第9話 第三章「冷える箱」前編
七月九日 午前五時三分
土門小麦は、人の顔を見ると人数を考える。
美人かどうか、強いかどうか、味方か敵かより先に、米が何合いるかを考える。
共同食堂の裏口へ竜胆迅たち六人が立ったとき、小麦の頭にはこう浮かんだ。
六人。
負傷者三人。
育ち盛り二人。
大男一人は二・五人前。
合計九・五人前。
「まだ開店前」
小麦は扉を半分だけ開けた。
焦げ茶の髪を左右へ丸く結い、山吹色の前掛けを防刃ベストの上へ着けている。右前腕には古い油火傷。左手に木べら、右手にへこんだ鍋蓋。寝起きに襲われた料理人ではなく、寝ていない料理人の姿だった。
「食いに来たんじゃない」
迅が言う。
「食べない人は入れない」
「宗教?」
「衛生」
「どう違う」
「宗教は腹が減っても続く。衛生は一回止める」
小麦は迅の右腕、七瀬の左肩、凱の左膝を順に見た。
「負傷者三。水分不足一。空腹二。寝不足、全員」
「見ただけで?」
七瀬が訊く。
「迅の目が梅干しを見てる。タマキの鉄箱がいつもより鳴る。凱は立ったまま食べる顔。あなたは機材を肩じゃなく腰で支えてる。澪は梨を断った」
「梨は食べていない」
澪が言う。
「昨日、診療所で出された。三角に切ってあったから警告標識みたいに均等に食べようとして、結局残した」
澪の目が細くなる。
「誰から聞いた」
「皿を洗った人」
情報は、食堂へ集まる。
七瀬が撮影機のクランクへ手を掛けた。
「記録しても?」
「厨房は手元だけ。顔は許可を取る。湯気でレンズを曇らせたら修理代はそっち」
「料金表を」
「壁」
入口の横に、板が掛けてある。
《朝粥 三十円》
《塩パン 二十円》
《皿洗い 朝粥一杯分》
《薪割り 塩パン二個分》
《英雄 通常料金》
《無銭 相談》
《無料だと思った人 まず皿洗い》
迅が最後の行を読む。
「狙われてる気がする」
「英雄は無料だと思うから」
「俺は英雄じゃない」
「なら払って」
迅は左手で学ランの内側を探った。現金はいつも靴の中敷きと赤い組紐へ分けている。右手首の紐は固定材の下で触れない。片足で靴を脱ごうとし、澪に肩を押さえられた。
「転倒危険」
「金が中だ」
「借りにしろ」
轟が言う。
「借りは嫌いだ」
「では働く」
小麦は木べらで流し台を示した。
「皿、百二十七枚。鍋六。ざる九。六人なら十八分」
「算数が変だ」
迅が言う。
「大男が二・五人分」
轟が欠けた前歯へ舌を当てた。
「食う方も?」
「三人分」
「得してない」
「身体はだいたいそう」
食堂は、旧銭湯を改装している。
男湯が厨房、女湯が客席。浴槽は食料庫へ変わり、洗い場の蛇口からは雨水濾過槽の水が出る。壁の富士山は半分剥がれ、その上へ在庫表と勤務表が貼られていた。
午前五時、仕込み班は六人。
年長の調理者が二人。夜勤帰りの住民が一人。学校前の子どもが二人。そして小麦。
小麦の帳面には、米や味噌だけでなく、働いた時間と休憩が書かれている。
《四時五十分 仕込み開始》
《五時二十分 交代》
《五時三十五分 座る》
座る、まで仕事として記録する。
迅たちが皿を洗い始めると、仕込み班の年長者が「せっかく来たんだから働かせよう」と笑い、休憩札を外そうとした。
小麦は札を取り戻した。
「五時二十分で交代」
「手が増えたんだよ」
「増えたから休む」
「英雄を洗い場へ置いて、こっちが座るのかい」
「英雄は皿を割っても代わりを買わない。座る人は明日も来る」
迅が泡だらけの左手を上げた。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言った」
「皿は買う」
「何枚割る予定?」
「予定はない」
「予定がない人が一番割る」
タマキは台へ背が届かないので、空のビール箱へ乗っている。右手で皿、左手で扉を開ける癖のまま、洗った皿を左右へ分けた。
「深皿四十七。平皿八十。合計百二十七」
「数えなくていい」
「料金に関係する」
「皿洗いは出来高じゃない」
「じゃあ、速い人が損」
「速い人は早く休める」
タマキは考えた。
