第11話 第四章「旗の検問」前編

七月十日 午前十時二十一分

 命令は、口から出るより前に人を動かす。

 獅堂凱は、それを知っていた。

 知っていたから王になった。

 知ったまま王を降りたから、今は歩き方に困っている。

 北荷路の第一検問へ近づくと、通行人がまだ一言も発していない凱のために道を空けた。

 荷車を引く老人が壁へ寄る。買い物袋を持った女が子どもの肩を引く。露店の男が、吊っていた乾燥肉を裏へ下げる。誰も頭を下げない。けれど、下げないための準備をする。

 王でなくなった男に対する礼儀は、王に対する礼儀より面倒だった。

「止まれ」

 凱は後ろの六人へ言った。

 言ってから、胸の割れた鐘へ指を触れた。

「……止まってくれ。ここから先は俺が先に話す」

「一文の中で二回、王位を降りたな」

 迅が言う。

「数えるな」

「数えたのは俺じゃない」

 風祭澪の靴先が、石畳を三度鳴らしていた。

「七人。空箱一。記録機一。検問員九。見物二十二。右側に荷車三。復唱」

「七、箱、機材、九、二十二、荷車三」

 タマキが答える。

「見物は二十五」

 七瀬がレンズを下げたまま訂正した。

「窓に三人」

「二十五。訂正」

 澪は帳面に書く。

 検問は、白冠連が街区を分けていた頃のまま残っていた。

 錆びた路面電車を横倒しにし、その車体と倉庫壁の間を幅一・二メートルだけ開ける。上には白い布を三角に畳んだ標識。地面には荷車の轍が二本。入口の左右へ、短い白外套を着た若者たちが立っている。

 昨日までは凱の部下だった。

 正確には、凱の命令によって白冠の北荷路を守る者だった。命令が失効した朝から、彼らは自分が何者なのかを決められないまま、同じ位置で見張りを続けている。

 列の中央に立つ長身の青年が、凱を見て背筋を伸ばした。

「白王」

「その呼び方はやめろ」

「では、獅堂隊長」

「隊もない」

「凱さん」

 青年の口が、その二文字を異物のように扱った。

「薬品搬送の歩測と聞きました。あなたの命令なら開けます」

 門の閂へ手が掛かる。

 九人が、同じ速度で凱を見た。

 簡単だった。

 凱が「開けろ」と言えば、閂が上がる。空箱が通る。経路試験の一つが終わる。十五日の搬送当日も同じことを言えばいい。

 命令は速い。

 速いものは、通り過ぎたあとの顔を見なくて済む。

「開ける理由を、おまえが言え」

 凱は青年へ言った。

「は?」

「俺の命令ではなく、おまえがこの門を開ける理由だ」

「薬が必要だからです」

「誰に」

「零番街の患者へ」

「名は」

「聞いていません」

「病名は」

「聞いていません」

「箱が薬だと、何で確かめる」

 青年は口を閉じた。

 迅が横から言う。

「凱、おまえ、検問を厳しくしてないか」

「俺が言えば開く門なら、俺がいなくなった日に閉じる」

「昨日いなくなったばかりだ。縁起でもない」

「王位からだ」

「王は生きてる方が始末が悪いな」

 検問員たちの何人かが、笑っていいのか判断できず、目を伏せた。

 凱は列の一人ずつを見た。

 名前を知っている者が六人。顔だけ知る者が二人。新入りが一人。

 凱は白冠時代、部下の名を覚えた。名を呼べば責任が生まれると思っていた。実際には、名を呼ばれた人間が責任を背負うだけのことも多かった。

「俺は、薬を運ぶ許可を命じに来たのではない」

 凱は言った。

 言葉が硬い。演説の型になる。自分でも分かる。

「七月十五日、中央保冷庫から零番街診療所へ、保冷品一箱を運ぶ。患者名と病状は公開しない。搬送の正当性は、診療所の受領票と医療管理印で確認する。往路だけでなく、同じ人数が戻るまで門を開ける必要がある。ここを通すかは、この門を管理する者が決める」

