まった。音声端子は箱内。番号札九十七もある。

 銅線は、落ちた箱の角で被覆が裂けていた。

「何で助けた」

 落ちかけた男が息を切らして言う。

「落ちたら帰れないから」

「俺はおまえを止めた」

「それと落ちるの別」

「英雄ぶるな」

「箱落とした。怒られる」

 タマキは裂けた銅線を見た。

 芯線が半分切れている。

 全長を交換する時間はない。

 圧着工具を出す。

「手、貸して」

「俺に?」

「線を真っ直ぐ持つ。できる?」

「できる」

「名前」

「言わない」

「じゃあ落ちかけた人」

「沼田」

「沼田さん、右。もう一人、左」

「俺は患者を利用するなって」

「利用しないため、映像外した。本人が断ったら持って帰る」

「本当に?」

「箱見て。映像端子ない」

 男は箱の空いた穴を見た。

「音声も政治だ」

「本人がつなぐ」

「断ったら会議が止まる」

「止まる」

「それを言ったら断れない」

「だから言う。隠した方がもっと断れない」

 男は黙り、線の左側を持った。

 タマキが被覆を剥く。

 芯を重ねる。

 圧着。

 絶縁布を巻く。

 番号札《補一》を結ぶ。

「三分使った」

 白い腕章の男が言う。

「数えてた?」

「会議を止めるために追ってきた。でも患者の線を切った記録を残されたくない」

「名前」

「佐渡」

「佐渡さん、今からどうする」

「病院まで見る。本人が嫌がったら外す」

「僕も」

「信用しない」

「信用じゃなくて、確認」

 三人の追手は、護送の証者になった。

 誰も味方にはならない。

 連絡橋を渡る順番は、タマキ、佐渡、沼田、白布の男。

 銅線を踏まない間隔。

 追走は、四人の作業列へ変わった。

 午後五時十二分。

 北医療路へ降りた時、体育館からの接続線は残り百九十二メートルだった。

 必要は百八十。

 余裕十二。

 余裕という言葉は、使う前に数えないとすぐ消える。

 病棟外壁の保守端子は三階。

 入口では看護師が待っていた。

「環玉樹さん?」

「はい。受取人は九十七番本人。音声機器。映像なし。接続前に許可」

「処置が長引いています。意識はあります。話せるのは五分程度」

「会議は」

「九十九で継続審議。採決は停止」

 佐渡が後ろから言う。

「俺たちは機材が患者へ強制されないか確認に来た」

 看護師は三人を見た。

「全員病棟へは入れません」

「証者」

 タマキが言う。

「病棟側は私。会議側は音声で七瀬さん。同行者は外壁接続まで」

「僕は患者へ届ける」

「病室前まで。本人が拒否したら、そこで受け取ります」

「分かった」

 佐渡が訊く。

「本人が拒否した証拠は」

「看護師の証言と、接続前の機器時刻。録音はしません」

「それじゃ会議が信じない」

「患者に信じさせる義務はありません」

 看護師の声は静かだった。

 佐渡は反論できなかった。

 タマキは保守端子へ銅線をつなぐ。

 番号札《一》《二》《三》《補一》を順に確認。体育館側の手回し発電が始まり、音声計の針が震える。

『北医療団地、聞こえますか』

 七瀬の声。

「聞こえる。午後五時十九分。外壁接続完了。同行証者、長谷部さんは旧校舎、沼田さん、佐渡さん、もう一人は氏名——」

「牧」

 白布の男が言った。

「牧さん。全員、途中で進路妨害または停止要求。その後、線の修復と護送へ参加」

『確認。映像なし。病室接続は本人許可後』

「今から行く」

 タマキは鉄箱を背負い直した。

 首が痛い。

 パンは胸で潰れていた。

 二個目を食べる時間は、病室前で待つ間にある。

 病院の廊下は、体育館より静かだった。

 静かだから安全とは限らない。

 点滴ポンプの警告音。

 遠い咳。

 車輪の音。

 靴底を引きずる音。

 タマキは走らない。

 病棟では速度より、誰の時間を邪魔しないかが先だ。

 病室前で看護師が止まる。

「ここから先、本人へ説明します。待って」

「何分」

「三分」

「数える」

 タマキは廊下の椅子へ座った。

 鉄箱を膝に載せる。

 潰れた塩パンを出す。

 一口。

 やはりしょっぱい。

 水を飲む。

 左側頭部の火傷痕へ汗が流れ、少し染みた。帽子を被り直す。

 三分二十二秒。

 看護師が出てくる。

「本人は音声参加を希望。録音は会議内のみ。氏名、病名、病室番号は非公開。声を後で一般公開しない。五分。体調で途中切断あり」

「途中切断したら、席は」

「それを本人が話したいそうです」

「箱、持って入る」

「床へ置いて。ベッドへ近づけない。音量は本人が調整」

「分かった」

 病室へ入る。

 カーテンが閉まっている。

 タマキは顔を見ない位置へ座った。鉄箱から音声端子だけを出し、ベッド脇の机へ置く。番号札《九十七》を立てる。

「環玉樹です。体育館から音声を運びました。つなぐと、会議の声が聞こえる。あなたの声も会議へ行く。切る時は、この栓。僕じゃなく、あなたが抜ける」

 カーテンの向こうから、かすれた声がした。

「映像は」

「ない」

「顔を見た?」

「まだ」

「見なくていい。ひどい顔だ」

「僕も走ったからひどい」

「競うな」

「十四歳」

「年齢も競ってない」

 患者は少し笑い、咳をした。

「百人目を連れてくるって、外で騒いでた」

「あなたは九十七番」

「じゃあ、百人目じゃない」

「今、九十九人だから、一人入れば百」