「それならいい」
凱は流しの前へ立つと、皿を大きさ順に揃え始めた。曲がった列を直さずにいられない。左膝を伸ばしたままなので、腰だけが不自然に折れている。
「獅堂、座って」
小麦が言う。
「作業中だ」
「膝が作業してない」
「右脚で支えている」
「右脚は二人分働いてる。休憩欄へ書く」
「俺の勤務表ではない」
「食堂で皿を洗ったら、うちの勤務表」
「俺は客だ」
「客は払う」
凱が黙った。
迅が隣で言う。
「王様、現金ないぞ」
「おまえもだ」
「俺は靴にある」
「使えない資産は、ないのと同じだ」
「膝に言え」
凱は座った。
座るだけで周囲が少し驚く。白王だった男が椅子へ座る姿より、王だった男が休憩を命じられ、それに従う姿の方が珍しい。
小麦は帳面へ書いた。
《五時十六分 獅堂凱、休憩開始。本人不満。》
「不満は記録事項か」
「黙ってると満足に見える」
七瀬のクランクが回る。
「同意します」
「撮るな」
「手元だけです」
「俺の手は膝にある」
「では膝も手元です」
「言葉を曲げるな」
「あなたが姿勢を曲げないので」
迅が皿を一枚落としかけた。
笑ったせいだ。
小麦は朝粥を九・五人前ではなく、十一人前よそった。
負傷者は食べる速度が遅い。食べる速度が遅い人の皿は、他人が「もういらない」と誤認しやすい。余分に作り、全員が同じ卓へ座ってから配る。
迅は器の外周から粥を崩し、中央を最後まで残す。
「変な食べ方」
小麦が言う。
「冷める」
「中央が一番熱い」
「だから最後」
「急いでるんでしょ」
「熱い飯を急いで食うと、口の中が仕事を増やす」
「まともなことを言うと腹が立つ」
小麦は迅の器へ刻んだ紅生姜を足した。
「追加料金」
「頼んでない」
「右腕を使わないで食べた割増」
「褒めてるのか」
「請求」
食べ終えてから、ようやく迅たちは用件を出した。
氷、塩、厚手の布、手押し車、保冷箱の修理場所。
小麦は木べらの先で卓を叩き、数量を聞く。
「氷は何キロ」
「二十」
澪が答える。
「安全域四十七分なら十五で足りる。余分な五は?」
「経路変更」
「帰路分は?」
「空箱だから不要」
「搬送者の水は」
「各自」
「各自は数量じゃない」
澪の眉が動く。
「一人五百ミリリットル。六人なら三リットル」
「暑い。四・二。塩は氷用二キロ、飲用十八グラム。布は何に使う」
「遮光と衝撃」
「患者の個人情報も隠す?」
七瀬が訊く。
「箱へ名前は付けない」
澪が言う。
「受取確認は?」
タマキが箸を置く。
「封筒を別にする」
「別にしたら、箱と宛先が離れる」
「同時に持つ者が捕まるよりいい」
「誰から誰へ何のためか、三つが分かれたら運ばない」
タマキの声が敬語へ変わりかけた。怒りの前兆だ。
迅が言う。
「箱に患者名は書かない。運ぶ奴全員には、診療所で本人の同意を見せる。外では番号。受取人側が番号と封を照合する」
「名前を知る人は?」
「運ぶ六人、診療所、保冷庫」
「多い」
七瀬が言う。
「誰を減らす」
「私は映像に名前を入れない。知る必要もない」
タマキが七瀬を見る。
「でも、届けるか確認する人はいる」
「あなた」
「僕が?」
「受取人名を崩さず読める。公開しないと約束できる?」
「料金を払うなら」
「倫理にも料金か」
迅が言う。
「秘密は荷物より重い。無料だと、みんな軽く扱う」
小麦はその言葉を帳面の端へ書いた。
名言としてではない。
料金表の候補として。
「氷、塩、布、車。全部でいくら」
凱が訊く。
小麦は暗算した。
「材料だけで四千二百。食堂の予備氷を出すと、十五日の昼営業を短縮。人件費と売上減で七千八百。手押し車は貸出保証金二千。壊したら実費」
「払う」
凱が即答する。
「誰が」
「俺が」
「個人財産あるの?」
迅が訊く。
凱は黙った。
「白冠の共同資金を使う」
「誰の許可で?」
小麦が問う。
「配給・救難費は俺の裁量だった」
「昨日まで」
「記録上、引き継ぎが完了していない」
「それ、使ったら横領になるかもしれない」
「患者のためだ」
「患者のためなら、調理者の給料を消していい?」