「俺たちが?」

「そうだ」

「あなたが責任を取らずに?」

 新入りの少年が言った。

 問いの形をしていたが、声は責めていた。

「取る」

 凱は即答した。

「俺は搬送班の一人として、失敗した判断へ署名する。だが、この門を開けた理由まで俺の命令にすれば、おまえたちが見た危険は記録から消える」

「閉めたら患者が死ぬかもしれない」

「開ければ、この二日で起きた略奪がまた入るかもしれない」

 青年が言った。

 検問の向こう側へ目をやる。

 倉庫前に、ひっくり返された荷車があった。米袋の裂け目を縫った跡。車輪は一本、異なる径のものへ交換されている。

「王座が倒れた夜、配給印のない連中が三台入った。倉庫から米を持ち出した。止めたら、もう王の門じゃないと言われた。昨日は子ども用の粉乳が二箱消えた。俺たちは誰の命令で止めるんです」

「その二箱、うちのだった」

 列の後ろから女の声がした。

 小さな赤ん坊を胸へ抱き、肩に布袋を掛けた女性が前へ出てくる。赤ん坊は眠っているのではない。暑さで泣く力を使い切り、口だけを小さく動かしていた。

「粉乳は共同保育室の分。昨日、残りを六軒へ分けた。今日の夕方までは持つ。明日は知らない」

 女性は迅の白布ではなく、空箱を見た。

「病人の名前を隠したいのは分かる。でも、名前を隠した荷を通したせいで、また何か盗まれたら? うちの子の名前は、誰が隠してくれるの」

 群衆の空気が変わる。

 鷺沼の条件を支持する声は、悪意だけではない。奪われた人間には、匿名の善意も匿名の盗人も同じ輪郭に見える。

 七瀬は撮影機を下げた。

「お子さんと粉乳について、公開記録へ入れてよいですか」

「顔は駄目。名前も。袋だけ」

「了承しました」

 レンズは布袋の縫い目へ向く。底が一度破れ、別の色の糸で直されている。

「受取人を言わない代わりに、診療所の封をここで見せる」

 タマキが言った。

「封は偽物にできる」

 女性は即座に返す。

「じゃあ、封を作った人を検問台帳には書く。外には出さない。荷を開けずに番号を照らす。帰りに空の内籠と温度票を見せる」

「薬を別の場所へ持っていったら?」

「受取側の看護師がここへ来て、受領だけ確認する」

 七瀬が加える。

「患者本人ではなく、医療職の責任を公開します。患者の情報は診療所内で保管し、異議申立てがあれば、第三者立会いで照合する」

「第三者って誰」

 迅が訊く。

「まだ決まっていません」

「決まってないものを説明に使うな」

「では、決める必要があると記録します」

 検問員九人は、門脇の詰所へ入った。

 凱を中へ入れない。

「決めるのは俺たちだから」

 青年が言った。

「分かった」

 凱は外で待つ。

 中から声が漏れる。

 通すべきだ。

 患者名がない。

 診療所の印は信用できる。

 印を盗まれたら。

 帰路まで開ければ警備が足りない。

 閉めれば、また王命を待ったと言われる。

 議論は遅い。

 迅が壁へ寄りかかる。

「命令した方が早いぞ」

「知っている」

「苛立ってる」

「知っている」

「顔が王」

「それは小麦の台詞だ」

 二分後、九人が出てきた。

 全員一致ではない。

 六人は歩測に賛成。二人は条件付き。一人は反対。

「反対の者を外すか」

 凱が訊く。

「外しません」

 青年が答える。

「彼には、空箱と人数を記録してもらう。通す判断へは署名しない。戻らなかった時、賛成した俺たちだけで理由を変えないためです」

 反対した若者は、顎を上げた。

「俺は患者名が必要だと思ってる。通ったから正しかった、にはしない」

「それでいい」

 凱が言う。

