第115話 第八章「切り離された車両」前編
十月十七日 午後二時二十一分
規則は、危険なことを禁止する。
事故が起きた後は、禁止した規則より、許可した人間の名前を探す。
「切離しを操作する者がいません」
朽葉真琴は、十九番側線の案より先に、その事実を言った。
「乗務員はいる」
タマキ。
「操作できる者と、操作する者は別です」
「同じ手」
「責任が違います」
「手は同じ」
「事故調査票は手の形で書きません」
「変な紙」
「紙ではなく制度です」
「もっと変」
九両目の床に置かれた路線図の周囲へ、三人の車両担当が立っていた。
十両目へ移る予定の九両目担当の若い車掌。
十一両目救護車の制動係。
十二両目の資料輸送員。
三人とも、手動ブレーキの訓練は受けている。
三人とも、首を縦に振らない。
「技術上の不可能ですか」
真琴。
若い車掌が答える。
「技術上は可能です」
「安全上」
「条件が揃えば可能です」
「法令上」
「通常運行中の旅客車切離しは、運行部長または運行責任者の非常指示」
「乗客自身の明示要求がある場合」
「知りません」
「知らないのですか、規定がないのですか」
「私は知らない」
「では確認します」
「確認しても、折部責任者が拒否しています」
「拒否の根拠は」
「運行安全」
「具体的に」
「乗客移動、車両分割、側線状態未確認、後続列車遅延、管轄外降車、事故時の責任」
「最後だけ範囲が広い」
「広いから怖いんです」
若い車掌は言い切った。
「事故が起きたら、折部さんは運行停止です。古橋部長は監督責任。俺は手を掛けた者として、制動操作の責任。乗客は『止めてほしいと言っただけ』で終わる」
「終わりません」
真琴。
「明示要求を記録すれば」
「それでも、手を動かすのは俺です」
「だから、あなたの名を残す」
「残したくないんじゃない。残って、全部になるのが嫌なんです」
真琴は眼鏡の左つるへ手を上げた。
止めた。
答えられない相手を、無知として追い込む癖が出る。
車掌は規則を知らないのではない。
知っているから拒んでいる。
責任が個人へ集まる形を。
「つまり」
真琴は言いかけた。
「今の《つまり》は、私の解釈です」
言い直す。
「私は、あなたが事故責任の全部を負わされる可能性を恐れている、と解釈しました。正しいですか」
「はい」
「では、その集中を分ける規定を探します」
「あるんですか」
「今から確認します」
「なければ」
「ないと記録します」
「それで列車は」
「止まりません」
真琴は認めた。
規則は、見つかる前から人を救わない。
運行規程の原本は三両目にある。
九両目から三両目へ行くには、進むことを選んだ乗客の間を通る必要があった。
真琴と七瀬が向かう。
巴は十から十二両目の本人確認に残る。
迅は車両間通路の確保。
轟は手動ブレーキと足場材の確認。
凱は事実の読み上げ。
タマキは路線と時刻。
「私は」
三一が訊く。
「あなたは乗客です」
真琴。
「仕事ない?」
「選ぶのが仕事、と言うと圧力になります」
「じゃあ何」
「今は、選ばなくてよい時間を使う」
「それ、仕事?」
「生活です」
三一は不満そうに座った。
真琴は車両間扉へ進む。
四両目に近づくほど、継続希望者が多い。
七両目で、波佐間が通路を塞いだ。
「どこへ行く」
「運行規程を確認します」
「列車を切るため?」
「切る選択を可能にする条件を確認するためです」
「俺たちまで止める規則を探すな」
「止めません」
「さっき、三両を切ると言った」
「十から十二両目を側線へ入れる案です。前九両は継続させる」
「本当にできるのか」
「未確認です」
「未確認のまま人を移してる」
「移動はまだです」
「話した時点で、降りる方へ誘導してる」
七瀬が撮影機を下ろした。
「今の発言を記録してよいですか」
「顔なし。声はいい」
「理由は」
「止まりたい人だけが被害者みたいに撮られるのは嫌だ」
「その懸念も記録します」
波佐間は真琴を見る。
「法律屋。俺の進む権利も書け」
「既にあります」
「どこに」