「そうは言っていない」
「共同資金から出したら、誰の分が減るか聞いてる」
凱は答えを探した。
小麦は彼を悪人だと思わない。
悪人なら簡単だ。鍋蓋で殴って外へ出せる。
善意のある責任者は、もっと扱いにくい。必要だと言いながら、必要とされた側の休みを見落とす。
「食堂から半分出す」
小麦は言った。
「残りは?」
「仕事で払って。冷蔵室の断熱を直す。食堂の排水溝を補修する。十五日の昼営業が減る分、前日に保存食を作る。できる人が、できる時間だけ」
「無償で?」
七瀬が訊く。
「食堂分の半分は寄付。残りは相殺。誰が何時間働いたか書く。寄付したからって、私たちがあんたたちの旗になるわけじゃない」
「旗じゃない」
迅が言う。
「じゃあ、なおさら帳面が要る」
小麦は勤務表の空き頁へ題を書いた。
《七月十五日薬品搬送・食堂協力》
その下へ、作業、時間、休憩、対価の欄を引く。
凱がそれを見る。
「善意を数字にするのか」
「数字にしない善意は、疲れた人から先に消える」
午前六時、小麦は全員を連れて魚市場へ行った。
氷の値段は、昨日の二倍になっていた。
市場の入口に《王を殴った少年が薬を運ぶ》という手書き札が貼られ、その下で角氷が一個ずつ競りに掛けられている。噂は薬より速く、値札より働き者だった。
「二十キロ、三千六百」
氷屋の男が言う。
「昨日は千八百」
小麦が返す。
「今日は需要がある」
「英雄税?」
「冷凍機の燃料代だ」
「燃料、昨日から二倍になった?」
「運ぶ人間の危険手当」
「ここから食堂まで百八十メートル」
「見物人がいる」
「見物人は氷を殴る?」
男は迅を見た。右腕の固定材と白布を見て、少し値段を下げる顔になった。
小麦はそれを見逃さない。
「怪我割引はいらない。規格外を出して」
「規格外?」
「魚箱で角が欠けた氷。薄くて売れない板氷。昨日の残り。溶けた分は重量から引く。時間と温度を札に書く」
「医療用だぞ」
「薬には直接触れない。冷却槽の外側。形より記録」
男は渋い顔をした。売れ残りは捨てるしかないが、捨てる物を医療へ出すと、寄付した顔をしたくなる。
「じゃあ、寄付で」
「買う」
「なぜ」
「寄付にすると、次も無料だと思う人が来る。規格外の氷にも値段があるって残す」
「いくら」
「千二百。運搬はこっち。あなたは採取時刻と保管温度を書く。書く時間は作業代に入れる」
「細かいな」
「氷は細かくなると値段が下がる。人の仕事は逆」
交渉は千四百で決まった。
轟が氷箱を二つ持ち、迅が左手で一つを引く。凱は松葉杖のため持てないが、会計表を首から下げた。元白王が規格外氷の重量を読み上げると、魚市場の大人たちは笑っていいか迷った。
「七・四」
「水抜いて」
小麦が言う。
「七・一」
「札は」
「五時十二分、零下六度。角欠け一」
「声が偉そう」
「数字に口調はない」
「あるよ。あなたの数字は命令みたい」
凱は一度、秤の針を見直した。
「七・一キロです」
「今度は店員みたい」
「どちらが正しい」
「買う人が怖くない方」
市場の隅で、十二歳ほどの少女が黙って氷屑を麻袋へ集めていた。氷屋の家族ではない。白布を腕へ巻き、無償の手伝いに来たらしい。指先が赤くなっている。
小麦は袋を取り上げた。
「何時から」
「五時」
「朝ご飯」
「まだ」
「名前」
「書かなくても手伝えるって」
「誰に言われた」
「みんな」
「みんなは給料を払わない」
小麦は食堂の札を一枚渡した。
《朝粥一杯/氷屑収集二十分/休憩十分》
「これを持って食べて。戻るなら手袋。戻らなくてもいい」
「薬、助けたくないの」
「助けたい。だから、朝ご飯を抜いた子の手を冷やす計画にしない」
少女は納得していない顔で札を受け取った。
善意を止められた人は、自分を拒まれたと思う。
小麦はそれも知っている。
それでも止める。倒れた人へ粥を作るのは、薬を冷やすより高くつく。
朝食が終わるころ、厨房の隅へ保冷箱が運び込まれた。
中央保冷庫の規格と同じ古い医療箱。外板は白、内側は銀。蓋の温度計が二度ずれ、蝶番の片方が浮いている。タマキが鉄箱から細い工具を並べた。