「よくない。あなたに褒められるために反対したんじゃない」

 凱は息を置いた。

「では、記録してくれ。俺が不都合に思う反対として」

「それならやる」

 門を開く役、番号を見る役、群衆を下げる役、帰路の人数を数える役が分かれた。

 誰も、白王の代理にはならない。

 決定が割れていることを隠さず、それでも一つの門を動かす。

 凱には、それが命令より弱く見えた。

 弱いものが九人の足で立つと、一人の強さより倒れにくいことを、まだ完全には信じられなかった。

 女性は赤ん坊の背を軽く叩いた。

「私は鷺沼の札が好きなわけじゃない。でも、何も書かない人よりましだと思った」

「札が目的を保証しなかった」

 凱が言う。

「だから、今度は保証する方法を足す。あなたが負った損失も、医療搬送の邪魔として片づけない」

「粉乳を返せる?」

「返せない」

 凱は答えた。

 王だった頃なら、倉庫から同量を出すと即答しただろう。それが誰の在庫か確かめる前に。

「所在を調べる。見つからなければ、共同資材から補填できるか担当者へ依頼する。俺の決定では出さない」

「遅いね」

「そうだ」

「赤ん坊は待たない」

「それも、そうだ」

 正しい答えがないとき、凱は声を大きくする癖があった。

 今は大きくしなかった。

 女性は納得しなかった。納得しないまま、列の横へ退いた。

 それでも議論から消えなかったことが、最初の一歩だった。

「命令がなければ、止められないのか」

「命令がなければ、止めた責任を誰も守らない」

 凱は答えに詰まった。

 迅が、ひっくり返った荷車の車輪を見る。

「盗んだ奴は、ここを通った?」

「通行札はあった」

「誰が出した」

 青年が顎で、検問脇の掲示板を示した。

 紙札が三十枚ほど留めてある。

《北荷路第一口・日用品》

《北荷路第二口・医療》

《七段坂・住民のみ》

《零番街方面・要受取人確認》

 角には同じ小さな印があった。三本の線を折り重ねた印。

「鷺沼が発行した」

「鷺沼廉」

 凱は名を口にした。

 北荷路の路線責任者。白冠の輸送網を、凱の命令より前から知っていた少年だ。道を塞ぐときは、必ず別の道を示す。だから凱は権限を与えた。

 権限は、命令が消えたあとも残った。

「札があれば盗人も通すのか」

 七瀬が訊く。

「荷車は《生活物資》だった。開けたあとで米倉庫へ曲がった」

「札は道を通す。目的は保証しない」

 タマキが言う。

「配達なら受取人へ聞く。誰から、誰へ、何のため」

「だから鷺沼は受取人名を出せと言っている」

 青年が返す。

「理屈はある」

 迅が言った。

「理屈がある悪党は、会話が長い」

「悪党と決めるのか」

 凱が訊く。

「決めてない。長いとは決めた」

 門の外側で、乾いた拍手が三つ鳴った。

「さすが、王を殴った人は判断が速い」

 白い短外套の若者が四人、通行人の列から出てきた。

 胸の警告帯は二本。北荷路の正規検問員ではない。腕に巻いた布は新しく、靴だけが古い。鷺沼の路線隊に同調する若者だろう。

 先頭の男が、迅の吊られた右腕を見る。

「でも今日は殴れない。新王の御一行は、ずいぶん不便ですね」

「王はそっち」

 迅が凱を指す。

「違う」

 凱が言う。

「じゃあ、どっちも王?」

「二人いれば安売りだな」

「迅」

「俺は否定してる」

 若者たちは笑った。

 笑いは合図だった。

 道の左右から見物人が寄る。最初は二十五人だった群衆が、露店の陰、窓、階段下から増えていく。誰かが「零番街へ薬を横流しするらしい」と言う。別の誰かが「新しい旗が保冷庫を押さえる」と返す。三人目は「白王の妹の薬だ」と、まだ誰も言っていない患者を作った。

