第7話 第二章「帰れない笛」前編
七月八日 午後三時四十二分
風祭澪は、道を距離で覚えない。
誰が転ぶかで覚える。
零番街の東階段は、成人なら二百八十六段。子どもなら二百九十一段。五段の差は、途中にある排水溝を跨げず、一度横へ回る子がいるから生まれる。
西の屋根道は百八十七メートル。晴れた日なら四分。雨なら六分。洗濯物が多い日は、濡れた布が視界を奪うので七分半。
旧配管路は地図上では九百メートルだが、地図は水を歩かない。
だから澪は歩く。
「六人。空箱一。東階段。上り三分ごとに交代。復唱」
「六人、箱一、三分交代」
タマキが返す。
「俺は数に入ってるか」
迅が訊く。
「入ってる」
「右が使えない」
「足は二本」
「医者は走るなと」
「歩測。走らない」
「澪さん、迅は歩くときも逃げるよ」
タマキが言った。
「前へ歩け」
「命令?」
「確認」
「便利だな、それ」
迅は左上腕の白布を指で弾いた。布には期限と責任範囲が書かれている。朝より汗を吸い、文字の端が滲んでいた。
澪は便利という言葉が嫌いだった。
便利な命令は、誰が困ったかを隠す。
東階段は、零番街の最下層から旧貨物線の高架へ上がる。廃車両の屋根、足場板、コンクリートの防潮壁をつなぎ、途中で三度、建物の内部を横切る。階段の幅は場所によって九十センチから四十センチ。荷箱を胸の前へ持てば、人とすれ違えない。
先頭は澪。続いてタマキ、空の保冷箱を左腕で抱える轟、七瀬、迅、最後尾に凱。
凱は松葉杖を使い、左膝を曲げない。医師の指示では階段禁止だった。
「帰れ」
迅が三十段目で言った。
「誰に」
澪は前を向いたまま訊く。
「凱」
「本人へ言え」
「聞こえてる」
「竜胆迅。俺は最後尾だ」
凱の深い声が下から上がる。
「最後尾は歩ける奴がやる」
「歩いている」
「膝を壊してる」
「おまえは腕を壊している」
「腕で階段は上らない」
「おまえは時々、腕で考える」
タマキが振り返った。
「喧嘩は料金別。止まるなら止まる、進むなら進む」
「進行」
澪は中笛を一度鳴らした。
短く低い音。能力は使わない。単なる合図だ。
六人の足が動く。
百二十段目で、階段は住宅の中へ入った。
元は事務所だった一室を、三世帯が板で区切って暮らしている。通路の幅は五十センチ。鍋の湯気、干した靴下、子どもの勉強机。外から来た者は「道」と呼ぶが、住民にとっては台所と寝室の間だった。
澪は扉の前で止まり、靴先を三度鳴らした。
「通行六人。空箱一。許可を」
奥から年配の女が顔を出した。迅の白布を見て、眉を寄せる。
「昨日の旗?」
「旗ではありません」
澪が答える。
「昨日の子たちでしょ」
「昨日の人です。今日は薬品搬送の歩測」
「いつ通るの」
「十五日。朝八時台。往路一回、帰路一回。人数は未定」
「うちの子、八時に寝るのよ。夜勤明けで」
「変更できますか」
「道を?」
「睡眠場所を」
女の顔が険しくなる。
澪は自分の言い方が間違ったと気づいた。通路を使う側は、住民の生活を障害物のように数えやすい。
「訂正。こちらが通行時刻を変えます。ご家族が起きている時間を教えてください」
「九時半なら」
「薬の安全域に合わない」
「じゃあ無理ね」
それで終わりだった。
凱が一歩前へ出かけた。澪は左手を上げる。
「命令しない」
「まだ何も言っていない」
「言う姿勢だった」
「姿勢に反論するな」
「現場は姿勢で人が動く」
凱は口を閉じた。
迅が室内を見回す。机の下、窓、隣の部屋へ抜ける薄い板壁。
「外壁に仮足場を付ければ、部屋を通らない」
「二階半の高さ」
轟が窓枠を二度叩いた。
「壁、持たん。足場の荷重で、この部屋ごと下がる」
