第10話 第三章「冷える箱」後編

「轟一人なら一分」

「外に出た人を帰すのは?」

「不明」

「火を止めても鍋は冷めない。送信を止めても、見た人は消えない。だから出す前に考える」

「即時でなければ、映像の真正性を疑われます」

「出来たてだけが料理じゃない」

「記録は料理ではありません」

「でも、出したら食べた人の中に入る」

 七瀬のクランクが遅くなる。

 彼女は撮影を止めない。

 止めれば、都合の悪い場面を切ったと言われる。誓痕《無編集〈ワン・テイク〉》は、切らないことで信用を得る。だが、切らずに撮ることと、同時に全市へ流すことは同じではない。

 小麦はそれを能力の説明としては知らない。

 知っているのは、熱い汁をすぐ出せば舌を火傷し、遅すぎれば冷めることだけだ。

「十五分遅らせて」

 迅が言った。

 七瀬が振り向く。

「根拠は」

「箱を移し、入口の人を散らし、別の作業を始める時間」

「十五分後には、場所は同じです」

「三十分」

「なぜ増えた」

「交渉」

「自分で時間を決めたくないだけでは?」

 迅は右親指を動かし、固定材の縁へ触れた。

 赤い紐へ届かない。

「そうかもな」

 七瀬は予想していなかった顔をした。

 迅が自分の逃げを認めると、彼女は追及の足場を一つ失う。

「あなたが決めて」

 迅は言った。

「撮るのはおまえだ」

「運ぶ場所を危険にする判断です」

「だから、おまえが決める。俺は危険なら止める」

「責任を分けると言って、投げています」

「投げてる。拾うかは選べる」

 入口で大きな音がした。

 人垣を整理していた仕込み班の女性が、空の桶を落としたのだ。倒れてはいない。ただ、壁へ手をつき、唇の色が薄い。

 小麦は送信機より先にそちらへ行った。

「いつ食べた」

「夜中に味見を」

「味見は食事じゃない」

「人が多くて」

「勤務表」

「あとで書く」

「あとで倒れる人が言う言葉」

 小麦は椅子へ座らせ、粥へ砂糖と塩を少し入れた。周囲の見物人が気まずそうに道を空ける。誰かが「同じ釜を使えば、疲れを分けられるんだろ」と言った。

 小麦の左手が鍋の縁で止まった。

 彼女の誓痕《同じ釜〈セイム・ポット〉》は、一つの鍋から同じ食事を取った者の負担を薄く分ける。空腹も疲労も、完全には消えない。ただ、倒れる一人を作りにくくする。

「使わない」

 小麦は言った。

「助かるんじゃないの」

「誰へ何を分けるか、全員に聞いてない。倒れそうな人を立たせて仕事を続けさせるためには使わない」

「能力があるのに?」

「包丁があるからって、全部切る?」

 迅が横から言う。

「俺なら切る」

「あなたには持たせない」

 女性は粥を半分食べ、額の汗が戻った。

 小麦は勤務表へ、《五時から十一時二分、休憩未記録》と書き、その下へ自分の名も足した。

《土門小麦、休憩未記録。》

「責任者は最後でいい」

 女性が言う。

「最後にすると、なくなる」

 小麦は前掛けを外し、別の調理者へ渡した。

「十二分休む。鍋は弱火。入口は三人まで。七瀬の判断は、七瀬がする」

「小麦がいない間に決めていいの」

「休憩は、いなくても回るか確かめる時間」

 小麦は厨房の浴槽縁へ座った。

 自分が抜けても、火は消えない。

 それを確かめてから、七瀬の方を見た。

 七瀬は黙った。

 小麦が鍋の蓋を開ける。

 湯気が上がり、七瀬のレンズを白く曇らせた。

「いま、何も映ってない」

「音声は入っています」

「それでも流す?」

 七瀬はレンズを拭かず、送信機の脇へ手を伸ばした。

 即時送信のレバーを上げる。

 遅延輪へ磁気テープを通す。

 三十分。

 小さな機械式表示に数字が出た。

《公開遅延 00:30:00》

「撮影は継続。原本時刻は保持。公開は三十分遅延」

 七瀬はカメラへ向かって、事実だけを告げた。

「遅延理由。患者情報と搬送準備の位置保護。判断者、火群七瀬。異議は記録します」

 外の見物人には、まだ八分前の厨房が映っている。

 現在の食堂では、轟が箱を浴槽倉庫へ移し、タマキが中継線を別の屋上へ迂回させ、澪が入口の人数を数えていた。

 迅は白布へ、黒いペンで一行を足す。

《映像は遅れる。荷は遅らせない。》

「勝手に標語を増やさないで」

 七瀬が言う。

「荷札だ」

「字がさらに悪い」

「左手の成長記録」

 小麦は箱の内側へ、氷と塩を入れた試験袋を置いた。

 温度計の針がゆっくり下がる。

 八度。

 六度。

 四度。

 冷えるまでには時間がかかる。

 冷えたまま運ぶには、もっと多くの人の時間がかかる。

 小麦は勤務表へ、最後の欄を足した。

《冷却材の使用時間》

《搬送者の休憩時間》

 薬だけを冷やして、人間を燃やす計画にはしない。

 針が三度で止まった。

 七瀬の送信機では、三十分前の湯気がようやく全市へ流れ始めていた。