「移送同意と運行契約」
「なら、なぜ不安なんだ」
真琴は答えに詰まる。
規則にある権利が、運用で消えることを知っている。
波佐間も同じだった。
「停まる方が正しいという空気が生まれているからです」
七瀬が先に言った。
「画面では、止める者は救助者に見え、進む者は見捨てる者に見えやすい」
「おまえの映像の話だろ」
「はい」
「じゃあ撮るな」
「撮らなければ、進みたいと発言した事実も残りません」
「残すかどうか、俺に訊いた?」
「今、訊いています」
「遅い」
「その通りです」
七瀬はカメラの録音針を戻す。
「ここまでの私の説明は記録外です。改めて、波佐間啓吾さん。北環まで継続する意思と、停止案への懸念を記録してよいですか」
「よい。顔なし。硝子箱は映せ」
「理由」
「俺が何のために行くか分かる」
「了解」
七瀬は箱と手を撮る。
厚い指。
留め具。
割れやすい硝子見本。
真琴はその横で言う。
「あなたの継続権を、停止案の条件へ明記します。前九両を強制停止しない。十から十二両目の切離しが本列車の安全を損なう場合、操作を中止する。継続者の証言日程と到着資格を保持する」
「長い」
「法的に必要です」
「巴は短くしたぞ」
「巴さんは、意思確認を短くしました。制度条件は別です」
「また増えるのか」
「増やすべき場所があります」
「減らす場所も?」
真琴は少し考える。
「あります」
「覚えたな」
「以前から知っています」
「できてなかった」
三一と同じ言い方だった。
真琴は反論せず、七両目を通った。
三両目へ向かう途中、真琴は四人の運行員に同じ質問をした。
「非常切離しの操作を、乗客の明示要求に基づいて行えますか」
最初の車掌は、即答した。
「命令があれば」
「誰の」
「運行責任者」
「運行責任者が拒否した場合」
「できません」
「技術的に」
「規則上」
「規則番号」
「知りません」
「では、できない根拠は」
「教わっていない」
真琴は記録する。
《拒否理由:未教育》
男は紙を覗く。
「命令違反じゃないのか」
「今、確認中です」
「確認が間に合わなければ」
「あなたは、何を恐れます」
「事故」
「事故以外」
男は答えない。
しばらくして、制服の胸章を触る。
「家族へ、規則を破った人間だと通知が行く」
技術ではない。
罰の経路だった。
二人目は年配の制動係。
「操作はできる。やらない」
「理由」
「後ろから先に締める訓練は受けた。だが、この編成は保護便だ。乗客の席替えが終わっていない」
「終われば」
「車両重量を再計算する」
「時間は」
「十五分」
「分岐まで、それ以下なら」
「やらない」
「事故を避けるため」
「そうだ」
真琴は《拒否理由:重量未確定》と書く。
こちらは技術。
三人目は、若い補助員。
「やります」
「訓練は」
「見たことがあります」
「操作したことは」
「ない」
「失敗時の解除手順」
「回した反対へ」
「歯止めが噛んだ場合」
補助員は黙る。
「申し出は記録します。操作員にはできません」
「でも人が足りない」
「足りないことと、できることは同じではない」
「俺、役に立てない?」
「見張り、連絡、乗客固定。できる仕事を選べます」
「ブレーキより格好悪い」
「事故報告書では、格好の欄がありません」
「法律家って慰めが下手ですね」
「慰めていません」
四人目は、名前を言う前に拒否した。
「記録しないなら理由を話す」
「匿名で」
「事故が起きた時、列車会社は操作員一人の判断へする。前に、信号故障を報告した奴が、運行を遅らせた責任を取らされた。故障は記録から消えた」
「いつ」
「二年前」
「資料は」
「ない。消えた」
「証言者は」
「俺」
「氏名を出せない」
「出したら次の仕事がない」
真琴は紙を伏せる。
「今の話は、切離しの法的根拠には使えません」
「やっぱり役に立たない」
「違います。規則を見つけても、操作員が信用しない理由になります」
「それで何が変わる」
「個人へ責任を集めない記録を作る」
「作った紙が消されたら」
真琴は答えようとする。