「誰が使ってた?」
「診療所」
「何を運んだ」
「血液、ワクチン、製剤」
「何のため」
「診療」
「雑」
タマキは鼻を鳴らし、蓋の裏へ顔を近づけた。
「断熱材は生きてる。蝶番の軸が半分。温度計は針が滑る。あと、箱の角が一回落ちてる」
「分かるの?」
小麦が訊く。
「右下だけ内板の皺が違う。落とした人、左利き」
轟が箱を持ち上げ、右下を見た。
「直せる」
「僕が言った」
「直せると言った」
「直し方は?」
「外に鉄枠。角を囲う」
「重くなる」
「落として薬が壊れるよりいい」
「屋根道を渡れない」
「地上を使う」
「地上は検問」
「検問をどける」
「誰が」
タマキは迅を見た。
迅は粥の中央を食べている。
「右腕があれ」
「左がある」
「箱を壊す気?」
「人を壊さなきゃいい」
轟が工具を出そうとする。
タマキは箱へ両腕を広げた。
「触るな」
「直す」
「重くする」
「守る」
「守りすぎて運べなかったら、箱の仕事がなくなる」
轟の眉が下がる。
小麦は二人の間へ鍋蓋を差し入れた。
「喧嘩するなら、箱を机に置いてから」
「喧嘩じゃない」
二人が同時に言った。
「同じ言葉の人は、だいたい喧嘩してる」
結局、鉄枠は付けた。
ただし溶接しなかった。
タマキが提案したのは、四隅を細い鋼板で囲い、抜き差しできるピンで留める構造だった。地上では枠を付け、屋根では外す。外した枠は手押し車の補助レールになり、帰路では担架の脚にもなる。
轟は最初、ピンが細すぎると言った。
タマキは太いと抜けないと言った。
小麦は二人へ、油で滑る木べらを一本ずつ持たせた。
「片手で抜ける太さにして」
「なぜ木べら」
轟が訊く。
「手袋が濡れた代わり」
轟は木べらを握り、ピンの試作を抜いた。太すぎる。
タマキが笑う。
「門柱、弱い」
「木べらが弱い」
「道具のせいにした」
「道具は説明できん」
「だから人が説明する」
三度目で、ピンは抜けた。
轟の大きな指でも、タマキの小さな手でも、油の付いた木べらでも外せる。
小麦はその手順を、勤務表の裏へ描いた。
最初の冷却試験は、失敗した。
箱の中へ砕いた氷と塩を入れ、三度まで下げる。そこまでは順調だった。ところが鉄枠を付けて五分すると、四隅の外側だけ白く結露し始めた。
温度計は三度を指したままなのに、試験袋の右下は五・八度。
「針がまた滑った?」
タマキが蓋を開けようとする。
「開けるな」
小麦が鍋蓋で手を止めた。
「開けたら、失敗の場所が消える。四点で測る」
細い温度紙を箱の四隅へ差し込む。右下と左上だけ色が変わった。
轟が鉄枠へ手を当てる。
「熱を運んでる」
「守る枠が?」
「鉄は仕事を選ばん」
外から受けた熱を、箱の角へ渡している。衝撃には強くなったが、冷却には穴ができた。
タマキが得意そうに鼻を鳴らした。
「だから重くするなって」
「枠がなければ落下で終わる」
「熱で終わっても同じ」
「同じなら、二つ直す」
「急に正論」
轟は枠を外そうとした。ピンが抜けない。試験用の塩水が手袋へ染み、指が滑っていた。
タマキが木べらを差し込む。
「片手で外せる太さにした」
「濡れたら別だ」
「じゃあ、濡れた手で試してなかったのが失敗」
小麦は二人へ、洗い場の水桶を差し出した。
「手を濡らして、最初から」
轟は何も言わず両手を浸した。タマキも浸す。鉄の冷たさで指が鈍る。木べらを使っても、二本目のピンが途中で噛んだ。
「六秒」
澪が計る。
「本番なら長い?」
小麦が訊く。
「止まって外すなら短い。追われながらなら長い。誰が外すかで変わる」
「全員ができるようにする」
小麦は古い浴用手拭いを持ってきた。端を折り返し、枠の四隅へ筒状に巻く。布だけでは水を吸って重くなる。そこでタマキが油紙を内側へ入れ、轟が細い麻紐で縛る。
断熱袖。
見た目は、巨大な弁当箱が角だけ靴下を履いたようだった。
「格好悪い」
迅が言う。
「冷える物はだいたい格好悪い」
小麦は答えた。
「氷室、井戸、濡れ布。格好をつけると隙間ができる」
二度目の試験。
