第8話 第二章「帰れない笛」後編
澪は出口の段差へ座った。私生活では驚くほど小さくなる声で言う。
「着くだけなら、全部成功です」
七瀬が近くへ来た。撮影機は回っている。
「救難の成功例として、三本とも使われたことがある?」
「ある」
「記録を見せてください」
澪は帳面を開く。
到達欄には、丸が並んでいる。
十二人救出。
薬品到達。
火災区画進入。
幼児搬出。
右側の帰還欄には、戻らなかった者の時刻と靴の特徴が書かれていた。
黒い安全靴、左の踵摩耗。
赤い長靴、片方紛失。
裸足、右足に包帯。
「名前は」
七瀬が訊く。
「別帳」
「なぜ靴」
「最後まで見えたもの」
澪は頁をめくった。
自分が十四歳のときの記録がある。
《第七水門。進入二十三。対象三千余。帰還二十二。点呼時、応答一名を未確認扱い。》
帰還欄の端に、岳の字で訂正が書かれている。
《未確認ではない。澪は返事を聞いた。聞いた人間を、帳面から消すな。》
竜胆岳は、失敗の名前を消さない人だった。
同時に、失敗を自分で抱え込み、他人へ役目を割り振る人でもあった。
死者は便利だ。
反論してこないから、尊敬と恨みを同じ頁へ置ける。
七瀬がレンズを帳面へ近づけた。
澪は閉じなかった。
「距離を一メートル」
「文字が読めません」
「読ませるために見せていない」
「では何を」
「到達と帰還が別欄だと分かる距離」
七瀬は一歩下がった。
撮影は止めない。
澪も止めろとは言わない。
近づけないことと、存在を消すことは違う。
「救難映像は、助かった瞬間で終わる」
澪が言う。
「見る人が安心するから」
「安心は必要です」
「必要。だから、その後を消していい理由にはならない」
「あなたは、帰れなかった人を映せと言っている?」
「帰れなかった理由を残せと言ってる」
「顔は?」
「本人か家族が決める」
「死んでいたら」
「決められない。だから勝手に泣き顔を使うな」
七瀬の口元が水平になる。
「私の映像を見たことが?」
「昨日の広場で、全市が見た」
「それ以前」
「救助された子どもの顔を、三秒長く残した映像」
「同意は取っています」
「十三歳本人から?」
「保護者から」
「本人は?」
七瀬は答えない。
沈黙を秒数で数えている顔だった。
「私の母は」
言いかけ、七瀬は主語を落とした。
「記録がなければ、失敗は消されます」
「知ってる」
「なら」
「全部撮ることと、全部近くで撮ることは違う」
澪は帳面を閉じた。
「十五日は、患者の顔へ近づかないで」
「患者と診療所へ確認します」
「私の命令は」
「撮影判断の根拠にはします。最終決定ではありません」
澪は小さい笛を握った。
命令が効かない相手は、怖い。
怖い相手ほど、現場には必要だ。
地上へ出ると、夕方の零番街は湯気と油の匂いに満ちていた。共同食堂の煙突から白い煙が上がり、屋根道では洗濯物が夕日を遮っている。
三本の道を歩いて、一本も残らなかった。
それでも、歩かなければ三本あると思い込んだままだった。
澪は診療所前の壁へ、三本の線を描き直した。
東階段には《朝八時は不可》。その下へ、《九時半以後なら生活通路として可》。
屋根道には《晴天・軽荷のみ》。その下へ、《洗濯時刻と寝床時刻の許可が必要》。
旧配管路には《水位未確認》。その下へ、《構造点検後、候補》。
「不採用なのに残すの」
タマキが訊く。
「今回の薬には不採用。道そのものを消さない」
「次は使える?」
「条件が違えば」
凱が東階段の線を見る。
「王だった頃なら、朝八時に部屋を空けさせた」
「速い」
澪は言う。
「患者には間に合う」
「眠る人をどこへ置く」
「別室を用意する」
「誰が、いつ、本人へ聞く」
凱は答えられない。
壁の前へ、杖をついた男が来た。東階段を途中まで一緒に上り、百八十段目で引き返した人だ。
「俺には東が一番ましだ」
「今回の箱は通せない」
「俺の薬なら?」
「大きさと時刻を見て決める」
「不採用って札を見たら、二度と頼めないと思う」
澪は《不採用》の文字を消した。
代わりに、《七月十五日・免疫製剤搬送には使わない》と書く。
「長い」
迅が言う。
「短い札は、人を一種類にする」
澪は答えた。
杖の男は、自分が通れる幅を壁へ書き足した。
《杖一本・荷なし・上り可。下りは介助》
道の地図へ、初めて人の条件が書かれた。
距離の線だけだったものが、誰かの一日へ近づく。
使えない道を見つけることは、道を減らす作業ではない。
誰に、いつ、何なら使えるかを、嘘のない大きさへ戻す作業だった。
診療所へ戻ると、入口の椅子に白い封筒が置かれていた。
正確に三つ折りされた地図が添えてある。
封筒の表には、黒い警告帯が三本。
凱が見て、顔をしかめた。
「鷺沼廉」
「知ってる?」
タマキが訊く。
「白冠の北荷路隊長。道路と配給路を管理していた。俺の命令へ最も正確に従い、変更命令へ最も遅く従った」
「褒めてる?」
「事実だ」
澪が封を開ける。
中には許可札が一枚。
《七月十五日、中央保冷庫から零番街方面への薬品搬送を、北荷路管理下で認める。条件は以下。》
一、受取人の氏名。
二、病名と投与場所。
三、搬送経路と通過時刻。
すべてを、出発二十四時間前までに公開掲示すること。
条件を満たせば、往路を一本開ける。
帰路は、薬品投与後に荷と人を検査し、個別に判断する。
末尾に、同じ文が三度書かれていた。
《受取人を示せ。》
《受取人を示せ。》
《受取人を示せ。》
澪は地図を開いた。
赤い線で、代替経路が一本示されている。
七段坂。
道は提示されていた。
帰れるとは、どこにも書いていなかった。