「軽い橋なら」
「軽いのは、落ちるときも軽い」
「名言みたいに言うな」
「重さの話だ」
澪は帳面の《東階段》へ線を引いた。
不採用。
理由は、敵ではない。
眠る人がいる。
線を引いただけでは、通った痕は消えなかった。
六人が踵を返すには、住居の中で箱を縦にしなければならない。轟が抱えた空箱の角が、吊られた薬缶へ触れた。蓋が鳴り、湯気が上がる。
「止まれ」
澪は低く言った。
眠っていた青年が、薄い仕切りの向こうで身じろぎした。夜間の焼却場勤務だと、年配の女が小声で説明する。朝八時に眠り、夕方四時に起きる。その寝台と勉強机の間を、地図は一本の線で通過していた。
タマキが箱の下へ潜り、角度を測る。
「十七度傾ければ戻れる」
「中身がある日は傾けない」
澪が言う。
「今日は空」
「空で覚えた動きは、本番で出る」
タマキは唇を尖らせたが、すぐに箱の底から退いた。
結局、轟は箱を床へ下ろし、六人は一人ずつ順番を変えた。最も足の悪い凱を先に廊下から出し、七瀬の機材を手渡しし、最後に箱を水平のまま後退させる。
九十センチ戻るのに、二分四十三秒かかった。
その間、鍋の火が強くなりすぎた。年配の女が慌てて戻り、底を焦がした匂いが狭い部屋へ広がる。
「すみません」
澪は言った。
「薬を運ぶんでしょう」
「それでも、今の鍋を焦がしたのはこちらです」
「大げさね」
「大げさにしないと、道を使った側だけ忘れます」
轟が焦げた鍋を流しへ運び、左手で底を擦った。迅は片手で水桶を持とうとして傾け、凱が無言で反対側を支える。
「共同作業に見えるな」
迅が言う。
「見えるだけか」
「王様が鍋を洗う映像は価値がある」
七瀬が撮影機を下げたまま言った。
「撮るな」
「寝ている人の家です。撮っていません」
凱の返事が一拍遅れた。
「……助かる」
年配の女は、焦げを落とす大男と、桶を持つ負傷者二人を見てから、戸棚から古い布を一枚出した。
「十五日、うちを通れないのは変わらない。でも氷を包む布なら貸せる。昼過ぎに返して」
「返却時刻を」
澪が帳面を開く。
「そこまで書くの?」
「通れない道から借りた物ほど、返したことが分からなくなる」
女は少し考え、「十五日の午後二時」と答えた。
澪は不採用の線の下へ、別の一行を足した。
《布一枚。返却、七月十五日十四時。》
タマキが入口の柱へ緑の糸を結ぼうとした。
「何」
女がすぐに訊く。
「借り物の場所」
「外から見える?」
「見える」
「じゃあ駄目。うちが搬送に協力したって知られたら、また人が通れると思って来る」
タマキは糸をほどいた。
「目印がないと返す場所を間違える」
「住所は言わない。鍋の蓋に、青い欠けがある。それで分かる?」
蓋の縁には、爪ほどの青い琺瑯だけが残っている。
タマキは鉄箱の内側へ、青い半月を描いた。
「誰かが同じ鍋を持ってたら」
「焦げた底も見る」
轟が言った。
「二つ一致」
澪は帳面の公開欄へ住所を書かず、非公開の返却欄へ《青半月の鍋/焦げ跡》と記した。
道へ協力した印は、勲章になるとは限らない。
次に来る人間へ、勝手な入口を教える札にもなる。
返すための記録と、広めるための記録を分けることも、帰路の一部だった。
道になれない家にも、搬送へ参加する方法はあった。
来た道を下る。
凱は百段目で一度止まった。左膝の固定具に汗が溜まり、黒い布が濃くなっている。水を渡そうとした七瀬へ、凱は首を振った。
「決断後は水を飲まないんだって」
タマキが言う。
「誰から聞いた」
「白冠の配給係。昨日、鍵を運んだ」
「余計な情報を運ぶな」
「荷物は中身を聞く。話は聞こえたら入る」
