第46話 第九章「代理人を解く」後編
最初の質問は、凱宛てだった。
席番号九。
本人は北医療団地から音声参加している高齢の男。凱へ《白布の認証判断を一任》と書いた。
『凱。白布を認めたら、うちの診療所の夜間警備を誰がする』
凱は答えた。
「知らない」
議場がざわつく。
『白冠なら決めただろ』
「白冠なら、俺が人員を割り当てた。今の白布に、警備を命じる権限はない」
『認証した後は』
「議題案では、仕事ごとの責任者を置く。診療所警備を白布の仕事にするかは、まだ決まっていない」
『じゃあ、俺の委任は』
「認証の賛否だけなら受けられる。夜間警備が条件なら、俺は答えられない」
『条件だ』
「その範囲を返す」
真琴が記録する。
「席番号九。委任範囲のうち、診療所夜間警備を条件とする認証判断を停止。本人は直接判断へ移行」
『面倒になったな』
「そうだ」
『でも、知らないって言ったのは初めて聞いた』
「前は言わなかった」
『知ってたんじゃなく?』
「知らないまま決めた」
音声の向こうで男が笑った。
『じゃあ自分で考える。今は保留』
二席目。
席番号十四。凱へ委任した若い母親。
『白布の代表に、凱がなる?』
「ならない」
『絶対?』
「今日の認証案では、永久代表を置かない。仕事ごとの責任者。俺が仕事を受ける可能性はある」
『王には戻らない?』
「戻らない」
真琴の指が、無意識に眼鏡へ触れた。
宣言だ。
但書を挟める。
いつまで。どの制度で。何を王と呼ぶか。
曖昧な「戻らない」は、将来いくらでも言い換えられる。
しかし真琴は質問しなかった。
この場は、凱へ新たな誓約を強制する場所ではない。
『じゃあ委任を続ける。期限付き認証へ賛成』
「確認」
三席目。
席番号二十七。凱への問い。
『白布で検問をした人を、凱が殴って止める?』
「殴るとは約束しない」
『迅なら殴る』
用具口から迅の声。
「決めつけるな」
『殴らないの?』
「状況による」
『便利だね』
「だから俺へ委任するな」
議場に笑いが起きる。
迅は壁へ戻った。
凱が言う。
「検問を止める手続き、現場責任者の解任、被害確認は必要だ。俺一人が殴るかは条件にするな」
『分かった。委任撤回。自分で賛成。ただし即時撤回条項』
「記録」
凱の五席は、一時間もせず二席へ減った。
彼は負けているように見えた。
顔は、王だった頃より少し楽そうだった。
白戸への最初の質問は、席番号十一。
安全休憩所の年配女性。
『今夜の寝床は、私が委任を続ける間だけ?』
白戸は答えを用意していた。
「今夜は委任状態にかかわらず提供します。明朝の食事も同じ。帰路護送は午前八時と十時の二便」
『誰が費用を』
「旧共同宿舎の宿泊費から。今日の不足は僕の技能報酬と、公開請求へ移します」
『払われなかったら、私に請求?』
「しません」
『約束できる?』
「できます」
『能力で縛る?』
白戸は右薬指を左手で伸ばした。
「縛らなくていいなら、使いたくありません」
『じゃあ使わない。委任は続ける。白布認証に反対』
「確認」
白戸は答えられた。
次、席番号三十六。
『子どもの薬の種類』
「咳止めではなく気管支拡張。昨日残り三回。今日、北診療所から六回分が届く予定」
『届かなかったら』
「共同宿舎の予備二回分。夜までに不足するなら、白布の薬品搬送路へ依頼」
『白布へ反対してるのに?』
「必要な仕事は使います。認証と依頼は別です」
『それ、俺より分かってるな』
「台帳にあります」
『委任、続ける。期限は三日までの認証なら賛成。それ以上反対』
「質問票には、認証反対と」
『考えが変わった』
「了解しました」
白戸は紙へ書き直した。
真琴は見ていた。
白戸は人の声を奪うだけの少年ではない。
誰の薬が何回残り、どの寝床の板が割れ、誰が夜中に咳をするかを知っている。借りた技能だけでなく、覚える労働をしている。
だから委任された。
正しさは、一方の独占物ではない。
問題は、正しい人間が返せなくなることだ。
白戸は七席、八席、九席と答えた。
定型ではない。個別の事情まで。
議場の空気が変わる。
白戸の委任は全部食券で買った、と考えていた者たちが黙る。白戸を支持する者は胸を張る。
「ほら、任せて正しかった」
誰かが言った。
真琴は鐘を鳴らす。
「回答能力と、委任の自由は別です。評価の発言は質問終了後」
「白戸が優秀なのが困るのか」
「困りません。優秀なら返答が残ります」
「凱より知ってる!」
「それも記録します。ただし比較で本人の委任を誘導しない」
白戸は真琴を見た。
「守ってくれるんですか」
「手続きを」