三度。
五分後、三・二。
十分後、三・四。
タマキが箱を持ち上げ、わざと右下を板へ当てた。鈍い音。内側の試験瓶は割れない。轟が枠を外す。濡れた手、木べら、六秒。
「もう一回」
轟が言う。
「成功したよ」
「一回は偶然」
「二回は?」
「まだ少ない」
「何回で納得する」
「壊れるまで」
「それは試験じゃなく破壊」
小麦は二人の間へ勤務表を置いた。
「三回。四回目は休憩のあと」
「箱は休まない」
轟が言う。
「箱を作る人が休む」
「またそれ」
「働く人が壊れるまで試すのも、試験じゃなく破壊」
四隅の布袖には、誰が巻いたか分かるよう違う色の糸を一本ずつ縫った。
後で外せる物は、外した人が戻せるようにする。
箱の修理図には、温度だけでなく、手の濡れ、抜く秒数、布の返却先まで書き加えられた。
次に小麦が試したのは、箱ではなく持つ人だった。
食堂へいた者から、手の違う四人を呼ぶ。
指の太い轟。
小さなタマキ。
右手を使えない迅。
関節の曲がりにくい年配の皿洗い。
「本番は誰が持つか決まってる」
轟が言う。
「決まった人が倒れたら、箱を置く?」
「交代を決める」
「交代する人の手を、今見る」
持ち手へ乾いた布、濡れた布、薄い手袋を順に巻く。箱の中身は水袋三十三キロ。十歩運び、次の人へ渡し、蓋の水平を測る。
迅は左手だけで持つと、箱を身体へ近づけすぎる。右の固定材が角へ当たり、衝撃が入る。
年配の皿洗いは指が閉じない。持ち手を握るのではなく、前腕へ掛ける輪が要る。
タマキは高さが足りず、二人組の相手が轟だと箱が傾く。
「組み合わせまで決めるの?」
タマキが訊く。
「決めない。傾く組み合わせを知る」
小麦は持ち手へ二種類の輪を足した。握る輪と、前腕へ掛ける輪。高さの違う人同士は、短い側を一段内側へ持つ。
「見た目がもっと悪い」
迅が言う。
「見た目で持つ人を選ばない箱になった」
四人が交代して運ぶ。
最初は一回ごとに止まった。
次は、受け取る人が《取る》と言い、持った人が《取った》と言う。
十歩。
交代。
十歩。
小麦はその声を、調理場の配膳と同じだと思った。
皿を落とさないための言葉は、薬を落とさない時にも使える。
その時はまだ、四十七人が同じ声を使うとは誰も知らない。
ただ、箱の設計図の端へ、小麦は三語を書いた。
《取る/取った/渡す》
物を持つ手順は、物より先に人へ移る。
箱の修理は三時間かかった。
途中で轟は休まなかった。
小麦が休憩札を差し出しても、「終わる」と言う。
「何分で」
タマキが訊く。
「すぐ」
「すぐって何分」
轟は黙った。
小麦は工具を取り上げた。
もちろん、轟から本当に取り上げられるわけではない。木べらで手の甲を軽く叩いただけだ。それでも轟は動きを止めた。
「鉄枠は外せるようにした。作る人も外せるようにする」
「俺は枠じゃない」
「枠より重い」
「何分」
タマキがもう一度訊く。
「十分」
「復唱」
澪が言う。
轟は食堂の柱を見た。
「十分、休む」
小麦は帳面へ書いた。
働く人間が休む場面は、拍手されない。
拍手されないから、記録しないと消える。
昼前、食堂の外へ人が集まり始めた。
迅の顔を見に来た者。薬品搬送へ参加したい者。白布を売りたい者。病人の名前を知りたい者。
七瀬の撮影機から伸びた中継線が、屋上の手回し送信機へつながっている。彼女は厨房の手元と箱の修理だけを映していたが、視聴者は背景から場所を当てた。
《共同食堂にいる》
《白い箱は医療用》
《十五日》
《東へ行くのか》
端末の字幕を読んだタマキが、顔をしかめる。
「もう箱のこと分かってる」
「箱を隠せば、別の物を推測します」
七瀬は言った。
「公開しないと、勝手な噂が増える」
「公開しても増えてる」
「訂正できる」
「訂正した場所に人が来る」
小麦は大鍋の火を弱めた。
「七瀬。煮物、何分で味が入ると思う」
「材料によります」
「正解。じゃあ、公開は?」
「情報によります」
「今の映像、何分で人を呼んだ」
七瀬は送信機の時計を見る。
「八分四十秒」
「箱を移すのは?」