澪は階段を下りながら、最後尾の足音を数えた。
凱の右足。松葉杖。左足を引く音。
三つで一歩。
高架下へ戻ると、凱は壁へ背を預けた。
「水」
澪が言う。
「必要ない」
「命令ではない。身体の条件」
「俺の身体だ」
「最後尾が倒れると全員が戻れない」
凱は澪を見た。
白冠救難笛隊の頃、彼女は何度もこの視線を受けた。命令を聞き返した者へ向ける視線。怒りではない。理解できないものへ焦点を合わせる視線だ。
以前の澪なら、先に折れた。
「二百ミリリットル。三分休憩。拒否するなら最後尾から外す」
「誰が決めた」
「現場の先頭役。いまは私」
凱は水筒を受け取った。
「復唱は?」
迅が訊く。
澪は無視した。
屋根道へ上がる入口は、洗濯工房の裏にある。
五階建ての旧倉庫と、向かいの集合住宅を、鉄骨の吊り橋が結んでいる。橋は洗濯物を運ぶためのもので、人が渡ることは想定されていない。足場板の幅は三十センチ。両側に手すりはなく、頭上の滑車から太い綱が二本下がっている。
橋の向こうで、白い外套の若者が三人待っていた。
凱の旧部下だった。
全員、左胸の割れ鐘を外している。外した跡だけ布の色が違う。
「陛下」
先頭の少女が呼んだ。
声には敬意と皮肉が半分ずつ入っている。
「その呼称は不要だ」
「命令ですか」
凱の顔が少し硬くなる。
「依頼だ。凱と呼んでほしい」
「断ったら?」
「呼び方を強制する権限はない」
「では陛下」
少女は笑わなかった。
澪は二人の間へ入る。
「十五日、薬品搬送で橋を使う可能性がある。往路と帰路の操作担当を決めたい」
「白冠の許可が要る」
「白冠は分裂した」
「だから、誰の許可も信用できない」
「あなたの判断は」
「橋を上げる。零番街から何が来るか分からない」
タマキが鉄箱の留め具を鳴らした。
「何が来るか、聞けばいい」
「子どもは黙っていろ」
「子どもって誰」
「おまえだ」
「名前を聞いた?」
少女は苛立った顔でタマキを見る。
「環玉樹。十四歳。零番街から中央保冷庫へ、空箱を運ぶ。十五日は薬を運ぶかもしれない。誰から誰へ何のためか、いま説明した。そっちは?」
少女の口が止まった。
凱が何か言おうとしたが、迅が先に肩をすくめた。
「名前で負けたな」
「勝負じゃない」
タマキが言う。
「名前は道具でもない」
少女は名乗らなかった。
それでも、橋の操作を実演することには同意した。
綱を引くと、橋は中央から持ち上がる。洗濯物の籠なら向こう側へ滑り、人は途中で戻れない。往路を渡り切ったあと、こちら側の担当が綱を切れば、橋は向こうの壁へ落ち、退路を塞ぐ。
「帰りは?」
澪が訊く。
「向こう側の階段を使う」
「施錠されている」
「白冠の鍵があれば開く」
「いま誰が持っている」
「分からない」
「不採用」
澪は帳面へ線を引いた。
少女が眉を上げる。
「薬を届けるなら渡れる」
「帰れない」
「目的は薬だろう」
「目的に人間を含める」
「救助者が危険を引き受けるのは当然だ」
「当然と決めた人の名前は?」
少女は凱を見た。
凱は視線を受け止めた。
「以前の俺だ」
「今は?」
「今は、俺が決めるべきではない」
「便利ですね。王をやめたら責任もやめられる」
空気が止まった。
凱の右手が、胸の割れ鐘へ触れる。
「責任はやめない」
「命令だけ?」
「そうだ」
「では、どう責任を取るんです」
凱は答えを急がなかった。
迅が橋の足場板を左足で押した。鉄骨が揺れ、下の市場が遠く見える。
「橋を下ろす奴と、帰りを待つ奴を別にする」
「誰が待つ」
旧部下の少女が迅へ向く。
「決めるのは十五日までに。待つ奴が決まらなければ、使わない」
「それでは間に合わない」