七瀬が先に撮影機を示す。
「一つは映像へ。原本は別の場所へ。公開はあなたの許可範囲だけ」
「映像も編集できる」
「できます」
「否定しないのか」
「だから、未編集記録と編集版を分けます。どちらも、完全ではありません」
男は七瀬の肩を見る。
「それ、痛いのか」
「はい」
「撮り続けると」
「悪化します」
「じゃあ記録も止まる」
「止まります」
「弱いな」
「人が作る記録ですから」
七瀬は言った。
「壊れない記録は、たいてい壊れた人を映しません」
男は長く迷い、制服の胸章だけを撮らせた。
番号は布で隠す。
指が、胸章を二度叩く映像。
それだけ。
真琴は四人の拒否を、同じ《命令違反への恐怖》へまとめない。
未教育。
重量未確定。
技能不足。
責任転嫁への不信。
同じ「できない」の中に、違う修正方法がある。
規則を一条見つけるだけでは足りない。
誰が、何を理由に、その規則を使わないか。
そこまで書かなければ、法は扉を開けても、人を通さない。
三両目の記録室は、紙の匂いが濃かった。
乾いた紙。
糊。
革表紙。
防虫粉。
真琴は好きな匂いだと思った。
二秒後、喉が狭くなった。
「粉塵があります」
七瀬。
「見れば分かります」
「眼鏡が曇っています」
「温度差です」
「呼吸数、二十六」
「数えないでください」
「喘鳴があります」
「軽い」
記録棚の奥は、古い消火粉が薄く積もっている。
列車の振動で、ページを引き出すたび白い粉が落ちる。
真琴は袖で口を覆った。
左手で規程索引をめくる。
《旅客列車》
《非常操作》
《車両分割》
《運行責任》
字が近づかないと読めない。
眼鏡へ粉が付く。
外して拭く。
一メートル先の七瀬の顔が、銅色と黒の輪郭になる。
「吸入器は」
「あります」
「使ってください」
「条文を見つけてから」
「今です」
「あなたの命令ですか」
「共同作業者としての要求です」
「拒否したら」
「記録室を出ます。私だけでは法文を判定できません」
「脅しです」
「条件です」
「言い換えが迅さんに似てきましたね」
「侮辱ですか」
「二人へ失礼」
言葉の途中で咳が出た。
一度。
二度。
喉の奥が笛のように鳴る。
真琴の文が短くなる。
「鞄。右。内側」
七瀬が白手袋へ触れないよう、鞄の口を開く。
「青い筒ですか」
「灰。青は予備」
「灰色」
「二吸入」
真琴は眼鏡を外したまま、吸入器を受け取る。
一回。
息を止める。
二回。
壁へ背をつけ、座る。
規程を読む姿勢ではない。
人間が呼吸する姿勢。
七瀬は撮らない。
「記録は」
真琴。
「時刻と作業中断理由だけ」
「病歴は」
「非公開」
「理由」
「本件の判断根拠ではない」
「作業能力へ影響」
「本人が必要範囲を指定できます」
「では、喘息発作による五分中断。吸入処置。復帰見込みあり。詳細非公開」
「了解」
「五分は長い」
「今、四分二十秒です」
「残り四十秒」
「競争ではありません」
「列車は競争します」
「あなたは列車ではありません」
「規則は線路です」
「轟さんの比喩を盗らないでください」
「引用料を払います」
真琴は三十秒で立とうとした。
七瀬が規程の上へ右手を置く。
「五分」
「見つけたかもしれない」
「私が読みます」
「法文を?」
「文字は読めます」
「解釈は」
「あなたが座ってします」
「眼鏡なしでは条番号が」
「私が言います」
真琴は不満そうに座る。
専門を奪われたのではない。
専門が働けるよう、身体の仕事を分けられた。
それでも不満なのは、自分が便利な頭だけではないと認める必要があるからだ。
七瀬がページを読む。
「環状旅客運行規程、旧版補遺、第十九条。『非常分離』」
「続けて」
「『火災、連結器故障、軌道閉塞、旅客の明示する継続不能その他これらに準ずる事情があり、全編成の停止がかえって危険または著しい権利侵害を生ずる場合、対象車両を分離できる』」
真琴の呼吸が少し深くなる。
「次」
「『当該操作は、対象車両の旅客代表または複数の本人要求、車両担当者の安全確認、運行管理者の経路確保を要する』」
