第45話 第九章「代理人を解く」前編

七月二十七日 午後二時二分

 規則は、書かれた時から古くなる。

 人間が困る方法だけが、新しくなるからだ。

 朽葉真琴は旧第二体育館の放送室で、三十七年前の議事規則を読んでいた。

 机の上に五冊。

 床に十二冊。

 椅子の上に、廃止済みの別冊が九冊。

 新品のノートは一頁目を空け、二頁目から使っている。

 粉塵が舞うたび、喉の奥が狭くなった。

 真琴は白手袋を外し、吸入器を一度使った。指先の黒インクが、吸入器の銀色へ移る。規則を読む手が汚れていることを、以前の彼なら不快に思った。

 今日は、きれいな手で作られた規則の方が信用できなかった。

「見つかった?」

 タマキが放送室の戸から顔を出した。

「質問が曖昧です。何を」

「白戸の委任を止める紙」

「白戸だけを止める紙は探していません」

「凱も?」

「当然です」

「当然って、最初から?」

 真琴は眼鏡の左つるを上げた。

「……最初の二十分は、白戸の委任形式の瑕疵を探しました」

「じゃあ途中から」

「凱の委任も同じ規則で扱わなければ、異議に耐えないと判断しました」

「公平になった?」

「自分の不公平へ気づいただけです」

「それ、違うの」

「大きく違います。気づけば公平になるなら、謝罪文は一行で済みます」

「真琴の謝罪文、三つある?」

「なぜ知っている」

「凱が言ってた」

「彼は他人の私的習慣を共有する前に同意を取るべきです」

「今、本人に言えば」

「議長です」

「議長だと友達じゃない?」

「そもそも友達という定義が」

「長い。見つかった?」

 真琴は紙片を左右へ並べた。

 一枚には《代理応答確認》

 もう一枚には《受任範囲停止》

「近いものは」

 タマキが入ってくる。

 鉄箱の代わりに、席番号の木札を束で抱えている。番号は角が擦れ、朝より人の手の油を吸って濃くなっていた。

「読みます。『本人が出席不能のため代理人を置く場合、本人または本人が指定した証者は、代理人へ委任事項に関する確認を求めることができる。代理人が回答不能、回答拒否、または本人の事前意思と相違した場合、当該事項の代理権は本人確認まで停止する』」

「止まる」

「当該事項だけです。委任全部ではない」

「白布に賛成か聞いて、答えられなかったら止まる?」

「代理人が『本人は賛成』と答えられなければ。ただし、白戸の紙には賛否を明記したものが多い」

「じゃあ効かない」

「効かせるための規則ではありません」

「何のため」

「本人が、任せた範囲を確認するため」

「同じじゃない?」

「違います。敵を止める質問を作れば、質問する側が代理権を操作する。本人が知りたいことを聞くなら、代理人の理解を確かめる」

「誰が本人の質問か決める」

「本人」

「会場にいない人は」

「遠隔。書面。指定証者」

「字が書けない人」

「音声」

「声を出したくない人」

「封書。指差し。本人が選んだ合図」

「五十八番」

「そうです」

 真琴は条文の下の余白を指した。

 別の筆跡で、古い追記がある。

《代理は、本人より上手に話すために置くのではない。本人があとで違うと言えるように置く》

「これも規則?」

「注記です。法的拘束はない」

「大事そう」

「大事そうな文ほど、根拠にしてはいけません」

「何で」

「好きだから使うと、嫌いな文を無視します」

「真琴、規則好きなのに」

「だから警戒しています」

 タマキは紙を覗き込んだ。

「この規則、今も使える?」

「問題が三つ。第一、旧避難所規則が現在の百人会議へ承継されたか。第二、本人指定証者をどう確認するか。第三、『本人の事前意思』を誰が証明するか」

「四つ」

「何が」

「質問に答えられなかったら、白戸が悪いってみんな思う」

 真琴はタマキを見た。

「それは法的問題では」

「会議の問題」

「……追加します。回答不能を人格的無能と扱わない説明が必要」

「凱も『知らない』って言う」

「それが正しい場合もある」

「知らない王様、人気ないね」

「王ではありません」

「真琴、前は王に戻したかった」

「今も、集中決裁が必要な場面はあると考えています」

「でも権限止める?」

「規則を適用する」

「凱が困る」

「困ります」

「真琴も?」

 真琴は吸入器を握った。

「私は、凱が正しいと証明する規則を探していた時期があります」

「今は」

「凱が間違えられる規則を探しています」

「それ、友達?」

「だから定義が」

「長い」

 タマキは木札の束から《五十八》を抜いた。

「これ、届ける。本人に質問あるか聞く」

「撮影は」

「顔も声もなし。紙を渡して、返すなら封筒。返さないなら番号札だけ戻す」

「誰から誰へ何のため」

「真琴から五十八番へ。代理人へ質問する権利を知らせるため。答えを取るためじゃない」

「合格です」

「料金」

「会議経費」

「それ以外知らないの」

「現時点で最も明確です」

 タマキは走っていった。

 真琴は古い条文を写し始めた。

 自分の字で書くと、規則が自分のものに見える。

 だから、原文の誤字までそのまま写した。

 午後二時十九分。

 真琴が条文を議場へ持ち込むと、最初に反対したのは凱だった。

「本人へ質問させる時間が足りない」

「午後一時までの窓口を延長すれば」

「帰路時刻がある」

「だから質問を一つに限定します」

「一つで委任を判断させる?」

「本人が一つを選ぶ」

「質問がない人は」

「委任継続。ただし回答不能を理由に停止できない」

「代理人が質問を選ばせたら」

「質問受領者と代理人を分離します。会場はタマキと七瀬。遠隔は現地証者。紙は封をして代理人の前で開く」

「質問の内容が議題外なら」

「委任事項との関連を、本人が一文で示す」

「字が書けない」

「音声で」

「時間」

「一席二分。二十八席で五十六分。回答後の本人判断を一分として、合計八十四分」

「長い」

「はい」

「おまえが長くした」

「はい」

 凱は高い議長席ではなく、前の低い机へ座っている。正午の再承認で、議長席の座面が高すぎて遠隔参加者から表情が見えないという異議が出た。凱自身が高椅子を二メートル後ろへ下げ、学校机を中央へ置いた。