「間に合わない道は、道じゃない」
「格好をつけてる場合か」
「下が見えるから、格好はつかない」
迅の声が少しだけ乾いた。
澪は彼の足を見る。
橋の縁から、靴先が二十センチ以上離れている。相手と向き合うときは距離を詰める少年が、高所では壁側へ寄っていた。
弱点を言ったのか、冗談にしたのか。
澪は帳面へ《高所適性・迅×》と書いた。
「書くな」
「安全情報」
「下が見えるのが嫌いなだけだ」
「高所恐怖」
「下所嫌悪」
「病名を作るな」
七瀬が撮影機を回しながら言った。
「時刻十五時五十八分。屋根道、不採用。理由は帰路担当不在、施錠鍵所在不明、竜胆迅の下所嫌悪」
「最後を消せ」
「本人の造語として記録します」
「名誉毀損だ」
「名誉があった資料を提示してください」
迅は橋から一歩離れた。
その一歩は、誓痕〈ヴァウ・スカー〉の結び目を光らせなかった。
不採用と決めても、澪は一度、空箱だけを向こうへ送らせた。
綱の滑り、橋の振れ、戻すまでの時間を測るためだ。
旧部下の少女と轟が綱を引き、タマキが箱の四隅へ洗濯ばさみを付けた。ばさみが一つ落ちれば、その角に荷重が寄ったと分かる。
「薬箱に洗濯ばさみ?」
少女が言う。
「今日は空箱。薬の日は温度札。試す物を本番と同じにしすぎると、試験で壊す」
「口だけは大人ね」
「年齢を理由に説明を省く人よりは」
橋が上がる。
空箱は中央で一度止まり、風に押されて回転した。洗濯ばさみが二つ飛ぶ。向こう側の受け手が綱を巻き、箱を引き込んだ。
往路、四十六秒。
次に帰路。
向こう側の階段扉は、やはり開かなかった。橋を再び下ろそうとしたとき、こちら側の巻き上げ軸が半回転したところで噛んだ。
少女が舌打ちする。
「固定爪の鍵が要る」
「誰が持ってる」
タマキが訊く。
「洗濯工房の当番」
「今日は?」
「叔父さん」
「どこ」
「南の葬儀」
地図には載らない理由だった。
凱が旧部下三人を見る。
「十五日、往復が終わるまでここに残って――」
言葉の終わりで、彼は止めた。
三人の予定を、聞いていなかった。
「残れる者はいるか。事情を先に聞かせてほしい」
少女の隣にいた青年が、夜勤だと言った。もう一人は、午前八時に妹を学校へ送る。少女自身は洗濯工房の配達へ出る。
「以前なら、どうした」
迅が凱へ訊く。
「当番を命じた」
「仕事は?」
「代行を出した」
「誰が代行を決める」
凱は答えなかった。
少女が代わりに言う。
「配給所から名前が来ました。断れば、勤務点が引かれた」
「それを俺は、配置が機能していると思っていた」
「機能してましたよ」
少女の声は平らだった。
「私たちが、予定を持たなければ」
固定爪を棒で押し戻すまで、空箱は向こう側へ取り残された。
五分十二秒。
中に薬があれば、安全域の一割が、鍵の持ち主の葬儀で消えていた。
箱が戻ると、タマキは洗濯ばさみを数えた。
「二個、向こう」
「取りに行けないな」
迅が言う。
「帰路がないから」
タマキは帳面へ《洗濯ばさみ二・未返却》と書き、少女へ見せた。
「十五日までに返せる?」
「明日、洗濯物と一緒に下ろす」
「約束?」
「私の名前で」
少女はそこで初めて名乗った。
七瀬は記録したが、公開はしなかった。
凱は名を聞き、頭を下げた。
命令を使わずに責任を取る方法は、その場ではまだ見つからなかった。ただ、相手の予定と名前を聞くところまでは、王でなくてもできた。
旧配管路へ入ったのは、午後五時を過ぎてからだった。
零番街の最下層。青錆の管が何本も交差し、天井から水滴が落ちる。大人の肩幅ほどの点検路の片側を、黒い水が流れている。
轟が壁を二度叩く。