「僕ではなく」
「結果としてあなたも」
「素直じゃない」
「あなたに言われたくありません」
十席目。
席番号四十九。旧共同宿舎の洗濯係。
『食券を返した人の洗濯場は使える?』
「使えます」
『委任を撤回した人は』
「使えます」
『誰が保証する』
「僕が」
『あなたが負けた後も?』
白戸の答えが止まった。
議場の空気が一段下がる。
「旧共同宿舎の運営会が」
『運営会の誰』
「洗濯担当、宿泊担当、会計」
『名前』
白戸は三人の名前を言った。
『三人は、票がなくても使わせるって言った?』
「昼に、食事と寝床については」
『洗濯場は』
「確認していません」
『私、夜勤の服をそこで洗う。使えないなら困る』
「今から確認します」
『いつ』
「三十分以内」
『それまで委任は』
「洗濯場の継続を条件とする範囲は、僕には答えられません」
白戸は自分で言った。
「返します」
『全部じゃない。白布認証は、洗濯と関係ある』
「理由を」
『白布の人が洗濯場の修理へ来たら、認証がないと追い返される。認証は欲しい。でも白冠の運営も残したい』
「条件付き賛成?」
『そう。委任を止める。自分で』
「了解」
白戸の一席が空いた。
白戸は右薬指を左手で伸ばさなかった。
曲がったまま、紙を本人の座布団へ戻した。
十一席目。
席番号六十二。
『食券を受け取った時、委任を断ったら食事は出た?』
白戸の呼吸が変わった。
「制度上は、食券と委任は別紙です」
『現場で』
「担当者によって、同時に説明した例があります」
『私の時は』
「……同時でした」
『断ったら』
「担当者は、食券の在庫確認が必要と言った」
『白戸くんは知ってた?』
「全件は知りませんでした」
『私のは』
白戸は答えない。
真琴の左つるへ指が上がる。
確認質問を挟めば、曖昧さを固定できる。
「知っていた、というのは、委任と食券が同時に渡された事実を事前に認識していた、という意味ですか」
真琴が訊いた。
指先に細い文字の光が出かける。
白戸が真琴を見る。
「能力は使わない方針です」
真琴は手を下ろした。
「確認質問だけです。能力は発動しません」
「はい。席番号六十二について、同時に渡す予定を知っていました」
『断ったら在庫確認って言うことも?』
「知りませんでした。でも、止める確認をしませんでした」
『なぜ』
「委任が増えれば、食料を確保しやすいと思ったからです」
『私が腹減ってるのを使った?』
白戸の声が、一段低くなる。
「使いました」
議場で誰かが白戸を罵った。
凱が机を叩く。
「評価は後だ」
『食券は返さない。食べたから。でも委任は撤回。白布は期限付き賛成』
「了解しました」
白戸は紙を戻した。
右薬指の先が白くなる。
反証ではない。
紙を強く握りすぎて血が引いているだけだ。
真琴は、白戸を哀れだと思わなかった。
哀れみは責任を薄める。
しかし、悪人と呼んで終えることもしなかった。
それは責任を簡単にする。
午後三時四十二分。
タマキが戻った。
《五十八》の番号札と、封筒を一通持っている。
「本人から」
「公開可否」
「代理人と議長と真琴だけ。読み上げ禁止。答えは紙で返す。記録には結果だけ」
「証者」
「安全休憩所の受付責任者。本人の前で封した。僕は中身見てない」
「受け取り時刻」
「三時三十一分」
「ありがとう」
「料金」
「会議経費」
「もういい」
真琴、凱、白戸は、固定機の死角ではなく、公開画角の中に小さな衝立を置いた。封筒の内容は映らないが、誰が開け、誰が読んだかは残る。
質問は一行だった。
《俺が委任をやめても、明朝の護送車へ乗せるか。答えを公開するな》
白戸はすぐ紙へ書かなかった。
「乗せます」
「書面で」
真琴が言う。
「能力で固定しますか」
「本人は求めていない」
「僕が破ると思われる」
「あなたが能力を使いたい?」
白戸は右手を見た。
「使えば、安心するかもしれない」
「誰が」
「本人が」
「本人は求めていない」
「僕が安心します」
真琴は白戸を見た。
能力で縛るのは、相手のためだけではない。
自分が約束を破る自由を失い、自分の選択を疑わずに済む。
真琴も、但書を使う時に同じ安堵を知っていた。
「使わず書いてください」
「破ったら」
「あなたが選んで破ったことになります」
「怖いですね」
「はい」
白戸は左手で書いた。
右ではない。
本来の利き手。幼い頃に直される前の、少し右へ傾く字。
《委任状態にかかわらず、席番号五十八の明朝護送を実施する。白戸依久が調整責任を負う。実施不能時は、午前六時までに本人へ理由と代替手段を知らせる》