 噂は、事実より脚が多い。

 鷺沼は道を所有していない。

 札と、札を信用する人間と、札がなければ危険だという話を所有していた。

 列の後方で、誰かが叫んだ。

「門を閉めるぞ!」

 事実ではない。

 だが、列の三十人目には事実より先に届いた。

 人が前へ詰める。荷車の車輪が石の溝へ落ち、積まれていた細長い金属筒が傾いた。診療所へ運ぶ酸素筒だ。一本が倒れれば、弁が石へ当たる。

 迅は挑発した若者を見たまま、左足を後ろへ滑らせた。

「轟、筒」

 轟が空箱をタマキへ預け、荷車へ向かう。

「澪、列」

「言われなくても」

 澪の靴が三度鳴る。

「前列、停止。後列、二歩戻る。押さない。復唱できる人は後ろへ渡して」

「二歩戻る!」

 タマキが声を上げる。

 後ろの人間には届かない。そこで七瀬が撮影機の前へ《門は閉じていない》と紙を出し、窓の見物人へ掲げた。窓の三人が同じ言葉を下へ叫ぶ。

 凱は胸の鐘へ手を掛けた。

 音を鳴らせば、白冠の隊員は反射で整列する。群衆も止まる。

 速い。

 速すぎる。

 彼は鐘を握ったまま、鳴らさなかった。

「門は閉めない」

 深い声を前へ通す。

「俺の命令ではない。検問責任者がまだ判断していない。走らず、酸素筒から離れてほしい」

「白王が開けるって!」

「俺は開けない。ここにいる九人が決める」

「じゃあ閉まる!」

「まだ決まっていない!」

 凱の声が一度だけ強くなった。

 白い外套を着た検問員たちの肩が同時に伸びる。

 命令の残響。

 凱はすぐ言い直した。

「決まるまで、待ってくれ。酸素を先に通したい」

 先頭の青年が閂から離れ、荷車へ走った。別の二人が列の幅を広げる。誰も凱の指示を復唱しない。自分たちの持ち場を見て動く。

 轟は傾いた筒を両腕で受けた。重量より、弁の向きが問題だ。一本ずつ直立させ、革帯を締める。

「固定、一本足りん」

 タマキが外枠の予備紐を投げる。

「返して」

「切る」

「返せる長さで」

「安全が先」

「返すのも安全」

 轟は紐を切らず、二重に巻いて止めた。

 酸素荷車が門前を横切るまで、挑発した若者も拳を下ろした。殴り合いは、壊れやすい物が近くを通ると急に恥ずかしくなる。

 荷車の老人が凱へ頭を下げかけた。

 凱は先に青年へ向いた。

「通したのは彼らだ」

 老人は検問員へ礼を言った。

 凱の胸の中には、役に立たなかった鐘の重さが残った。

 鳴らさないだけでは、王をやめたことにならない。

 誰の判断で動いたかを、見える場所へ返す必要があった。

「ここで箱を開けろ」

 若者が言った。

「空箱だ」

 轟が左腕で持ち上げる。

「なら見せられる」

「今は空でも、構造が分かる」

 タマキが箱の前へ立つ。

「何が困る。薬を守る箱だろ」

「どこに冷却材を入れるか、持ち手が何個か、外せる枠がどこか。知った人は十五日に同じ箱を探す」

「同じ箱じゃないかもしれない」

「それも今、教えた」

 タマキが自分の額を叩いた。

「僕、今日の口が安い」

 先頭の若者が一歩出た。

 迅は動かない。

 二歩。

 迅は、群衆の中央ではなく、荷車と門の間へ半歩ずれた。

 三歩。

 若者の肩が、空箱へ向く。

 迅の左足が石畳を擦った。

 殴らない。

 若者の前足が着く直前、その靴先へ自分の踵を差し込む。踏ませるのではない。置こうとした場所をなくす。若者は重心の行き先を失い、肩から迅へぶつかる。

 迅は左肩を引いた。

 ぶつかるはずだった相手が消え、若者は前へ二歩よろめく。そこには荷車がある。両手をついて止まれば、荷車が列へ押し出される。

 迅の左手が、若者の腰帯を掴んだ。

 引き戻す。

 右腕は胸の前で吊ったまま。左手一本だけで、倒さず、進ませず、元の位置へ戻した。

「喧嘩なら、列の外でやれ」

「怖いのか」

「荷車が倒れる」

「俺の話だ」

「おまえより荷車の方が重い」

 群衆のどこかで笑いが起きた。

 若者の顔が赤くなる。拳を振り上げる。

 その肘が、背後の女の買い物袋へ当たった。袋から丸い芋が三個、石畳へ転がる。

 迅は拳を見ず、芋を見た。

 一個目を左足で止める。

 二個目を靴の内側で列の端へ戻す。

 三個目は門の下へ転がる前に、タマキが鉄箱の底で塞いだ。