 左膝を伸ばせず、横へ出している。

「白戸だけに使うのか」

 凱が訊く。

「全代理人です。白戸二十、あなた五、地区窓口三」

「俺の五も」

「当然です」

「当然、という顔に見えない」

「最初は除外する理由を探しました」

「見つからなかった?」

「探したこと自体が誤りです」

「そうか」

 凱は怒らなかった。

 真琴は、その方が腹立たしかった。

「謝罪は不要ですか」

「誰へ」

「あなたへ」

「俺を優遇しようとしたこと?」

「はい」

「不要だ。会議へ説明しろ」

「私は、あなたに謝罪しようとしています」

「俺へ謝って終えるな。優遇されかけた二十三席へ言え」

 真琴の胸の奥が狭くなる。

 喘息ではなかった。

 凱に正しいことを言われるのが嫌だった。

「了解しました」

「それと」

「まだ?」

「俺が困る規則を見つけたことには礼を言う」

「命令文のように感謝しないでください」

「どう言えばいい」

「自分で考えて」

「規則は」

「ありません」

 凱の口元が少し動いた。

 真琴は笑わなかった。

 笑えば許したように見えるからではない。

 単に、まだ腹が立っていた。

 午後二時三十一分。

 真琴は議場中央に立った。

 百の席のうち、二十八席には委任状が置かれている。代理人は紙を持たず、空席の隣へ立つ。

 白戸は二十席の中央。

 凱は五席の前。

 地区窓口の三人も、それぞれ一席ずつ。

「提案を説明します」

 真琴の声は明るく、よく通った。

「私は当初、白戸依久の委任だけを停止できる瑕疵を探しました。獅堂凱へ出された委任を除外しようとしました。理由は、私が凱の判断を白戸より信用しているからです。これは規則上の根拠ではなく、私の偏りです」

 議場が静かになる。

 凱は真琴を見ない。

 白戸は真琴の姿勢を真似なかった。

「その偏りを除き、全代理人へ同じ確認手続きを適用します。ただし、同じ結果を求めるものではありません。本人が質問し、代理人が答えられれば委任は継続できます。答えられない場合も、代理人が悪人だと意味しません。知らないことを、知らない範囲として本人へ返す手続きです」

「質問に答えられなければ、全部無効か」

 後列から声。

「当該事項だけ停止。例。食料支援について答えられない場合、白布認証の委任まで自動停止しません。ただし本人が『食料支援の継続を認証判断の条件とする』と述べれば、その範囲は関連します」

「何でも関連にできる」

「できます。だから、本人が理由を述べます。代理人でも私でもありません」

「嘘を言ったら」

「この手続きは真実を保証しません」

「じゃあ意味ない」

「嘘を言った責任者を固定します」

「それだけ?」

「それだけで足りないことが多い。ゼロよりは多い」

 真琴は確認票を掲げた。

「一席一問。本人は質問しない選択も、委任を先に撤回する選択も、維持すると先に述べる選択もあります。沈黙を同意にしません。回答不能を侮辱に使わないでください」

「使ったら」

「議長が発言を止めます」

 凱が言った。

「俺も対象だ。俺が答えられない時に笑う者も止める」

「元王に甘い!」

「白戸が答えられない時も同じだ」

「白戸は人の票を食い物にした!」

「それを判断するために聞く。先に有罪へするな」

 白戸が手を上げた。

「確認があります」

「どうぞ」

「代理人の回答へ、真琴さんの《但書》を使いますか」

 議場の一部がざわつく。

 真琴の誓痕は、相手の宣言へ確認質問を挟み、曖昧さを制限として固定する。

 但書〈ファイン・プリント〉

 便利な能力だった。

 「支援を続ける」と言った者へ、「いつまで」「誰へ」「何を」と問い、答えた範囲を文字の鎖に変えられる。破れば反証が宣言者の指と声へ返る。

 真琴はそれを何度も、白冠の契約へ使った。

 小さな文字で人を守り、小さな文字で人を縛った。

「原則として使いません」

「なぜ」

「能力を使えば、答えた範囲が身体へ強制されます。今日の目的は代理人の理解確認であり、新しい誓約を作ることではない」

「嘘を防げない」

「はい」

「僕が嘘を言うと思っている人は納得しません」

「能力で縛れば、納得しますか」

「少なくとも破れない」

「実行不能な約束なら、あなたの手が壊れます」

「僕の手です」

「委任者が、あなたの手を代償にして答えを得たいと選んでいません」

 白戸の右薬指が曲がったまま動く。

「では、本人が能力使用を求めた場合は」

「その都度、あなたの同意も確認します。拒否できます」

「僕が拒否したら、疑われる」

「そうです」

「自由な拒否ではない」

「完全に自由な場ではありません」

「認めるんですね」

「認めます。それでも、強制を増やさない方を選びます」

 白戸は頷いた。

「僕も、原則不使用へ賛成します」

 彼が賛成したことで、能力を使わない方針は白戸を守る規則にもなった。

 議場の何人かが不満を漏らす。

 真琴も少し不満だった。

 敵だけを縛る便利な道具を手放したのだから、当然だった。