「代替手段の内容が曖昧です」
「そこへ但書を?」
「確認質問です。代替手段とは、同日中の別便、徒歩護送、本人が選んだ滞在延長のいずれかを含みますか」
「含みます」
「費用を本人へ請求しない?」
「しません」
真琴の指先が淡く光った。
白戸も気づく。
「使わない方針では」
「本人が、答えを公開しない代わりに書面保証を求めています。あなたへ能力使用の同意を確認します」
「今、発動しかけました」
「止めています。使う?」
白戸は考えた。
「使わない。僕の字で返します」
「了解」
真琴は光を消した。
紙はただの紙のまま封筒へ戻る。
タマキが持っていく。
二十三分後、本人から木札だけが返った。
裏に短く書かれていた。
《委任は今夜まで続ける。声は出さない。明日また決める》
真琴は結果だけを記録した。
「席番号五十八。本人の非公開意思確認により、白戸依久への委任を期限付き継続。期限、翌朝護送後まで。現在在席へ復帰」
在席確認、百。
拍手は起きなかった。
本人が拍手を求めていないからだ。
午後四時二十六分。
代理確認は二十八席中二十五席を終えた。
凱への委任は二席。
白戸への委任は十三席。
地区窓口は二席。
九席が本人参加へ戻り、二席が範囲縮小。
白戸は半分以上を残した。
彼が敗北するためだけの手続きではなかった。
その事実に、真琴は安心した。
同時に、少し悔しかった。
正しい規則を使えば、自分が望む側が勝つという信仰は、まだ完全には抜けていない。
北医療団地の九十七番が最後の一席だった。
午前中は本人が直接遠隔参加していた。午後、検査のため一時切断。白戸への古い委任状が休眠状態で残っている。
本人からの質問が、看護師を通じて届いた。
『退院後、白布の護送を使えば、旧共同宿舎の診療枠を失うか』
白戸は答えられなかった。
「診療枠の担当へ確認が必要です」
『今日中に』
「三十分」
『今から処置に入る。終わるのは一時間後』
「戻った時に」
『その間、委任は』
「診療枠を条件とする範囲は停止します」
『白布の認証判断全部が条件だ』
「では停止」
九十七番の委任が空席へ戻った。
本人の遠隔線は、処置室への移動で切れた。
在席確認、九十九。
「処置後に再接続」
凱が言う。
看護師の声が返る。
『病棟の固定音声端子は、今夜の配電切替で使えません。携帯回線機器が必要です』
「体育館の予備は」
凱が訊く。
七瀬が答える。
「安全休憩所へ一台。西橋一。排水一。南一。残りは議場固定。移動できる一式は、タマキの配達箱に載る大きさですが、銅線が百八十メートル不足」
「調達」
「旧校舎の屋上放送線を外せば足ります。ただし経路が屋根と三階廊下を通る」
「誰が運ぶ」
議場の視線がタマキへ集まった。
タマキは戻ってきたばかりで、鉄箱の留め具へ手をかけている。
「まだ頼まれてない」
彼が言った。
「環玉樹」
凱が名前を明瞭に呼ぶ。
「九十七番へ音声機器を運ぶ仕事を頼みたい。目的は、本人が自分の声で参加方法を選べる状態を作る。危険なら中止。映像は不要。報酬は会議経費。受けるか」
「帰り道」
「北医療路。澪へ確認」
「終わる時刻」
「本人確認が終わり、機器を病棟へ引き渡した時」
「中身」
「音声端子、手回し発電、銅線、番号札九十七」
「受取人」
「九十七番本人。病棟看護師を証者」
「やる」
タマキは答えた。
その時、体育館の外で一斉に窓が鳴った。
石ではない。
人の掌が、北側の窓へ同時に叩きつけられた音だった。
「委任泥棒!」
「紙を返せ!」
「会議を終わらせろ!」
外の群衆は、朝より増えていた。
委任が解かれている、白戸の票だけを奪っている、凱が王へ戻るため時間を稼いでいる。異なる噂が同じ怒号になっている。
正面玄関の鉄柵が倒れる音。
用具口で轟の低い警告。
「そこ、持つな。先に床が泣く」
迅の声。
「投票箱から離れろ」
澪の笛が二声。
進行ではない。停止。
真琴は古い条文を抱えた。
窓ガラスが一枚割れる。
粉塵と破片が議場へ入る。
喉が締まり、息が短くなる。
白戸が真琴の前へ立った。
借りた警備員の姿勢ではない。
細い身体をそのまま使い、飛んだガラスから紙を庇う。
「規則をしまって」
「あなたに命令される理由は」
「なくなると、僕の委任も証明できない」
真琴は条文を胸へ入れた。
「合理的です」
「褒めてません」
「知っています」
タマキが鉄箱を背負う。
外は乱闘。
屋上経路は不安定。
九十七番の処置終了まで一時間。
あと一人。
会議を成立させる百人目は、英雄ではない。
病室で、自分の票を誰にも渡したくない一人だった。