 拳は、迅の頬をかすめた。

 固定材の中で右腕が揺れ、骨の奥へ白い痛みが走る。迅の膝が一瞬落ちる。

 凱は前へ出ようとした。

「動くな」

 澪が言った。

「迅が」

「列が崩れる」

「殴られている」

「本人が列を選んだ」

 凱の奥歯が噛み合う。

 迅は若者の二打目を、左前腕で受けなかった。

 半歩だけ下がる。

 誓いの退歩ではない。源を定めない、ただの移動。

 拳が空を切る。若者の脇が開く。迅はそこへ打たず、左手で上着の背を押した。若者は自分の勢いのまま、列の外へ三歩走る。

 その先で轟が立っていた。

 橙色の工事ベスト。百十二キロの壁。

 若者は轟の胸へぶつかり、跳ね返らず、止まった。

「軽い」

 轟が言った。

「馬鹿にしてるのか」

「荷重の話だ」

 もう一人が横から箱へ手を伸ばす。

 タマキが留め具を鳴らした。

「触るなら料金」

「いくらだ」

「右手一本。返金なし」

 タマキの冗談より先に、木製の持ち手が回転した。昨日、轟と付けた外枠の一部だ。掴もうとした手のひらが空回りし、男の指が鉄枠の内側へ挟まりかける。

 轟が箱を引く。タマキはピンを一本抜く。

 外枠の右半分が、がしゃりと下へ落ちた。

「外れるのか」

 轟が驚く。

「外せるように作った」

「俺の枠だぞ」

「僕のピン」

「安全率が下がる」

「人が掴む率も下がった」

 凱は二人の作業喧嘩を聞きながら、群衆を見る。

 挑発した四人だけを押し返しても、噂は残る。門を開ければ「王の私兵が薬を奪った」になる。閉じれば「零番街へ薬を渡さなかった」になる。

 どちらも、鷺沼の札が必要だったという話へ戻る。

 七瀬が撮影機を構えた。

 左肩へ載せない。腰の高さ。群衆の顔ではなく、門の閂と、空箱と、足元の芋を同じ画角へ入れる。

「午前十時三十八分。北荷路第一口。薬品搬送用空箱の歩測。検問側から、患者名のない通行は盗難と区別できないとの異議。搬送側は、患者名の公開が本人への危険を増すと回答。現在、門は閉鎖」

「白王が命じれば開くぞ!」

 誰かが叫ぶ。

 七瀬はレンズを動かさず訊く。

「どなたの発言ですか」

 返事はない。

「匿名発言として時刻だけ残します」

 凱は、旧部下の青年へ向き直った。

「おまえが恐れているのは、無札の通行か」

「それだけじゃない」

「何だ」

「開けたあと、何か起きたら、またあなたが決めてくれると思う自分です」

 青年は門の閂から手を離した。

「昨夜、米を盗まれた。俺は白王がいればと考えた。今朝、子どもが粉乳を探して泣いた。やっぱり白王がいればと思った。あなたがここへ来た。ほっとした。たぶん、これが一番危ない」

 凱は返せなかった。

 自分が命令を出すことより、命令を待たせることの方が深く人を縛る。

「俺は、正しい命令を出し続けられない」

 言葉にすると、胸の鐘がさらに割れた気がした。

「知っています。昨日、負けた」

「そこは少し遠慮しろ」

 迅が言う。

 青年の口元が、ほんの少し緩んだ。

「では聞く」

 凱は言った。

 命令にしない言葉は、喉の形が違う。

「この門を、七月十五日の八時から九時十五分まで、医療搬送と帰還のために開けてもらえるか。患者名は公表しない。診療所の封印と、医療管理印と、箱の温度票はここで確認できる。搬送者は往路で名と人数を記録し、帰路で同じ者が戻ったか照合する。異常があれば、おまえが閉める。理由を七瀬の記録へ残す」

「白冠の許可札は」

「使ってもいい。使わなくてもいい。鷺沼の印だけを正当性にしない」

「略奪が混ざったら」

「止める」

 凱は言いかけ、息を置いた。

「……止めてくれ。俺も止める。だが、俺の判断に反対していい」

「反対したら、あなたは従うんですか」

「理由を聞く。時間がなければ、今見えている危険が具体的な方を優先する。あとで記録を出す」

「王の答えみたいだ」

「悪い癖だ」

「直すんですか」

「直し方を、今聞いている」

 青年は、九人を振り返った。

 凱は口を挟まなかった。

 沈黙は四十七秒続いた。

 七瀬のクランクだけが回る。

 検問員たちは、短い言葉を交わした。米倉庫の担当。通学路の時間。歩けない住民が門前で待つ場所。帰路の確認札を誰が書くか。朝食交代をどうするか。

 話し合いは遅い。