「古い。だが、まだ持つ」
「何キロまで」
七瀬が訊く。
「同時に四百。走れば二百」
「人で」
「迅六人分」
「単位にするな」
澪は先頭で、床へ白い粉を落とした。水の流れを見るためのものだ。粉はすぐに細い筋となり、奥へ運ばれていく。
「九時ちょうどに上流弁が開く。水位、膝上。十一時に胸。帰路は使えない」
「弁を閉じる」
迅が言う。
「管理区が違う」
「鍵を外す」
「水圧を知らずに?」
轟の低い声が響く。
「壁が先に泣く。閉じるなら上流二つ、下流一つ、排水一つ。一本だけ触るとここが腹になる」
「腹?」
タマキが訊く。
「水を溜めて破れる」
「最初からそう言って」
「腹の方が分かる」
「僕は水道管じゃない」
迅が少し笑った。
澪は奥の鉄扉まで歩いた。蝶番は上が腐り、下だけで支えている。往路では押して開く。帰路では水圧が反対から掛かり、六人では引けない。
三本目も不採用。
帳面の候補路がすべて線で消えた。
道がない。
正確には、行く道は三本ある。
帰る道が一本もない。
そのとき、上流から低い鐘が二回響いた。
予定表にはない音だった。
轟が顔を上げる。
「試験放水」
「九時では?」
七瀬が訊く。
「九時は本放水。今のは弁の固着確認だ」
黒い水の表面が、奥から盛り上がった。
澪は中笛を二度吹く。
「退避。来た順を反転。最後尾、私。箱を水平。復唱」
「反転、澪が最後、箱水平」
タマキが返した。
往路で先頭だった澪が、最も奥へ残る。出口へ近い凱を先に出すには合理的だが、救難員はいつもそうして、最後に帰れなくなる。
迅が奥へ戻ろうとした。
「何をしてる」
「最後尾を代わる」
「右腕一、地下適性未確認」
「おまえより速い」
「出口へ」
「命令なら断る」
水が足首を越えた。
轟が空箱を肩の高さへ持ち上げる。点検路は狭く、すれ違えない。七瀬は撮影機を胸へ抱え、凱の松葉杖先が水で滑らないよう足元だけを照らした。
「迅」
澪は名前を呼んだ。
命令語を外す。
「私が最後尾をする。あなたは凱の左側。戻る順を守って」
「理由」
「私がこの水路の弁音を知ってる。あなたは知らない」
迅は一秒だけ止まり、凱の左へ入った。
「肩を貸すな」
凱が言う。
「貸してない。壁にする」
「人を壁扱いするな」
「壁より文句が多い」
水は脛まで来た。
後ろから流された空き瓶が迅の足へ当たる。足場の縁を見失えば、右側の水路へ落ちる。迅は左肩で凱を押し、凱は松葉杖を横へして七瀬の機材を支えた。
人間は怪我をすると、役に立たなくなるのではない。
役に立つ形が、ひどく面倒になる。
「出口まで十一」
澪が数える。
足場の継ぎ目。
「十」
低い梁。
「九」
腐った鉄板。
彼女は最後尾から、先頭の足元を言葉で作った。
六つ目で、突然水音が大きくなり、自分の声が聞こえなくなった。澪は高い笛を使わず、白い索を前の轟の腰へ一度引いた。
停止。
轟が止まり、箱が止まり、その前の七瀬が凱の背へ触れ、凱が迅の学ランを掴む。
言葉が届かない場所では、触れた順番が命令になる。
水面を太い木片が横切った。
通り過ぎるまで五秒。
索を二度引く。
進行。
全員が地上へ出たとき、足元は膝まで濡れていた。空箱の内部は乾いている。凱は壁へ背をつけ、今度は言われる前に水筒を取った。
澪は人数を数える。
「六。箱一。負傷追加なし」
「最後尾も帰った」
迅が言った。
「今回は」
「喜べよ」
「試験放水で喜ぶと、本番で判断を誤る」
「面倒だな」
「救難は、安心したい人に嫌われる仕事」
澪は濡れた帳面を開いた。三本の不採用線は滲んでいたが、消えてはいない。
線を引くことも、道を作る仕事の一部だった。