「算数は合ってる。呼び方は大げさだ」

「英雄にする?」

「やめろ。点滴してる英雄は絵にならない」

「映像外した」

「正解」

 タマキは端子を患者側へ向けた。

「つなぐ?」

「その前に聞く。私が何も決めなかったら、会議はどうなる」

「今の規則だと、あなたの席が未確認で採決できない」

「白戸へ委任すれば」

「白戸が投票できる」

「凱へなら」

「凱」

「どっちも嫌なら」

「自分で賛成か反対」

「それも今決めたくない」

「保留」

「保留は票?」

「会場に接続してる間は、在席。切ったら欠席」

「処置がある。ずっとつないでいられない」

「じゃあ切る前に、委任」

「したくない」

「会議、止まる」

「困る?」

「困る」

「おまえが?」

「みんな」

「みんなって誰」

 タマキは言葉に詰まった。

 自分がいつも聞く質問だった。

「体育館の九十九人。遠隔の人。帰路の人。飯作ってる人。外で止めてる人。病院で待ってる看護師。僕」

「多いな」

「あなたも」

「私が決めないと、全員困る」

「そう」

「それ、自由?」

「分からない」

「正直だ」

「七瀬が言えって」

「自分で言ったんじゃないのか」

「今は自分」

 患者はしばらく黙った。

 点滴の滴る音。

 廊下の靴。

 遠くで、誰かが名前を呼ばれる。

「つないで」

 患者が言った。

 タマキは栓を差した。

 手回し発電の低い回転音が端子へ入り、体育館の空気が病室へ流れ込む。

『北医療団地、接続確認』

 七瀬。

「聞こえる」

『席番号九十七。本人確認は病棟看護師。映像なし。音声公開範囲は百人会議と異議審査。一般公開なし。途中切断可能。確認できますか』

「確認」

『現在、白戸依久への委任は質問回答不能により停止。本人は直接遠隔へ移行できます』

「移行する」

『白布認証について、賛成、反対、条件付き、保留のいずれかを』

「その前に、質問」

 議場で紙が動く音。

『どうぞ』

「私は処置で五分後に切る。切った後、私の席はどうなる」

 真琴の声が入る。

『現行規則では、遠隔出席の切断後は欠席。委任がなければ定足数から外れます』

「つまり、会議が九十九へ戻る」

『はい』

「切る前に投票しろってこと?」

『結果として、その圧力があります』

「白布のこと、今決めたくない」

『理由を言う必要はありません』

「理由はある。薬を運んだのは助かった。でも、白布を巻いた奴が病院前で名前を集めた。白冠も、病人を守るって言って票を集めた。どっちがましか、点滴中に決めたくない」

 白戸の声。

『僕への委任を戻す必要はありません』

「戻さない」

 凱。

『俺へも不要だ』

「頼んでない」

『そうだ』

「私は、委任しない」

 病室の音声計の針が大きく振れた。

「賛成も反対も、今は出さない。私の席を空ける。空けたっていう意思だけ数えて」

 議場が静かになる。

 真琴が言う。

『現行規則に、明示的な委任拒否を在席として扱う条項はありません』

「じゃあ作って」

『この会議は白布認証を決めるための会議です。手続き改正を先に採決するには』

「百人必要?」

『はい』

「私を数えるか決めるのに、私を数えない?」

『矛盾しています』

「規則が?」

『規則と現状が』

「真琴、便利な言い方」

 タマキが口を挟んだ。

『聞こえています』

「聞こえるように言った」

 患者がまた少し笑い、咳をする。

 看護師がカーテンの向こうで時間札を上げた。

 残り二分。

 凱が言った。

『九十七番。あなたは、会議の審議を聞いた上で、現時点で誰にも委任せず、認証判断を保留し、切断後もその意思を席の状態として残すことを求める。合っているか』

「合ってる」

『撤回方法は』

「あとで自分が言う。期限は、今日の会議が終わるまで」

『今日の終わりを、採決終了とする?』

「採決できるなら」

『できなければ』

「午後十一時五十九分。日付が変わったら失効」

『条件を確認した』

 白戸が言う。

『反対します。空席を在席にすれば、本人が本当に意思表示したか確認できない欠席まで、誰かが「委任拒否」と書けます』

「私の声、聞こえてる?」

『聞こえています。あなた個人の確認ではなく、制度化した後の悪用です』

「正しい」

 患者は言った。

 白戸が黙る。

「だから、本人確認できた空席だけ。私みたいに声を出せない人は、どうするか別に決める。今日は私の分」

 真琴。

『個別例外では、あなた一人のための規則になります』

「一人のために作った規則が、次の一人を守るかもしれない。悪用もされる。だから条件を書いて」

「真琴みたい」

 タマキが言った。

『不本意です』

「褒めてない」

 凱の低い声が、議場のざわめきを止める。

『提案する。明示的委任拒否を、本人確認、期限、撤回方法、記録範囲の四条件付きで、在席状態として暫定認定する。これを白布認証より先に採決する』

 白戸。

『その採決へ、九十七番を数える?』

『数える』

『それ自体が争点です』

『そうだ。だから異議を先に記録し、全百席へ確認する』

『反対者が一人でもいたら』

『多数決の条件を先に決める』

 真琴がすぐ入る。

『暫定手続き改正は、現行規則では出席者三分の二。百席のうち六十七。ただし、九十七番を出席へ含めること自体への異議は別記し、後の審査対象』

「面倒」

 患者が言った。