「全員一致は」
「書いていません」
「旧版補遺の廃止規定を」
七瀬が索引をめくる。
「補遺全体は現行規程へ統合。ただし、廃止一覧に第十九条なし」
「現行の対応条文」
「第二百三条但書」
「読んで」
「『旧設備区間では、旧補遺の安全要件を満たす手順を代替手順として認める』」
「生きている」
真琴が言った。
「何が」
「規則が」
「古いです」
「古いことと死んでいることは別です」
「人みたいに言いますね」
「規則の話です」
「今、絶対違いました」
真琴は眼鏡を掛け直した。
呼吸はまだ少し高い。
だが文は長く戻る。
「重要なのは、《複数の本人要求》であり全員一致ではないこと、車両担当者の安全確認、運行管理者の経路確保が別々の要件であることです。つまり――」
七瀬が見る。
「これは私の解釈です」
真琴は先に言う。
「乗客は操作を命じるのではなく、継続不能を表明する。車両担当者は技術安全へ署名する。運行管理者は経路を確保する。誰か一人が全部を負わない」
「継続希望者は」
「対象外車両の運行継続を同じ手順で保護する。全編成停止が権利侵害になる場合、と本文にあります」
「波佐間さんの要求も、止める根拠になる」
「止める三両を分ける根拠です」
「映像にすると複雑です」
「法は映像映えを目的にしません」
「映像も法映えを目的にしません」
「何ですか、法映えとは」
「今作りました」
「雑です」
「分かりやすい」
「認めません」
「記録しました」
真琴は規程原本を閉じる。
「原本は持ち出せません。該当頁を複写」
「手回し複写機があります」
「粉塵は」
「私が回します。あなたは外で待つ」
「解釈者が原本から離れる」
「五分前のあなたなら、原本の前で倒れます」
「倒れてはいません」
「倒れる前に出ます」
「勝手に目的地を」
「記録室の外です」
真琴は反論を探し、見つからない。
「三分で」
「五分」
「四」
「四分三十秒」
「成立」
午後二時四十八分。
該当頁の複写は、二両目の運行室へ送られた。
運行部長・古橋巡から返答が来る。
声は低くない。
速くもない。
疲れた紙のように、折り目の多い声だった。
『条文は確認した。旧補遺第十九条は有効だ』
九両目の応答器を、真琴が持つ。
「では、非常分離手順を開始します」
『開始しない』
「なぜ」
『要件が揃っていない』
「複数の本人要求は記録済み。車両担当者の安全確認はこれから。十九番側線を早瀬保守員が確認中」
『これから、確認中。揃っていない』
「揃えば」
『私が経路確保を判断する』
「折部責任者ではなく」
『現運行責任者は折部翼。私は運行部長として代替判断権を持つ。彼女が拒否しても、安全要件が充足し、拒否が権利侵害を拡大すると判断すれば上書きできる』
「今は」
『上書きしない』
「理由」
『十九番の転轍状態が未確認。三両の荷重表なし。手動ブレーキの担当者未決。乗客移動未了。後続貨物二本の処理未了』
「時間をください」
『列車は時間を配給しない』
「折部さんに似ていますね」
『彼女へ運行を教えたのは私だ』
真琴は眼鏡の左つるを上げる。
「では、彼女が意思確認前に発車を早めたことも」
『私が承認した』
「責任は」
『ある』
「今の状況へ」
『ある』
「なら、停止案を拒む責任も」
『ある』
古橋は逃げない。
逃げない相手は、責めれば動くとは限らない。
「何が揃えば、判断しますか」
『対象三両の乗客名簿。継続不能要求の本人記録。継続希望者を対象車両から移す手順。各車の制動係名。切離し係名。十九番の現物確認。進入速度。制動順。後続列車の退避先。降車後の保安責任者』
「多いですね」
『列車を三つに分ける』
「二つです」
『本列車、側線三両、責任。三つだ』
「責任は車両ではありません」
『だから一番脱線する』
轟が応答器の横へ顔を寄せる。
「ブレーキ順。後ろ、中央、前。差は速度で決める」
『伏見轟か』
「知ってる?」
『赤錆大工場の停止記録を読んだ。肩を使うな』
「みんな言う」
『みんなが言うことは、たまに正しい』